倶利伽羅・五箇山の旅

-ルーツを訪ねて-
山名一男

1.倶利伽羅「山名」について anchor.png

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(1)倶利伽羅の山名家について anchor.png

石川県津幡町刈安に在住している私は(旧)倶利伽羅村刈安の生まれである。妻は京都市生まれ、京都市育ちで長女と長男の2人の子供をもうけている。
一方、私の父親は、刈安の隣地区の上野の生まれであり(倶利伽羅「山名」の発祥の地)。ここでの上野は「うえの」とも「こうずけ」とも呼ばず、「うわの」と呼んでいる。また、この(旧)倶利伽羅村は源(木曽)義仲と平維盛の寿永2年(1183年)の源平合戦「倶利伽羅峠の戦い」の地であり、歴史的にはよく知られた場所である。一方、母親は富山県南砺市にある(旧)上平村(五箇山)の生まれであり、この五箇山は「倶利伽羅峠の戦い」で敗れた平家の落人村との言い伝えがあり、平家ゆかりの地である。その夫婦の子である筆者は源氏と平家の両方の流れを共有している。

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(2)何故この倶利伽羅に山名の姓があるのか anchor.png

約40年前(1970頃)に祖父から聞いたところによると、昔、山名と名乗る者がこの(旧)倶利伽羅村上野に住み着いたという言い伝え(流れ者)がある。実際に戸籍を調べたところ、江戸時代後期(約200年前)にすでに山名という姓を名乗る人物が(旧)倶利伽羅村上野に住みついていたことを確認した。一方、地元にある「光現寺」というお寺の住職に尋ねたところ、お寺は古いが江戸時代中期に一度全焼しており、それ以前の情報を持ち合わせていないとのことであった。加えて、お寺のデータから祖先を調べることは容易ではなく、正確に把握できるとは限らないとも述べた。また、個人情報の取り扱いから、関係者以外の者が勝手に調査することもできない。現段階では江戸時代後期まで正確に掌握できたが、それ以前については全く推測の域を出ない。以上のことを踏まえ、まとめると次のようになる。
①江戸時代後期には山名という姓を名乗る人物が(旧)倶利伽羅村上野に生活していた。
②倶利伽羅は「倶利伽羅峠の戦い」源平のゆかりの地である。
③倶利伽羅の上野(うわの)という地名は高崎市の上野国(こうずけのこく)という漢字に合致する。
以上の3点に加え、倶利伽羅「山名」のルーツは流れ者という言い伝えから推測すると、偶然とは言え、山名氏の発祥の地(高崎市)との繋がりを予感せざるを得ない。正直、会員の方々のように山名家ゆかりの物的証拠があるわけではない。姓や地名等から倶利伽羅「山名」のルーツを推定しているにすぎない。
本報告では、源氏と平家に係ることを中心に、倶利伽羅「山名」の姓の発祥の地である(旧)倶利伽羅村(石川県津幡町)を紹介する。また母親の生誕の地である(旧)上平村(富山県南砺市五箇山)についても述べる。また、地域で活発化している大河ドラマ「義仲と巴御前」の誘致活動についても触れる。この活動紹介が「全国山名氏一族会」のPR活動の参考になれば幸いである。

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2.(旧)倶利伽羅村(石川県津幡町)について anchor.png

図1,倶利伽羅の位置
図1, 倶利伽羅の位置, 画像01.jpg
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(1)源平合戦について anchor.png

石川県と富山県にまたがる歴史国道「北陸道」が走る倶利伽羅峠は、1183(寿永2)年の源氏と平家が興亡の明暗を分けた倶利伽羅源平合戦の舞台となったところである(図1)。中でも、「源平盛衰記」に記された源(木曽)義仲による「火牛の計」はあまりにも有名である。
源(木曽)義仲は、平安時代末期の信濃源氏の武将である。河内源氏の一族、源義賢の次男であり、源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。「平家物語」においては朝日将軍(または旭将軍)と称された。
 

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〈倶利伽羅峠の戦い(火牛の計)について〉 anchor.png

