15: 2015-01-02 (金) 11:42:13 admin[6] [7] | 16: 2015-01-02 (金) 16:20:49 admin[6] [8] | ||
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*正平24年(1369)〜天授2年(1376) [#m13cb357] | *正平24年(1369)〜天授2年(1376) [#m13cb357] | ||
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- | |1369|正平24年正月22日|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』| | + | |1369|正平24年正月22日&br;応安2年|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』| |
- | | |応安2年| | | | + | |
| |2月7日|楠木正儀、幕府に投降。|『花営三代記』| | | |2月7日|楠木正儀、幕府に投降。|『花営三代記』| | ||
- | |1370|建徳元年正月5日|山名時氏の3男氏冬が死去。|『鳥取県史』巻2P226| | + | |1370|建徳元年正月5日&br;応安3年|山名時氏の3男氏冬が死去。|『鳥取県史』巻2P226| |
- | | |応安3年| | | | + | |
| |正月18日|御評定始。日次事。十日依山名氏冬去五日事御斟酌|『花営三代記』| | | |正月18日|御評定始。日次事。十日依山名氏冬去五日事御斟酌|『花営三代記』| | ||
| |4月|将軍義満、細川頼之をして河内、和泉に向わしむ。|②家譜P72| | | |4月|将軍義満、細川頼之をして河内、和泉に向わしむ。|②家譜P72| | ||
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| | |丹波、丹後、紀伊、和泉、備後、隠岐、出雲十一カ国を家嫡に譲り与え隠居すべきのよしを乞わる。[[*67>#nen067]]| | | | | |丹波、丹後、紀伊、和泉、備後、隠岐、出雲十一カ国を家嫡に譲り与え隠居すべきのよしを乞わる。[[*67>#nen067]]| | | ||
| | |将軍家許容あり、よりて十一カ国を以って子息に分ち与えらる。世に時氏公を称して六分の一殿と言う。| | | | | |将軍家許容あり、よりて十一カ国を以って子息に分ち与えらる。世に時氏公を称して六分の一殿と言う。| | | ||
- | |1371|建徳2年2月28日|山名時氏死去。行年69歳|②家譜P75[[*68>#nen068]]| | + | |1371|建徳2年2月28日&br;応安4年|山名時氏死去。行年69歳|②家譜P75[[*68>#nen068]]| |
- | | |応安4年| | | | + | |
| |建徳2年6月22日|南方渡河事。一方上瀬。放手渡。|『花営三代記』| | | |建徳2年6月22日|南方渡河事。一方上瀬。放手渡。|『花営三代記』| | ||
| | |細川頼元、山名義理、氏清、楠木正儀。| | | | | |細川頼元、山名義理、氏清、楠木正儀。| | | ||
| |8月6日|南征諸軍上洛。山名義理、氏清等。|『花営三代記』| | | |8月6日|南征諸軍上洛。山名義理、氏清等。|『花営三代記』| | ||
- | |1372|文中元年正月23日|小侍所沙汰始。山名右衛門左入道亭(師義)にて、始行される。山名次郎時義。|『花営三代記』| | + | |1372|文中元年正月23日&br;応安5年|小侍所沙汰始。山名右衛門左入道亭(師義)にて、始行される。山名次郎時義。|『花営三代記』| |
- | | |応安5年| | | | + | |
| |2月10日|六條八幡宮御社参。供奉人馬打次第山名宮内少輔(干時小侍所)|『花営三代記』| | | |2月10日|六條八幡宮御社参。供奉人馬打次第山名宮内少輔(干時小侍所)|『花営三代記』| | ||
| |10月17日|幕府、丹波守護山名氏清をして、稲岡某押領する所の石田本荘一色名を吉田社に還付せしむ。|「吉田家日次記」(④氏清年譜)| | | |10月17日|幕府、丹波守護山名氏清をして、稲岡某押領する所の石田本荘一色名を吉田社に還付せしむ。|「吉田家日次記」(④氏清年譜)| | ||
| |11月1日|幕府、山名氏清をして、中澤一族の吉田社領丹波味間二品勅旨地頭職を押領するを禁ぜしむ。|「吉田家日次記」(④氏清年譜)| | | |11月1日|幕府、山名氏清をして、中澤一族の吉田社領丹波味間二品勅旨地頭職を押領するを禁ぜしむ。|「吉田家日次記」(④氏清年譜)| | ||
- | |1373|文中2年12月19日|幕府、丹波守護山名氏清をして、其部下の同国安国寺領今西村半済を押領するを止め、之を同寺雑掌に還付せしむ。|「安国寺文書」(④氏清年譜)| | + | |1373|文中2年12月19日&br;応安6年|幕府、丹波守護山名氏清をして、其部下の同国安国寺領今西村半済を押領するを止め、之を同寺雑掌に還付せしむ。|「安国寺文書」(④氏清年譜)| |
- | | |応安6年| | | | + | |
