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記載人物(P39~P75)
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山名時氏、山名

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  • 山名家譜第三巻PDFデータ

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山名家傳記巻之三
 
一、時氏 右衛門在 従五位 伊豆守
    弾正少弼 左京太夫 世称六分一殿
時氏は蔵人政氏の嫡男にして嘉元
元年癸卯に誕生あり少名を
小太郎と言う母は上杉藤原重房の
女なり
上杉修理亮重房の嫡男同
修理亮頼重の女は足利讃
岐守貞氏の妻室にして将軍
尊氏公同左馬頭直義等の
母儀なりしかれば尊氏公の
母儀と時氏とは正しき従父兄
弟たり尊氏公と時氏の男時
義とは再従兄弟なり
一、元弘元年辛未三月に天皇(後醍醐天皇)

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北條相模守高時を征伐の御企て
ありて闘乱におよぶ東国の諸大
将北條が下知を受て上洛す時氏
は鎌倉にありて将軍守邦親王
を守護し奉らる
一、正慶二年癸酉の春東国の多勢
かさねて上洛あり北條高時が下
知として足利治部大輔高氏則将軍尊氏公也
名越尾張守高家を大将として
京都に赴しむ此時に時氏も高
氏とともに京都におもむかる同く
三月廿七日に鎌倉を発し同四月
十六日に京都に着陣あり
始め足利高氏鎌倉を発せらね臨
る丶の朝に望(臨)て仁木細川吉
良今川山名一色荒川石堂

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渋川高上杉等の一族を集
て我賎(苟)しくも足利一家の棟梁
として源家一方の嫡流たるに
中世よりして北條家の附属
の如くになりゆけり今の時
に至りて志を立るの計なくば
あるべからずと談ぜらるといえど
も衆口まちまちにして一決しが
たし時氏進て曰く今北條家
の躰を見るに彼氏族等奢
りを恣にして滅亡年を経
べからず此時に家を興され
ずんば何のときを待給うべ
きや只思召立給えと有けれ
ば衆議一決して鎌倉を進
発あり四月十六日に京都に

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着き同十七日に海老名六郎
季行を密に伯耆国船の上
に遣わして北條が一族を追討
の綸旨を乞受らる海老名六郎
は此時の賞として備中国井
原庄を賜わる
一、建武二年乙亥七月に北條相模次
郎時高時が二男也其叔父北條刑部少輔
時興と共に先亡の餘類を集て
関東に旗をあぐ天皇足利尊氏
公に勅ありて是を征伐あり同八月
二日京都を進発して参河国に
至り北條時行が勢と戦わる時行
破れて引退く尊氏公進んで鎌
倉に入らる時氏も此ときに尊氏
公に属して戦功あり鎌倉に入る

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の日時氏小荷駄を纒て後殿た
り同十一月十一日に竹下において大
に戦功あり
一、延元元年丙子正月将軍尊氏
公大軍を率(卒)いて京都に発向あ
り新田左兵衛督義貞と大渡に於
て合戦あり時に細川律師禅定
赤松筑前守範資と同じく時氏
一方の将として脇屋右衛門佐義助
の軍を討破り山崎に攻入るにより
新田義貞都を引退き天皇を
供奉し奉り比叡山に登る同月十一日
に時氏等の諸将尊氏公を守護
して入洛あり同じく十六日に尊氏
公と新田義貞と洛中において戦
いあり尊氏公の軍破れければ

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丹波路を差して引退る新田の
軍勢是を過て急に攻うつ時氏
返し合て勇を振い戦て万死を
逃れ梅津の里において尊氏公に
逢い桂川の辺に至る処に敵又急
に追い来る此において尊氏公
既に自害せんと仰けるを時氏
およそとどめて曰く凡大将たる人はかくの
ごとくの急難を経て命をまっ
とうし子孫の繁栄を期し威
名を後代に残を第一とせり今
ただただ敗軍に逢て一命を捨ら
れん事は言甲斐なき所存なり
と止められければ尊氏公此理に
伏して自害をとどまり松尾葉
室の間に至る処に仁木細川等則

