用人席流『田公(たぎみ)氏流三宅氏』
役員紹介掲載に際して
法雲寺境内に有る山名氏史料館「山名蔵」をご案内する際、参観者に次のようにご説明している。
「山名氏は清和源氏の名流で、鎌倉幕府成立から室町・江戸と各幕府に籍を置き、武家政治の始まりから終焉まで見届けた唯一の武家なんです」と、それをお聞きになった多くの方が、「山名家は今でも続いているんですか?」とお尋ねになる。
「勿論、明治維新で東京に出られて戦後までは華族として続き、平成の現在もまた村岡山名で十五代、山名歴代としては三十数代として続いています」とお応えする。
そんなやりとりの中で、時に「…ご住職は山名の子孫なのですか?」と尋ねられることもある。
参観者の期待を少し裏切るようで申し訳ないのだけれど「残念ながら、私は山名氏とは無関係。たまたまこのお寺の住職をしているだけの縁なんですよ」と…お答えする。
会誌「山名」第5号の発行に際し、全國山名氏一族会(以下・山名会)の再出発の意味も含めて、山名会の新役員紹介の頁を設けた。個人情報保護が言われる今日ではあるが、総裁様を始めとして常任理事まで各位にご協力を願い皆さんの経歴や会に対するコメント、出自まで掲載させて頂いた。
山名会の性格上、会員の大半が山名姓であり、山名姓以外の方も山名氏との因縁浅からぬ姓を家祖以来護られて来られた方ばかりである。
役員紹介であるから事務局の私自身も載せない訳にも行かない。しかし、先ほど記したように私は『○○国山名流』と言う繋がりは無く『法雲寺二十世』としか書きようが無い。趣味のことでも付け加えようかと考えたが、それも少し筋違いのような気がする。事務局として皆さんにあれこれとお願いする立場でも有り、何かそれらしい尤もな形容は無い物か?
今まで自らの出自について考えたことも無かったのだが、何とかたどり着いたのが『田(た)公(ぎみ)氏(但馬国人)流三宅氏』という一片。このことについて少し頁を頂き、ご説明させて頂きたく思う。
法雲寺と吉川姓
法雲寺は村岡山名氏の菩提寺、天台宗の寺院となってから私で二十代となる。明治までは天台宗僧侶の妻帯は認められなかったので、十八代(私の祖父)まで歴代住職は、檀家や縁故の子供を弟子として預かり後継者として養育し次代へと繋げて来た。
私の姓『吉川(よしかわ)』は、十五代住職が明治の初め『平民苗字必称義務令』が発布されてから付けた名字らしい。因みに十五代住職が口吉川(くちよかわ)村(現兵庫県三木市)出身で有った為、吉川とした。至って明快な命名法と言える。その後も数代弟子を取り養子とし、吉川姓を名乗らせ寺院の後継者とした。
十八代であった私の祖父も同じくである。檀家総代を務める家の出で五男一女の四男であった。旧姓を三宅といい法雲寺に養子として入って吉川へと姓を改めた。祖父は三女を設け、長女に播州書写坂本(赤松氏の旧本拠地)・圓蔵寺より婿を取り、十九代住職(前住職・父親)とし、そして現在の私へと続く流れとなる。
吉川姓そのものも明治以降の5代しか無く、血の繋がりから見れば、祖父から数えての三代しか続いていない。
此処までの状況では山名氏との直接的な繋がりは見出し難い。
七美郡誌に曰く
郷土の歴史研究の基礎資料としてよく利用される書に『七美郡誌』(医師・八木玄蕃著)がある。
明治39年に刊行された同書は変貌を遂げる時代において明治以前の名残を尋ねる貴重な手がかりである。その七美郡誌の中に氏族についての記述が有り、祖父の実家「三宅氏」も記されている。その書き出しに曰く
