1: 2011-10-31 (月) 21:00:42 admin ソース
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 +TITLE:鎌倉山名氏
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 +*二、花吹雪-室町山名氏- [#qd60ceb4]
 +**梅津長福寺 [#xc0c9e48]
 +文明五年(一四七三)三月 。 洛西梅津(現、京都市右京区梅津中村町)に甍(いらか)も高くそびえる花園上皇御願寺の大梅山長福禅寺は朝から重々しい空気に包まれています。 客殿奥の一室に臥せった西軍の総帥山名宗全が今しも七十年の生涯を閉じようとしているからです。 洛中洛外からの伝騎はいつもの通りあとを絶ちませんが、いずれも門前の衛士(えじ)に押しとどめられて、乗馬を一町(一〇九m)ほど離れた松林に繋ぎ、 足音をひそめて大方丈(本坊)に置かれた本陣へ向かうのでした。 山内の正法・大慈・瑞光ら子院に分宿している西軍方の大小名も等しく客殿の物音に耳をそばだてております。 応仁・文明の乱が勃発以来七年、山名軍は花の御所(将軍の御所)西隣の山名邸を本陣としたので、そこを西陣と言い、軍勢を西軍と呼びます。 従う武士は十数万、全国から馳せ参じた強武者揃いです。対する東軍は細川勝元を中心にこれまた十余万、合わせて三十万もの軍兵 がなだれこんでの攻め合いですから、花の都はたちまちに焼野が原となってしまいました。 『汝や知る、都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)、あがるを見ても、落つる涙は』 飯尾(いいのお)某はこう詠んで都の人々の悲しみのほどを訴えております。 そのころになると宗全は西軍の本陣をこの長福寺に移しています。 ここは都の西玄関です。山陰山陽を地盤とする宗全は、かねて戦術上の重要性からこの大寺に目を着け、洛東南禅寺とともに山名氏の拠りどころとしていたからです。 居室の正面押板(床の間)には宋元舶載の古筆と思しい禅画の三幅対(さんふくつい・三本で一組になった軸物)が掛けられ、その前に置かれた三具足 (香炉・燭台・花瓶)からは蘭麝(らんじゃ・銘香)の煙がうっすらと流れています。 この頃から流行しはじめた東山文化の典型的な様式です。普通なら、このような場合は正面に阿弥陀如来像を祭り、その御手から五色の綱を垂らせて病者に握らせます。仏のお迎えを信じ極楽往生を確かなものとする臨終行儀なのです。 宗全は『わしは鞍馬山の毘沙門天じゃそうな。一休坊主がそう言いよった。毘沙門天ならわざわざの来迎もいるまいよ』と笑いとぱしたということです。 しかし、かっては赤入道と渾名されるほど活力にみちた宗全の双頬は血の気を失っていました。 枕頭には禅の師であり善き友でもある南禅寺真粟院主の香林宗筒禅師(こうりんそうかんぜんじ・一説には大蔭宗松とも)や嫡孫政豊ほか身内の数人が沈痛な面持で宗全の顔を見守っています。 「・・・・ムムウッ・・・・何処じゃな、ここは。ゆゆしげな武者どらが居並んでおじやるがーー。オオッ、教豊(宗全の嫡男)ではないか、末座に控えたあの若者は・・・・。しきりに手招きをしておるわ。なるほど、あれの上座に空いた円座がひとつ。あそこがわしの席というわけか」 「・・・・ああ、父上(時熈)もおいでじゃ。祖父上(時義)も曽祖父(時氏)も・・・・。正面におわすは太祖義範公か。すると此処は上野国山名館でもあろうか。 わしはとうとうあの地を踏むことなしに終わるかと思うておったが・・・・」 「侍て教豊、じきにまいる。まいるが、その前にひとつしておかねばならぬことがある。政豊じゃ。政豊に氏の長者(棟梁・総領)の心構えを申し聞かさねばならぬ」
