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書籍名の略称表示について(事務局) anchor.png

  • 省頁の為、頻繁に登場する書籍名につきましては略称を使用しています。
  • 見づらいかと思いますがご理解下さい。(事務局)
    略 称書 籍 名
    ①大日『大日本史料』
    ②家譜『山名家譜』
    ③守護辞典『室町幕府守護職家辞典』
    ④氏清年譜『山名陸奥守氏清公略年譜』
    ⑤南北朝史『南北朝編年史』
    ⑥常熈年譜「山名常熈関係略年譜」
    (『山名常熈と禅刹』収集)
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嘉祥3(850)~天慶3(940) anchor.png

850嘉祥3年3月25日惟仁親王(清和天皇)誕生。文徳天皇の第4子。母藤原良房の女、明子。『尊卑分脈』
858天安2年11月7日清和天皇が即位(9歳)*1『尊卑分脈』、②家譜P1
874貞観16年3月13日貞純親王が誕生。*2清和天皇の第6皇子。母神祇伯中務大輔 棟貞王の女。②家譜P2
895寛平7年2月15日経基王が誕生。*3*4貞純親王の長男、母・右大臣源能有の女②家譜P3
909延喜9年10月5日経基王が元服、正六位上、左馬介に任ぜられ源朝臣姓を賜る。*5②家譜P3
912延喜12年4月10日源満仲が誕生。源経基王の嫡子。母は武蔵守藤原敦有の女。②家譜P6
916延喜16年5月7日貞純親王が死去。『尊卑分脈』
940天慶3年2月8日平将門追討軍が編成され、経基王は副将軍となる。「扶桑略記」(①大日1-7)
2月14日藤原秀郷、平貞盛が平将門を滅ぼす。「将門純友東西軍記」(①大日1-7 )
経基王は駿河国清見ヶ関に至った日に、これを聞き帰路。②家譜P4

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  • *1、『山名家譜』には生年の記載はないが、天安2年に9歳であるから逆算すると嘉祥3年となり、『尊卑分脈』と一致している。
  • *2、『山名家譜』では、貞観16年誕生と成っているが、生没年について諸説がある。『尊卑分脈』では生年の記載はないが延喜16年(916)5月7日に64歳で薨じたとあるから逆算すると、仁寿2年(852)の生まれとなる。すると父の清和天皇が2歳の時の誕生となる。
    『系図簒要』では貞観15年(873)3月23日誕生となっており、延喜16年(916)5月7日44歳で薨じたとある。奥富敬之『清和源氏の全家系 天皇家と多田源氏』参照。
  • *3、『尊卑分脈』では天徳5年(961)11月4日45歳で卒となっており逆算すると、延喜16年(916)誕生となる。これは父貞純親王の死去の年でもある。『系図簒要』では寛平9年(897)2月12日生まれとなる。
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  • *4、経基王は、清和天皇の第6皇子である貞純親王の子であり、清和天皇の孫にあたるから、『六孫王』と称したと伝えられている。『六孫王』の経基王は、のちに源姓を与えられて臣籍に降下し、いわゆる清和源氏の初代となったと、一般的に強く信じられている。しかし、経基王(六孫王)は、清和源氏ではなく陽成源氏だとする説がある。
    『史学雑誌』第11編第2号『六孫王ハ清和源氏ニ非ザルノ考』と題した論文で星野恒氏は『源頼信告文』を論拠として展開している。
    『源頼信告文』(『石清水文書』)の関係する箇所を抜粋すると、
    敬しんで先祖の本系を煖め奉れば大菩薩の聖体は忝けなくも其が二十二世の氏祖也。
    先人は新発(満仲)、その先きは経基、その先は元平親王、その先は陽成天皇、その先は清和天皇、その先は(中略)いわゆる曽祖陽成天皇は権現の18代の孫なり。頼信は、かの天皇の4世の孫なり。
    となっている。
    すなわち、清和天皇―陽成天皇―元平天皇―経基王―満仲―頼信という系図になり、頼信は陽成天皇の4世の孫ということになる。しかし、経基王が清和源氏の始祖であることに変わりはない。
    清和源氏についての研究者の奥富敬之氏は『清和源氏の全家系 天皇家と多田源氏』の中で、星野論文を紹介し、なぜ陽成天皇が貞純親王へ変えられたのかを、陽成天皇が暴逆な悪君として有名であるので、いわゆる清和源氏の人々が姓氏を偽証したと述べている。
  • *5、生年不明、貞純親王の子、六孫王と呼ばれる。『尊卑分脈』では天徳5年(961)に64歳で死去となっている。
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天慶3(940)~康平6(1063) anchor.png

940天慶3年8月27日藤原純友の追捕使として、小野好古を長官、経基王を次官とする。*6「扶桑略記」(①大日1-7)
8月経基王が帰郷する。正四位下に叙せられ、太宰大弐に任ぜられる。
941天慶4年6月20日藤原純友、警固使橘遠保に討たれる。「本朝世紀」(①大日1-7)
9月6日追捕使源経基、豊後国で海賊を破り、桑原生行を捕える。「本朝世紀」(①大日1-7)
961天徳5年11月4日
(応和元年)
経基王が逝去。*7
968安和元年源頼信が誕生。満仲の三男。母は大納言藤原元方の女。*8『国史大辞典』
969安和2年3月25日源満仲、橘敏延等謀反の由を密告し、同27日正五位下に叙せられる。*9『日本紀略』
970安和3年3月源満仲が摂津守となる。②家譜P6*10
3月15日源満仲多田庄に住する。②家譜P7
(天禄元年)
971天禄2年多田庄に一寺を建て鷹尾山法華三昧院(現在の多田院)と名付く。②家譜P7*11
986寛和2年8月15日源満仲が出家する。法名満慶。②家譜P7、『尊卑分脈』
988永延2年源頼義が誕生。頼信の嫡男。母は修理命婦。『国史大辞典』
997長徳3年8月27日源満仲が死去(86歳)。「系図纂要」(①大日2-3)*12
1030長元3年源頼信に平忠常の追討を命じる。(これ以後、関東が清和源氏の本貫地となる。)「小右記」(『大日本古記録』)
9月  源頼信上総介。平忠常追討の宣旨を賜わる。②家譜P8
10月21日源頼信、軍勢を引率いて武蔵国河越で、忠常の弟陸奥守忠頼・中村五郎忠将と戦う。忠頼兄弟、利なくして退く。②家譜P8
1031長元4年4月源頼信、大軍を率いて下総国に至り、千葉城を攻む。忠常降参せり。頼信、忠常を伴い帰路する途中、美濃にて忠常は病死。
1038長暦2年7月14日源義家が誕生。母は上野介平直方の嫡女。*13②家譜P8
1048永承3年9月1日源頼信が死去。河内国通法寺に葬る。*14②家譜P8
(日不詳)源義家が元服。石清水八幡宮にて。
1051永承6年源頼義、陸奥国の押領使安部頼良を追討のため、陸奥守に任じられ、鎮守におもむく。安部頼時は、源頼義にしたがう。*15
6月25日源頼義、相模国鎌倉郡由比郷に石清水八幡宮を勧請。幡を亀谷の山上に納める。
7月源頼義、奥州に至り、安部頼良降参を乞いて、名を頼時と改む。②家譜P11
1054天喜2年8月安部頼時の子、厨川(くりやがわ)治郎貞任が叛逆を企て衣河の柵にたて籠る。源頼義を襲う。②家譜P11
9月源頼義、大軍を率いて貞任を攻うつ。然るに頼義の国任終わり、再任の宣旨を蒙りて奥州にあり。
1062康平5年11月29日源頼義、義家が安部貞任一族を滅ぼす。②家譜P11
1063康平6年2月源頼義、帰路の途中相州で八幡宮の社を由比郷に建てる。②家譜P11
8月25日源頼義、伊予守に任ぜられ、正四位下に叙せられる。
(日不詳)源義家、出羽守に任ぜられ、従五位下に叙せられる。②家譜P11

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  • *6、『山名家譜』P4では天慶3年6月に藤原純友の追討軍が編成され、源経基が副将軍として筑紫へ下され、不日に純友を謀伐して同8月に帰京、正四位に叙し、大宰大弐に任ぜらる。と記されている。
  • *7、『尊卑分脈』では天徳5年11月4日卒45歳となっている。『山名家譜』P5では天徳2年(958)11月24日となっている。
  • *8、『山名家譜』P8では天延2年(974)9月5日誕生となっている。
  • *9、『山名家譜』P7に元禄元年(970)3月源満仲が摂津守になる。また同年3月15日、多田庄に住し、翌年2年多田庄に一寺を楯、鷹尾山法華三昧院(現在の多田院)と名く。と記されている。
  • *10、改元は3月25日だから、3月15日はまだ安和。
  • *11、『山名家譜』では天禄元年となっているが、改元は3月25日。
  • *12、8月27日卒とあり。「系図纂要」
  • *13、1039(長暦3)生まれ。『国史大辞典』
  • *14、『国史大辞典』に永承3年81歳没となっている。
  • *15、1053年鎮守府将軍に。『国史大辞典』
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治暦元年(1065)~保元2年(1157) anchor.png

1065治暦元年9月1日源頼義が出家し、法名を信海と号す。世の人、入道将軍と称す。*16②家譜P12
1079承暦3年8月8日源義家が勅を蒙り美濃国、八島佐渡守源重宗、多田伊豆守源国房と青野が原で合戦。重宗国房を滅ぼす。②家譜P13
1081永保元年6月源義家が陸奥守に任ぜられ、鎮守府将軍に補せられて、奥州に下向する。途中、鎌倉で八幡宮を修復。②家譜P13
8月源義家が奥州に居住。
清原武衡、家衡、清衡兄弟が確執し、義家が是を和睦させるが、家衡は従わず、出羽国沼の柵に楯籠る。②家譜P14
1082永保2年11月3日源頼義が死去。*17②家譜P12
1083永保3年7月源義国誕生。*18②家譜P17
1086応徳3年 春源義家、国任終わるが、再任の宣旨を受けて奥州に在留。②家譜P15
家衡、武衡と合戦。
1091寛治5年11月源義家、武衡、家衡一族を滅ぼす。②家譜P15
1092寛治6年正月源義国が元服。陸奥四郎と号す。②家譜P17
1095嘉保2年 秋源義家、月華門に候して鳴絃の法を行わる。則ち内昇殿を聴され正四位上に叙せられる。②家譜P17
1099庚和元年源義国、院の北面に候して従六位に叙せられ、兵庫允に任ぜられる。②家譜P17
1103庚和5年8月源義国が帯刀長に補せられる。②家譜P17
1105長治2年7月4日源義家、病によりて出家。法名信了。②家譜P14
8月18日源義家死去。河内国通法寺に葬られる。*19②家譜P14
1124天治元年9月源義国、加賀介に任ぜられ、従五位下に叙せられる。②家譜P17
1135保延元年新田義重誕生。母は上野介敦基女。『国史大辞典』
1150久安6年8月源義国、勅勘をこうむり、下野国足利荘に。②家譜P18*20『国史大辞典』
1154久寿元年源義国、仏門に入り、荒加賀入道と称す。『国史大辞典』
1155久寿2年6月26日源(足利)義国卒去。②家譜P18*21『国史大辞典』
1157保元2年3月8日新田義重(義国の嫡男)、上野国新田郡を開発し、左衛門督藤原忠雅に寄進し、新田荘を立荘、同荘の下司となる。*22『山名氏の系譜と事暦』、③守護辞典下巻
新田義重の長男太郎三郎義範、上野国多胡郡山名郷を伝領する。新田山名氏。*23③守護辞典下巻
新田義重の三男太郎義兼、新田一族の家督と新田荘内の大部分を受領。
新田義重の二男太郎義俊、多胡郡里見郷を受領、新田里見氏。

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  • *16、承保2年(1075)剃髪して伊予入道と称する。『国史大辞典』
  • *17、『尊卑分脈』では永保2年10月12日卒88歳。『国史大辞典』に承保2(1075)10月12日没88歳とある。
  • *18、『国史大辞典』では生年?
  • *19、1106嘉承元年68歳。(尊)『国史大辞典』
  • *20、『山名家譜』参陣の路次において、右大将実能公に参り逢て義国あやまりて下馬におよばず、実能公其狼藉をとがめる随身の侍等はせよりて義国を馬より控落すによりて義国の良等家人大に此事を憤りて実能公の本所に馳向て火を放ちて焼払う。これによりて義国勅勘をこうむりて下野国に下向ありて、足利の庄に蟄居あり。
    『尊卑分脈』の義国の項でも、或記に云わくとして、同じ内容の一文を載せている。
    義国が下野国足利に移り住んだのは、妻(佐野基綱の女)の実家の一族藤女姓足利の所領があったからである。『室町幕府守護職家辞典』下巻P386
  • *21、『山名家譜』P18義国に四男有り。長男 大炊助義重 次男 陸奥守義康(足利氏諸流の太祖)三男 左衛門尉国康 四男 蔵人判官季邦。
  • *22、『山名家譜』P19では『保元1年7月13日に新院御叛ありて当今と御合戦におよぶとき義重兄弟とともに当今の御味方となりて、同12日大いに戦功あり、同13日に除目おこなわれて義重を新田荘の下司職に補せられる。』とある。『山名家譜』P19
  • *23、義重に7男1女あり。長男 義範(山名) 次男 義俊(里見) 3男 義兼(新田)4男 徳川義季 5男額田五郎義経6男 新田冠者義光  7男 新田小四郎義佐  1女 一 源太の妻(師太郎に嫁す)。新田義重の子の長幼の序は定かではなく、里見義俊を長男、山名義範を三男とする系図もある。(事典下)
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治承4年(1180)~建久2年(1191) anchor.png

1180治承4年4月9日以仁王、平氏追討の令旨を下す。『吾妻鏡』巻1
(月日不詳)以仁王の綸旨。義重の許に到来し自ら平家を亡して功を立てんと計立て寺尾の城に楯籠る。②家譜P20*24
9月30日頼朝、新田義重に書を遣はすといえども返報するあたわず。新田義重、上野国寺尾城に引き籠り、軍勢を集める。『吾妻鏡』巻1
12月12日頼朝、新造亭に移徒す。山名冠者義範等供奉す。『吾妻鏡』巻1、[[②『家譜』P21
12月22日新田義重、頼朝の召に依りて参上す。『吾妻鏡』巻1
里見義成、京都より頼朝の陣に参上す。『吾妻鏡』巻1
(一説に)新田義重、頼朝の気色をこうむる。②家譜P22
1181養和元年7月14日新田義重の息女の件(一度、他家へ嫁いでいた件)で、義重と頼朝が不和となる。②家譜P21
1182養和2年4月5日頼朝、腰越辺江島に出でしめ給ふ。足利冠者、北條殿、新田冠者ら御共に候。『吾妻鏡』巻2
7月14日新田冠者義重、息女の件で頼朝の勘気をこうむる。『吾妻鏡』巻2
1184寿永3年1月21日木曽義仲敗死『吾妻鏡』巻3
2月5日山名義範、一谷合戦に義経勢として参加し、摂津国に到る。『吾妻鏡』巻3、[[②『家譜』P26
2月7日一ノ谷の合戦。
1185文治元年3月24日壇ノ浦の合戦。山名義範所々の戦場において軍功あり。②家譜P26
8月16日渡辺神崎において勢揃いありて讃岐国八島に押寄て合戦。②家譜P26
小除目において、山名義範、伊豆守に任ぜられる。源義経(伊予守)、大内惟義(相模守)、足利義兼(上総守)、加賀美遠光(信濃守)、安田義資(越後守)に任ぜられる。③守護辞典下巻
10月24日勝長寿院供養。新田義兼、山名義範・重国ら頼朝の供奉人。『吾妻鏡』巻5、②家譜P27
1186文治2年3月新田義重、上野、越後両国の守護となる。②家譜P22
1188文治4年1月20日頼朝、伊豆箱根三島社等参詣。新田義兼、里見義成、世良田義季ら供奉人。『吾妻鏡』巻8
3月15日頼朝、鶴岡宮大般若経供養に臨席。里見義成、伊豆守(山名義範)、新田蔵人(新田義兼)ら供奉人。『吾妻鏡』巻8
7月10日頼家、着甲始。武州(義信)御馬を頼朝に献ず。里見義成これを引く。『吾妻鏡』巻8
1189文治5年4月18日北条時連元服。新田義兼等出席。『吾妻鏡』巻9
6月6日鶴岡宮塔供養に御白河院は馬等を賜ふ。使者、錦・扇を新田義兼、里見義成らに授く。『吾妻鏡』巻9
6月9日鶴岡宮塔供養に頼朝臨席。供奉人に世良田義季(徳河三郎義秀)、新田義兼、里見義成等。『吾妻鏡』巻9
7月19日頼朝、奥州藤原氏討伐に進発。御共の軍勢に山名義範、新田義兼等『吾妻鏡』巻9、②家譜P27
1190文治6年1月3日頼朝御行始、比企能員宅に入御。御共に新田義兼等。『吾妻鏡』巻9
建久元年11月7日頼朝入洛。供奉人に山名重国、新田義兼、世良田義季、山名義範、里見義成等。『吾妻鏡』巻10
11月11日頼朝、石清水に参詣。供奉人に山名義範等。『吾妻鏡』巻10、②家譜P27
1191建久2年1月11日頼朝、鶴岡若宮に参詣。供奉人に山名義範等。『吾妻鏡』巻11
2月4日頼朝、二所参詣。供奉人に新田義兼、山名義範・重国等『吾妻鏡』巻11
3月3日鶴岡宮臨時祭。頼朝参詣。供奉人に山名義範等。『吾妻鏡』巻11
4月4日頼朝、二所参詣の時、山名義範供奉たり。②家譜P28
4月30日山名義範、山門所司とともに山門衆徒の訴状を頼朝に伝える。『吾妻鏡』巻11
7月28日寝殿対屋など完成、移徒。供奉人に山名義範、里見義成等『吾妻鏡』巻11

