―エッセイ― 応仁の乱と山名氏一族

─ 若い世代に語る応仁の乱と山名 ─
山名靖英

先日、学校から帰ってきた孫娘が、私のもとにやってきて開口一番、
「おーちゃん(私の愛称)!山名って有名やなあ!学校で、『応仁の乱』って習ってん。山名宗全って私らの先祖さんやなあ!」と。
「そうや!詳しいことは分らんけど、おーちゃんのおじいちゃんから聞いたことがあるで。」と私。「学校で習ったけど、もう少し知りたいねん。」「そしたら、一緒に勉強しよか。」となってしまった次第である。

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西陣碑, 西陣碑.jpg

孫「歴史の教科書に出てたけど、応仁の乱って、1467年から1477年の11年間に亘って、山名持豊(宗全)と細川勝元が京都を舞台に戦った。と書いてあったよ。」
私「そうなんや。時は室町時代の応仁元年に始まったから、応仁の乱っていうんだ。京都には、西陣はじめ、当時の遺跡が残されているよ。」
孫「戦争って嫌やけど、なんで戦いが始まったの?」
私「戦争はやってはいけない悪の行為だけれど、避けられない理由があるようなんだ。応仁の乱が始まった原因は、一口に言って代理戦争といえるんだよ。その当時は室町時代で、日本の国を治めていたのが、8代将軍足利義政だったんだ。」
孫「へえ。その室町時代って長く続いたんでしょう?」
私「そう、1378年から1573年まで続いたから、約200年だね。足利尊氏が征夷大将軍になってからだが、3代将軍足利義満が京都の室町に邸宅を構え、政権の中心としたことから、室町幕府と呼ばれているんだ。」
孫「そうなんだ。ところで、なんで、戦争になったの?」
私「そこなんだ!当時は常に権力争いが日常茶飯事だったんだ。権力を手に入れたり、保ち続けるためには、わが子でも、兄弟でも、親族でも、犠牲にしたんだ。政略的に、娘を嫁がせたり。」
孫「怖いよね!そんな時代に生まれてこなかってよかった」

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系図01, 系図1.png

私「応仁の乱というのは、そのような時代背景の中、8代将軍足利義政の後継をめぐっての争いなんだ。
将軍義政には後継ぎとなる男子がいなかった。だから義政は、自分の弟の義視(よしみ)を9代将軍にすると約束したんだ。ところが、皮肉にも、その後に、義政の正室であった日野富子との間に男の子が生まれたんだ。それが義尚(よしひさ)という。
男子が生まれたから当然9代将軍は義尚となるよね。でも、すでに約束された義視にとったら面白くない。だから、自分を応援してくれている、当時、東軍の大将だった『細川勝元』に泣きついたんだ。一方、義尚側は、当時、西軍の大将だった『山名持豊』の応援を求めたんだ。加えて、同時におきていた畠山家の相続争いもからんで、戦いが始まった訳だよ。
だから、応仁の乱というのは、山名宗全と細川勝元が直接いがみ合って起こした戦ではなく、権力者の相続争いに巻き込まれた代理戦争といえるんだ。」
孫「でも代理戦争といっても、戦争は戦争でしょう?」
私「代理は代理で、本戦ではないよ。全面戦争を避けるためなんだ。」

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応仁碑, 応仁碑.jpg

孫「そうか・・・。複雑だったんだ!ところで山名氏というのは、いつごろからあったの?」
私「山名氏の歴史は古く、歴史研究家の宮田靖国先生は、《清和天皇第六子である貞純親王(さだずみしんのう)の長子・経基王(つねもとおう)(六孫王(ろくそんのう))が清和源氏の始祖となられた》と述べられている。(当刊、宮田氏文章参照、以下同様)
源氏といえば、源の頼朝や義経など、有名だよね。まさに武家の名門であった清和源氏の支流で、新田義重(にったよししげ)の子義範(よしのり)という人が上野国多胡郡山名に住んで、山名三郎と名乗ったことが山名の始まりとされているようだ。」
孫「へえ!すごいなあ!」
私「山名義範は、頼朝の挙兵に参加し、源平の合戦に活躍、平家討伐に貢献したんだ。その恩賞として、伊豆守(いずのかみ)に任ぜられている。これは、『吾妻鏡』に出ているんだ。その後、北条の陰謀に会い、辛酸をなめたが、激動の中生き抜いた。特に、山名時氏の時代には、南北朝の動乱期であったが活躍し、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作など5ヶ国の太守となっている。さらに、氏清の代では、12ヶ国の大守護となり、『六分の一殿』と称されているんだ。その後、持豊の時代と移るんだが、このことは、『山名家譜』に書かれているよ。
孫「この時代、生き残ることは大変だったんだよね。」

