三、紅葉燃ゆ ―近世山名氏― anchor.png

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村岡藩領氷ノ山 anchor.png

明治四年(一八七一)秋十月。
ここ氷ノ山(現、兵庫県養父市関宮町地内、標高一五一〇m、 中国地方第二の高峰)頂上に立った村岡藩主山名義路とその一行は、 眼下にうねりたゆたう山脈(やまなみ)の燃えたつような黄紅葉に息を呑んで佇ち尽しました。 「うわあっ、四方八方見通しじゃ。……爺、これがわが領の最高所か」

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最後の藩主 anchor.png

義路はこの時十二才。まだ前髪の以合う少年ながら、青々と月代(さかやき)を剃りあげています。
この年二月に父義済が三十八才の若さで没くなりましたから、葬儀が終った四月に家督相続。六月に太政官(明治新政府)より元服・昇殿(宮中清涼殿に参内できること)が許されたばかりです。
金剛麿改め義路、従五位下(じゅうごいのげ)因幡守(いなばのかみ)・村岡県知事、これが少年の正式な呼称です。
爺と呼ばれた老人は村岡藩筆頭家老池田勣一郎(せきいちろう)。 これも正しくは村岡県大参事・太政官出仕・集議院議員です。
このとき五十六才。 ただでさえ五尺そこそこ(一五〇cmぐらい) の小躯(しょうく)が、維新前後の東奔西走でいっそう肉を落したので、老翁と呼ぶにぴったりです。
「ハイッ若。いや違いましたわい。村岡県知事閣下、この氷の山が七味(しつみ)五郷第一峰、但馬・因幡・播磨三国の分水額にごぎいまする」
「爺、そんな言い方はやめてくれ。でないとこちらも”大参事よ〃なんどと呼ばねばならん。ところで、西の方遠くに見えるのが大山か」
「さよう、伯著大山(標高一七一一m、中国地方の最高峰)。あのあたりに時氏公のお墓がありまする」
「すると、こう西から北にかけての一帯が因伯(因幡国と伯著国)じゃな」
「いかにも、ついでに、こちらをご覧くだされ。北から東にかけてが但馬の国、東の山遠くが丹後・丹波となりまする。そしてこなた南側一帯が播磨の国でありまして、南西の側が美作・備前…、備後までは見えませぬな」
「ああ、どちら向いても山名の領国…だったのじゃな。して、わが村岡藩、いや村岡県はどこからどこまでか」
「村岡領は但馬七味郡一円。北の方に海が見えまするなあ。あそこが香住。そこからこの山裾までうねっております川が矢田川、矢田川の流域全部が村岡領でごぎいまする」
「ふう-む、たったこれっぽっちか」
山頂から見おろす其処は展望三百六十度のうち僅か四十度ほどです。 しかも、そのほとんどが広葉樹に覆われた山や谷ばかり、耕地はといえば川筋のところどころに一握りほどずつ張りついているだけです。
「 --なるほど、一万石じゃものな」
「ちがいまする、若。一万一千石ですぞ」
「どつちにしても知れたもんよ」
「若、それを申されてはなりませぬ。そもそもわが山名家の草創は・・・ 」
「おや、また始まった。爺の十八番が」
「辛棒してお聞きなされ。今日ここへご案内したのも、若ご自身の目や耳でしっかりと爺の”そもそも〃を確かめていただくためですぞ。
若よ。実は村岡県もあと一と月たらずで無くなってしまいまする。豊岡県に合併し、やがては播磨・丹波とも一緒になって大きな県になるはず…・・・。領主としてわが所領をごらんになるのは今日を措いてほかにはごぎいませぬ」
「さように変わるのか」
「そうです。それがご一新(維新)というものです。では始めまするぞ」

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藩祖禅高 anchor.png

「そもそもですじゃ。山名氏が今日まで七百年の名跡を伝えることができたのは、ひとえに藩祖禅高公(本名は 豊国、一五四八~一六二六)のお働きによるものですぞ。
ごらんくだされい。この但馬全域は室町の初めより山名氏本貫の地でありましたが、今を去る三百年前、織田・豊臣の天下統一に反したがために攻め滅ぼされ、山名総領家は一旦断絶したのですぞ。
その山名の家名を再興されたのが、こちら因幡の国を治められていた豊国禅高公にございまする。
因幡の国はもともと六分一殿時氏公の第三子氏冬公の系統が守護職を受けついでおられました。
ところが、戦国末期の動乱でどうにも立ちゆかなくなりましてな。但馬宗家から豊定公(総領家祐豊の弟)を迎えて息をついだわけでごぎいまする。
その第二子が豊国公で、因幡の国最後の守護職となられましたわ。
公は天下争乱の行く末をつくづくと観望なさり、西の毛利はもはや命運尽きたり、これからは東の織田が天下となろうと見究められましてごぎる。
しかし、何分にも因幡の国は毛利圏の地つづきであり、国人衆も毛利側とはじっこんにて、若い領主の意向に従いませぬ。
あれやこれやのやりとりの末、禅高公は鳥取の城を出て、東の羽柴(秀吉、中国征伐の総大将) に与力なさいました。
この分別が山名家を救ったのですぞ。
案の定、鳥取城は秀吉公お得意の飢(かつ)え攻めで篭城百数十日の末落城し、毛利色の国人衆も四分五裂という始末。
天正十年(一五八二)信長公急逝の後、禅高公は太閤殿下(豊臣秀吉)に近侍され、次いでの神君(徳川家僕)からは、両家の先祖が兄弟であった因縁から格別の待遇をいただかれてごぎいまする」