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  • *24、山名家譜では治承3年に頼朝に平氏追討の院宣が下り、それより以前新田義重に高倉の官の綸旨が下るとなっている。その他に治承3年に起こった事として、9月…頼朝が書を以て義重を催促せらるといえども義重返書に及ばず。12月22日…義重、鎌倉に赴き頼朝に謁見、があげられるが、これらの2つの記事は吾妻鏡の治承4年の記事と一致しており、山名家譜の治承3年の記述は治承4年の誤りと考えられる。
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建久3年(1192)~正安2年(1300) anchor.png

1192建久3年7月27日頼朝、勅使を招く。その座に山名義範も同席。『吾妻鏡』巻12
8月頼朝、征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開く。
建久3年10月19日北条政子、新誕若宮(実朝)とともに幕府に入る。供奉人に里見義成、新田義兼等。『吾妻鏡』巻12
11月25日頼朝、永福寺供養に参ず。供奉人に山名義範、新田義兼等。『吾妻鏡』巻12、②家譜P28
12月5日頼朝、浜の御所に諸将を集め新誕の若宮(実朝)を守護するよう命ず。その中に山名義範。『吾妻鏡』巻12、②家譜P28
1193建久4年3月21日頼朝、下野国那須野、信濃国三原等の狩倉へ進発。弓馬に達せしめまた、隔心無きの者22人を撰ばる。その中に里見義成。『吾妻鏡』巻13
4月28日頼朝、義重の新田館に遊覧する。『吾妻鏡』巻13
5月8日頼朝、富士野狩を覧るため、駿河に向う。御共に、山名義範、里見義成等。『吾妻鏡』巻13
5月15日斎日によって狩なし。終日酒宴。頼朝、里見義成を遊君別当に任ず。『吾妻鏡』巻13
5月29日頼朝、曽我五郎を召して夜討宿意を尋ねる。その場に、山名義範、里見義成も臨む。『吾妻鏡』巻13
9月11日将軍家、箭夜餅。その席に、山名義範も臨む。『吾妻鏡』巻13
1194建久5年1月1日将軍家の飯の席に里見義成は剣をもつ。『吾妻鏡』巻13
(この頃より『吾妻鏡』は鎌倉幕府の史料としての傾向を強め、編集方法が変化している。)
2月2日北条泰時、幕府にて元服の儀あり。山名義範、里見義成も同席。『吾妻鏡』巻14
4月4日鶴岡臨時祭り。里見義成、奉幣使をつとむ。『吾妻鏡』巻14
8月8日頼朝、相模日向山に参詣。供奉人に里見義成、山名義範等『吾妻鏡』巻14
閏8月1日頼朝、三浦に赴く。小笠懸あり。里見義成等つとむ。『吾妻鏡』巻14
閏8月8日北条政子、志水冠者追福供養。新田義兼も参加。『吾妻鏡』巻14
11月13日足利義兼、鶴岡にて両界曼陀羅供養。山名義範等参加。『吾妻鏡』巻14
1195建久6年3月10日頼朝、東大寺落慶供養に赴く。供奉人に新田義兼、山名義範・同重国、里見小太(義基か)、世良田義季等。『吾妻鏡』巻15*25
3月12日東大寺供養。供奉人に、山名義範、里見義成等。『吾妻鏡』巻15
4月15日頼朝、石清水に参詣。供奉人に里見義成等。『吾妻鏡』巻15
5月20日頼朝、天王寺参詣。随兵に新田義兼、山名義範、里見義成等。『吾妻鏡』巻15*26
6月3日将軍若宮(頼家)参内。供奉人に山名義範等。『吾妻鏡』巻15
8月15日鶴岡放生会。頼朝、参宮。供奉人に山名義範等。『吾妻鏡』巻15
8月16日頼朝、鶴岡参詣。里見義成等流鏑馬をつとむ。『吾妻鏡』巻15
10月7日鶴岡臨時祭に頼朝参詣。供奉人に、山名義範等。『吾妻鏡』巻15
1198建久9年重村(重国の3男)誕生。小名を小次郎。②家譜P32
1199建久10年1月13日源頼朝が死去。『明日記』
1202建久2年正月14日新田義重が死去(68歳)。『国史大辞典』、『尊卑分脈』
1213建保元年和田左衛門尉、平義盛父子一族等叛逆を企るの時に、山名重村御所方にありて、鎌倉中に於いて戦功を顕わさる。②家譜P32
1219承久元年2月山名義範卒去。②家譜P29
1221承久3年5月15日後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣を発する。「承久記」(①大日1-7)
6月13日宇治、勢多両所において合戦。山名重村は北条武蔵守泰時の陣にありて、勢多において、敵2人を討ちて、其首を得らる。②家譜P33
1250建長2年3月閑院殿修造、将軍頼嗣公より諸国の地頭、御家人に造営を仰付らる。山名重村、築地18本の内1本を修造。②家譜P33
1274文永11年11月文永の役
1281弘安4年7月弘安の役
1285弘安8年11月17日城入道一族叛逆。合戦。山名義長(重村の長男)御所方にて戦功あり。②家譜P34
1300正安2年3月3日信濃国御家人市河盛房の所領同中野西条の田地について幕府が御書を発した時、山名盛康(この人物は不明)、その使者となる。③守護辞典下巻P388

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  • *25、『山名家譜』では3月9日となっている。
  • *26、『山名家譜』では4月20日となっている。
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正安3年(1301)~暦応4年(1340) anchor.png

1301正安3年8月25日山名新治郎行直、同中務丞俊行、同三郎五郎為俊等、将軍家の仰に背き叛逆を起すによりて誅戮せらる。是によりて其一跡を以て山名義俊に宛行わる。(この項は『山名家譜』にはあって『吾妻鏡』には記載がない。)②家譜P35
(月日不詳)山名政氏(義俊の長男)、上杉三郎藤原重房の女を娶る。②家譜P36
1302乾元元年9月北條相模守貞時、最勝園寺供養するによりて将軍久明親王出御あり。此時山名義俊帯刀の列にありて供奉たり。②家譜P35
1303嘉元元年月日不詳山名時氏(政氏の嫡男)誕生。少名を小太郎と言う。母は上杉重房の女なり。②家譜P39
1324正中元年正中の変(後醍醐天皇の討幕計画発覚)
1326嘉暦2年山名政氏、剃髪。法名を道高。②家譜P36
1331元弘元年3月後醍醐天皇、北條相模守高時を征伐の企て。山名時氏は鎌倉にありて、将軍守邦親王を守護する。②家譜P40
9月幕府は光厳天皇を擁立。
(室町時代初期の基本文献である『太平記』には読み物としての面白さもある。)
1333正慶2年3月27日北條高時が下知として、足利治郎大輔高氏、名越尾張守高家を大将として京都に赴かしむ。
山名時氏(当時34歳)、高氏とともに京都に赴く(しかし、足利に敵対する山名一族もいた)。山名氏の拠点が関東から西国に移るきっかけ。
4月16日山名時氏、京都に着陣。②家譜P40
4月17日海老名六郎季行を密に伯耆国船の上に遣はし、北條一族を追討の綸旨を乞受けらる。
13345月鎌倉幕府滅亡.建武中興政治はじまる。
1335建武2年7月北條相模治郎時行(高時2男)、其叙父北條刑部少輔時興と共に旗をあぐ。天皇足利尊氏に勅ありて、是を征伐。
8月2日足利尊氏、京都を進発して三河国で北條時行と戦う。②家譜P42
時行敗れて引退く(中先代の乱)。尊氏鎌倉に入り、山名時氏も尊氏に属して戦功あり。
これ以後、約35年間時氏公の活躍の時代である。
鎌倉に入る日、山名時氏小荷駄を纏たり。
11月11日竹下において山名時氏大いに戦功あり。②家譜P43
12月足利尊氏、同舎弟左馬頭直義と新田左兵衛督義貞と相模国箱根竹の下で合戦。山名政氏、義貞の弟脇屋治部大輔義助を打ち破り、軍功をあらわす。②家譜P37
政氏、旗幕を新田家と頒たん為に中黒と引両を合て三引両を家紋とする。(『太平記』に記載なし。)②家譜P37
1336延元元年正月足利尊氏、大軍を率いて京都へ向う(西上軍)。新田左兵衛義貞と大渡にして合戦。細川律師禅定、赤松筑前守範資、山名時氏等、脇屋右衛門義助の軍を破り、山崎に攻入る。新田義貞都を引退き、天皇を供奉し比叡山に登る。(『太平記』に記載なし。)②家譜P43
1月11日山名時氏ら諸将、足利尊氏を守護して入洛。②家譜P43
1月16日足利尊氏と新田義貞、洛中にて戦う。②家譜P43
尊氏破れ、丹波路を差して退き、山名時氏と梅津の里で逢う。尊氏自害せんと言うを、時氏これをとどめる。細川禅定、義貞の軍を破り、この由を聞いて尊氏京都へ帰る。②家譜P44~45
1月27日新田義貞、北畠顕家、楠木正成、名和長年等、数万の軍勢で京都を攻む。尊氏京都を落ちて、29日に丹波国篠村に至り、内藤入道道勝の館に入る。②家譜P45
山名時氏は3500余騎の将として28日に仁和寺嵯峨野の辺に向わる、のゆえに京中の合戦にあわず、尊氏の敗軍を聞き、跡を慕い追いつかる。②家譜P45
2月2日尊氏、内藤が館を発し、摂州に赴く。直義、山名時氏と相議して薬師丸を京都に遣わして、持明院殿の院宣を乞わしめる。②家譜P45
2月6日尊氏、芥川に至り、新田義貞、北畠顕家、楠木正成の3万騎が追い討つ。高師直を左将軍、山名時氏を右将軍として、豊嶋河原に於て戦う。尊氏敗軍、九州をさして落ち行かる。②家譜P46
2月8日尊氏、兵庫を発し、宗像が館に入り、太宰少弐貞経入道妙恵に味方に参るべき由を仰せらる。妙恵嫡子筑後守頼尚に軍勢を差添て宗像が館に来らしむ。②家譜P46
1336延元元年3月2日尊氏、宗像が館を発し、菊池と戦う。直義を大将とし、山名時氏等500騎にて、筑前国多々良兵で菊池を破る。②家譜P47
尊氏、山名時氏并に畠山国清に八代城を攻め落さしむ。②家譜P48
4月3日尊氏、上洛の評議あり。②家譜P48
4月26日尊氏、太宰府を進発。山名時氏、同師氏(師義のはじめの名)等したがう。②家譜P48
4月28日尊氏の兵船7300余艘、纜を解て中国地方に押し渡る。②家譜P49
5月1日尊氏、芸州厳嶋に参籠あり。②家譜P49
5月5日尊氏、備後国鞆の浦を出船。②家譜P49
5月25日尊氏、摂州兵庫に着陣。②家譜P49
(日不詳)足利直義、楠木正成と戦い敗れる。尊氏、山名等に直義を救わせらる。仁木頼章、山名時氏、衆を励まし、楠木正成を破る。正成自害す。②家譜P49
新田義貞、湊川に来り、尊氏兄弟と戦う。義貞敗軍し、京都に帰り天皇を供奉し比叡山に登る。②家譜P50
尊氏兄弟上洛。東寺に陣し、持明院殿の御幸をなし、拝趨の礼をおこなわる。②家譜P50
延元元年6月2日山名時氏、尊氏の下知として比叡山に赴き、西坂に陣す。②家譜P50
6月20日新田義貞、山門の寄手を討破り、山名時氏京都へ引き退る。②家譜P50
1337建武4年山名時氏、伯耆国の守護職となる。
延元2年7月以前三宝院文書第2回採訪一
1340暦応4年3月高師直、塩冶判官出雲国守護佐々木高貞が叛逆ある旨を尊氏に訴う。(塩冶征伐については諸文献に多くの不突合がある。)②家譜P50
尊氏、山名時氏、桃井直常等に塩冶を追討せしむ。
3月24日塩冶高貞、密かに京都を逃れ、出雲国に赴く。*27②家譜P51、『太平記』巻21
1340暦応4年山名時氏の嫡男右衛門佐師義、賀古川にて、塩冶六郎貞泰を討ちとる。②家譜P51、『太平記』巻21
小塩山にて塩冶五郎高泰討ち死にす。②家譜P52
塩冶高貞の妻子、播州蔭山の宿で桃井直常に攻められて亡ぶ。*28②家譜P52
3月末日塩冶高貞、出雲国に下着。山名時氏父子、宍道山にて高貞を討つ。高貞自害す。*29②家譜P52
時氏、国中の仕置を成して京都に帰陣あり。

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  • *27、『家譜』では、塩冶判官の京都出奔は暦応4年3月17日としているが、『太平記』巻21では、暦応4年3月27日の暁となっており、また『同書』の注では、『萩藩閥閲録』『鰐淵寺文書』『出雲大社諸社家所蔵古文書』『鶴岡社務記録』には暦応4年3月24日となっているとしている。ここでは、暦応4年3月24日とした。
    『太平記』巻21では、塩冶高貞は播磨路より落ち行き、妻子は丹波路より落したとあり、また、山名時氏父子は播磨路をとって追い、桃井直常と太平出雲守は丹波路を追いかけたと記述している。
  • *28、『家譜』では、塩冶高貞の妻子は桃井直常に攻められて亡ぶとなっているが、『太平記』巻21では、丹波路を負った桃井直常と太平出雲守は、波々伯部の宿でおくれ馳の勢を待ったために逗留し、子息左衛門佐(注に右衛門佐=師義の誤りとしている)、小林民部丞等が昼夜の境もなく追いかけて、播磨の陰山で、塩冶の妻子に追いついて自害に追いこんだとなっている。しかし、『太平記』巻21の記述は、その後、山陽道を追う山名父子が山崎宝寺で塩冶の郎党を討ち取り、山名時氏は、その後湊川で馬の足を休めたが、子息右衛門佐、小林等は、夜もおいかけ、賀久川にて塩冶六郎を討ち取りさらに小塩山で塩冶の郎党三人を討ち取るが、塩冶高貞は落ち延びて、山名父子らの追手は馬もつかれて追いつけなかったとある。
    以上の『太平記』の記述は、以下の点で不可解である。桃井・太平が波々伯部の宿で逗留したという一文のすぐ後に、子息左衛門佐、小林民部丞等が夜昼の境もなく追いかけたとある。子息左衛門佐は注にあるように右衛門佐の誤りであれば、これは山名師義ということになる。子息左衛門佐が山名師義=右衛門佐と言うことになれば、桃井、太平の文のすぐ後に、子息左衛門佐の記述があり、子息という語句が受けられているのは不可解である。『太平記』の注に、参考本に『本文に云う、桃井太平波々伯部に逗留すと、而して此に子息右衛門佐と言うは、文義通ぜず』というとあるが、この見解は正当である。また播磨路を追った山名父子が丹波路を落ちた塩冶の妻子を亡ぼし、さらに、播磨路を落ちた塩冶高貞をも追い討つと言うことが実際には無理なのではないか。『太平記』巻21塩冶判官讒死の事の記述は、丹波路を落ち下った塩冶の妻子を追いかけて、自害に至らしめる記述の部分と山陽道を落ちゆく塩冶高貞を追う山名父子の記述の部分とが分かれて、それぞれ独立しており、山名父子がどちらにも登場するのは不可解である。
  • *29、『家譜』では、塩冶高貞は3月29日に出雲国へ下着し、その後、滅ぼされるとなっており、『太平記』巻21では、高貞の出雲下着は3月晦日、4月1日に滅ぶと記されている。
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興国2年(1341)~正平5年(1350) anchor.png