○三宅氏 平姓 田君氏 …本國但馬 人皇卅七代孝徳天皇第三之皇子部表米王(ひょうめいおう) 次男従八位下朝来(あさご)大領荒嶋宿禰 十七代但馬國養父(やぶ)郡朝倉領主朝倉餘三大夫宗高ノ嫡男太郎大夫平高清入道景雲ノ四男四郎清景二方郡田公庄七釜(ふたかたぐんたぎみしょうしちかま・新温泉町七釜)ニ居シ故ニ以テ氏ト為ス 田公庄一圓七味郡一二部庄(しつみぐんいちにぶのしょう・香美町村岡)小代庄(おじろしょう・香美町小代)合テ三庄ヲ領シ
とある。
(読みやすくするため空白等を入れています。また、『七味郡』は『七美郡』の旧表記)
三宅氏というのは平姓で、元は田君(公)氏。孝徳天皇の孫である表米王を祖とする、日下部(くさかべ)氏の朝倉から更に枝分かれした田公の流れを受け継ぐ氏であった。
尚、表米王を祖とする日下部氏の同族には朝倉を始め八木・太田垣・宿南・田公・奈佐・三方・西村等…分かれた但馬国人は数多く、新田氏から分かれた山名氏が土地の名を取って氏とした如く、枝分かれた日下部一族もまた、それぞれが本拠とする所の地名を名乗って氏とした。各氏由来の地名や河川名は今でも使われている所が多い。
朝倉自体は日下部氏であるが、朝倉宗高・高清親子が、平家に仕え源平合戦では平家に属したことから平姓を使用し、田公もそれに習った。(「日下部系平氏」とでも言えばいいのか?)
七美郡誌を読み進めると
四代(田公)半兵衛尉景實 山名光孝寺殿(時氏公)圓通寺殿(時義公)ノ麾下トナリ美作守ト改メ七代田公伊賀守綱景入道宗榮 信州善光寺ヲ勧請シ出石入佐山ノ麓吾邸ノ側如来寺ヲ創建シ勅額ヲ賜フ…(略)…(田公)能登守綱典入道秋庭天正五年(1577)丑十月六日(秀吉の中国侵攻により)城山(じょうやま・香美町小代区城山)ノ本城黒野邑(村岡ノ旧名)支城其他ノ砦悉ク捨テ城山(じょうやま)ヲ退城シ因州氣多郡宮吉城主仝氏(田公)新助高家ノ館ニ遁レ 仝九年(1581)十月久松(きゅうしょう・鳥取城)落城ニ及ビ但因ノ山名大ニ衰ヘ主従共流浪シ出石町(宗鏡寺塔頭)正受院ニ流寓ス 仝十年(1582)三男宗彭(そうほう)唱念寺衆譽上人ヲ頼ミ僧トナシ 慶長九年(1604)二月山名禅高(豊国)入道公ニ仕ヘ執事トナリ知行高百石ヲ賜リ 仝十一年霜月十五日卒大休院殿前能州大守雲峰以閑ト諡(いみな)ス 其ノ子釆女澄典父ニ継ギ用人タリ
と続く。
山名氏が但馬守護として但馬入りした折りには既に五ヶ国の太守であり、但馬国人としてはただひたすらに恭順の意を示すのみであったろう。八木・太田垣等始め他の同族と共に、田公氏も山名氏の指揮下に入り、旧来の領地を安堵して貰い、室町時代は山名四天王に次ぐ立場で過ごしていたのであろう。
しかし戦国時代に入り豊臣の但馬・因幡攻め以降は流浪生活を余儀なくされ、徳川幕府の世となり豊国公が七美郡を与えられた折りに多くの旧臣を呼び戻した中、田公氏も石高百石で執事として迎えられた。以降、田公氏は代々執事・代官や用人として村岡山名に仕えて居たようである。
尚、文中に「宗彭(そうほう)」とあるのは沢庵和尚の事。
沢庵は天正元(1573)年生まれ。天正十年10才で出家したと言わる。もし天正五年に父らと共に因幡に出ていたとするなら、5才以降の5年間苦しい流浪生活を重ねた後の出家と見ることができる。(沢庵和尚が田公氏の出と言うのは誇らしいところではあるが、和尚の出生には、三浦氏系秋庭氏という説が一般的らしい。七美郡誌では田公氏として記載している。)