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徳川氏と山名氏 anchor.png

「この山名徳川同族説ですが、さきの略系図をごらんください。
太祖義範の弟義李が得川姓です。後に徳川と好字に改められたといわれています。」
「で、そのころ、名誉ある山名氏歴代の祭祀料として拝領されたのが、此の七味五郷でありまする。禅高公があのとき家臣どもの侭(まま)になって、毛利に組されておれば、但馬宗家と同様に因幡山名の存在など鎧袖一触(かいしゅういっしょく)、一朝にして潰されておりましたでしょうな」

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禅高神号と孝仁天皇 anchor.png

「うん、ようわかった。じやが爺よ。わが家では禅高公だけ、何故”豊国禅高七味権現”(ほうこくぜんこうしつみごんげん)などとお呼びするのじゃ。ほかのご歴代同様に″東林院殿″という院号をお持ちなのに、どうして権現様なのじゃ」
「良いとこへお気づきなされました、若。このいわくは家中の老どももあまり知ってはおりますまい。
- たしか神号を戴かれましたのは天保六年(一八三五)、禅高公二百回忌に当ってでありました。
この権現号を下されたのは、吉田神道の社家や都あたりに掃いて捨てるほどある名神大社ではごぎいませぬ。
恐れ多くも時の帝仁孝天皇御直々の勅諚(ちょくじょう・みことのり)にごぎりまするぞ。
わが家は十代義問公(一八〇八~一八五九)の治世でありました。
若よ。法雲寺(藩公菩提寺、兵庫県村岡町)にある勅書をご覧になられませ。
それには、この神号を追諡(ついし・おくり名)するので神法を紹隆し宝祚(ほうそ・天皇の御代)延長を祈り奉れとあって、宛名は東林院御坊となってごぎいまする」

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花園東林院 anchor.png

若もご存知でごぎろ。 あそこは寺でありますとともにわが村岡藩の京都都藩邸にもなっておりまする。
つまり、わが藩は東林院を足場にして都の堂上方(宮廷)とつながっておるのでごぎいまする」
「ああそうか。でも、帝ともあろうお方がわが家ごときにそうやすやすと勅読をくだされようとは思えぬが」

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大江磐代君(おおえいわしろきみ) anchor.png

「それでごぎいまする。恐れ多いことながら、帝には山名家と深い御縁がありまするとか。
帝の御父光格天皇様(第一一九代)は閑院宮家の御出自でして、御生母を従一位大江磐代君と申しまする。
このお方は伯耆倉吉の御出身にて、なんでも伯耆守護職家の山名氏豊公につながるとか。
光格天皇と御弟宮、聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)盈仁親王(えいにんしんのう)を儲けられまして、晩年は聖護院別邸にてお過しなされました。
こう申せば利発な若には事の筋道が見えてくるはず・・・いかがですかな」
「そう言われれば何やらわかってきたようなが……。でも、聖護院とやらは歴代皇族方がはいられる宮門跡。東林院では近寄れまいに」
「若。東林院は妙心寺の塔頭(たっちゅう)寺院ですぞ。臨済宗大本山、花園上皇御塔所、歴代天皇の勅願寺ともなれば・・・。これひとえに義問公のご明察によるものと拝しまする」
「なるほど―」