1341興国2年3月末頃
暦応4年
山名時氏、出雲国の守護職となる。(守護職は南北朝によって異なる。つまり、幕府の承認の有無。)『二尊院文書』*30
10月以前山名時氏、丹後国の守護職となる。『西大寺文書』*31
1343興国4年12月2日
康永2年
山名時氏、丹波国の守護職となる。『祇園執行日記』*32
山名時氏に三千余騎にて丹波高山寺を攻め、萩野彦六朝忠を降す。『太平記』巻24*33
1344興国5年2月
康永3年
山名時氏、但州見開山城を攻め取る。『後鑑』、『妙楽寺文書』
1345興国6年8月29日
貞和元年
天龍寺供養によりて尊氏参詣。山名時氏、侍所別当たるによりて甲冑の士58騎を率いて警衛たり。*34②家譜P53、『太平記』巻24
1347正平2年8月以前
貞和3年
山名時氏が隠岐国守護職となる。『北島文書』*35
8月9日尊氏細川顕氏を大将として楠木正行の追討を命ず。『太平記』巻25、『杤木文書』*36
9月17日細川顕氏の軍勢3000騎、藤井寺に着き、楠木正行と戦い、顕氏敗れて、天王寺に楯籠る。『太平記』巻25
9月28日山名時氏に南方征伐を命ず。『後鑑』島津文書
11月25日山名時氏、細川顕氏を両大将として、6000全騎を住吉、天王寺へ差下さる。時氏は住吉に、顕氏は天王寺に陣す。『太平記』巻25
11月26日楠木正行、山名勢を破り、時氏の弟兼義討死す。(時氏公は戦上手として知られたが、ここでは敗れている。)『太平記』巻25
1348正平3年正月5日
貞和4年
四條畷の戦いで楠木正行、正時が戦死。『太平記』巻26
6月17日山名時氏、若狭国の守護職となる。『若狭国守護職次第』
1349正平4年6月
貞和5年
直義と高師直の対立に伴う緊張激化のため、尊氏、師直を執事からはずす。『太平記』巻27、「足利尊氏年表」P28
8月12日数万騎の兵、直義、師直の許に馳せ集まる。山名時氏は師直の屋形へ。『太平記』巻27
8月13日直義は尊氏の御所へ入り、師直の師泰は大軍を率いて、尊氏の御所を囲む。『太平記』巻27
尊氏は直義を政務からはずし、上杉重能、畠山道宗を越前に追放することで、師直は囲みを解く。『太平記』巻27
9月13日師直が近国の将兵に命じて、直冬を備後国の鞆に攻めしむ。直冬は敗れ、肥後国へ赴く。『太平記』巻27
10月22日義詮が鎌倉から上洛。『太平記』巻27
12月8日直義、細川顕氏の第に移り、剃髪隠遁す。『太平記』巻27
1350正平5年10月13日
観応元年
尊氏、直冬討伐のため九州に向う。『太平記』巻28*37
10月25日直義、大和国に逃れ、光厳上皇の院宣を賜わり、鎮守府将軍に補せられる。『太平記』巻28
12月9日直義、使者を吉野に遣わし、降参を乞う。『太平記』巻28

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  • *30、『室町幕府守護制度の研究』(佐藤進一)では、暦応4年9月7日付時氏の請文では、出雲国淀新庄につき、去後四月八日御奉書を受けて、遵行を実施した旨が記されており、佐々木(塩冶)高貞の死後、いくばくもなく時氏が出雲国守護に補任されたと考えられる。
  • *31、佐藤、前掲書によれば、暦応4年10月4日、西大寺領丹波国志楽庄地頭職の遵行を令した将軍家執事施行状案が山名時志に充てられている。
  • *32、『祇園執行日記』康永2年12月2日の条に『丹波守護職事、萩野彦六企陰謀野之間、仁木殿上表、仍山名豆州(時氏)被補云々、仍為打手、近日可被下向く云々』とある。『武家時代の政治と文化』(水野恭一郎)より引用
  • *33、『山名家譜』では貞和元年の出来事としているが、『祇園執行日記』から、康永2年12月中の出来事と考えられる。
  • *34、『家譜』では58騎となっているが『太平記』では500余騎となっている。この記述から時氏は8月29日以前、侍所頭人であったことがわかる。
  • *35、佐藤、前掲書所収『北島文書』に貞和3年8月28日古志次郎左衛門充、伊豆守奉書では時氏の守護の職務を遵行する文言がある。
  • *36、『杤木文書』に南方凶徒対治事所差一遣陸奥守顕氏也云々貞和3年8月9日直義御判とある。『家譜』では貞和4年8月となっているが貞和3年とした方が良いと思われる。他の諸資料との相違あり。
  • *37、兵庫県史2巻では10月28日となっている。
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正平6年(1351)~正平8年(1353) anchor.png

1351正平6年正月7日
観応2年
直義7万騎にて、八幡山に陣し、義詮を攻めんとする。『太平記』巻29、『兵庫県史』巻2P686
尊氏は山名時氏を先鋒として上洛をはかり西宮を経て瀬川(箕面市)に駐留。
正月10日尊氏と直義軍とが接触し、赤松範資が尊氏軍の主力となり大渡で戦う。『兵庫県史』巻2P686
正月15日尊氏は桃井軍と四條河原で戦う。山名時氏が直義軍に投じた為、戦況は一変し、尊氏、師直、佐々木道誉は敗れて丹波に逃れる。『兵庫県史』巻2P686
2月20日尊氏は使者を男山の直義に送り、講和をはかる。『兵庫県史』巻2P688
2月26日師直、師泰兄弟を上杉能憲が武庫川辺で斬殺。『兵庫県史』巻2P688
3月25日以前山名時氏が出雲守護職となる。『二尊院文書』*38
6月尊氏が義詮とともに直義討伐の計画に着手する。
8月1日直義が斯波高経、上杉朝定、山名時氏等を従えて北国に逃走。『兵庫県史』巻2P690
8月5日以前幕府は佐々木氏を出雲守護職として認めている。『二尊院文書』*39
8月13日以前幕府は山名時氏の丹波守護職をとりあげる。『武家時代』P98、『神護寺文書』*40
8月18日尊氏、直義追討の宣旨を受ける。『太平記』巻30
10月8日直義、鎌倉に下る。『太平記』巻30
10月幕府は山名時氏の若狭守護職をとりあげる。『武家時代』P98
1352正平7年正月6日
観応3年
直義、薩多山の合戦に敗れる。『太平記』巻30
2月26日直義の急死。(毒殺されたとの風聞があった。)『太平記』巻30
閏2月20日北畠顕能等、不意に義詮を討ち、これを破る。義詮、近江四十九院へ逃る。『太平記』巻30*41
閏2月28日新田義興、義宗、義治の大軍、尊氏の軍勢と武蔵野の小手差原で対陣す。新田軍が敗れて、敗走す。『太平記』巻31
3月9日義詮、近江の四十九院を発し、京都に向う。『太平記』巻31*42
3月15日北畠顕能等、石清水八幡宮へ退く。『大阪府史』巻3P744
3月27日義詮の軍勢、南朝方と荒坂山にて戦う。4、5日後山名師氏(師義とも言う)が出雲、因幡、伯耆の勢を率いて上洛。財園院に陣をとる。『太平記』巻31
4月25日和田、楠等の軍勢は八幡山へ上り、土岐、佐々木、山名、赤松等の軍勢は洞峠へ上る。『太平記』巻31
5月11日八幡の軍勢、力尽き、後村上天皇、囲みを衝いて東條に逃れる。『太平記』巻31
8月26日山名師氏(師義)、八幡の軍功として、若狭国税所今富庄の知行を佐々木道誉に属して申達せんとすが、道誉の無礼を怒り、伯耆をさして下る。『太平記』巻32
山名師氏(師義)、父時氏(当時53歳)は足利直義と共に南朝方となり、出雲、伯耆、隠岐因幡、四カ国を征服し、南朝の諸軍と相応じて京都に進撃せんとす。『太平記』巻32、②『家譜』P56 *43
つまり、時氏は血気盛んな息子たちに引っ張られ幕府と袂を分かった。このことで丹波守・若狭守を取り上げられる事となった。
9月27日文和と改元。
1353正平8年5月7日
文和2年
山名時氏、師氏(師義)、伯耆を立ちて、但馬、丹後の兵を集めて上洛。『太平記』巻32、②『家譜』P59
南方より、四條大納言隆俊を惣大将として3000余騎上洛。*44
6月9日南朝の官軍3000余騎、八條、九條の在家に火をかけ、山陰道の寄手、山名師氏(師義)等5000騎は梅津、桂、嵯峨、仁和寺、西七條に火をかけて、京中に追寄せる。山名が執事小林右京亮、佐々木が勢に打勝ち、山名師氏(師義)は土岐が勢に打勝つ。吉良、石堂、原、蜂屋、宇都宮民部少輔、海東、和田、楠は細川清氏に打勝つ。
義詮の軍勢大敗し、義詮、東坂本に逃れる。『太平記』巻32、②家譜P60
6月12日高師詮(師直の子)、西山の善峰に陣し、山名の兵これを攻め、師詮は破れ、自害す。『太平記』巻32、②『家譜』P60 *45
6月13日義詮、後光厳天皇を奉じて、東近江を経て、美濃の垂井に宿る。『太平記』巻32、②『家譜』P61
7月23日山名時氏、師氏(師義)、京都に留まるを得ず。伯耆国に下る。太平記』巻32、②家譜P61 *46
7月29日尊氏、鎌倉を発し、9月21日光厳天皇とともに上洛。『太平記』巻32頭注(鶴岡社務記録)
9月直冬、南朝から綸旨を賜わり、総追捕使に任ぜらる。『太平記』巻32頭注(園太暦)*47

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  • *38、『二尊院文書』観応2年3月25日付で禅林寺衆来迎院領出雲国淀新荘地頭職に対する土屋佐衛門太郎、多胡孫四郎等の濫妨停止を令した直義の御教書が山名時氏に施行され、同4月3日時氏がこれを遵行している。『武家時代』P112
  • *39、『二尊院文書』観応2年8月5日足利義詮御判御教書によれば出雲国淀新荘地頭職に対する濫妨停止のことが佐々木高氏に令せられている。『武家時代』P112
  • *40、『神護寺文書』観応2年8月13日付同寺領丹波国吉富本、新両荘に対する内藤定光の濫妨を停止する旨の足利義詮の御判御教書が仁木頼章に宛てて出されているから、この時既に丹波守護職は山名時氏にかわって再び仁木頼章に付与されていたと考えられる。『武家時代』P112
  • *41、本文中では2月27日となっているが、同書註に2月20日が正しいとある。
  • *42、本文中では3月11日。註では3月9日。
  • *43、『太平記』では8月26日であるが、『家譜』では8月28日となっている。
  • *44、『家譜』では、但馬、出雲、丹後の兵となっている。
  • *45、太平記の本文では6月11日となっているが、註では『園太暦』の6月12日をとっている。
  • *46、山名の兵士が在京に疲れ、都を落ちて行き、また、義詮が東山、東海、北陸道の勢を率いて攻め上り、赤松則祐が中国より上洛してくるという風聞があった。『山名家譜』では7月25日、京を発し、28日に伯耆に帰陣したとある。
  • *47、『太平記』の本文では、尊氏が山名を攻んと、義詮を播磨へ下し、これを聞いた山名時氏が、直冬を惣大将として招請し、直冬は、南朝に尊氏、義詮追討の綸旨をもとめた。となっている。
    しかし、注では、直冬への綸旨が文和2年9月、義詮が播磨国へ下ったのが文和3年10月18日となっており、本年表では注の日付をとった。
    『山名家譜』では、文和2年冬に、尊氏、義詮が時氏を討んとして兵を集め、時氏がこれを聞いて、直冬を迎えて、南朝へ奏して、尊氏、義詮追討の綸旨を賜わった。となっている。これは太平記の本文と一致している。
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正平9年(1354)~正平16年(1361) anchor.png

1354正平9年10月18日
文和3年
尊氏、山名を攻めるため、義詮を播磨国へ下さる。佐々木道誉、赤松則祐したがう。『太平記』巻32頭注(建武三年以来記10-16)
12月13日山名時氏、師氏(師義)直冬を大将として伯耆を発す。『太平記』巻32*48
丹波国の守護仁木頼章は一戦も交えず山名勢を通過させる。『太平記』巻32
12月24日兵力の大半を播磨の義詮に送った尊氏は、江州武作寺へ落ちる。『太平記』巻32、②『家譜』P62 *49
1355正平10年正月16日
文和4年
桃井直常、直信、斯波氏頼入洛。『太平記』巻32*50
正月22日直冬、山名、石堂入洛。『太平記』巻32*51
尊氏、東坂本に入る。『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)*52
桃井直常、斯波氏頼、如意山に登る。
正月23日尊氏、比叡山に移る。『太平記』巻32頭注(園太暦)
正月25日直冬、東寺実相院に陣をとる。楠木正儀は男山に陣をとる。山名時氏は西山に陣をとる。『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)
2月4日尊氏、東坂本に着く。義詮、山崎の西、神南の北なる峯に陣をとる。直冬は東寺を攻の城に構える。山名時氏、師氏『太平記』巻32*53
(師義)、淀、鳥羽、赤井、大渡に分けて陣をとる。楠木正儀等は八幡の山下に陣をとる。
2月6日山名師氏(師義)、八幡に控えたる南方の勢と一つに成って、神内宿に打寄せる。『太平記』巻32*54
山名師氏(師義)、赤松則祐の一族・佐々木道誉の若党が守る一陣を破る。
山名時氏、細河頼之・繁氏等が守る二陣を破る。
山名勢、義詮の陣を守る佐々木道誉の頸を取ろうと近づくが、赤松則祐の勢にはばまれ、山崎をさして引く。
山名師氏(師義)、左ノ目から小耳の根へ射付けられ、馬も射られ自害せんとするを、河村弾正が自分の馬に師氏を乗せて行く。河村弾正は切死す。
山名師氏(師義)は淀へ帰り、討死した者どもの名字を書きしるし、因幡の岩常谷の道場へ送り、亡卒の後世菩提を弔う。中でも河村弾正には、敵から首を乞受けて弔う。
3月13日直冬、国々の大将相共に、東寺、淀、鳥羽の陣を引て、八幡、住吉、天王寺、堺の浦へ落ちる。『太平記』巻33
1358正平13年4月29日
延文3年
尊氏、癒瘡を患い、逝去する。(54歳)『太平記』巻33
1361正平16年7月12日
康安元年
山名時氏、嫡子師氏(師義)、次男中務大輔、出雲、伯耆、因幡3箇所の勢3千騎を率いて美作へ発向す。
名木木山二箇条、篠向の城、大見丈ノ城、菩提寺ノ城、小原ノ城大野城、六箇所の城は一矢も射ず降参する。
林野、妙見二ノ城は20日あまりこらえたるが、山名方にひきいれられる。
倉懸、城一つ残り、佐用貞久、有元佐久がわずか二・三百騎にて楯籠りたり。山名時氏、子息中務少輔三千余騎にて押寄せ城の四方の山々峯々二十三箇所に陣を取る。
播磨と美作の堺には竹山・千草・吉野・石堂が峯の四箇所に赤松則祐が百騎づつ勢を籠める。
山名の執事小林重長は二千余騎にて星祭ノ獄へ打上り、城を眼下に見下ろしてひかえる。
赤松世貞・舎弟則祐・其弟氏範・光範・師範・直範・顕範・佐用・上月・眞嶋・杉原の一族、二千余騎、高倉山の麓に陣を取る。
山名師義は勝れたる兵八百騎を卒して、遊軍としてひかえる。阿保信禅が山名方に変わり、但馬国へ馳せ越え、長九郎左衛門と一緒に播磨へ打て入らんと企てるので、赤松は法花山に城郭を構え、大山越の道を塞いで、五箇所へ勢を差向けた。
赤松は山名と戦うにも勢少なく、中国の大将細川頼之に備前、備中、備後の兵を集めるよう応援を頼んだが、兵共は己が国々の私戦を捨てかねて、大将に従わなかった。
11月4日倉懸の城は兵粮がつき、後攻めの頼みもなく、ついに落ちた。山名は山陰道四箇所をあわせ持つこととなった。『太平記』巻36
②『家譜』P65~68
*55