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敗軍の士卒を集て追付て此
所に休息ありくれにおよび細
川禅定義貞の軍を討破り此
由を告るによりて尊氏公京都に
帰らる同廿七日新田義貞北畠顕家
楠正成名和長年等数万の軍勢
を引具して京都を攻む尊氏公
又利を失い同廿八日京都を落
て同廿九日に丹波国篠村に至り
内藤入道道勝が曽地の館
入らる此時に時氏は三千五百餘
騎に将として廿八日に仁和寺嵯峨
野の辺に向わる丶の故に京中の
合戦にあわず尊氏公の敗軍を聞
て直に跡を慕い尾宅にて追い
つかる同二月二日に尊氏公内藤が

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館を発して摂州に赴かる時に
尊氏公舎弟左馬頭直義なら
びに時氏と密かに相議して薬師丸
を京都に遣わして持明院殿の院
宣を乞しめらる同六日に尊氏公
芥川に至る新田義貞北畠顕家
楠正成三万餘騎を卒(率)いて追討ん
とす尊氏公舎弟直義を先陣と
し高武蔵守師直を左将軍と
し時氏を右将軍として豊嶋河
原に於て大に戦いあり仁木左京
太夫宍戸安芸守岡部五郎左衛門尉
宗像大宮司等新田義貞の勢
に討破られて引退く故に尊氏
公忽に敗軍し九州をさして落
行かる同八日兵庫を発し宗像

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が館に入り南遠江守宗継豊田弥
三郎光顕を使として太宰少弐貞
経入道妙恵に味方に参べき由を
仰らる妙恵則ち嫡子筑後守頼
尚に軍勢を差添て宗像が館に
来らしむ菊池肥後守武重是を
聞て菊池九郎武敏武重弟也がに軍士を
そえて是を討しむ同三月二日に
尊氏公宗像が館を発し菊池が
陣に向わる尊氏公は赤地錦の直
垂に唐綾威の鎧を着て骨食太
刀又二つ銘と名づく頼政卿伝る処也を佩る舎弟左馬頭直義
は赤地の錦の直垂に紫革綴の鎧
を着て篠作太刀足利家代々の重宝也を佩かる
香椎の宮に参詣ありしに神職
の申上る旨有りて尊氏公の軍勢

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みな杉の枝を笠符とす(菊池が軍士は篠の葉を笠
符とす)直義を大将として仁木義良
左京太夫細川顕氏兵部少輔畠山國清阿波守山名
時氏伊豆守上杉重能伊豆守?に大友
嶋津伊東等五百餘騎にて筑前の
国多々良浜において合戦あり菊
池討負て肥後国に引退く尊氏
公時氏井に畠山國清に下知有て
八代城を攻落さしむ同四月三日に
尊氏公上洛の評議ありて同廿
六日に太宰府を進発あり相従う
人々には山名伊豆守時氏同右衛門佐
師氏畠山阿波守國清細川兵部少輔
顕氏一色右馬助範光桃井修理亮
義盛石堂右馬助頼房吉良左兵衛尉
荒川参河守渋川中務少輔加古民部

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少輔を始とし上杉一党三十一人高家
の一族五十餘人九州の大小名百余人
兵船七千三百餘艘にて同廿八日に纜
を解て中国に押渡る同五月朔日に
尊氏公芸州巌嶋に参籠あ
り同五日に備後国鞆のうらを
出船あり同廿五日摂州兵庫に着
陣あり新田義貞一族を始め大
軍を卒(率)回軍を卒して和田の御崎に陣
せらる楠河内守正成も一族を卒(率)い
て湊川に陣す足利直義軍を
進て楠正成と戦い破れて直義
既に戦死に及んとす尊氏公馬
をす丶めて仁木細川山名一色等
をして直義を救わせらる仁木頼章
山名時氏衆を励し勇を振い能く

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戦うゆえに楠正成戦い破れて広
厳寺に入て自害す一族等多く
討死す新田義貞兄弟正成の討死
を聞て湊川に来り尊氏公兄弟と
大に戦うといえども終に敗軍し京都
に帰り天皇を供奉し比叡山に登る
尊氏公兄弟上洛有り東寺に陣
し持明院殿の御幸をなし諸将
に下知して拝趨の礼を行わる同
六月二日に尊氏公の下知として時
氏比叡山に赴き西坂に陣せらる
同二十日に新田義貞山門の寄手を
討破る時氏も京都に引退る
一、歴応三年庚辰三月に高武蔵守
師直塩治判官高貞が叛逆ある
旨を尊氏公に訴う尊氏公すな

