大地に轟く山名軍団
─和泉・土丸城の攻防─
はじめに
南北朝末期の畿内、“現代で云う紀伊半島”いったいは、日本国の統一安泰を願い、其々の勢力が其の考えの下に、命を懸けて戦っていた時代であった。この時京都では、室町幕府も既に三代将軍足利義満の代に成っていて、畿内の摂津・河内・和泉及び紀伊の一部は、幕将細川氏・今川氏・高(こう)氏・一色(いっしき)氏・畠山(はたけやま)氏・斯波(しば)氏其れに、山名氏・大内氏・赤松氏等が、掌握していた。
之に対し、伊勢の北畠(きたばたけ)一族、紀伊には湊川(みなとがわ)で討ち死にした、楠木正成(くすのきまさしげ)の遺児正行(まさつら)・正儀(まさのり)兄弟等、強力な反幕府勢力軍がいた。この様な背景の中、当時の紀伊半島は、両体制による数々の戦いが幾度も繰り返されていた。
著者は、この数多くの戦いの中から、幕府にとって、畿内平定に、大きく左右したと思われる戦いに、土丸城をめぐる攻防があるが、この一連の戦いを、土丸城の攻防と題して取り上げ、記録してみた。
倒幕軍来る
正平二十三年(一三六八年)未だ畿内には、室町幕府に対する、反幕府勢力が、各地に点在していた。この年、征夷大将軍に任じられた足利義満(よしみつ)は畿内平定を目指し、楠木党を中心とした、反幕府勢力と戦いつつ、正平二十四年、幕府の管領(かんれい)、細川頼之(ほそかわよりゆき)による仲介の下、楠木正行の弟、東条城城主、正儀と和平交渉を続けていた。
尚、先に記した正成の嫡男正行は、正平五年河内四条畷(しじょうなわて)に於て、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟の、六萬に及ぶ大軍を相手に戦い討ち死にしている。従ってこの時、楠木一族の棟梁は正儀であった。
天授四年(一三七八年)紀伊に於いて倒幕の機運高まり、義兵を募り挙兵、率いるは、楠木十六将の一人、橋本判官正高(はしもとほうがんまさたか)である。
正高軍は、紀伊を出陣、途中、神宮寺師総(じんぐうじもろふさ)軍、宇佐美正種(うさみまさたね)軍等と合流の後、紀伊の守備隊、幕将細川業秀(なりひで)軍を襲撃、業秀防戦するも多勢に無勢、抗しきれず総崩れとなり、辛うじて淡路へと敗走した。
正高軍勢いを増し、紀伊から和泉へと兵を進め、土丸城を占拠、ここに正高軍の旗印を掲げた。
泉州土丸城
此処で土丸城の概要について記しておこう。土丸城は和泉と紀伊の国境沿いに位置し土丸城から北東へ50メートルの所に雨山(あめやま)がある連山を形成し、断崖に継ぐ断崖の天険の要塞の如く、様相を成している。幕府にとって、和泉防衛上、戦略的重要なる最前線の城である。(図書1・2を参照。)
義満、正高の進撃に驚き、細川兵部太夫(ひょうぶたゆう)氏春(うじはる)に、土丸城奪還を命じた。氏春、和泉の国人衆三千騎を従え土丸城を包囲、攻撃を開始した。だがしかし、倒幕軍奇策を駆使。城中よりの攻撃激しく、大石小石を雨霰の如く投じてきた。
兵部太夫の尖兵、城壁に辿り着くも、盾冑(たてかぶと)は打ち砕かれ、手足は漬され、櫓(やぐら)の窓塀(まどべい)の狭間(さま)からは、射手の狙い撃ちとなり、兵部太夫、軍慮に詰まり、急ぎ京に飛脚を立て、義満に援軍を要請した。「多勢に無勢、土丸城の正高軍、日増しに兵力を増し、今や其の軍勢、二萬騎に迫る勢いなれば、急ぎ援軍之あるべき」と記している。