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  • *48、時氏は播磨に入り義詮を討ち、その後丹波へでて仁木頼章の佐野城を打落とす計画であったが、越中の桃井直常、越前の斯波高経より飛脚が到来して、時氏に急ぎ京都へ攻上ってほしい、同時に北陸からも攻上る由の知らせを受け、時氏は急據、上洛することになった。
  • *49、太平記の本文では正月12日だが、頭注では12月24日を正しいとしている。
  • *50、太平記の本文では正月13日だが、頭注では正月16日となっている。(園太暦)
  • *51、太平記の文では正月13日だが、頭注では正月22日となっている。(園太暦)『山名家譜』P63では、
     正月12日 時氏父子入洛
     同14日  桃井直常も入洛す。
     同16日  足利高経は直冬を供奉して入洛し、此日時氏淀の辺に陣し、諸将と相議して、北朝の年号を止めて、南朝の正平10年を用いる。
  • *52、『家譜』P63.2月4日尊氏は大軍を率いて東坂本に陣せらるとある。太平記本文でも2月4日となっている。
  • *53、『家譜』でもP63~65に2月4日と同様の内容を記述している。
  • *54、『山名家譜』では、山名勢は尊氏の勢に勝利するが、兵粮に乏しく、3月13日に、諸将と相議して各本国に帰るとしている。『家譜』P65
  • *55、『家譜』P77に五男時義16歳にして初陣なりとある。
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正平17年(1362)~正平23年(1368) anchor.png

1362正平17年6月3日
康安2年
山名時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々に勢を分つ。『太平記』巻38*56
一方へは、師義(師氏)を大将とし二千余騎、備前、備中両国へ発行す。一勢は備前仁萬堀に陣をとりて、敵を待つ。其国の守護の勢、松田・河村・福林寺・浦上等、皆無勢なれば、城に楯籠る。『太平記』巻38*57
正平17年一勢は、多治目備中守*58、猶崎を侍大将として千余騎、備中の新見へ打出たる。②家譜P69 *61
秋庭三郎*59、水も兵粮も沢山なる松山の城へ多治目、猶崎を引入れしかば、当国の守護越後守師秀*60、備前の徳倉の城へ引退く。備前、備中の国人の大半は、時氏に降参せり。
備後へは富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞、八百騎*62にて出雲国より国中へ打出たるに、江田、廣澤、三吉の一族馳著きける間、程無く二千余騎に成りにけり。『太平記』巻38*63
宮下野入道の城を攻めんとする時、石見国より足利直冬五百騎にて富田に力を合わせ戦はんとする。直冬、富田とともに宮下野入道に打ち負ける。
但馬国へは山名師義・氏冬・小林重長を侍大将にて二千余騎、大山を経て播磨へ出ようとしたが、但馬国守護仁木頼勝等将軍方が楯籠る城が未だ落ちず、但馬の宮方の住人は我国をさしおいて、他国へ越えられないので、しかたなく小林の勢だけで、播磨へ出ようとしたが、赤松直頼が大山に城を構えて通路を塞いだので、小林は丹波へ出て、和久郷に陣を取った。『太平記』巻38
丹波の守護仁木義尹が待ちかまえていて、また将軍の命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。②家譜P69~70
山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。
1363正平18年4月18日
貞治2年
山名時氏父子伯耆を発し京都に向い、京都につく。同28日に将軍義詮公に拝謁し、則但馬、因幡、伯耆、丹波、美作の五ヶ国を賜り出雲丹後の守護職となる。『太平記』巻39、②『家譜』P72 *64
1366正平21年当時は神主=坊主であった。時氏は山名郷でのその任命権を持っていた。
1367正平22年3月29日
貞治6年
中殿の御会にあたり、山名氏清は将軍義詮(よしあき)の帯剣の役として従った。時氏は幕府の引付衆となる。『太平記』巻40
12月7日義詮、逝去す。(38歳)『太平記』巻40
1368正平23年4月17日
応安元年
山名時氏・三男氏冬・四男氏清は将軍義満の元服に際し、剣、鞍、馬を献ず。「鹿苑院殿御元服記」(『後鑑』)*65
5月15日山名時氏、并子息中務少輔、御所において始行。「花営三代記」(『群書類従』)*66
8月28日日吉神社神輿入洛の風聞。朝廷延暦寺の訴訟を裁許せんとするが、武家執事等は拒む。山名時氏、赤松則祐、佐々木氏頼等は裁断有べきの旨意見するが、幕府は遵行を拒む。『後愚昧記』
8月29日衆徒神輿を奉じ西坂本に降る。諸将の警固。山名時氏、子息等其勢千余騎、多々須河原に陣す。『後愚昧記』
(月日不詳)将軍義満、評定衆を定めらる。山名時氏、仁木義長、今川貞世、佐々木氏頼、赤松義則の五人なり。②家譜P72

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  • *56、『家譜』P68時氏父子五千四百騎を率いて伯耆国羽衣石を発し・・
  • *57、『家譜』P68では、師義、義理、備前・備中の両国へ向わせらる。二萬堀に陣せらる。福林寺、桶上の一族等小勢にして降参す。となっている。
  • *58、『太平記』巻38注に多治部備中守師景(東寺百合文書、貞治3・8月日付)とある。『家譜』では多治見備中守・猶崎三河守を大将としてとある。
  • *59、『太平記』注では備中の飽庭氏か、秋庭備中守(東寺百合文書、1、20、観応3、7月4日付)『家譜』では飽庭肥前守となっている。
  • *60、『太平記』巻38注では高越後守師秀か、となっている。『家譜』では、高越後守師季となっている。
  • *61、『太平記』巻38では陶山備前守だけが、将軍方として残った。
  • *62、『家譜』では、富田判官秀貞、同弾正少弼直貞に八百余騎を差添えて備後国に入らしむとある。
  • *63、『家譜』には、宮下野入道との戦いについてはふれていない。
  • *64、山名が南朝方から将軍方についた理由として、『山名家譜』では、将軍から働きかけたとなっている。将軍義詮は、山陰、山陽で猛威を振るっている山名を味方につければ、南朝方は将軍の軍門に降るだろうと考え、一色詮光(あきみつ)を山名時氏のもとに送り、将軍家に帰伏させようとした。時氏は、『五ヶ国を将軍家より安堵してくれるなら、味方に付きましょう。』という条件を出し、将軍は時氏の要求をみとめた。
    『太平記』では、山名の方から将軍家に申し出たとなっている。山名時氏、師義父子は、将軍に使いを送り、近年南朝方についていたのは、ただ佐々木通誉に対する怒りからで、将軍に反逆しようとしたからでない。そして、もし、将軍がその罪を許し、山名の領地を認めてくれるなら、将軍の味方につこうと述べている。小浜の今富領のこと海の支配権が原因か。
    二つの史料には、相違があるが、山名の勢力が南北朝の対立の趨勢を左右する程強大に成っていたことが、将軍方に山名の五ヶ国の領国を認めさせたというように理解できる。
  • *65、山名中務大輔を氏冬、民部少輔を氏清とする注がされている。
  • *66、後鑑では『花営三代記』より引用し、中務少輔を氏冬としている。
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正平24年(1369)~天授2年(1376) anchor.png

1369正平24年正月22日
応安2年
六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)『花営三代記』
2月7日楠木正儀、幕府に投降。『花営三代記』
1370建徳元年正月5日
応安3年
山名時氏の3男氏冬が死去。『鳥取県史』巻2P226
正月18日御評定始。日次事。十日依山名氏冬去五日事御斟酌『花営三代記』
4月将軍義満、細川頼之をして河内、和泉に向わしむ。②家譜P72
山名時氏、父子もこれに従い、4月8日京都を発し15日に河内国に着く。
時氏父子、今川泰範は一万五千騎で千剱破城に向い、龍泉寺、観音寺両所に陣して戦う。始め時氏父子は観音寺中院に陣し、その後退いて龍泉寺山に陣し城に向いて陣取らる。
11月細川頼之諸将と計りて、時氏をして和泉、河内の内に放火し、氏清をして敵の兵粮の道を指塞ぎ、其のついえに乗じて攻んと約して、氏清を止めて、同22日に諸勢京都に帰陣あり。
6月18日一方内談始行。山名義理。『花営三代記』
12月山名時氏老年に及ぶにより、領国但馬、因幡、伯耆、美作、②家譜P74
丹波、丹後、紀伊、和泉、備後、隠岐、出雲十一カ国を家嫡に譲り与え隠居すべきのよしを乞わる。*67
将軍家許容あり、よりて十一カ国を以って子息に分ち与えらる。世に時氏公を称して六分の一殿と言う。
1371建徳2年2月28日
応安4年
山名時氏死去。行年69歳②家譜P75 *68
建徳2年6月22日南方渡河事。一方上瀬。放手渡。『花営三代記』
細川頼元、山名義理、氏清、楠木正儀。
8月6日南征諸軍上洛。山名義理、氏清等。『花営三代記』
1372文中元年正月23日
応安5年
小侍所沙汰始。山名右衛門左入道亭(師義)にて、始行される。山名次郎時義。『花営三代記』
2月10日六條八幡宮御社参。供奉人馬打次第山名宮内少輔(干時小侍所)『花営三代記』
10月17日幕府、丹波守護山名氏清をして、稲岡某押領する所の石田本荘一色名を吉田社に還付せしむ。「吉田家日次記」(④氏清年譜)
11月1日幕府、山名氏清をして、中澤一族の吉田社領丹波味間二品勅旨地頭職を押領するを禁ぜしむ。「吉田家日次記」(④氏清年譜)
1373文中2年12月19日
応安6年
幕府、丹波守護山名氏清をして、其部下の同国安国寺領今西村半済を押領するを止め、之を同寺雑掌に還付せしむ。「安国寺文書」(④氏清年譜)
12月27日山門神輿造替沙汰執行される。貢馬内覧二番。鴾毛五尺三寸。山名師義。『花営三代記』
(月日不明)伊勢国合戦。山名氏清、仁木義長を破る。『後鑑』
1374文中3年1月24日
応安7年
守護山名氏清、東寺領丹波国大山荘に『カヤカリノ夫』五人に十日間の夫役をかける。「東寺百合文書」(④氏清年譜)
4月28日佐女牛八幡宮御社参。次近習の人々に山名時義(干時小侍所)『後鑑』
12月25日貢馬内覧。二番。黒駮。山名師義。
1375天授元年3月27日
永和元年
石清水八幡宮御社参。供奉人に小侍所。山名弾正少弼。『花営三代記』
6月5日山名、佐々木家臣闘争。死傷数人。『後鑑』
1376天授2年3月11日
永和2年
山名右衛門佐入道(師義)他界。『花営三代記』
7月19日山名時義被官衆地下人と芋洗橋に戦う。山名方6人うたれる。
7月20日時義、雪辱のため軍勢を発向せんとするが、義満に制止される。『後愚昧記』
閏7月5日山名右衛門佐入道後家他界。『花営三代記』
12月27日貢馬。二番鴾毛。山名時義。

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  • *67、『豊岡市史』上巻P228『山名時氏は応安元年(1368)に家督を惣領の師義に譲った』とある。『山名氏の系譜と事歴』(奥富敬之)
    『室町幕府守護職家事典』下巻に所収によれば、現存資料で、この前後の時期に山名一族で保持ししていたと推定し得る諸国守護職は丹後(長男師義)、美作(二男義理)、因幡(三男氏冬―八男氏重)、丹波(時氏―四男氏清)、伯耆(五男時義)の五ヶ国である。
  • *68、『後愚昧記』に、山名左京大夫入道逝去了。子息右衛門佐入道上洛。逢終焉云々、閉眼之後下向丹州、子息・所従等不貽一人下向、葬送氷所辺云々、彼入道生年七十三歳云々、無道之勇士、以命終、結句又非短命、大幸之者也。
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天授3年(1377)〜天授6年(1380) anchor.png

1377天授3年2月28日
永和3年
山名氏清、父時氏の七回忌法要を三条大宮長福寺に修す。「迎陽記」(④氏清年譜)
7月18日侍所山名氏清の兵、近江国仏覚寺に悪党等(強盗等)を搦取る。『後愚昧記』
7月24日山名修理権太夫(義理)計沙汰被始行。『花営三代記』
1378天授4年2月9日
永和4年
若宮八幡宮御社参。役人。御幣。山名義理。代舎弟駿河守(義治ヵ)。御剣。同陸奥前司(氏清ヵ)。代舎弟修理亮(高義ヵ)*69『花営三代記』
3月27日犬追物馬場始。着座人々。御座山名修理権太夫(義理)。同前陸奥守(氏清)。同弾正少弼(時義)。同民部少輔(義幸)。『花営三代記』
11月7日細川右京大夫(頼元)、紀州へ発向。山名修理権太夫(義理)、同陸奥守(氏清)等も発向。『花営三代記』
11月21日紀州より、脚力到来。宮方去17日夜没落。『花営三代記』
12月4日紀州発向人々帰京。但、近江、摂津、播磨、備前勢紀州に留められる。『花営三代記』
12月5日南方進発軍士内、少々帰洛之輩等、丹州守護彼随一云々。『後愚昧記』
12月11日丹州守護代廰鼻和入道、三條公忠と面談し、贈物を賜わる。『後愚昧記』
12月16日足利義満東寺に陣す。『後愚昧記』
12月17日三條公忠、東寺の山名氏清の許へ馬一疋を送る。(廰鼻和入道を通じて)『後愚昧記』
12月19日廰鼻和入道、早朝三條公忠を訪れ、馬を賜わったお礼と、氏清が使節として参る由、神妙に告げる。『後愚昧記』
12月20日夜、山名義理、氏清、南朝方征伐の為発向。淀津油所に着く。『花営三代記』、『愚管記』*70
1379天授5年1月22日
康暦元年
山名義理、氏清、時義、土丸城の麓要害三個所に攻め寄る。*71五十余人を追落す。(此中に城大将橋本甥あり。)生捕二十余人の由。『花営三代記』
1月23日土丸城没落の由。『花営三代記』
2月6日侍所沙汰始。干時山名民部少輔(義幸)『花営三代記』
2月9日山名義理、氏清、時義、紀州有田軍藤浪に打入、湯浅城没落。『花営三代記』
2月11日山名義理等、石垣城を陥いる。『後鑑』*72
7月25日右大将家御拝賀。先陣山名民部少輔(干時侍所、随兵百余騎)*73『後鑑』
8月日不明山名時義、備後国を賜る。②家譜P78
12月3日山名讃岐守(義幸)、中国援兵(時義)の為進発。『後鑑』*74
12月7日貢馬引次第。二番山名左京大夫跡。『花営三代記』
1380天授6年7月17日
康暦2年
和泉国守護山名氏清、橋本民部大輔(正督)等を討取る。『花営三代記』
7月20日山名氏清が合戦で討取った橋本民部大輔等の首十一が京に着く。『花営三代記』
8月23日紀州、高野政所并隅田一族等没落。『花営三代記』*75
9月7日紀州生地城没落。『花営三代記』
12月22日幕府管領斯波義将、義満の命により、丹波国東寺領、大山荘領家職田畠参拾町の内、五町を押領する中澤を止め、東寺に還付すべく、山名陸奥守(氏清)に命ず。「室町幕府御教書案」(④『氏清年譜)