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わち時氏幷に桃井播磨守直常
及び大平出雲守に塩治を追討す
べきの由を仰らる同十七日塩冶高貞
密に京都を逃れ出雲国におも
むく時に時氏直営共に御所に
あり尊氏公両人をして急に彼
を追せらる各宿所に帰らず直に
進発あり時氏の家臣小林民部丞
重長河村山城守秀政猪野七郎
氏晴を始めとし郎従十五騎にて
跡を追て下り此日摂州湊川に
至り翌十八日に賀古川において塩治
高貞においつき無二無三に討て
か丶る時氏の嫡男右衛門佐師義士
卒に先達て勇を振わる塩冶が弟
同六郎貞泰返し合て能く戦う

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小林民部丞が長子右京進重治
師義の危きを見て進戦い終に
討死す師義士卒を励し塩冶六郎
を討とらる此戦い時を移すうちに
塩冶高貞逃れて小塩山に至る時氏
父子進て是を迫る此処にて高貞
が弟五郎高泰踏止りて討死す高
貞が妻子等は播州蔭山の宿に至
る処に桃井直常追い付て攻けれ
ば塩冶が家人八幡六郎妻子を殺し
旅宿に火を掛て亡びけり同月廿
九日に塩冶高貞出 国書着す
同日に時氏父子も同国矢杉庄に
馳付て国中の勢を召集めて将
軍家の命を伝えらる高貞も家
人を集めて佐々布山に楯籠らんと

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宍道山を過る時氏父子急に追
討る丶によりて高貞終に此所に
おいて自害す時氏は国中の仕置を
成して京都に帰陣あり
一、貞和元年乙酉八月廿九日に天龍寺
供養によりて尊氏公参詣有り
時氏此節侍月別たるによりて
甲胄の士五十八騎を卒(率)て先駈に
警衛たり同年翻倒において
荻野三宅等叛逆を企だつ尊氏公
時氏に仰せて追討あり時氏の
家臣楢崎三河守を先陣とし河村
山城守を右備えとし小林民部丞を
左備えとし時氏中備えとなり安田
弾正忠を後陣とし都合三千余騎
にて同国高山寺辺において合戦

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ありしに荻野等討負て降参
せり同四年八月に楠帯刀正行(河内守正成也)
河内国に起て京都を窺う尊氏公
細川陸奥守顕氏を大将とし正行
を討せらる藤井寺の戦に細川
破れて引退き天王寺に陣す其
後度々戦うといえども将軍方利
を失うにより評議ありて時氏
を大将として天王寺へおもむかし
む同十一月廿三日に時氏嫡子右衛門佐
師義(始の名は師氏)一族家人四千三百人を
卒(率)いて追手の大将として住吉に
陣せらる細川陸奥守も二千余騎
にて搦手の大将として安部野に
陣す楠正行和泉河内摂津の
軍勢を引具し奇計を廻らし

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戦いけるによりて京勢委く
敗軍す時氏も自ら敵を討こと
数十人にして七ケ所まで疵を蒙ら
る河村山城守安田弾正忠等時氏の
前後に従いて防ぎ戦う時氏舎弟
参河守兼義其危きを見て馳来
り敵を追い靡て戦といえ共楠が
勢勝に乗て攻討のあいだ参河守
は誉田将監光康が為に討る此に
おいて綿貫下野守原兄弟犬飼
六郎野木與市小松原刑部左衛門
箕浦三郎実俊同藤六等を始め
四十餘人討死し小林河村有路大
坂猪野安田高山等も疵を蒙り
山名細川両家の軍勢多く討死
せしによりて終に戦い破れて京

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都に引退かる
一、文和元年廿八日(一説曰文和二年癸巳六月七日と言)
に時氏は領国にあり嫡子右衛門佐師
義は京都に有るの処に若狭国の所
領の事によりて尊氏公父子に憤
りを含み京都を出て伯耆国に
下り父時氏に子細を申る時氏大
に怒り抑我れ元弘建武の比に
上野国より出て以来一日も尊氏
の為に私曲をおもわず一族の好み
を重んじて是を補佐し所々の急
難を凌ぎ多くの一族郎等を失い
しも子孫の後栄をおもうの
ゆえなりしかるに尊氏父子の心
底いさ丶か遺恨なきにあらず某
倩思うに我が家の祖伊豆守義範

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