山名家譜 巻之三 ②

登場人物

記載人物(P39~P75)
山名家譜 3巻 表紙
山名時氏、山名

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  • 山名家譜第三巻PDFデータ

P060

山名家譜 3巻 60ページ

二日丹波志宇智に着き和久城
に至りこれより時氏父子二手に
分れてせめ登らる同九日に南方
の軍勢と約を定て未明より軍
勢を出し梅津嵯峨仁和寺西七条
辺に放火せらる官軍も八条九条
に火を放つ右衛門佐師義千余騎を
卒(率)いて進み小林右京亮七百余に
て遊軍となり佐老木の一族等
と戦て是を伐破る桔梗一揆兵を
進て討てか丶る師義また一戦に
討破らる時氏父子の軍大に勝
利を得て洛中に攻入り西山の
法華寺に陣し南方の軍勢と
牒しあわせで洛中を窺う同十三日
に時氏南方の勢と一手に成て京
 

P061

山名家譜 3巻 61ページ

都を攻うつ中将義詮尊氏公三男也戦
いれて謡帝を供奉し江州に
出奔あり時氏父子楠以下の諸
将進て追討により義詮また美
濃国に逃れ走る同七月廿五日南
方の官軍芳野に帰える時氏父子
も兵を引て同廿七日に丹波の山内に
か丶り丹後但馬を経て同廿八日伯耆
国に帰陣あり
同年の冬尊氏公父子計て
時氏を討んと勢を集らる
時氏是を聞て足利右兵衛佐
直冬直義の子也を迎て南帝へ奏
し立て丶とし詮追
討の綸旨を賜り再び大軍を
もよふ(お)し京都を攻んとあい
 

P062

山名家譜 3巻 62ページ

はからる
一同三年甲午十二月十三日に時氏父子
五千余騎を卒して足利右兵衛佐
直冬を伴い伯耆発山陽道の勢
を催し七千六百余騎にて丹波守
護仁木左京太夫頼章を攻む頼
章防ぎ戦うといえ共利なくして
引退く然る処に越前の足利尾
張守高経六千余騎にて登り
中の桃井播磨守直常八千余騎
にて北陸道を攻め登り京都を
討んと相計る時氏直冬共に大
江山に至る同廿四日尊氏公北帝きむく
を供奉して江州武佐寺におも
むく
一同四年乙未正月朔日に北国勢比
 

P063

山名家譜 3巻 63ページ

叡山に登る同十二日時氏父子五千
六余騎にて入洛あり同十四日に
桃井直常も入洛す同十六日に足利
高経は右兵衛佐直冬を供奉して
入洛し東寺の実相院に屈す
此日時氏淀の辺に陣し則ち将對
と相議して北朝の年号文和を
停めて南朝の正平十年を用いらど
る同二月四日に尊氏大軍を率い
て東坂本に陣せらる義詮は神
南の北の峯に陣す右兵衛佐直
冬井に足利尾張守高経同佐衛門佐
氏頼桃井播磨守直常嫡男兵庫
助直願等六千七百余騎にて七条
より九条まで陣を張る一方は
時氏嫡男師義二男義理修理太夫三
 

P064

山名家譜 3巻 64ページ

男氏冬四男民部少輔五男
時義伊豫守を始め家臣小林民部丞
河村山城守伊田波多野足達石原
久世佐伯土屋福依藤沢須藤浅
沼大庭福間佐治宇多川吉岡
安芸守後藤壱岐守小幡出羽守
倭久修理亮加地三郎左衛門尉土師
右京亮楯又八郎長門山城守毛利
因幡守佐渡但馬介塩見源太等
都合五千六百余騎にて淀川を
左に請て淀鳥羽赤井大渡に
陣せらる淀川より南の方は四条
中将隆俊法性寺左衛門督康長を
大将として楠左馬頭正儀和田の一族
石堂入道吉良左馬助赤松弾正少弼
氏範土岐原蜂屋等三千二百余
 

P065

山名家譜 3巻 65ページ

騎にて小林民部丞を先陣とし
諸将と牒し合て合戦あり尊氏
討破らる洛中洛外において度々
合戦あり勝利を得といえ共大軍兵
粮に乏しく労に及んとするにより
て同三月十 三日に時氏諸将と相議し
て各本国に帰らる同日尊氏北帝
後光厳院を供奉して帰らる
一康安元年半丑七月に時氏父
子因幡伯耆出雲の軍勢三千五百
余騎を卒(率)して美作国に赴き同
十三日に赤松が城を攻らる此時に当
国の守護赤松筑前守貞範は播
州にあり時氏其虚に乗て攻討
る丶程に広戸掃部助が守る所の
名木の城能仙の城小原入道が小原
 

P066

山名家譜 3巻 66ページ

の城飯田一族が篠田の城大野一族が
大野の城菅家一族が大見丈城共外
林野妙見等の城を攻落しまた有
元民部丞佐久入道紹英佐用美
作守直久が守る所の菩提寺の
城を攻む城中防ぎ戦うといえども
援の兵もなく有元佐用終に百
騎計になりて同国倉掛の城に引
籠る是を聞て赤松筑前守播磨
美作の境竹山千草吉野石が峯に
城を構えて是を防がんとはかる
時氏の長臣小林民部丞重長千
余騎を引具して星祭嶽に登
り城を目の下に見おろして乗り崩
んとす赤松貞範が弟律師則祐
同信濃守光範同出羽守顕範
 