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  • *69、舎弟駿河守、同陸奥前司、舎弟修理亮がそれぞれ誰をさすか注なし。『系図纂要』によると、()で示したようになる。
  • *70、『後愚昧記』12月23日伝聞、紀州守護に山名義理を補し、美作国相並知行す。又、山名氏清を和泉守護に補する。南方退治の為なり云々。
  • *71、和泉国土丸城。
  • *72、『花営三代記』では、軍勢を石垣城に差遣し、凶徒を没落。
  • *73、『山名陸奥守氏清公略年譜』では侍所頭人山名民部少輔、随兵百余騎を召具す(愚管記)としている。
  • *74、『花営三代記』には、山名讃岐守(義幸)下向之。為二與州(時義)中国合戦合力一云々。
  • *75、大阪府史第三巻P754『紀伊の隅田一族が山名義理の軍に滅ぼされ』とある。『山名陸奥守氏清公略年譜』(宮田靖國)では、山名氏清が隅田一族を滅ぼしたとなっている。
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弘和元年(1381)~元中6年(1389) anchor.png

1381弘和元年1月24日
永徳元年
山名氏清、大軍を以て泉州土丸城を囲む。和田正武病みて、その子正利・正次防戦す。然と雖も城落ち、神宮寺師綱、福塚忠貞等討死。「南朝編年記略」(④氏清年譜)
1月25日山名氏清土丸城入城。「南朝編年記略」(④氏清年譜)
9月9日山名氏清(丹州、泉州両守護)上洛。直ちに、内府亭へ向かう。『後愚昧記』
1382弘和2年閏正月24日
永徳2年 *76
山名氏清、楠木正儀と河内国平尾荘に戦い、之を破る。「三刀屋文書」(④氏清年譜)
山名氏清、河内・和泉・摂津を取り、勢大いに振う。*77『大日本史』、④氏清年譜』
8月6日幕府、再度山名氏清をして、中澤の東寺領押領を禁ぜしむ。「室町幕府御教書案」(④『氏清年譜)
1383弘和3年7月25日
永徳3年
幕府三度御教書を山名陸奥守(氏清)に発し、『不日止地頭中澤五郎左衛門入道以下輩押領、可被沙汰付雑掌、更不可有緩怠儀之状、俵仰執達如件』と厳命。「室町幕府御教書案」(④『氏清年譜)
8月某日山名氏清、丹波勢一千五百騎を率いて、播磨国清水寺に楯籠る赤松氏を攻む。後、細川勢と交代。「赤松旧記」(④氏清年譜)
1385元中2年12月3日
至徳2年
幕府、山名氏清を山城国守護となす。氏清この日入国合戦。『後鑑』
1386元中3年9月2日
至徳3年
赤松氏則、播磨国清水で戦死。『後鑑』
1388元中5年3月16日
嘉慶2年
楠木正勝、舎弟正元、和田正利、同正秀、河内国平尾荘に兵を挙ぐ。和泉守護山名氏清、河内守護畠山基国を授けて之と合戦す。「南朝編年記略」(④氏清年譜)
3月17日南軍恩地満正、貢志、崎山等討死して敗れ、千剣破城に退く。「南朝編年記略」(④氏清年譜)
1389元中6年3月4日
康応元年
義満、安芸国厳島神社参詣に出発。供奉人に山名満幸。『後鑑』
3月17日山名時熈、備後国より参る。父時義は病によりて参らず。『後鑑』(厳島詣記)
3月26日義満帰洛。『後鑑』(厳島詣記)
3月27日徒歩より帰路せし人、山名満幸等。『後鑑』(厳島詣記)
5月9日山名時義、但馬国において卒去(44歳)。②家譜P79*78
竹野の圓通寺に葬る。(『後鑑』では5月4日となっている。)
5月頃山名伊豆守(義熈)、備後国の守護となる。*79
8月某日義満、山名時熈、氏之に上洛すべき旨を命ず。兄弟共に病の由にて上洛せず。②家譜P80

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  • *76、『後鑑』所収『和漢合運』には、楠木一族6人、若党140人、山名氏清のために討たれる。須賀部新左衛門申状には、去閏正月17日京都を罷立、同21日吹田渡に進み、同22日渡辺河を打渡、即日奥州の陣に馳参。同24日御敵楠木陣河内国平尾御合戦。
  • *77、大阪府史巻3によれば、山名氏清の守護職期間について、摂津国のうち東成郡を永徳2年3月以前~明徳2年12月迄。住吉郡を永和4年12月…嘉慶2年3月~明徳2年12月。和泉国は永和4年12月~明徳2年12月。河内について記載なし。
  • *78、『後鑑』では5月4日となっている。
  • *79、時氏の死後、備後国の守護となったのは、時氏の兄師義の子である義熈である。高野山文書之一、宝簡集465号に同年9月6日備後国因島地頭職を東寺雑掌に遵行すべき旨の幕府御教書(案)が山名伊豆守に充てられている。
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元中7年(1390)~元中8年(1391)11月 anchor.png

1390元中7年2月某日
康応2年
義満、山名氏清、満幸に時熈兄弟を討つべき旨を命ず。②家譜P82 *80
3月14日山名時熈、但馬国圓通寺にに竹野郷内曽木谷を寄進。②家譜P81 *81
1390元中7年3月17日
康応2年
氏清、満幸、軍勢を率いて但馬国に発行す。②家譜P82 *82
3月18日細川頼之、備後国の守護となる。『後鑑』*83
明徳元年9月17日
(3月26日改元)
山名氏清、但馬国一宮出石神神社に禁制を下す。「出石神社文書」(④氏清年譜)
1391元中8年8月某日
明徳2年
山名時熈兄弟潜かに京に上り、東山の辺或は清水寺の辺に隠れて罪なき旨を将軍家に訴う。②家譜P83
10月10日山名氏清、和泉より淀まで登りし時、満幸京より淀へ馳下り、時熈兄弟の赦免の儀につき話す。『明徳記』
10月11日山名氏清、宇治にて義満を迎え紅葉の遊覧を約していたが、氏清病と称して参らず、義満不興至極して還御。『明徳記』
11月8日山名満幸、出雲国守護を免ぜられ、丹後国へ追下される。『明徳記』*84
山名満幸、和泉へ赴き氏清に京都へ攻め登るように説く。
11月10日山名氏清、南朝に帰順し、幕府の討伐を請う。南帝之を聴し、春日刑部少輔顕連をして氏清に錦旗を賜う。「南方紀伝」(④氏清年譜)
11月某日義満、山名時熈兄弟を赦免す。『明徳記』

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  • *80、『山名家譜』では年号は明徳となっており、改元の時期3月26日より早く、年号をかえている。時期的には後になる3月14日の記事については、康応のままの年号が使われている。さらに、この二つの記事の記述が『山名家譜』では時期の前後が逆になっている。
  • *81、家譜の年号は康応となっている。(3月26日明徳に改元)
  • *82、『山名家譜』時熈は領国に楯籠り防ぎ戦うならば(中略)、罪なくして反逆の名を取るも口惜しき次第なり。只当国を去りて幾度も身において子細なき旨を申開かんと思うなりとて、同23日に但馬を立て、備後国に赴きて蟄居あり。
    『明徳記』山名播磨守(満幸)ハ伯耆国ヲ追罸シテ。ヤガテ当国ト隠岐トヲ拝領シ。陸奥守ハ但馬ノ国ヲ責随テ其国ノ守護職ニ任ズ。(中世の文書には漢字とカタカナを両方取り入れたものが多い。)
    『妙心文書四』明徳元年8月11日前美濃守(氏清の家臣)より、本庄八郎三郎充て但馬国七美庄領方半済事の書下状、『後鑑』には同年10月に、氏清、満幸が時熈兄弟を討ち、氏清は但馬守護、満幸は伯耆守護となるという記事あり。『山名家譜』P83氏清の勢い強大なりしかば押して一家の棟梁のごとく、家人等も氏清を指して六分一殿と称しけり。
  • *83、『明徳記』細川武蔵入道常久ハ四国ヨリ中国ニ押渡リ。備後国ヲ退治。美吉文書康応2年3月18日備後国重永本新庄の地頭摂津宮内大輔に充てた義満袖判御教書に備後国守護の事、所付武蔵入道常久(細川頼之)也。
  • *84、『明徳記』満幸について次のように書かれている。
    時熈退治ノ後ハ、四ヶ国ノ守護職ヲ持テ権勢氏族ニ越エタリ。(中略)出雲国ノ横旧ノ荘ハ仙洞ノ御領ニテ手ザス者アルマジカリシヲ、近年押領シケル間数通ノ御教書ヲ成下サレ、度々御内書ヲ以テ申渡スベキ由仰下サレケレドモ、曽テ承引セザル(中略)重テ下知シタリトモ只同篇ナルベシ。所詮守護職ヲ御改替ヨリ外ハ他事アルベカラズト御沙汰既定ケリ。満幸の丹後への放逐について『南朝編年記略』では11月3日となっている。『氏清陸奥守氏清公年表』(宮田靖國)
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元中8年(1391)12月 anchor.png

1391元中8年12月17日
明徳2年
山名満幸、兵を起し丹後国の京方の代官を追出す。『明徳記』*85
12月19日河内国守護代遊佐国長、山名氏清が合戦の用意をし、今にも立つと注進す。『明徳記』
12月23日山名中無大輔(氏家)、都を落ち、八幡へ馳せ下る。『明徳記』*86
12月24日義満より、山名義理へ反乱を止めるよう諭す。義理従わず『明徳記』、『太平記』
(義理は氏清をいさめるでも無し、和歌山からも出ない)。『明徳記』*87、『太平記』(氏清を魅力的な人物として、描いている。)
山名氏清、山城国、和泉国、丹波国、但馬国、摂津国東成郡、住之江郡の兵を率いて八幡に陣す。(明徳の乱)「南方紀伝」(④氏清年譜)*88
12月25日義満、諸将を召て軍の評定。*89『明徳記』
1391元中8年12月26日将軍方の布陣決まる。『明徳記』
○今川泰範
 赤松顕則、佐々木高満都合八百余騎東寺
○義満一色左京大夫亭、中ノ御門堀川の宿所
○其外の諸軍勢内野
・細川常久、頼元、二千余騎中ノ御門西大宮右近ノ馬場前
・赤松顕則、一千三百余騎冷泉の西大宮の雀森
・畠山基国、八百余騎神祇官の北、大庭の椋の木を南に見て土御門の末
・大内義弘、五百余騎神祇官の森を背に二条大宮
・一色詮範、三百余騎春日猪熊
・勘解由小路義重、五百余騎中ノ御門油小路
・佐々木高詮、七百余騎一條の大路を前に当て、北野の森を背にして大甞会畠
・其外の人々、三千余騎、御馬廻中御門、猪熊、大宮を前に当て一條辺まで陣を取る。
◎山名満幸、丹波国篠村より、山を越えて峯の堂に陣を取る。一千余騎
12月27日幕府、山崎神人等をして山名氏清等入京の路次を塞ぎ、かつ形勢を注進せしむ。④氏清年譜、『離宮八幡宮文書』*90
12月29日山名勢、洛中に向かって進撃を始める。
・山名氏家、三百余騎八幡を発し、大渡を越え、淀より藤の森をさして進むが、深田の中へ落ちこみ、淀へ引返し、氏清の勢と合流。
・山名氏清、二千余騎淀の浮橋を渡り久我縄手より西岡を経て下桂へ打出て、七條の末を渡り、東洞院を三條までかけ通り、大宮を上りに寄すべしとて、谷の堂までつめたりける。
・山名満幸、分国勢一千七百余騎峯の堂をおり下り、梅津の上瀬をこして、二條末へ西ノ口より押し寄せて、河原ノ面東洞院辺に烟り上る時に、内野へ攻め入らんと、梅津に陣を取り、夜明けを待つ。
・丹後の守護代小葦の次郎左衛門尉、同平次右衛門尉、土屋党を引具して上梅津より仁和寺へ懸通り、並岡を東へ、一條の通を大将軍の鳥居の前へかけ出て、方々の攻め口で戦いが始まると、一條を東へ懸通して敵の後を襲う計画。
12月晦日◎丹波勢の中で久下、長澤の二人、内野の陣へ加わる。*91『明徳記』
◎山名上総介(高義)、小林上野守(重長)、二條大宮へ押寄せ、大内義弘の勢と戦い討死。*92
◎山名満幸、土屋党と一手になり千二百余騎、雀の森に進み、細川常久、畠山基国の勢二千七百余騎と戦う。*93
・佐々木高詮七百余騎(大甞会畠に控えていた)が春日西の大宮に打ち出て、満幸の兵、土屋党と戦う。土屋党52人討死。
・満幸、退却してきた二百五十騎をまとめ、細川・畠山両陣の真中に懸入るが打ち負ける。
・満幸、桂川を渡り、丹波路をさして落行く。*94
◎山名氏清、一千余騎にて、三條坊門大宮へ押寄る。大内義弘に赤松義則の勢一千三百余騎が合力す。-*95
12月晦日・山名氏家五百余騎にて、猪熊を上に押し寄せ、赤松勢の真中に切り入り、赤松勢猪熊を北へなだれ引く。*96・山名時熈、御馬廻りなれど、五十三騎にて、二條大路に打出て、氏清の勢の真中へ懸入るが打負ける。*97
・一色詮範三百余騎、勘解由小路義重五百余騎、二條大宮へ向け出陣。
・山名氏清の子息宮田左馬介、次男七郎、丹波国をさして猪熊を南へ落ち行く。其他の兵共も我先に落ち行く。*98
・山名氏清・一色詮範と懸け合う。山名氏家勢・勘解由小路義重、赤松義則勢と揉合う。氏家の勢の中、家喜九郎等三十八人討死。氏家、猪熊を南へ落ち行く。
・義満、大宮の合戦に出陣。氏清には、山名の小次郎、山名禅正以下十八騎踏み止まり付添う。山名氏清、一色詮範父子に打ちとられる。山名小次郎討死。*99

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  • *85、『後鑑』では『明徳記』を引用しているが、去17日を11月17日としている。
    満幸が挙兵の準備をしていたころ、氏清の行動について『明徳記』には、紀伊国へ赴き、舎兄義理合戦への同意を説く。義理は氏清に思い止まるよう諫めるが、聞きいれず、義理も同意し、一門悉く同心して攻め上がらんと沙汰しける。と書かれている。
  • *86、中務大輔を『後鑑』では氏冬とし、『系図纂要』では氏冬の注に明徳2年12月23日攻落とある。しかし、氏冬は応安3年正月5日に死去したことが、『花営三代記』にあり、明徳の乱に参加したのは氏冬の子、氏家であろう。『新修大阪市史』では『氏家が京都を引き払って山城八幡に逃亡したのが山名側の宣戦となった。』と書かれている。第2巻P427
  • *87、義理のことを匠作と記述している。
  • *88、『明徳記』に、氏清の妻が12月24日の朝氏清と分かれ『今は八幡まで御出とて』と書かれている。
  • *89、『山名家譜』には12月25日の軍の評定で決定した将軍方の布陣を記されている。
    今川泰範八百騎久我畷
    細川常久、頼元 二千騎中御門大宮表
    赤松義則七百騎西大宮朱雀
    畠山基国八百騎神祇官の北
    大内義弘五百騎二条大宮
    一色詮範三百騎猪熊
    佐々木詮高七百騎一条大路のかたわら、勘解由小路
    時熈兄弟二百騎将軍家の本陣に備う