 +宗全は次第に深い水底にでも引きこまれるような眠たさと脱力感を払いのけるようにカッと両眼を大きく見開いて 「政豊ッ、政豊はおろか」 と、声だけは普段とかわりなく呼びかけました。 「ハイッ。政豊はこれに」 「うん、そうじやったな、政豊。祖父はな、今から教豊のとこへ参る。そなたの父じゃ。あれがしきりに呼んどるでな・・・・。ところで政豊、そなた幾才になりやったな」 「ハイッ、三十才になりまする」 「そうそう、そうであったわ。応仁元年の軍で教豊が矢傷を負い、それがもとで身罷(みまか)ったとき、そなたは確かニ十四じゃった。あれから六年、そなたの棟梁ぶりはよぅ身についてきた・・・・」 政豊の顔を見つめる宗全の瞼が次第に細まっていきます。 「じやがな、政豊よ。武者は強いばかりでは駄目なのじゃ。若いそなたには納得いくまいが、祖父の言い遺(のこ)しじや。よく聞いておいてくれい」 宗全はそこで話をとめて、二度三度と大きな息を継ぎました。
 +**山名氏の台頭 [#jfa43da1]
 +「わが家のナァ、昔のことはさて措くとして、天が下に山名ありと知られるようになったのは、そちも知っての通り中興時氏公からじゃ。公はわしの曽祖父になる。そなたには五代まえの大祖父(おおじ い)じゃな」
 +**建武の中興 [#ba652656]
 +「その頃、天下はニつに分かれていたそうな。帝や公家衆もニつ、武家もニつにじや。我等源氏のー統は執権(鎌倉幕府の最高権力者)北条氏の専横(せんおう)に堪えること百余年、いや我等ばかりではない。時代とともに力を蓄えはじめた新興武豪集団。これらも幕府の体制からはみ出した冷や飯組じゃ。時あたかも皇位を嗣がれた後醍醐の帝は御名の通り醍醐・村上天皇の御代・―延喜天暦(八九七ー九五六)の昔を回復し、天下の権を幕府から取り戻さんがために、討幕の綸旨(りんじ)を諸方に降されたのじゃ。なかでも、新田・足利という源家の名門には大きな期待がかけられていたぞ。元弘三年(一三三三)、足利氏は都の六波羅(幕府軍の京都駐屯本部)を陥し、新田氏は鎌倉を降して、執権高時を自滅に追いこんだわ」 「わが祖時氏公は新田氏の流れながら、足利方に与された。これは賢明な選択であった。尊氏公とは従兄弟半という血縁もさることながら、新田の棟梁義貞公と尊氏公の人物の軽重を見抜かれてのことぞ」 「こうして出来上がった蓮武の中興も、平安王朝の栄華到来とばかり有卦(うけ)に入る貴族連と、一所懸命―おのがかち得た土地を命がけで守る―を旨とする武士層は所詮共存することができなんだ」 「こんな戯れ歌が流行したと言うぞ。
 +このごろ都にはやるもの 夜討・強盗・謀綸旨(にせれんじ)……着つけぬ冠 上の衣(きぬ) 持ちもならわぬ笏(しゃく)持ちて 内裏(だいり)まじりは 珍らしや…
 +義貞公は新政権に加わって、一時は威勢を振ったかに見えたが、それも僅か三年たらず、新政に抗する武士団に追われて越前の国で敗死、帝は吉野の山中に亡命されるというあっけない結末じゃ。 片や尊氏公は武家・農民層の保護者として、推されて室町幕府を開かれたわい。 わが時氏公は、時代がこのように動くのをお見通しだったのじゃ」
 +**観応の擾乱(じょうらん) [#gddd4c74]
 +「ところがじや。公平で私欲のうすいが評判の尊氏公にも敵が出てきてのぅ。腹心の執事高師直(こうのもろなお)まず失い、それが片付いたかと思うと実の弟直義(ただよし)公と不和がおきる。 帝もまた京と吉野の両方で、それぞれ己こそ正統と張り合うてござる。 天下はまたしてもニつに割れてしもうたわい。 時氏公は思われるところあって、一時(いつとき)吉野の南朝から錦旗をいただかれてのぅ。十二年が程、西国の諸所で武名を挙げられた―。伯誉・因幡・但馬・美作…・・」 「……こう言えば軍好きの猪武者とも思えようが、違うのじゃ。政豊よ。曽祖父(ひいじい)はな、攻めるときには火を吹くばかりに攻め、和するときは親子兄弟にも勝るほどの睦まれようであったそうな。 われらが本貫とする但馬の国がそれじや。この国には飛鳥・奈良の昔から勢力を張ってきた豪族がおってのう。今の太田垣・垣屋・八木らがそれじゃ。 曽祖父は彼等と戦うて但馬の国を攻め取るよりも、笑顔のうちに味方に引き入れる方が良策と、まああれこれ苦労はあったものの、今では山名四天王ということでわが家の重臣に納まっておるわい」
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