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十代義問 anchor.png

「ついでに若、義問公の治世について申しておきまする。
公は村岡藩ご歴代きっての名君にて、御みずからの博学や能書はさておき、ご領内の仕置が実に立派でごぎいました。
まず、 学問奨励のために藩学明倫館(めいりんかん)をおこされ、当代一流の教授をお招きあそばしたこと。
ために小藩ながら俊才が多く育ち、文教尊重の風が藩 内にみなぎり今に至っておりまする。
次には殖産興業に力を注がれましたこと。なかでも新田の開発が大きく、山の上や谷の奥が美田にな るなどで穫れ高もずっと増えましてな。
明治二年、この爺が先頭になって、村岡藩立藩の議を太政官に歎願することがかないましたのも、この新田のおかげと思うておりまする。
それから、地域の特産として誇るべきが村岡牛。
但馬はもともと牛飼いが盛んな国でありまするが、公は牛の品種品質改良と増産に意を用いられ、ずいぶん多額の資金を注ぎこまれました。
おかげで今や、牛といえば但馬牛、但馬牛といえば村岡牛。秋の牛市には全国から馬喰(ばくろう・牛や馬を商う人)が村岡めがけて押し寄せますわい」
「わかった、爺。はらわたに泌みるほど……。なろうことなら弁当を食しながら申せ」
「いやはや、爺としたことがとんだ長談義。あとはお頭けといたしまして、これ、殿様にお昼をさしあげるのじゃ。われらもここで戴くことにする。下山の時刻もあるによって、若、ご無礼のほどは判にご容赦を」
「よいよい。こうやって氷の山のてっペんで皆と一緒の食事など、ご歴代公もなさったことはあるまい。願うて もない果報よ」
晩秋のぬけるような大空に鳥影がひとつ。この山にしか住んでいないといわれる犬鷲なのでしょうか。
ゆったりと羽ばたきながら、一行の頭上に大きな輪をかいています。
天蒼々(そうそう)、地層々―。 播因但三国の天地は今、大自然にしか許されない悠久の刻(とき)を、紅に黄に燃えたちながら音もなくきぎんでゆくのでした。

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補記 anchor.png

氷の山探訪から二十日余りあとの十一月、村岡県は隣の豊岡県に合併されます。
旧藩主山名義路は家族と共に上京し、成人後は陸軍軍人として奉職。
明治十七年の華族令施行によって男爵に列し、後には貴族院議員になるなど、村岡藩主にふさわしい生涯をおくっております。
昭和十五年没。世寿八十一才。村岡藩陣屋奥の桜山御廟に葬られました。
爺 - 池田勣一郎がお預けにした長談義の続きは、日記によれば次のことどもです。
藩祖禅高が秀吉・家康に近侍して、近世山名氏を復興したことは既に述べていますが、
その際に、かっての総領家である但馬山名氏第十代尭熈(あきひろ・氏政とも)が地下(じげ)に埋もれていたのを救い出し、家康に周旋して旗本にとり立ててもらったという隠れた美談です。
この家系も以後連綿と続いて明治を迎えています。
また、因幡時代の旧臣―武田・中村等、反禅高の首謀者たちが、鳥取械落城後、諸国に流浪しているのを呼び戻し、旧怨を問わずに高禄を与えて家臣団上席に据えるなどで、人の上にたつ者の寛やかな心構えを、爺は若殿に伝えたかったといいます。
それから爺は、この村岡藩が小なりといえども准三位の格式をもつ家柄であることを内外に闡明(せんめい)した三代矩豊の事績にも触れるはずでした。
三位といえば、徳川御三家の一つ―水戸徳川家と同格となります。
矩豊の官位は従五位・伊豆守ですが、但馬山名氏七代致豊が永正五年に将軍義稙より賜わった”末代准三位”の御教書に依るもので、徳川幕府もそれを承認している事実です。

寛永十九年(一六四二)家督後初めてお国入りした矩豊の盛大な行列ぶりは今も郷民の“ひとつばなし”になっております。
矩豊はまた、領内仕置の基礎を固めました。
まず、兎塚村にあった陣屋(小規模な城郭)を領内中央の黒野村に移し、陣屋を核にして町割を定めます。
今もその面影を残す殿町(武家町)・本町(商人町)・在郷町(百姓町)などがそれです。
また宗教施策にも熱心で、黒野村北方の山麓にあった報恩寺という花園妙心寺の荘園政所(まんどころ)を町の中心部に移して法雲寺と改称(二代豊政を法雲院殿という)して山名氏歴代の菩提寺とし、大運・厳浄の二か寺を町の東西に配するなど、近世城下町設計の基本を踏まえた縄張りです。
矩豊はまた、自分自身学芸教養にも造詣が深く、時の帝(霊元天皇)の御前で特意の琴を披露して面目を施したり、北野経王堂に悲劇の武将氏清の顕彰碑を建立したり、法華経一部を浄写するなど、多彩な人間像の持ち主ですが、それらを若い藩主のために爺・池田勣一郎は語っておきたかったと誌しております。
因みに、今も残る〈蘇武ケ岳(そぶがたけ)〉やく昆陽川(こんようがわ)〉など漢籍(かんしゃく)から採った地名は矩豊の命名です。
村岡県解体後、家臣たちは思い思いに四散して新天地を求めますが、勣一郎も京都に出て、東山の辺に隠栖します。
明治十五年、六十七才で没するまで、たえず旧主の成長ぶりを気にしていました。
そして、たまさかに出会えば満面をほころばせて「そもそも、わが山名家は………」を繰り返したということです。



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