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  • *90、満幸と氏清との間の合戦は27日と定めていたが、河内国守護代遊佐国長が17ヶ所に城郭を構え、和泉、紀伊国の軍勢が通行するのを妨げたので、八幡の勢がそろわず、合戦を延期せざるを得なかった。
  • *91、久下・長澤の者共30余名前夜に降参の打合わせをし、一番先に桂の瀬をわたったところ、上総介(山名高義)の兵共が怪しんで、とりかこんだが、久下・長澤の二人は逸物の馬で馳け抜けて管領の陣へ入り、残りの者共は討ちとられた。
  • *92、『群書類従』所収『明徳記』には上総介が誰であったか記されていないが、近衛家蔵『明徳記』では上総介高義となっており、『山名家譜』では上総介義数となっている。
  • *93、最初の計画では、満幸の勢は西ノ京口より攻め入り、土屋党は、敵の背後から襲う計画であったが、29日夜、満幸ら五騎が途中道に迷い梅津の陣と合流した頃にはすでに上総守、小林が討死したとの報告を聞き、計画を変更し、土屋党も一手になって攻めることになった。
  • *94、満幸既に討たれんと見ゆる時、松田将監引き返して支え、腹をかき切っている間に満幸は桂川を馳せ渡った。
  • *95、氏清は西の七條へ打出たところで上総介、小林の討死の報を受け、二條大路、同じく尸を曝すべしと馬を早めた。
  • *96、氏家は因幡勢を率いて猪熊を上に攻め入り、二條の大路で氏清の勢と一手になる計画であった。赤松勢は一旦引き下がったが、二條猪熊は破られず、又、本陣に馳集まって、終に氏清軍に勝ったと天下に流布した。
  • *97、時熈、既に討たると見えける時、垣屋弾正、滑良の二人が助けに入り、弾正、滑良は討死。時熈は大内勢の陣に馳入る。
  • *98、氏清は一旦丹波へ引き下り、分国の勢を集め、義理を待って、再度都へ攻め入るよう二人の息子を諭した。
  • *99、氏清の勢のうち、金野、高山、宇屋、蓮池も落ちてゆき、氏清には、十八騎だけ付添うだけになった。
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元中9年(1392) anchor.png

1392元中9年正月1日
明徳3年
義満、一色詮範亭より室町御所へ還る。『明徳記』
正月4日乱後の論功行賞がおこなわれる。
 山城国(畠山基国)丹波国(細川頼元)
 丹後国(一色満範)美作国(赤松義則)
 和泉国・紀伊国(大内義弘)但馬国(山名時熈)
 伯耆国(山名氏幸)隠岐国・出雲国(佐々木高詮)
 一色詮範には、小国の守護より、大庄の思符にはしかずとて、若狭国在所稲積(今富)ノ庄を勲功の庄とす。*100
『明徳記』
正月10日細川頼元御教書を下し、山名追討の事出雲国須波部(諏訪)一族に令す。*101「諸家文書纂」(『後鑑』)、『明徳記』(日付の記載なし)
2月13日大内義弘、山名義理征伐のため出発。『明徳記』*102
2月18日山名満幸、因幡国青屋の庄にて遁世す。*103『後鑑』
2月19日土丸城失陥*104「南朝編年記略」(⑤南北朝史』下)
2月25日山名義理、紀伊藤代城を去り、由良に奔す。*105「南朝編年記略」(⑤南北朝史』下)
2月26日南朝、野上親成をして山名義理を救援せしめようとし、大『明徳記』*106
内軍と和佐山に戦う、南軍破れて湯浅城に退き、親成、大内氏に降る。義満、山名氏家を宥す。この日、氏家入京する。
2月28日山名義理、由良の興国寺塔頭思遠院にて出家し、伊勢へ赴く。『明徳記』
3月2日細川武蔵守頼之入道常久卒。*107『明徳記』
閏10月5日後亀山天皇神器を後小松天皇に譲る。(南北朝合一)「綾小路宰相入道記」(⑤『南北朝史』下)
元中九年の号を停めて、明徳三年となる。「南朝編年記略附録」(⑤『南北朝史』下)
12月幕府、京都内野に明徳の乱の追善の為法華万部経会を修する。『山名常熈と禅刹』

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  • *100、因幡国については『明徳記』正月4日に記述はないが、山名中務大輔(氏家)は守護代入澤、河内守が八幡へ馳下ったので、しかたなく氏清方になった事情から、義満は氏家を宥免したと記述している。
    『室町幕府守護制度の研究』下では『大乗院日記目録』明徳3年正月、山名分国配分記録に『山名中務大輔因幡』とあり、因幡国守護として氏家が明徳の乱後も守護であったことを示されている。
    山名満幸は、丹波路を落ちゆき、丹後国、伯耆国へと落ち下り、そこで城郭を構え、満幸の代官延安(塩冶)ノ駿河守は出雲国へ下って、富田の城に楯籠った。
    氏清の子息、宮田左馬助兄弟は丹波国畑の城に一時籠っていたが、摂津国有馬出湯から尼崎へ出て、小船に乗船し、紀伊国へ義理を頼ったが、義理は対面せず、兄弟は、熊野の方へ下ったという。
    山名氏清の妻は和泉国堺にいたが、氏清の死を聞き、土丸をさして出たが途中日根野で自害を計ったが、はたせず、土丸の城はやがて合戦になるからと、紀伊国根来へ入り、傷を癒す。母を訪ねてきた息子にも会わず。正月13日に死去す。
  • *101、『明徳記』日付の記載なし。佐々木高詮の代官隠岐五郎左衛門尉が出雲国へ発向し、山名満幸の代官監冶の駿河守が楯籠る富田城を包囲した。国中悉く京勢となり城には監冶一族三十余人になっていた。
    駿河守の父、上卿入道が降参し、駿河守も切腹、一戦も交えず降参したが、この由を伯耆国で聞いた満幸は因幡国へ下り、氏家と合戦の相談をしようと因幡国青屋ノ城に落ちついた。一方氏家は将軍から宥免され上洛しようとする時、満幸が上洛に矢を射んとしているという由を聞き氏家は満幸と一戦を交えて帰参の面目にしようと五百騎を率いて出発した。満幸は合戦に及ぶ手立てもなく、2月18日因幡国青屋ノ城で遁世し、筑紫の方へ立ち、行方知れずになった。
  • *102、『明徳記』大内義弘は2月13日都をでて、和泉国に下り、兵船五百艘に分国兵を乗せ、義弘自身は和泉国堺より七百余騎で出発し、府中に陣を取った。
    山名義理は大野にあって、舎弟草山の駿河守に美作勢を差副て、都合五百余騎、浅野山の廻りを切塞ぎ、雨山土丸に楯籠った。
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  • *103、『明徳記』本文中では正月となっているが、注では2月となっている。
  • *104、『山名義理・同高義の拠る土丸、雨山城失陥』となっているが、同書の2月15日では、義理は大野城にいたことが記され、また『明徳記』にも、『義理は大野城(元海南市)に有りて』と記され、その後土丸城に移った記述はない。
    土丸城陥落の前、赤松義則が、一千八百余騎で美作国の者は皆赤松の側に移った為、土丸城の勢も心がわりして、土丸城を出ていってしまった。土丸城の勢は小勢になって、合戦する力もなく、草山駿河守は土を落ちて、藤代へ移っていったと、『明徳記』に書かれている。
  • *105、『明徳記』では、義理と同船した人々に、中務少輔氏親、同五郎時理草山駿河守、高山上総守、波留美濃守、桑原弾正左衛門尉、風山治部少輔、箕裏蔵人兄弟七郎兵衛尉、入澤左京亮、海賊梶原八郎左衛門をはじめとして63人。由良に到着したのは、26日と記されている。
  • *106、『明徳記』『山名ノ中務大輔(氏家)二月二十六日ニ上洛シテ。今度ノ不義御免有テ。』と記されている。
  • *107、『明徳記』臨終の刻、舎弟頼元を以て御所に申されけるは、近年山名の一族の者共、動もすれば上意をないがしろにし、何にもして常久が命の内に彼等が緩怠を御誡め有様に申沙汰仕べき所存にて待つるに、『此者共天罸を蒙りて候つるを見はてて、常久死去仕候事』本意至極也。
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明徳4年(1393)~応永5年(1398) anchor.png

1393明徳4年2月5日山名満幸・塩冶遠江入道、出雲国三刀屋代に押寄せ合戦。城主須和部菊松丸、満幸等を追い払う。「諸家文書纂」(『後鑑』)
4月11日義満、河野通能に命じ、伊予国の軍勢を伯耆国に発行させ、山名氏幸に合力せしむ。「河野文書」(『後鑑』)
10月19日泉州堺において犬追物あり。山名時熈(七匹)「和泉、堺御犬追物日記」(『後鑑』)
10月21日又、和泉堺において犬追物あり。この日、若君始めて鳥を射たまふ山名時熈(九匹)「和泉、堺御犬追物日記」(『後鑑』)
1394明徳5年4月19日義満、但馬国圓通寺に寺領寄附。②家譜P93
(応永元年)
11月24日山名満幸挙兵の報あり、この日赤松義則、之を討つため、美作に進発する。「東寺百合文書」(⑤南北朝史』下)
1395応永2年3月10日侍所別当京極高詮、山名満幸を京都五條坊門高倉の宿に誅する。*108「荒暦」(⑤南北朝史下)
3月20日義満、山名満幸誅罸の賞として、出雲・隠岐両国守護職および闕所分を京極高詮にあてがう。*109「佐々木文書」(⑤南北朝史』下)
1398応永5年この年、義満、三職七頭を定む。「南方紀傅」(『後鑑』)*110
1399応永6年9月21日山名氏清の子息、宮田時清・宮田氏明、丹波に蟄居せしが、一揆を起こし、畑の城に籠る。*111②家譜P95
10月13日大内義弘、兵を率い和泉堺浦に到る。*112『堺記』、『応永記』
10月27日義満、絶海中津を使者として堺に派遣し、大内義弘の慰撫につとめるが、義弘は従わず。*113『堺記』、『応永記』
義満、各社寺に戦勝を祈願させる。「柳原家記録」(①大日7-4)
11月5日山名時熈兄弟、宮田時清を討つため丹波に向う。将軍家より曽我平次左衛門尉祐明を添えらる。②家譜P95*114
11月8日細川頼基、京極高詮、赤松義則、都合八千余騎にて、淀、山崎より、和泉国に発向す。『堺記』*115
義満、東寺に陣す。御共の人々畠山基国、同満家、斯波義将、同義重、吉良、石塔、渋川、一色、土岐、今川、武田、小笠原、富樫、河野等都合三万余騎。『堺記』、『応永記』
11月14日義満、八幡に陣し、其の日八幡より、管領、前管領を始として都合三万余騎、和泉国に発行す。『堺記』、『応永記』
11月21日足利満兼、幕府を援くと称して、武州府中へ発向す。*116『鎌倉大日記』
11月27日山名時熈、丹波国から帰陣す。*117②家譜P96
11月29日幕府の兵、大内義弘の堺城を攻める。『堺記』、『応永記』
山名右衛門佐入道(時熈)、同民部少輔をはじめとして一門五百騎、北の方三の木戸を攻め破らんと戦う。*118
12月7日丹波国の合戦で、宮下野等が討死。『東寺光明講過去帳』*119
12月21日泉州堺合戦。「堺記」
山名民部少輔の勢、北の陣で戦い、杉備中守を討取る。*120大内義弘討死。
山名の入澤、山名の草山、北の陣で杉豊後守と戦い討死し、豊後も討取られる。*121
堺城落城。堺の町は灰塵に帰す。

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  • *108、『後鑑』では『東寺王代記』を引用し、2月10日としている。
  • *109、明徳3年正月の論功行賞で出雲、隠岐の守護職を佐々木(京極)高詮に与えた。高詮は早速、出雲に出兵し、山名満幸の代官塩冶駿河守の守る富田城を攻略させ、また明徳4年2月、山名満幸・塩冶遠江守入道父子の軍と戦った同国の武士須和部菊松丸の軍忠状に高詮自ら証判を与えており、また、国内武士に対する地頭職安堵や社寺領安堵を行い、守護の職務活動をおこなっていた。しかし、幕府より高詮を正式に守護と遇する文書は見当らない。山名満幸を誅伐し、はじめて、正式に補任された。『室町幕府守護制度の研究』下(佐藤進一)
  • *110、『茲年相国武家の三職七頭を定む。朝廷の五摂家七清華になぞろふ。三食は斯波、細川、畠山。三管領たり(執事、別当)七頭は山名、一色、土岐、赤松、京極、上杉、伊勢なり。其内に山名、一色、赤松、京極は都の奉行とす(侍所別当)四職なり。』
    『山名家譜』P94応永5年11月、義満領四職を定む。細川満元、畠山基国、斯波義時が家を以て管領とし、山名時熈は一色満範・赤松義則・京極詮高が家を以って四識とす。依て世に三管領四職と称す。時熈は義満、義持、義量三代の門其職を執行わるゝによりて管領四職の古老たり。
  • *111、山名氏清の長男時清と次男満氏は父氏清に従い、明徳2年12月大晦日幕府群と二條大宮で戦っているが、父氏清に諭され、時清・満氏の兄弟は、丹波路へ引き退き、畑の城に籠るが、国人、地下等が悉く背き、畑の城を出て、有馬出湯―尼ヶ崎―伯父義理を頼って紀伊国に赴くが面会できず熊野に落ちていった。と『明徳記下』に書かれている。その後、時清等は、丹波の畑城に再び戻り、大内義弘に呼応して、反乱をおこすのである。(畑の城は、現在兵庫県多紀郡篠山町)
  • *112、義満の度々の上洛命令にかかわらず、大内義弘は上洛せず、10月13日大軍を率いて和泉堺に上陸したが、京都へは平井新左衛門を遣わし、自身は堺にとどまり上洛しなかった。
    『南方紀傅』には『和泉、紀伊、筑紫、中国の勢、堺の城に充満ぬ、南方の兵、楠正秀百余騎を従え大内に馳加わる。また、菊池肥前守も大内に心をよせ、堺の浦に至る。土岐宮内少輔、池田周防守秋政、山名満氏(氏清か二男)一味す。』
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  • *113、大内義弘は、鎌倉公方足利満兼と内通しており、上洛すれば満兼との約束を違えることになると、絶海中津に述べたことが記されている。
  • *114、『山名家譜』では、将軍家により一揆鎮圧を時熈強大に命じ、時熈は6500余騎をひきいて京都を発したと記されている。『堺記』では時清の勢は三百余騎となっており『山名家譜』の6500余騎は異常に多い。また、『堺記』には鎮圧にむかったのは、小番の衆二頭であって、時熈が鎮圧に向かったことは記されていない。
    『山名家譜』ではさらに11月6日に丹波国に着き、久下、長澤、萩野の一族を味方につけて攻め戦い、11月18日には『宮田民部少輔、八田庄に討て出る。時熈、急に攻めて是を打ち破り、右馬頭氏之、宮田七郎入道満氏を討取り、萩野信盛は宮田時清を討ち取る。
    時熈すなわち太田垣左近丞、志賀八郎を使とし、此旨を京都に注進し、国中の仕置を執行て、同27日に帰陣あり。』と記されている。山名時清らを討ち取ったとなっているが、12月7日山名時清の反乱が起こっている事が『東寺光明講過去帳』等に記されている事と矛盾する記述となっている。
  • *115、『応永記』では、六千余騎となっている。
  • *116、満兼は大内義弘と内通して京都を攻めようとしていたが、12月21日に大内義弘が討死にしたので武州に逗留し、翌年3月、鎌倉に還った。
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  • *117、応永6年11月5日の注に記す。
  • *118、11月29日の合戦は激戦で『敵御方手負死人幾千万と云数を知らす、(中略)互に人馬の息も盡ぬれば各本陣に引退く』とある。
    11月29日の合戦と、12月21日の合戦(大内義弘の討死)の間に、大内義弘と呼応する反乱がおこっていることが『堺記』『応永記』に記されている。
    ◎土岐詮直の反乱の反乱
    土岐詮直、尾張国に討入、地下の者共を合わせ700余騎にて、美濃の長森に打越て、池田秋政も加わる。土岐美濃守が和泉から馳下って、詮直の勢をうち破る。
    ◎山名氏清の嫡子宮田時清の反乱
    宮田時清、丹波国宮田に打入り、都へ登り、京中を焼払い、八幡の陣を襲って、父氏清の本意を遂げようとした。
    時清は三百騎で追分まで行ったが、八幡からは小番の衆二頭が発向し、両陣を張って待ちかまえた。
    萩野源左衛門が先陣となり、佐々木の小原の陣に打ちかかったが、源左衛門はじめ40余人討ち取られた。
    宮田時清は大館の陣に打ちかかると、宮の上野は大将宮田を討取ろうとして宮田の勢の中に懸け入って、多数の兵を討ち取ったが、宮の上野も討死してしまった。
    今川の奈古屋も宮田の勢の中にやぶって入り、10数人を討取ったが、深手を負った。
    近江国住人勝眞田の遠江守は、奈古屋と一所に討死しようと、馳けつけ、さんざんに戦って討死。
    宮田は人馬の息をつかす為、引き返し、幕府方も本陣に引きあげた。なお、追分での合戦について『今川記』では、遠州の住人勝間田遠江守、今川の一族奈古屋三郎が討死したが今川泰範の働きで宮田時清は破れて引き退き、追い討ちをかけて、悉く討取ったと記されている。
    この戦いの後、泰範は12月21日の堺の合戦に加わり、堺城が落城したと書かれている。
    ◎京極五郎左衛門の反乱
    京極五郎左衛門、近江国に打越、甲良庄へ打入って、さんざんに焼払い、地下の者を従えて、二百騎で勢多に向かったが、三井寺の衆徒五百人余りが勢多の橋を引て待ちかまえていると聞き守口に引き返した。京極高戦が和泉の陣より一千余騎にて近江国に馳けつけたので、五郎左衛門は小勢ではかなわず、美濃の土岐詮直と一所になろうとして美濃へ向かうところに重井の土一揆がおこって、五郎左衛門等は取り籠められ、命だけは助かって、行方知れず、落ちのびていった。
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  • *119、山名時清が宮田に打入り、都へ向う途中、追分にて合戦し、幕府方兵、宮の上野が討ち取られたことが、『堺記』に記されているが、『東寺光明講過去帳』に宮下野が討死とあるから、山名(宮田)時清幕府軍の合戦が12月7日に起こったことがわかる。
    『佐竹文書』
    去七日於丹波八田庄、山名宮内退治の時、若党4人討死、剰令被疵、到忠節條、犬神妙之至也、弥可抽戦功之状如件。
           応永六年十二月十五日
       曽我平治右衛門殿                                    足利義持
     (満)花押
    この文書で去7日は『後鑑』では12月7日としているが、合戦が行われたのは丹波八田庄(船井郡畑荘)である。(『角川日本地名大辞典』26.京都府上巻)
    12月7日の同じ日に2ヶ所で合戦がおこなわれたことになるが、『堺記』では、負うわけでの合戦のみ記されていて、八田庄の合戦については何も記されていない。『山名家譜』では、11月18日に、八田庄の合戦については何も記されていない。『山名家譜』では、11月18日に、八田庄で合戦があり、時熈の勢が宮田、満氏、氏明、時清を討ち取ったと記されている。
    『山名常熈関係略年表』『山名常熈と禅刹』所収では、応永6年11月7日に、山名常熈(時熈)、丹波八田庄において、山名―宮田―時清と戦う(佐竹文書)とあり、去7日を、11月7日と解釈されている。
  • *120、「堺記」では山名民部少輔としるされているが「応永記」では山名民部大輔と記されている。ただし、11月29日の戦いでは「応永記」も山名民部少輔と記しているから、山名民部少輔が正しいと思われる。
  • *121、「堺記」では山名の入澤、同草山が杉豊後と戦い、討死したことが記されているが、「応永記」では、山名の入道と記されており、草山についての記述はない。
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応永7年(1400)〜応永12年(1405) anchor.png