図2,埴生八幡宮の戦勝祈願
図2, 埴生八幡宮の戦勝祈願, 画像02.jpg

1183(寿永2)年5月11日、平家軍の総大将、平維盛は、倶利伽羅山中の猿ヶ馬場に本陣を敷いて、10万余騎の軍勢とともに木曽義仲率いる源氏軍を待ち構えていた。一方、義仲は埴生八幡宮(富山県小矢部市)で戦勝祈願を行った後(図2)、平家の動きに合わせて味方の軍を7手に分け配置させ、夜が更けるのを待っていた。夜半に北側の黒谷の方角から、4,500頭の牛の角に松明を付け、4万余騎の軍勢とともに平家の陣に突入した。昼間の進軍で疲れ切っていた平家軍1万8千余騎は、源氏軍の奇襲に混乱し、何もできずに追い詰められ、人馬もろとも地獄谷に突き落とされたとされている。

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〈平家の落人〉 anchor.png

図3,平家の落人(平谷に残る平知度の墓)
図3, 平家の落人(平谷に残る平知度の墓), 画像03.jpg

津幡町内には、平家伝説が数多く残っている。河合谷地区の牛(うし)首(くび)・木(きの)窪(くぼ)の両区を始め、津幡地区の平(へい)谷(だん)や英(あが)田(た)地区の菩提寺区は、平家の落武者が村の開祖と伝えられている。また、平谷には平(たいらの)知(とも)度(のり)(平清盛の7男)の墓とされる首塚が残っている(図3)。また、この平谷には平のつく平村、平林、平野、平谷、平田等の姓が見られ(現在は空家)、平家の足跡をしのばせる。菩提寺から近い「上矢田温泉・やたの湯」は、義仲に敗れた維盛がこの湯を見つけ、傷を癒(いや)したのが始まりとされている。
  

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〈「倶利伽羅峠の歌」について〉 anchor.png

この歌は、筆者「山名一男」の母校である刈安小学校に代々伝わる歌である。源平の倶利伽羅峠での戦いを歌にしている。歌は9題まであるが、3題まで以下に記す。作詞者は、八波則吉氏、作曲者は大西安世氏であるが、歌が作られた年月日やいきさつについては、詳しくはわかっていない。


木々の若葉に風かおる寿永二年の夏のころ埴生の宮に祈願こめ必勝期せる木曽が勢
ひうちが城をおとしいれ幸先よしと勇み立つ七手のいくさ所々に伏せ義仲万騎の将として
維盛の軍七万騎砺波山にぞ陣をとる八幡林あとに見つ黒坂口にぞ陣を取る
陣と陣とは程近し矢合わせの時至りぬと
源氏方より三十騎楯の面にあらわれて
上矢の鏑一どきに平家の陣へ射入れたり

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〈「源氏太鼓」について〉 anchor.png

 源氏太鼓や源平騎馬戦など、木曽義仲が勝利した倶利伽羅源平合戦にちなんだ催し物が(旧)倶利伽羅村で今でも行われている。伝統芸能「源氏太鼓」は、倶利伽羅峠の合戦の大勝利を祝って打ち鳴らした「勝利の太鼓」が始まりとされる。後継者が少なくなる中、この「源氏太鼓」を継承しようと、(旧)倶利伽羅村九(つづら)折(おり)では源氏太鼓保存会が刈安小学校の児童や卒業生を指導し、各種の行事で披露している。

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(2)倶利伽羅不動寺(不動尊)について anchor.png

時代は源平合戦より古くなるが、倶利伽羅不動寺にはかつて、718年(養老2年)に弘法大師が建てたとされる七堂伽藍と十二ヶ寺が建立されている。倶利伽羅不動寺にはインドの高僧善無畏三蔵法師の彫刻と伝えられる倶利伽羅不動尊が奥之院に奉安され、成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)と並び、日本三不動尊の一つとして知られ、県内外から多数の参詣者が訪れる。地名にもなっている「倶利伽羅」は、「剣に黒い龍の巻きついた不動尊像」という意味のインドのサンスクリット語に由来する。

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(3)歴史国道「北陸道」について anchor.png

北陸道は古代から官道・五畿七道の一つに数えられ、都に通ずる道として栄えてきた。時代は新しくなるが江戸時代に入ると加賀藩の参勤交代の道として整備された。倶利伽羅越えの街道は、明治13年(1880)の明治天皇の北陸行幸に合わせた天田峠の新道開削により、車社会が著しい発展を遂げる以前に旧道となったため、往時の風情が色濃く残されており、平成7年、歴史国道に選定され、整備が進められている。

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3.五箇山((旧)上平村)について anchor.png

