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記載人物(P25~P38)
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山名義範山名義節山名重国山名重村山名義長山名義俊山名政氏

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  • 山名家譜第二巻PDFデータ

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山名家傳記巻之二
 
一、義範  右馬助  伊豆守  従五位下
当家の大祖伊豆守義範は新田大炊助
義重の長男にして清和天皇より十代
の嫡流たり母は豊嶋下野権守源親弘
(大和守頼親五代の嫡孫也)の女なり義範保延元年乙卯
に誕生あり少名を新田太郎という
父義重より上野国緑埜郡山名の
荘を以て義範に譲り与えらる是に
よりて新田の家名を改めて山名を以
て家号とし山名の冠者と称せらる
一、治承三年己亥七月廿日に右兵衛佐
源頼朝に平家追討の院宣を賜わるに
よりて頼朝より廻文を以て諸国の一族
を催さる義範は頼朝の父下野守義

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朝とは正しき再従弟たるを以て最初に
伊豆国に赴きて平家追討の評諚に
相預らる同四年庚子十二月十二日に頼朝
鎌倉の大倉郷の新造の館に移従あ
り時に義範其従弟足利冠者と一列に
して供奉たり
一、寿永三年甲辰正月に平家追討の
為に蒲冠者範頼九郎義経両大将
として上洛あり同月十日に院参あり
同二十九日に京都を発し二月五日に
摂州にいたる此時義範は搦手の大将
九郎義経に相従わる
一、元暦二年乙巳三月十六日に渡辺神崎
において勢揃えありて讃岐国八島に
押寄て合戦あり終に同月廿四日に
平家の一族を討滅して源家の諸

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将帰洛す此時に義範所々の戦
場において軍功あり
一、文治元年乙巳八月十四日に平家追
討の賞として源氏六人受領を賜わる
時に義範も従五位下に叙し伊豆守
に任ぜらる同十月廿四日に勝長寿院
を供養に附て頼朝公参詣の時に
義範後陣に供奉たり同五年己酉
七月十九日に頼朝公奥州におもむき
て泰衡を征伐せん為に大軍を引
具して鎌倉を進発あり義範も
足利上総介義兼と一列にして供
奉たり
一、建久元年庚戍に頼朝公上洛あり同
十一月十一日に六条若君ならびに石清水
に参詣あり時に義範大内相模守

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惟義一列にして供奉あり同二年
辛亥四月四日に頼朝公二所参詣の
時に供奉たり同三年壬子十一月廿五日に
永福寺供養につきて頼朝公参詣
あり時に義範布衣にて供奉たり同
十二月五日に浜の御所に於て諸将を
召されて頼朝公自ら千幡君を懐きて
出御あり各心を一にして此嬰児の
将来を守護すべきの由を慇懃
に仰ありて御盃を賜わる此時に
義範足利上総介義兼と同じく
着座ありて是を領掌し御太刀
を献ぜらる同五年甲寅二月二日に
北條義時の嫡男金剛丸元服あり
幕府において其沙汰あり時に義
範着座たり同八月八日に頼朝公相

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州日向山に参詣の時に義範水
干を着して供奉あり同十一月十三日
に足利上総介義兼鶴岡八幡に於て
両界曼陀羅二鋪を供奉あり義
兼は施主たるの間廻廊にあり義範
は門葉たるの故に列座せらる同
六年乙卯三月九日に東大寺供養に
つきて頼朝公ならびに御台所若
君ともに上洛あり義範父子狩装
束にて車の前後に供奉たり同四
月二十日に天王寺参詣にも又供奉
あり同八月十五日に鶴岡の放生会
につきて頼朝公参詣の時に義範召
によりて廻廊に伺候あり
一、承久元年己卯二月(日いまだ詳ならず)に卒去あ

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義範に三男あり長男は新田
太郎義節と言う父義範に
先て早世あり次を山名小太郎
重國と言う正統相続なり次を新
田三郎室家と言う祖父新田西
入道の子となり子孫繁栄なり
一、重國  蔵人  承明門院蔵人  正六位下
重國は伊豆守義範の次男にして母
は矢田判官義清(足利陸奥守義康の長男也)の女なり重
國少名を小太郎と言う父義範と同
じく頼朝公の義兵に与して所々の
戦場において軍功あり
一、文治元年乙巳十月廿四日勝長寿院

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供養あり頼朝公参詣の時に重國
武田五郎信光と一列にして先陣に供
奉たり
一、建久元年庚戍十一月七日に頼朝公上洛
の時に重國其叔父新田蔵人義兼徳
川三郎義季と一列にして第廿七番の
随兵たり同二年辛亥二月四日に頼朝
公二所御参詣の時に重国父義範と
共に浄衣立烏帽子にて供奉なり舎
弟新田三郎室家は後陣の随兵たり
同六年乙卯三月九日に東大寺供養に
つきて頼朝公上洛あり父義範とと
もに狩装束にて供奉せらる
重國卒去の年月いまだ詳な
らず重國に三男あり長男を
小太郎朝家と言う早世あり次