1400応永7年正月24日因幡守護山名氏家、幕府の旨を奉じ、土屋次郎をして同国吉岡保湯河小日置上郷内の地を山城鞍馬寺雑掌に渡付せしむ。*122「華頂要略」(①大日7-4)
6月1日但馬守護山名時熈、同国興布土荘地頭職内の三十石を興布土中務丞に宛行う。「山崎文書」(①大日7-4)
6月19日幕府、因幡守護山名氏家をして山城鞍馬寺領因幡日置上郷渡残の地の押領人を退け、下地を寺家雑掌に渡付せしむ。「青蓮院文書」(①大日7-4)
8月19日幕府、因幡守護山名氏家をして、東福寺領同国古海郷に棟別銭を催促するを停めしむ。「前田家所蔵文書」(①大日7-4)
11月28日但馬守護山名時熈、同国大同寺の寺の寺規を定む。*123「大同寺文書」(①大日7-4)
1401応永8年3月2日山名時熈、備中守護となる。佐々木筑前入道・太田垣式部入道を派遣する。⑥常熈年譜
7月16日幕府、三重政信の請に依り、備中守護山名時熈をして、同国上村地頭職の押領人を退け、下地を政信に渡付せしむ。「門主伝」十八(「華頂要略九」所収『大日本史料7-5)
8月3日備後守護山名時熈、山内熈通をして同国地田荘を安堵せしむ。「山内首藤文書」(①大日7-5)
11月9日幕府、但馬守護山名時熈をして田公正恵に宛行いし同国朝倉荘地頭職を召返し、三宝院雑掌に渡付せしむ。「三宝院文書」(①大日7-5)
是年義満、山名氏清一族進福のために北野に経王堂を建つ。「大報恩寺縁起」(①大日7-5)
1402応永9年6月1日石見守護山名氏利、同国周布兼宗をして、同国内の所領をせしむ。「萩藩閥閲録」(①大日7-5)
6月11日石見守護山名氏利、同国益田兼世知行分所々公田の内河成の地の諸役を免除す。「益田家什書」(①大日7-5)
1402応永9年6月24日山名時熈、因幡国津井郷・・・国衙領分を加え・・・を但円通寺に寄進する。「円通寺文書」(⑥常熈年譜」)
7月19日幕府、備後守護山名時熈をして、高野山金剛峰寺領同国太田荘及び桑原方地頭職、尾道倉敷伊香ノ地を知行して、年貢千石を寺家に納付せしむ。「高野山文書」(①大日7-5)
8月10日石見守護山名氏利、吉田上野入道をして同国吉田郷を安堵せしむ。「益田家什書」(①大日7-5)
8月但馬守護山名時熈、安田孫三郎をして但馬国楽前荘地頭職西方内三分の一の地を直務せしめ、在京せしめる。「垣谷文書」(①大日7-5)
1403応永10年6月17日幕府、伯耆守護山名氏之をして、同国久古御牧地頭職を同国大山寺西明院雑掌に渡付せしめ、六月二十日、氏之、佐々木信濃入道にこれを命ず。「大山寺文書」(①大日7-6)
9月8日備後守護山名時熈、佐々木筑前入道をして、祇園社領同国小童保領家職を社家代官に渡付せしむ。「八坂神社記」(①大日7-6)
1404応永11年4月24日伯山名澄幸、同国束積の内津間分を同国大山寺権現燈明料所として、同寺に寄進す。「集古文書」(①大日7-6)
4月26日これより先、幕府、山名時熈に安芸国を御料国として預ける。是日時、小早川・・・竹原・・・弘景に知行支証の提出を明治、六月中の参洛を促す。「小早川文書」、⑥常熈年譜
5月19日山名持豊(少名を小次郎)生まれる。父時熈、母師義の女②家譜P99
6月12日南溟昌運、但馬楞厳寺常楽院寺規を定める。「楞厳寺文書」(⑥常熈年譜)
6月26日幕府、安芸守護代山名満氏(氏清の子)をして同国地頭家人等の当知行新本所の支証を8月5日限提出すべきことを令せしむ。「福原家文書」(①大日7-6)
7月2日但馬守護山名時熈、同国二方荘公文職を同国厳寺に寄進す。「楞厳寺文書」(①大日7-6)
8月3日安芸守護代山名満氏、吉川経見をして、其所領を安堵せしむ。小林、近日安芸へ入部。「吉川家文書」(①大日7-6)
11月9日幕府、吉川経見が安芸守護代山名満氏の手に属し、同国高屋にて国人と戦ったことを褒む。*124
11月15日石見守護山名氏利、益田兼世をして、本領を安堵せしむ。「益田家什書」(①大日7-4)
1405応永12年1月5日石見守護山名氏利、同国益田越中入道をして、同国長野庄内黒谷地頭職を周防入道弾正の契約に任せ安堵する。「益田家什書」(①大日7-7)
10月4日但馬守護山名時熈、同国興布土荘内の地を興布土徳石に宛行う。「山崎文書」(①大日7-7)
12月11日安芸守護代山名満氏、吉川経見をして、同国平田内宮荘福光名を安堵せしむ。「吉川家文書」(①大日7-7)

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  • *122、因幡守護は、『大日本史料』の注では氏冬となってるが氏家が正しい。
  • *123、「山名常熈関係略年譜」『山名常熈と禅刹』では、医王山大同寺とある。
  • *124、高屋での合戦について、「平賀系図」『大日本史料7―4』に、応永10年、山名満氏芸州守護として下向したが、国人は同心して従わず、高屋に軍勢を向けて合戦した。
    応永10年12月11日、平賀宗良が討死、要害を攻め、三年間、終に山名殿は帰洛した。平賀共益、同惟益、同惟元も、討死したことを記している。「平賀系図」では山名満氏を芸州守護としているが、これは守護代の誤りである。
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応永13年(1406)〜応永23年(1416) anchor.png