義満之を聞き、細川右京太夫(うきょうたゆう)頼元(よりもと)、及び山名軍を中心に、援軍を組織、右京太夫頼元・山名修理太夫(しゅりたゆう)義理(よしまさ)・同舎弟(しゃてい)民部少輔(みんぶしょうゆう)氏清(うじきよ)・同右馬頭(うまのかみ)時正(ときまさ)・同播磨守(はりまのかみ)満幸(みつゆき)・同中務少輔(なかつかさしょうゆう)氏親(うじちか)・同五郎時理(ときまさ)・同弟草山(くさやま)駿河守(するがのかみ)氏重(うじしげ)、都合その勢三萬餘騎(橋本正高事蹟より)を兵部太夫の指揮下に入れ十二月二日に京を出陣、同五日には全軍土丸に着陣。土丸の山野を山名軍団が埋め尽くした。
正高之を見て「人々あの大勢を見よ、斯かる大敵に当たってこそ春ならぬ軍に、花をも散らすべけれ、望むところ大勢来たって、城を囲む事こそ幸なり」と言しめた。
正高は手勢を三手に分け、須山隊一萬五千騎を自ら率い一勢は田辺八郎成忠三百騎、又一隊は平尾小次郎満幸百騎、其々炬火を投げ打ち、右京太夫軍の兵舎を焼き払い夜襲を掛けてきた。
右京太夫軍一時は大混乱となる、この時、敵の側面へ突撃した部隊があった。氏春軍である。頼元これを見て態勢を立て直し、反撃に転じて敵軍を撃退、城中へ背走させたのである。
明くる六日、幕府軍による総攻撃を、圧倒的大軍をもって開始、中央に総大将細川氏春、右翼に右京太夫頼元、都合一萬五千が進撃、之に対し正高軍の主力一萬二千が対陣した。
山名軍一萬八千は城の正面より進撃を開始した。守る城中には和田正尹(わだまさただ)軍僅か四千騎餘り。
正尹軍意外にも城中より出撃、頓田の要塞の前面まで兵を進め、小高い丘陵地帯に陣を張った。山名軍は先ず満幸軍四千騎が突撃を開始、続いて氏重軍三千騎が先陣を争い敵陣に殺到した。
正尹軍、要塞より弓矢の攻撃を激しく打ちだし、山名軍の進撃を阻止、此処で両軍の激突により激しい攻防となった。
城将正尹の地の利を生かした攻撃に、山名本隊の義理は、満幸・氏重をいったん退かせ、代わって氏清軍五千騎を敵陣の前面に押し出し、義理軍のうち次郎氏親隊一千八百騎を右翼へ、五郎時理隊、一千騎を左翼へ配置して、敵陣を包囲壊滅するべく攻撃を開始した。
正尹軍、三方よりの攻撃に耐えられず、先ず中央の防衛隊が崩れ、要塞へと退却、次いで全軍が、頓田・八幡の要塞へ退き、防衛体制を敷いたのだが。
之に満幸・氏重も加わった山名全軍が襲い掛かる。一萬八千の猛攻である。
正尹軍、山名の大軍に対し頑強に防戦、抵抗を繰り返したが次第に抗戦に耐えられず、最後の防衛線も放棄、城中へ退却して篭城の態勢をとった。
山名軍は攻撃の手を緩めず之を追撃、義理は本丸へ、氏清は雨山へ、軍を二手に分け一気に勝敗を決すべく、両城に迫った。氏清軍は雨山攻略を最短距離の側面攻撃と決し全軍一気に崖を駆け上がり要塞に突入せんと試みたのだが、城兵の反撃鋭く、城中より投げ打たれし落石の激しさに、苦戦を強いられ、氏清は一旦兵を治め、氏重の「本丸に背を向けては、正尹軍に挟み撃ちになる恐れあり」との進言を「本丸は兄上が攻撃を仕掛けているはず」と退け、雨山と本丸の間の丘陵地帯に兵を進め、正面突入に作戦を切り替え攻撃を開始した。