P067

山名家譜 3巻 67ページ

同宮内少輔宗範佐用治郎隆範
上月真嶋宇野柏原等を先きと
して二千余騎にて高倉山の麓
に陣を取る右衛門佐師義八百余騎
を卒(率)いて赤松が勢と相戦う時に
阿保肥前入道信禅赤松が陣にあ
りしが時氏へ内通して但馬を指し
て引退くまた長九郎左衛門尉も播
磨を取んとはかるのよしを聞
て赤松貞範播州法華山に城を
構えて軍兵を籠置て是を守らし
む師義但馬へ赴かんとするに赤松
が軍士遮り止て進退自由ならず
赤松細川右馬頭頼之に牒し合て
時氏父子を討んと計といえども此時
山陰道委く宮方になりて時氏の
 

P068

山名家譜 3巻 68ページ

旗下に属するのゆえに赤松の謀符
合せず大に敗軍しければ時氏の武
威山陰山陽の両道に振う
一同二年壬寅六月三日に時氏父子
五千四百余騎を率(率)いて伯耆国羽
衣石を発し美作の院庄に赴き
軍勢を召集め師義義理をして備
前備中の両国にむかわせらる師義
兄弟備前の仁万堀に陣せらるその
勢二千百余騎なり福林寺涌上の一
族等小勢にして戦い利なきを
察し師義の陣に降参すこれに
よりて多治見備中守楢崎三河守
を大将として九百余騎をさしそえ
備中の新見に出張せしめらる処に
飽庭肥前守降参す楢崎多治見松
 

P069

山名家譜 3巻 69ページ

山の城に入る当国の守護高越後
守師季戦わずして備前の徳倉の
城に逃れ退く多治見楢崎是を
追い討て師季が家人赤木父子
を討とる備前備中の国人大半時
氏に降参せり時氏下知して冨田
判官秀貞同弾正少弼直貞に八百
余騎を差添えて備後国に打入ら
しむ江田廣澤三吉の一族降参し
て二千余騎になる時氏惣軍を
引卒(率)して播磨路をこえんと
せらる赤松大山に城を構えて
但馬路を差塞ぎ仁木兵部少輔義
尹は和久郷に陣して待掛たり石
橋左衛門佐今川右京亮等義詮の
命を受て三千余騎にて京都を
 

P070

山名家譜 3巻 70ページ

発し丹波の篠村につく中務少輔
氏冬小林民部丞京勢と戦て雌雄
をけっせんと計るといえ共兵粮の
道塞りしかば勢を引て伯耆に
うち入る同十月七日に時氏も諸軍
を卒(率)いて因幡国青野庄に帰陣
あり
一貞治二年癸卯四月に義詮公諸
将を召めあり山名いま
芳野殿の味方として山陰山陽の
両道に猛威を振い其勢い強大
なり諸国の宮方も蜂起せり今
是を討んとせば京都無勢にし
て後難はかりかたし和談を納て
山名を味方に降らしめば北国の足
利桃井を始め皆軍門に降るべし然
 

P071

山名家譜 3巻 71ページ

れば芳野の宮方微々になりて
大平の謀たるべしと各評議ありて一色
宮内少輔詮光を以て時氏に事の
子細を説て将軍家に帰伏せし
めむとす時氏の日某南方の御味
方に参りて十二年の間武威を
京都ならびに山陰山陽の両道に
振て討随える国凡五方国なりいま
此五方国を以て将軍家より安堵の
家に属し申べし叶うまじきにて
候はば当家の武運にまかせ申さんと
返答あり一色詮光京都にかえり
右のおもむきを相仲るに義詮公
諸将と評議あり山名味方に降
りなば諸国の宮方望を失うべし
 

P072

山名家譜 3巻 72ページ

只其請う処に任すべしと一決して
時氏父子同四月十八日に伯耆を発し
京都に着き同廿八日に将軍義詮
公に拝謁し則但馬因幡伯耆丹波
美作の五方国を賜り出曇丹後の守
や護職となる
一応安元年戊申に将軍義満公義詮公が男
評定衆を定めらる則騒仁木左京
太夫義長今川右京亮貞世佐老木
左衛門尉氏頼赤松上総介義則五人
なり
一同三年庚戍四月に将軍義満公
細川武蔵守頼之をして南方に向
わせらる時氏父子も是に従い同
八日京都を発し同十五日に河内国に
着き勢を四に分ち一手は千剣破城
 

P073

山名家譜 3巻 73ページ

一手は赤坂城一手は飯森城一手は八
尾城に向う時氏父子今川上総介
泰範は一万五千騎に将として千剣
破城にむかい龍泉寺観音寺両所に
陣して戦うといえ共寄手度々利を
失う始め時氏父子は観音寺中院に
陣せらる聊か思維ありけるにや
退て龍泉寺山に陣し城に向て
陣取らる同十一月に細川頼之諸将
と計りて時氏をして和泉河内の
内に放火し氏清をして敵の兵粮
の道を指塞ぎ其ついえに乗て攻ん
と約して氏清を止て同二十二日に
諸勢京都に帰陣あり
今年八月朔日に将軍義満公
へ丹波国の百姓芹一籠を献上す
 

P074

山名家譜 3巻 74ページ

御喜悦あり諸将を召て祝
儀あり猿楽を興行せらる時
氏父子も召によりて着座あり
座席尤厳重なり
一同十二月に時氏老年に及により領
国但馬因幡伯耆美作丹波丹後
紀伊和泉備後隠岐出雲十一方国
を家嫡に譲り与え隠居すべきの
よしを乞わる将軍家許容あり
よりて十一方国を以て子息に分ち
与えらる世に時氏を称して六分一殿
と言う
一応安四年辛亥春時氏病床に
伏し同二月廿八日に卒去あり行年
六十九歳法名道静道号鎮國光
孝寺殿と号す
 

P075

山名家譜 3巻 75ページ

時氏に十七男五女あり五男伊
豫守時義を以て一家の正統と
せらる詳に系図に見えたり
 

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