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〈(平家の落人)五箇山について〉 anchor.png

五箇山は古くは平村、上平村、利賀村の3村を五ヶ山と称していたものを、赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の谷に囲まれてた集落を5つに区分して五箇谷間と呼ぶようになり五箇山の地名が生まれた。飛騨国、越中国の国境に接していたため、両国の文化の交流の場であると同時に、周囲を山で囲まている隔絶した地勢から独自の文化が継承されてきた。そのため、五箇山には倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れた平家の落人が住み着いた伝説等が残っている。この五箇山の落人伝説は、1806年に島翆台北茎という人によって書かれた「北国巡杖記」が初出と言われている。旧村名である「平村」「上平村」は「平家」から来たものであり、また「上平村」には落人屋敷や控え屋敷があるという。

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〈合掌作り〉 anchor.png

図4,合掌作りの家(菅沼集落)
図4, 合掌作りの家(菅沼集落), 画像04.jpg

五箇山の冬は全国的な豪雪地帯であるところから茅葺の急勾配屋根が大きな特徴の合掌造り民家が発展し(図4)、現在でも相倉集落や菅沼集落では当時の風景が色濃く残り『越中五箇山相倉集落』、『越中五箇山菅沼集落』として昭和45年に国指定史跡に指定され、平成6年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。平成7年には岐阜県の白川郷とともに、『白川郷・五箇山の合掌造り集落』として「世界の文化及び自然遺産の保護に関する条約」に基づく世界遺産リストに記載された。

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〈麦屋節〉 anchor.png

麦屋節は、富山県南砺市五箇山に伝わる民謡である。唄の歌詞には「波の屋島を遠くのがれ来て」、「烏帽子狩衣脱ぎうちすてて」、「心淋しや落ち行く道は」など落ち行く平家一門の姿を唄っているため、砺波山(倶利伽羅峠)での源平の合戦(倶利伽羅峠の戦い)に敗北した平家一門が落ちのびて庄川上流の五箇山に隠れ住み、絶望的な生活から刀や弓矢を持つ手を鍬(くわ)や鋤(すき)に持ち替え、麦や菜種を育て安住の地とし、在りし日の栄華を偲んで農耕の際に唄ったのが麦屋節の発祥と伝えられている。平紋(もん)弥(や)が伝え教えた「もんや節」と呼ばれたものが、唄の出だしが「麦や菜種は」と唄われるため、麦屋節に変化したと言われている。

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4.大河ドラマ「木曽義仲と巴御前」の誘致活動について anchor.png

富山県、石川県等では、倶利伽羅の源平合戦(1183年)で知られる木曽義仲と巴御前を主人公にした NHK大河ドラマの実現を目指している。(旧)倶利伽羅村(津幡町)でも、「木曽義仲と巴御前」を題材としてNHK大河ドラマ化を目指した各種の行事を行っている。倶利伽羅が舞台となった源平合戦を通して、平家を打ち負かした源氏の武将、木曽義仲と義仲に寄り添い戦功をあげた「日本のジャンヌ・ダルク」ともいわれる巴御前の大ロマンスを、何とか21世紀のテレビで再現しようとしている。倶利伽羅源平合戦の最大のヤマ場は、義仲を勝利に導いた「火牛の計」であり、角に松明を付けた牛(火牛)の大群が、平家軍に突っ込み、数の上で劣勢だった義仲軍が勝利したとされている。

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全国山名氏一族会にとっても、武家文化の初期から、鎌倉、室町、江戸、そして現代まで子孫が永遠に続いており、全国的に見ても大変めずらしい、貴重な一族会である。例えば「山名氏800年の歴史」というような題材をテレビドラマ化への企画提案を行うことを提案したい。とりわけ、ダーウインが提唱する「強いものが生き延びているのではなく、環境に適合するものが生き延びている」という歴史的事実を、現代に生きる人々や企業活動と重ね合わせ、視聴者に共鳴を与え、示唆するような山名氏の歴史的価値を高めるPR活動を活発化することを願う。

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(参考文献) anchor.png

(1)津幡町ホームページ(観光ガイド)
(2)南砺市ホームページ(観光ガイド)
(3)「乱世を駆ける」、木曽義仲と巴御前刊行委員会編、北日本新聞社
(4)私信、大河ドラマ(企画案)「義仲と巴」、富山県
(5)NHK大河ドラマ放送要望書「義仲と巴」、津幡町
(6)義仲・巴出世街道マップ、富山県



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