一方本丸に迫った義理軍は城中の抵抗に合い一進一退を繰り返し、僅か三千の城兵に、八千の軍勢が釘付けにされていた。
雨山の正面突破を成功させ、之を制圧した氏清軍は取って返し義理に合流、本丸を包囲した。今、正に土丸連山は、山名軍団の将兵で満ち溢れ、土丸城の落城は目前に迫っていた。(花営(かえい)三代記には、時義軍の猛攻により、本丸を占拠)と記されている。
だが然し、この時既に、正高の主力軍は幕府の大軍に抗しきれず、城中の兵糧も乏しく、落城寸前、巧みに紀伊へと撤退して行った後であった。
氏清の猛攻により土丸城の奪還に成功した山名軍は、正高を打ち漏らすも倒幕軍の撃退に成功して、和泉に平穏をもたらせ、義理は藤代の大野城へ、氏清は、弟氏重に美作(みまさか)勢二千騎を与え、土丸城の防備に当たらせ、自らは當(あたり)城へと、其々凱旋していった。
そして、戦いに明け暮れた天授四年の晦日も静かにくれて行ったのであった。
天授五年正月
正高は、山名軍が引くと見てか、翌天授五年正月、紀伊にて再び倒幕軍を組織、土丸城攻撃に向け出陣してきた。
山名軍は不意をつかれ、戦闘準備の整わないまま、正高の軍勢が土丸城に迫ってきた。守るは氏重、僅か美作勢二千騎のみ、正高軍は、土丸に連なる雨山と土丸城の問に割って入り、両城の寸断を図ってきた。
城中の氏重、城の背後を雨山軍に頼り、自らは城の前面に押し寄せる敵の本隊を迎え撃つべく、本丸死守の陣形に入った。
正高は、雨山軍を撃破した後、自らは兵七千騎を率い、城の前面に廻り、前後両面より本丸を攻撃してきた。
氏重決死の防戦をするも、城門は打ち砕かれ、城中には火矢を射ち込まれ、一時は自刃(じじん)を覚悟したのであったが、本丸落城寸前、手薄になった雨山方面の敵陣へ、全軍最後の突撃を敢行、敵軍を蹴散らし、雨山城に迫り、これを占拠、そのまま雨山城に立て篭もった。
本丸を占拠した正高は、此処に再び正高軍の旗印を掲げ、氏重の立て篭もった雨山城を包囲、明くる二十二日の総攻撃の体制に入った。
そして二十二日の夜明け、氏重は雨山城にて、最後のときと覚悟を決め、土丸の山々を眺め、そして日根野方面に目を移し、わが身を疑った。雨山城のふもとに、数千の軍勢が迫っていた。旗印は丸に三引、氏清軍である。氏重、九死に一生を得たのである。
氏清は、倒幕軍の混乱に乗じ、一気に攻撃を開始。先ず頓田の要塞を堕とし、次いで八幡・盆の山と次々に要塞を堕とし雨山の氏重と合流の後、全軍本丸還奪に向け進撃を開始した。
正高軍は、山名軍の快進撃に、総崩れと成り、山中を駆け下り、犬鳴(いぬなき)川沿いに、紀伊へと敗走していった。
そして、天授六年七月十七日“高(たか)艮(よし)の辺”にて山名軍は、正高軍と決戦に及び、正高軍を圧倒、遂に正高を討ち取ったのであった。
義満これを大いに喜び、義理・氏清に紀伊・和泉の守護職(しゅごしよく)を与えた。氏重は兄氏清より土丸城の守備を命じられ、土丸城城主と成る。
之により畿内平定が成り、弘和二年楠木正勝が、再び倒幕の兵を挙げたが、徐々に倒幕の機運も薄れ、暫くの間、畿内に平穏の日々が続いたと云う。
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