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を小次郎重村と言う正統相
続たり
又太郎義行に三男あり子孫
多し系図に詳なり

一、重村  蔵人 承明門院蔵人  正六位下
重村は蔵人重國の三男にして建久
九年戊午に誕生あり少名を小次
郎と言う
一、建保元年癸酉に和田左衛門尉平
義盛父子一族等叛逆を企るの時に
重村御所方にありて鎌倉中に於
いて戦功を顕わさる
一、承久三年辛巳五月に後鳥羽上皇
鎌倉を亡ぼさんとし給うによりて

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関東より執権北條左京太夫義時が
下知として多勢上洛あり同六月
十三日に宇治勢多両所において合戦
あり官軍終に敗績して京方の
諸大将委く討死あり時に重村は
北條武蔵守泰時が陣にありて勢
多において勇を振い自ら敵二人を
討て其首を得らる時に重村二十四歳
なり
一、建長二年庚戍三月に閑院殿修造ある
によりて将軍頼嗣公より諸国の
地頭御家人に造営の事を仰付
らる時に押小路より南方西洞院よ
り西方筑地十八本の内一本を重村
に修造すべきの旨仰付らる是に
より氏族を召集てこれを造進あり

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重村の事蹟井に卒去の年月
等詳ならず将軍頼経公頼嗣公
宗尊親王に奉仕せらる重村に
五男一女あり長男弥次郎義長正統
相続なり次を弥三郎義政と言う次を
新三郎國長と言い次を四郎義房と
言い次を八郎義行と言う次は女子な
一、義長  弥次郎
義長は蔵人重村の長男にして始の名
を重長と言う将軍惟康親王に奉仕せ
らる
一、弘安八年乙酉十一月十七日に城入道一族叛
逆を企て合戦におよぶの時に義長御
所方にして戦功あり
義長の事蹟ならびに卒去の年月等

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詳ならず
一、義俊  小次郎
義俊は弥次郎義長の男にして鎌倉
に奉仕せらる
一、正安三年辛丑八月廿五日に一族山名新次郎
行直同中務丞俊行同三郎五郎為俊
等将軍家の仰を背き叛逆を起すに
よりて誅戮せらる是によりて其一
跡を以て義俊に宛行わる
一、乾元元年壬寅九月に北條相模守貞時
最勝園寺供養するによりて将軍久明
親王出御あり此時に義俊帯刀の
列にありて供奉たり
義俊に二男あり長男弥次郎政氏
と言い正統相続なり次を弥三郎
政杜と言う後に従五位下に叙し左

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京亮に任ず将軍尊氏公に仕え鷺
坂の合戦の時戦死あり
義俊の事蹟并に卒去の年月又は
兄弟等いまだ詳ならず
一、政氏 弥次郎 蔵人
政氏は小次郎義俊の男にして始の名を
義氏と言う
一、 正安三年辛丑に上杉三郎藤原重房
の女を娶らる
一、 嘉暦二年丁卯に剃髪あり法名を
道高という政氏の室は足利讃岐守
貞氏(将軍尊氏公の父也)の室の叔母なり故を以て
政氏と相睦しよりて政氏父子元弘
建武の頃より足利家に属せらる
一、建武二年乙亥十二月に足利尊氏卿同舎

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弟左馬頭直義と新田左兵衛督義貞と
相模国箱根竹の下において合戦あり
脇屋治部大輔義助義貞弟也の逞兵を撰んで
尊氏卿の陣を討破る尊氏卿の勢敗
軍して乱れ騒ぐ脇屋義助勝に乗て
是を追進らる時に政氏二千余騎を
卒(率)いて義助の備えに討てか丶りけれ
ば佐老木結城等取てかえし政氏とともに
義助の陣を討破て軍功を顕わす
一、政氏父子足利家に属して新田家と
合戦有に新田家の旗幕共に大中黒な
り山名家も新田一流の嫡家たるによりて
旗幕ともに大中黒なり政氏其旗幕
ともに新田家と頒たん為に中黒と引
両を合て三引両を以て家紋とせらる
政氏に二男あり嫡子小太郎時氏
大中黒 引両 三引両
大中黒.png 引両.png 丸に三つ引両.png

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と言う当家中興の祖也次を
彦次郎兼義と言う将軍尊氏公
に仕えて従五位下に叙し三河守に
任ず貞和四年戊子十一月廿六日兄伊
豆守時氏と楠帯刀左衛門尉正行と摂
州住吉阿部野において合戦の時
に兼義勇を振て戦い終に誉
田将監光康が為に討死あり政氏
元弘建武の間足利家に属して
所々において軍功有といえども事
蹟并に卒去の年月等いまだ詳
ならず

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