元々、田公氏は但馬・因幡の国境沿いに勢力を張った家臣(豪族)であった。鳥取城落城前後、因幡に居たのであれば豊国公に従い、辛酸を共にしたで有ろうことは十分に想像できる。
それ故、田公縁の旧領(七美郡)に復帰した豊国公は出石で寄宿生活をしていた田公を呼び寄せて頂けたのかもしれない。七美郡誌を先に進めると
澄典長男大八郎澄正 山名法雲(村岡山名2代・豊政)公 芳心(同3代・矩豊)公ニ仕ヘ代官兼用人三郎兵衛ト改メ執事トナル 寛文九年(1669)酉正月廿七日卒普明院骨宗榮換ト諡ス 男子無ク而シテ三宅又之丞高正嫡子ヲ以テ嗣トス 三宅久助ト云ヒ又田公三郎衛ト改メ 後ニ三宅ト云フ目代兼執事連署 芳心公覚圓(同4代・隆豊)公ニ仕ヘ…
村岡山名二代・三代に代官兼用人として使えていた田公三郎兵衛には男子がなく、三宅氏の嫡男を跡取りとしている。その後は家督相続以前は三宅姓を名乗り、公職に就いた折には田公姓を名乗りと時に応じて二つの姓を使っていたらしい。
此処になって初めて三宅の名が出てくる。三宅氏自体、氏の発祥地を八木氏の本拠地・養父郡八木に隣接する養父郡三宅とするなら、元々は八木氏の分家と考えるのが妥当か?また、「三宅又之丞」の名は、天正五年の田公氏因幡遁出後に起きた田公残党による「小代一揆」にその名が見える。
それまで八木・太田垣・田公等の有力国人に比べ影が薄かった三宅としては今までに無い大きな出世と言える。その後、村岡山名6代の豊暄公の時代までは田公の跡取りとして順調に勤め上げたのだが、再び七美郡誌に曰く
(寛延三年・1750)三宅庄之助保高 即心院殿(村岡山名6代・豊暄)ニ仕ヘ 幼ヨリ病身ニテ仕官ヲ嫌ヒ帰農ヲ願ヒ御聞済トナリ居屋敷宅及ビ連尭湯(れんじょうとう)ノ處方薬品薬種用具一切ヲ賜リ御暇ヲ下サレ本町南側ニ住ス 三宅安兵衛ト云 仝(宝暦)九年(1759)卯三月廿四日以後代々苗字御免目見衆三宅ト稱ス
村岡山名藩で代々中堅どころの役職を得ながらも、残念ながら6代豊暄の頃、保高は病弱を理由に帰農してしまう。
三宅の帰農を残念に思って頂いたのか、破格のご配慮を頂き御役御免となる。その後も三宅を名乗り庄屋として続いたらしい。
因みに「村岡藩士帰農帰藩及暇絶家表」には、
一、高百石 給人兼代官見習 田公安兵衛平保高宝暦十三年病気ニ依リ帰農
と記述が見える。(田公安兵衛平保高=三宅安兵衛=三宅庄之助保高)
そして時代は明治に入り、三宅の分家の中に子沢山の家があって、そこの四男を法雲寺・吉川上人の元に養子に出す話へと繋がってくる。
弟子養子で繋いできた祖父以前の吉川姓(法雲寺)には血の繋がりは無く源流を遡ることは出来ないが、祖父の系統からみれば、「田公氏流三宅氏」と言えなくもない。
さて村岡山名藩で田公・三宅が役職として頂いていた『用人』とはある辞書によれば、「江戸時代の武家の職制のひとつで、主君の用向きを家中に伝達して、庶務を司ることを主たる役目とし…」。とある。これは現代風に言えば『事務局』のような役職であるのか?。そう考えると何か逃れられない因縁めいたものを感じる。
遙か先祖がお暇を頂戴するに際し、藩公より家屋敷そしてお薬一切まで頂いたご高恩には、遙かに及びませんが、私なりに精一杯、山名会を盛り上げて行きたく思うところです。
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