1406応永13年3月15日安芸守護代山名満氏、吉川弾正少弼の死去により、其一族をして同経見を総領として之に同心せしめ、又弾正少弼の遺領同国大朝庄及び志地原を経見に宛行う。「吉川家文書」(①大日7-7)
3月23日山名時熈、但馬円通寺内大智庵に敷地を安堵する。26日、時熈、円通大智庵に大有和尚塔頭要脚として、但馬国竹野郷地頭領家両職内田地弐町四段余、阿古谷山崎村山林等を寄進する。「円通寺文書」(⑥常熈年譜」
閏6月5日山名時熈、安芸の軍事を平賀弘章、毛利光房に問う。「毛利家文書」(①大日7-8)
6月6日是より先、時熈後小松天皇に月菴和尚の追謚を求め、正統大祖禅師号を是日加賜われる。「月菴行実」(⑥常熈年譜)
6月26日幕府、安芸に軍勢を発向することを止め、守護代山名満氏を召還し、国事を山名熈重(時長の子)に仰付らる。「毛利家文書」(①大日7-8)
7月20日幕府、山名熈重を安芸守護代に任ずる。「毛利家文書」(①大日7-8)
7月31日山名熈重、安芸守護代として安芸国に赴く。「毛利家文書」(①大日7-8)
1406応永13年8月是月、但馬大同寺茂林興樹、月菴行実・・・月菴録・・・を著す。是れより先、時熈、紙を出して興樹に月菴の法語を需める。「大同寺月菴録」⑥常熈年譜
10月4日但馬守護山名時熈、同国興長寺に園部道場の萬雑公事を免除す。17日、山名時熈、興長寺領の段銭を寄進し、同寺に但馬国竹野郷弥吉名内土貢六十貫文下地及び嶋屋敷之替一所を安堵する。「興長寺文書」(①大日7-8)
11月8日石見守護山名氏利、同国波多野永寿丸氏秀に、同国長野荘内美濃地村地頭職を安堵する。「益田家什書」(①大日7-8)
是年山名時熈・・・巨川・・・瑞岩竜・・・二四・・・を擁護する。「前南禅瑞岩禅師行道記」(⑥常熈年譜)
1407応永14年1月28日山名時熈、石見周布次郎・・・兼宗・・・に石見守護代入沢八郎左衛門入道の安芸発向を伝え参陣を促す。(⑥常熈年譜)
7月2日幕府、備後守護山名時熈をして、祇園社領同国小童保に臨時課役を催促するを停めしむ。「建内文書」(①大日7-8)
12月11日石見守護山名氏利、益田兼家の所領を安堵する。山名氏利、益田兼家の知行所の段銭、公田八十二町九反半の所役を入澤土佐入道に沙汰せしむ。山名氏利、石見国長野庄内黒谷郷地頭職を波多野氏秀に安堵する。「益田家什書」(①大日7-9)
1408応永15年3月8日是日より、28日迄、後小松天皇、義満の北山第に行幸。「教言卿記」(『後鑑』)、『大日本史7-10』を見ること。
4月9日山名時熈、三吉入道、阿須那某へ書状送付したこと、備後辺の荒説跡形無きこと等を、毛利備中守光房に伝える。「毛利家文書」(①大日7-8)
4月10日山名時熈、義満の伊勢参宮に供奉する。「毛利家文書」(①大日7-8)
4月25日山名時熈、金子某の心替に付、早々退治したことを賞するが、毛利備中守光房が出陣しなかったことにつき反省を求める。「毛利家文書」(①大日7-8)
5月3日山名時熈、去月19日の毛利備中守よりの書状で佐々井并ニ山城及び、熊谷在直が御方へ参ったことを知って喜び、平賀弘章より音信がないこと、武田信守の振舞いについて毛利備中守に尋ねる。「毛利家文書」(①大日7-8)
5月6日足利義満没する。(五十一歳)遺骸を等持院へ移す。「教言卿記」、『後鑑』、⑥常熈年譜
山名時熈、義満の中陰の間、等持院に祇候する。
6月24日山名時熈、三吉入道が要害に楯籠り、他領を侵す故、急ぎ要害をはずし、所領を給人に返すより、毛利光房に重ねて申付けさせる。「毛利家文書」(①大日7-8)
8月12日山名時熈、毛利光房より弓十張を贈られたことを謝し、時熈、光房に太刀一振、籠手一具を贈る。「毛利家文書」(①大日7-8)
9月28日山名時熈、御所より拝領の馬(鴾毛)一疋を毛利光房に贈る。「毛利家文書」(①大日7-8)
12月23日幕府、伯耆守護山名氏之をして、同国国延保下地押領の被官人を退けさせる。「三宝院文書」(⑥常熈年譜)
是冬但馬大同寺茂林興樹寂する。「月菴録」(⑥常熈年譜)
1409応永16年1月16日山名時熈、「月菴録」の刊行に資金を出す。「月菴録」(⑥常熈年譜)
惟肖得厳、これに跋文を寄す。
2月5日但馬国楞厳寺領因幡国服部庄領家職十年の半済満期となり、南溟昌運、是日太初周廓に寺家一円知行を確認する。「楞厳寺文書」(⑥常熈年譜)
9月5日足利義持、山名調べに大和国宇田郡の替として、丹波国宮田荘を宛行う。「近衛家文書」①大日7-12』
9月29日足利義持、但馬国楞厳寺領因幡国服部庄領家職を楞厳寺に安堵する。「楞厳寺文書」(⑥常熈年譜」)
1410応永17年3月23日備後守護山名時熈、同国地田比庄内福田十名を山名通に充行う。「山内首藤文書」(①大日7-13)
6月9日幕府、管領斯波義淳を罷、畠山満家を以て之に補す。①大日7-13
8月4日石見守護山名氏利、同国長野庄内得屋郷地頭職を益田秀兼に安堵する。山名氏利、石見守護代入澤土佐入道泰明をして、後屋郷の当給人の替地を宛行うを令す。「益田家什書」(①大日7-13)
8月11日幕府、備後守護山名時熈をして、被官人の同国重永本新両荘地頭職を押妨するを停め、下地を摂津能淳代に渡付せしむ。「美吉文書」(①大日7-13)
1410応永17年10月9日幕府、備後太田垣土佐入道をして、祇園社領同国小童保に豊受大神宮役夫工米を催促するを停めしむ。「建内文書」(①大日7-13)
11月13日幕府、安芸守護代山名熈重をして、同国造果保地頭職の押領人を退け、下地を小早川宗平に渡付せしむ。「小早川什書」(①大日7-13)
1411応永18年3月22日幕府、但馬守護山名時熈をして、南禅寺領同国小佐郷池寺荘公文以下名主等の違乱を停め、寺家の所務を全うせしむ。「南禅寺文書」(①大日7-14)
7月9日但馬大明寺住持美濃大安寺開山常訴笑堂寂す。「延宝傅燈録」(①大日7-14)
7月17日幕府、備後太田垣通光をして、祇園社領同国小童保に皇太神宮役夫工米を催促するを停めしむ。「建内文書」(①大日7-14)
8月17日幕府、重ねて、安芸守護代山名熈重をして、同国造果保地頭職を小早川宗平代に渡付せしむ。「小早川文書」(①大日7-14)
12月11日石見守護山名氏利、入澤土佐入道をして、益田秀兼の庶子等の所役を難渋する者を懲戒せしむ。「益田家什書」(①大日7-15)
12月16日幕府、石見守護山名左京太夫に令して、同国周布郷、来原郷・白郷等の周布観心の当知行を安堵する。①大日7-15』を調べること
1412応永19年1月15日足利義持のもとへ、山名時熈出仕する。「山科家礼記」(⑥常熈年譜)
1月22日足利義持、山名時熈邸に渡御。
3月4日足利義持、山名兵部大輔に渡御。
3月14日後小松天皇論旨を下し、但馬国楞厳寺に同寺領因幡国服部庄領家職を安堵する。「楞厳寺文書」(⑥常熈年譜)
4月10日細川満元、管領となる。応永28年7月25日辞⑥常熈年譜
4月29日幕府、因幡守護山名上総介高に令して、因幡服部庄領家職の競望を停止させ、厳寺雑掌に所務する。「楞厳寺文書」(⑥常熈年譜)
5月20日山科教興、山名時熈邸を訪れる。「山科家礼記」(⑥常熈年譜)
7月2日後小松天皇、前美濃済北山大安寺住持笑堂に円応大機禅師号を追諡する。「古文書類纂美濃大安寺」(⑥常熈年譜)
7月18日幕府、伯耆守護山名右馬頭入道をして醍後寺領伯耆国国延保の下寺を同寺に渡付せしむ。「三宝院文章」(⑥常熈年譜)
8月5日足利義持、山名駿河入道了順の西山地蔵院領摂津国広田位倍庄を同院に返付し、替地を了順に宛行う。同日山名時熈邸に連歌を興行する。「地蔵院文書」(⑥常熈年譜)
9月4日但馬楞厳寺開山南溟昌運寂す。「楞厳寺文書」(①大日7-17)
9月11日幕府、東寺修造料として、出雲国段銭及び尾張、越中、丹後、備前、備後五箇国棟別銭を同時に付す。「東寺百合文書」(①大日7-17)
是日、幕府、備後守護山名時に棟別一疋の徴収を令する。
11月2日幕府、安芸守護代山名熈重をして、毛利道心の毛利頼廣所領同国吉田荘内麻原郷地頭職を押領するを停め、下地を頼廣に渡付せしむ。「毛利家文書」(①大日7-17)
11月22日山名常勝教清(義理の孫)、入澤土佐入道に令して、石見周布観心に同国周布郷地の地を安堵し、渡付する。「萩藩閥閲録」(⑥常熈年譜)
1413応永20年1月22日足利義持、山名時熈邸に渡御「満済准后日記」(⑥常熈年譜)
是月山名小次郎(時熈の子)、足利義持の御前にて元服。十歳、義持の一字を賜り、持豊と名づく。②家譜P99
1月25日足利義持、義嗣、青蓮院に詣でる。管領、山名八郎ら供奉する。「教興卿記」(①大日7-17)
3月8日石見守護代入澤康明、幕府の旨を承け、同国益田秀兼をして、同国得屋郷四分方を安堵せしむ。「益田文書」(①大日7-18)
6月11日源持熈(時熈次男)、従五位下となる。「歴代土佐」(⑥常熈年譜)
6月27日源持熈、刑部少輔となる。「歴代土佐」(⑥常熈年譜)
8月15日南禅寺第七八世嬾室漫稿の著者仲芳円伊寂す。六十歳。⑥常熈年譜、「南禅住持籍」等(①大日7-18)
8月29日足利義持、日野義資邸に渡御。管領、山名時熈等参る。「教興卿記」(①大日7-18)
9月3日足利義持、山名時熈邸に渡御。「満済准后日記」(⑥常熈年譜)
10月20日足利義持、山名時熈邸に渡御。「満済准后日記」(⑥常熈年譜)
1413応永20年11月13日前東福寺住持、但馬宗鏡寺開山金峰明寂す。65歳「延宝伝燈録」(①大日7-18)
是年後小松上皇、長講堂領その他の別納目録を幕府に渡す。「京都御所東山御文庫目録」
但馬守護山名時熈、同国朝来庄を領する。⑥常熈年譜
1414応永21年1月22日足利義持、山名邸に渡御。「満済准后日記」(『続群書類従』)
3月12日幕府、山名宮内少輔を侍所別当と為す。「満済准后日記」(①大日7-19)
4月4日土岐の左京大夫頓益没(六十四歳)。頓益の姉は山名中務大輔の母「満済准后日記」「土岐系図」(①大日7-20)
4月14日足利義満七回忌により、等持寺にて足利義持法華八講をおこなう。「満済准后日記」(①大日7-20)
4月15日等持寺御八講第三日、山名時熈、卯花枝、短冊、各銀を供える。「八講部類」(『後鑑』)
4月22日備後守護山名時熈、同国地田比荘内奈目良分を山内熈通に充行う。「山名首藤文書」(①大日7-20)
5月6日後小松上皇、足利義満七回忌追善の法華講を十二日まで仙洞御所にて修す。山名時熈、畠山満家、義満追悼の偈頌を呈す。「満済准后日記」「眞愚稿」(①大日7-20)
6月27日侍所頭人山名宮内少輔、東寺掃除散所法師の課役を免除す。「東寺文書」(①大日7-20)
8月10日足利義持、近江永源寺住持道秀松嶺に法を聴かんとして、同寺に赴く。山名時熈、松嶺和尚に偈頌を呈す。「伊陽河津虎杖山林際寺円明證知禅師證羊集」・「満済准后日記」(①大日7-20)
12月27日足利義持、南禅寺龍華院領但馬国太多庄寺領分等を守護不入之地として安堵する。「満済准后日記」(①大日7-21)
1415応永22年1月22日足利義持、山名邸に渡御する「満済准后日記」(①大日7-21)
6月13日延暦寺衆徒、近江守護六角満高を訴え、日吉社神興を奉じて入洛せんとす。山名赤松両人河原を守る。「満済准后日記」(①大日7-22)
10月14日幕府、伊勢国司北島満雅を許す。「満済准后日記」(①大日7-23)
10月23日幕府、御禊行幸供奉雑隼人料の進済を山名時熈等に命ず。「壬生文書」(①大日7-23)
1416応永23年1月22日足利義持、山名邸に渡御する。「満済准后日記」(⑥常熈年譜)
5月27日足利義持、北野より醍醐寺に赴き、清瀧宮に参詣。斯波義淳、畠山満家、細川満元、山名時熈、赤松満祐、一色義範、細川満久、富樫満成等供奉。「満済准后日記」(①大日7-24)
6月1日足利義持、兵具を所持する相国寺僧数10人を侍所に置く。「満済准后日記」(①大日7-24)
7月3日大光明寺の客僧、山名奥州謀反事一部語之。「看聞御記」(⑥常熈年譜)
9月11日足利義持、南都へ下向。細川満元、斯波義教、畠山満家、一色義範、山名時熈等供奉。「看聞日記」(①大日7-25)
10月2日前関東管領上杉金吾(氏憲)、足利満隆が兵を挙げ、関東公方足利持氏を。「看聞日記」(①大日7-25)
10月7日足利義持、伏見大光明寺に赴く。細川持元、畠山持国、山名持豊等供奉。「看聞日記」(①大日7-25)
10月30日足利義嗣、山城高尾に出奔し、出家す。「看聞日記」(①大日7-25)
11月3日足利持氏への御加勢として、京都より山名持熈を差下す。「喜連川判鑑」(①大日7-25)

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1000年代
『大鏡』1025(万寿2年)このころ成立、著者については諸説あり。仮名文・列伝体、藤原氏栄華の時代中心。以後の歴史書に影響。
『陸奥話記』1051~62別名『陸奥物語』、著者不明、前九年の役の戦記。
1100年代
『今鏡』1170(嘉応2年)成立。没落期の貴族社会を記す。
『吾妻鏡』1180(治永4年)4月~1266(文永3年)7月の間について記す。鎌倉時代史の基本書。漢文調から脱化した独特の武家用語。
『鎌倉大日記』1180(治永4年)~1589(天正17年)(著者不明)武家政権を中心とした年表、室町期に至る。
1200年代
『愚管抄』1220(承久2年)天台座主・慈圓。漢家年代、皇帝年代記と古代以降の社会の動きを評論。歴史の道理で示す。
『花園天皇宸記』1200年代後半。花園天皇。両統の争いを詳しく述べる。
1300年代
『嘉元記』1305(嘉元3年)~1364(貞治2年)の間の朝野の雑事について記している。
『眞曲抄』1306(嘉元4年)明空、鎌倉時代に流行した宴曲を集成。
『園太暦』1311(応長元年)2月~1354(延文4年)12月。洞院公賢の旧記。南北朝期の公家の動向を述べている。
『庭訓往来』1300年代前半期。玄患の作か。鎌倉以後の上層武士階級の諸事。
『祇園執行旧記』1343(康応2年)~1372(応安5年)。細川氏、一向宗、足利将軍の動静を記す。
『太平記』1346(正享元年)ころ成立。小島法師か。南朝と山名氏に理解。広く読まれた。
『愚管記』1352(文和2年)3月。関白近衛道嗣の日記。南北朝の交渉公家の動向など。
『楠木合戦注文』不明。『続々群議類従』所収
『尊卑分脈』1360年頃~1450年頃。洞院公定と後三代で著す。室町初期の諸家の系図の集大成。
『後愚昧記』1361(康安元年)~1383(永徳3年)。三篠公忠の日記。朝儀に関する記事。
『花営三代記』1367(貞治6年)別名『室町記』、筆者不明。足利義満・義持・義理の3代にわたる幕府の日記
『増鏡』1374(文中3年)二條良基。編年体の歴史物語。大覚寺統に同情的、仮名文。
『明徳記』1392(明徳3年)夏~翌年冬。山名氏清の乱についての戦記物語。
『応永記』1399(応永6年)著者不明。別名『大内義弘退治記』。義満の時代を記す。
1400年代
『難太平記』1402(応永9年)今川負世。下克上の風潮を指摘。山名時氏の言葉を引く『太平記』を批判。
『蔭涼軒日録』1435(永享7年)~1493(明応2年)相国寺蔭涼軒の公用日記。
『永享記』1436(永享8年)~1488(長享2年)著書、成立年不明。関東地方の争乱について。足利持氏から北条早雲まで。
『応仁記』1444頃(永安年間)~1558頃(永禄年間)著者不明。のち『応仁略記』『応仁別記』あり。
『細川勝元記』1464(寛政5年)~翌年。著者不明。
『狂雲集』室町時代中期に成立。一休の詩集、一休の宗教的情熱や思想のもの。
『實隆公記』1474(文明6年)正月~1536(天文5年)三篠西實隆。元は『愚記』という。室町後記の公家の生活・文化事情について。
『足利季世記』1487(長享元年)~1569(永禄12年)著者、成立年不明。室町幕府末期の政権抗争を記した軍記物。
『鹿苑日録』1487(長享元年)~1651(慶安4年)『蔭涼軒日録』の続編。遣明使についての記事あり。
1500年代
『続神皇正統記』1500年頃、小槻晴富。
『蜷川親孝日記』1516(永正13年)から1522(大永2年)までの残闘記。政所の日記
『応仁乱消息』1523(大永3年)頃成立。不明両軍の他に公家民衆の動向を記す。
『大内義隆記』1551(天文20年)この頃成立。
『永禄記』1565(永禄8年)~1568(同11年)、著者不明。将軍義輝の暗殺から義昭が織田信長を頼って幕府を再興しようとするまでの事情。
『二川分流記』1570頃、生島宗竹。細川家の二党派(高国と澄元)の抗争中心。
『赤松記』1588(天正16年)因幡守入道定阿。赤松氏の起こり、円心時代の全盛、嘉吉の乱、応仁の乱、戦国期の内訌を述べる。
『赤松再興記』年代著者不明。嘉吉の乱後の赤松氏再興の様子を述べた軍記物。
『山名家犬追物記』不明、別名〔篠葉集〕。山名政豊(『続群書類従合戦部』所収)
『天台座主記』1597(慶長2年)頃。824年から1597年までの天台座主の歴名記。
1600年代
『勢州軍記』1638(寛永15年)神戸良政。室町期から織豊政権までの伊勢國神戸氏の動向。漢文。
『寛政重修家譜』1641(寛永18年)~1812(文化2年)徳川幕府による大名、旗本の系譜編纂。
『本朝通鑑』1644(正保元年)~1670(寛文10年)、林羅山・林鵞峯(春斉)。神代から慶長6年までの漢文の編箪史。173巻。
『鹿苑日録』1651(慶安3年)。相国寺鹿苑院の僧録司の日記。
『日本王代一覧』1652(慶安5年)小浜藩主・酒井忠勝の求めで林鵞峯(春斉)。神代から正親町天皇まての事件の要点をまとめる。
『大日本史』1657(明暦3年)~1906(明治39年)徳川光圀の意図で始まる。水戸藩代々の儒家による。
『陰徳太平記』1665(寛文5年)頃完成、吉川家家臣・香川正矩編著。戦国時代における、毛利氏を中心とした中国地方の諸家の興亡を記述。
1700年代
『南朝編年録』1713年(正徳3年)跡部良顕。南朝73年間の事蹟。
1800年代
『郡書一覧』1801(享和元年)、大坂の書籍商・尾崎雅嘉。
『郡書類従』1819(文政2年)塙保己一。江戸期以前の国書で、木版可能なもの1270余種を編集。
『日本外史』1827(文政10年)漢文の武家時代史。
『後鑑』1843頃(天保年間)幕府の儒臣・成島良譲の編。室町幕府の歴史を『吾妻鏡』の体裁にならい、編年体で編纂。『太平記』『梅松論』からの引用多し。
『歴代残闕日記』1858(安政5年)、信濃藩主掘直格の命で国学者黒川春村が編集。「宇多天皇御記」から江戸来期までの日記、記録320点。
『続日本史』1873(明治6年)一色重熈。『大日本史』の後続を意図、古代から豊臣氏までの田制も。
『史籍集覧』1881(明治14年)~1885(明治18年)、『群書類従』の補遺と、それ以後の著書を集録。
1900年代
『大日本史料』1902(明治35年)刊行始まる、現在も継続中。東京大学史料編纂所。『六国史』に続く約1000年間の事件を年月日順に掲記。
『系圖綜覧』1915(大正4年)、国書刊行会。『群書類従』に収められなかった諸家の系譜等。
『平賀文書』1937(昭和12年)東京大学史料編纂所。出羽国平賀氏の1288~1713までの文書(『大日本古文書』家わけ14所収)

註、本稿では文献の成立年代の明らかなものはその年代に、そうでないものは書かれた年代の箇所に記入している。

他の参考資料

  • 『国史文献解説』遠藤元男・下村富士男 昭和32年 朝倉書店
  • 『史籍解題辞典』竹内理三・滝沢武雄  昭和61年 東京堂出版

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初版日時: 2014-07-16 (水) 13:57:57
最終更新: 2022-12-11 (日) 16:12:44 (JST) (463d) by admin