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系図02, 系図2.png

私「話は『応仁の乱』に戻るが、実は、この乱を仕掛けたのは、細川氏なんだ。だから、山名側は、細川勝元の奇襲に、かなり遅れて挙兵したが緒戦は敗退した。『応仁記』に詳しく述べられている。ともかく山名は受けて立った。
このことに宮田先生は、『山名家譜』の中で詳しく触れられている。《山名は伝統的に、こちらから何もしない。しかし、理不尽な侮辱や攻撃を仕掛けられたら必ず反撃する》と。
ともかく、戦は11年間にわたって続いたんだ。その間、敵味方が入り乱れて、昨日味方だった陣営が、今日は敵陣営に“鞍替え”するという、複雑怪奇の戦いとなったそうだ。“人心は移ろいやすい”というが、自分の利害で味方をも平気で裏切る。あっちについたり、こっちについたり、が繰り返され、結局は、山名宗全も細川勝元も病死してしまい、明確な決着がつかないまま終わったようなんだ。」
孫「へえ!そうなんだ。それで、後継ぎ問題はどうなったの?」
私「第9代将軍には、山名陣営が応援した義尚がついた。だから、その意味では、山名宗全側が勝ったといえるかもしれないね。」
孫「その後は、うまくいったの?」
私「ところが複雑なんだ。9代将軍の義尚は、その後の戦いの最中に病死した。25歳の若さだ。しかし、後継ぎがいなかったため、争いの相手だった義視の子の足利義材(よしき)(義稙(よしたね))が義政の養子となって10代将軍になるんだ。」
孫「ややこしいなあ!」(笑)
私「そうなんだ!これが当時の権力争いの典型と言えるんだよ。もっとややこしいのは、その後だ。義尚というのは日野富子の子供だろう。だから、日野富子は山名宗全の手を借りて8代将軍義政の後継にしようとした。一方で、弟の義視を将軍にしようとしたのが細川勝元。なんと、その争いの本家である日野富子と、細川勝元の子供である細川政元が手を組んで、10代将軍の義材を失脚させるんだ。そして、11代将軍には、義政・義視の異母弟の子(義澄(よしずみ))を据えるというややこしさだ。その後、いろいろあって(笑)義材が復帰するが、後継争いにまた負けて将軍職を追われる。という流れになるんだ。」

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孫「もう分らなくなった!どうでもよくなった。」(笑)
私「これが、その後突入する戦国時代の幕開けの様相なんだよ。だから『戦国時代』というのは、ある意味で、権力者の保身だけの意味で明け暮れた時代で、その陰でいつも脅え、犠牲になってきたのは庶民だったといえるね。」
孫「なんか、山名家というのは、損な立場みたい!応仁の乱って何か意味があったの?」
私「うん。宮田先生によると、この乱までは、《門地家格によって位が決められ全て世襲制であったが、応仁の乱以降は、どんな身分の人でも、努力すれば立身出世できる道を作った》という。だから、応仁の乱というのは、(結果的に)《日本の歴史史上、最高最大の革命であった。》といわれているんだ。また、乱後、義尚は、『山名家に聊かも咎なし』、『余が今日あるは山名家のお蔭である』といわれていたというんだ。
その後の山名氏は、戦国時代という動乱の中でも、江戸時代も、今日まで、質素倹約に努め、正直に、愚直に生きてきた。近世初頭の禅界に名をはせた沢庵和尚が山名豊国公に贈った讃辞が残されている。

山可山非常山山は山でもただの山ではない
名可名非常名名は名でもつねの名ではない
有山名之名ここに山名という一族がある
眷其族派その棟梁は
多田源氏后裔多田源氏の後裔
前因州大守也さきの因州大守である
大守謂誰大守誰ぞ謂わん
東林院殿徹菴公也東林院殿徹菴禅高公なり
(「山名家譜」より)

山名氏一族を高く評価した一文だよ。
主君には忠実に仕え、自らの生き方には謙虚で、人を裏切らず、貶めず、筋を通した生き方に徹したのが、山名氏だ。本来なら、清和源氏を姓の初めとして、幾多の家伝・文献、史跡が残されて当然だが、なぜか山名氏を語る文献資料は少ない。『山名家譜』の巻末に、宮田先生が述べられているが、《応仁の乱について、なぜ、かほどの正当性があるにもかかわらず、山名の人々は西軍から見た乱の顛末を記したものを残さなかったのか。(中略)答えは一つ。書く必要がなかったからである。つまり、自己弁護する必要も、うしろめたさも何もなかったのである。》と。

「お前も山名一族の誇りを持って頑張らないといけないよ!」
孫「うん。よく分かった!私も、山名氏に自信を持って生きていくわ!」

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yahoo武家家伝より
同百科事典より
冊子「山名」「山名家譜」宮田靖国氏寄稿



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