和代観音(かずよかんのん)
観音堂に祭られていた和代観音 |
観音山にあった観音堂のご本尊
元禄十九年(1642)に、村岡山名藩の藩都を兎塚村から旧・黒野村に移し、町の名前も村岡町へと変えて、城下町らしい街造りが行われる。
その当時は徳川3代将軍・家光公の時代で、幕府は公家・武家・寺社の各諸法度の発布や参勤交代の制度化等、将軍の絶対権力化に向けての政策打ち出していた頃で、大名とは言え新たな寺院の建立は固く禁じられていた時代でもあった。
村岡の城下町造りに際し、黒野村を望む山上に建っていた妙心寺派の寺院であった報恩寺を山名家の菩提寺と定めて、山上の堂舎を新しい城下町の中心部に下ろして、寺名を法雲寺へと改めた。
山陰道が通る街道筋と、山名藩侯菩提寺と陣屋を結ぶ大通りを街造りの中心として城下町・宿場町らしい整備が進められた。
観音堂の建立
旧・報恩寺が建っていたところには、藩主の祈願道場として観音堂が建立されて、和代観音が本尊として安置されていた。
やがて観音堂がある山のことを観音山と呼ぶようになり、観音堂は幕末まで山名家の庇護の元に護持されていた。
しかし、明治初年の藩財政精算や廃仏毀釈の余波により、観音堂や山門等は取り壊され薪とされ、山門に納まっていた仁王像は、古道具屋に売り払われた。
この和代観音は、その難を逃れ、法雲寺に運び込まれて、今日まで祭られてきた。
年代
寛永年間(1640年)頃
備考
像の立ち姿は直立ではなく、腰を少しくねらせたような形をとり人間味が感じさせる姿勢で佇む。大きな像ではないが親しみと存在感を感じさせる。
観音像の頬にある金箔の剥がれた部分は、居場所を何度となく変えられた際に薄れたのだと想像すると、降りかかった難をよく逃れて来られたと・・少し複雑な思いがする。
(売り払われた仁王像一対は鳥取市の大雲院に安置されている。観音山には墓地の中に今でも観音堂が建っていた所の石組みを見ることが出来る。)
和代観音の台座には山名家の家紋である「五七桐に七葉根笹」を 模した桐と笹の装飾が施されている。 |