| |12月27日|山門神輿造替沙汰執行される。貢馬内覧二番。鴾毛五尺三寸。山名師義。|『花営三代記』| | | |12月27日|山門神輿造替沙汰執行される。貢馬内覧二番。鴾毛五尺三寸。山名師義。|『花営三代記』| | ||
| |(月日不明)|伊勢国合戦。山名氏清、仁木義長を破る。|『後鑑』| | | |(月日不明)|伊勢国合戦。山名氏清、仁木義長を破る。|『後鑑』| | ||
- | |1374|文中3年1月24日|守護山名氏清、東寺領丹波国大山荘に『カヤカリノ夫』五人に十日間の夫役をかける。|「東寺百合文書」(④氏清年譜)| | + | |1374|文中3年1月24日&br;応安7年|守護山名氏清、東寺領丹波国大山荘に『カヤカリノ夫』五人に十日間の夫役をかける。|「東寺百合文書」(④氏清年譜)| |
- | | |応安7年| | | | + | |
| |4月28日|佐女牛八幡宮御社参。次近習の人々に山名時義(干時小侍所)|『後鑑』| | | |4月28日|佐女牛八幡宮御社参。次近習の人々に山名時義(干時小侍所)|『後鑑』| | ||
| |12月25日|貢馬内覧。二番。黒駮。山名師義。| | | | |12月25日|貢馬内覧。二番。黒駮。山名師義。| | | ||
- | |1375|天授元年3月27日|石清水八幡宮御社参。供奉人に小侍所。山名弾正少弼。|『花営三代記』| | + | |1375|天授元年3月27日&br;永和元年|石清水八幡宮御社参。供奉人に小侍所。山名弾正少弼。|『花営三代記』| |
- | | |永和元年| | | | + | |
| |6月5日|山名、佐々木家臣闘争。死傷数人。|『後鑑』| | | |6月5日|山名、佐々木家臣闘争。死傷数人。|『後鑑』| | ||
- | |1376|天授2年3月11日|山名右衛門佐入道(師義)他界。|『花営三代記』| | + | |1376|天授2年3月11日&br;永和2年|山名右衛門佐入道(師義)他界。|『花営三代記』| |
- | | |永和2年| | | | + | |
| |7月19日|山名時義被官衆地下人と芋洗橋に戦う。山名方6人うたれる。| | | | |7月19日|山名時義被官衆地下人と芋洗橋に戦う。山名方6人うたれる。| | | ||
| |7月20日|時義、雪辱のため軍勢を発向せんとするが、義満に制止される。|『後愚昧記』| | | |7月20日|時義、雪辱のため軍勢を発向せんとするが、義満に制止される。|『後愚昧記』| | ||
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|1391|元中8年12月17日&br;明徳2年|山名満幸、兵を起し丹後国の京方の代官を追出す。|『明徳記』[[*85>#nen085]]| | |1391|元中8年12月17日&br;明徳2年|山名満幸、兵を起し丹後国の京方の代官を追出す。|『明徳記』[[*85>#nen085]]| | ||
- | | |12月19日|河内国守護代遊佐国長、山名氏清が合戦の用意をし、今にも立つと注進す。|『明徳記』| | + | |~|12月19日|河内国守護代遊佐国長、山名氏清が合戦の用意をし、今にも立つと注進す。|『明徳記』| |
- | | |12月23日|山名中無大輔(氏家)、都を落ち、八幡へ馳せ下る。|『明徳記』[[*86>#nen086]]| | + | |~|12月23日|山名中無大輔(氏家)、都を落ち、八幡へ馳せ下る。|『明徳記』[[*86>#nen086]]| |
- | | |12月24日|義満より、山名義理へ反乱を止めるよう諭す。義理従わず|『明徳記』、『太平記』| | + | |~|12月24日|義満より、山名義理へ反乱を止めるよう諭す。義理従わず|『明徳記』、『太平記』| |
- | | | |(義理は氏清をいさめるでも無し、和歌山からも出ない)。『明徳記』[[*87>#nen087]]、『太平記』(氏清を魅力的な人物として、描いている。)| | | + | |~|~|(義理は氏清をいさめるでも無し、和歌山からも出ない)。『明徳記』[[*87>#nen087]]、『太平記』(氏清を魅力的な人物として、描いている。)| | |
- | | | |山名氏清、山城国、和泉国、丹波国、但馬国、摂津国東成郡、住之江郡の兵を率いて八幡に陣す。(明徳の乱)|「南方紀伝」(④氏清年譜)[[*88>#nen088]]| | + | |~|~|山名氏清、山城国、和泉国、丹波国、但馬国、摂津国東成郡、住之江郡の兵を率いて八幡に陣す。(明徳の乱)|「南方紀伝」(④氏清年譜)[[*88>#nen088]]| |
- | | |12月25日|義満、諸将を召て軍の評定。[[*89>#nen089]]|『明徳記』| | + | |~|12月25日|義満、諸将を召て軍の評定。[[*89>#nen089]]|『明徳記』| |
|1391|元中8年12月26日|将軍方の布陣決まる。|『明徳記』| | |1391|元中8年12月26日|将軍方の布陣決まる。|『明徳記』| | ||
- | | | |○今川泰範&br; 赤松顕則、佐々木高満都合八百余騎東寺&br;○義満一色左京大夫亭、中ノ御門堀川の宿所| | | + | |~|~|○今川泰範&br; 赤松顕則、佐々木高満都合八百余騎東寺&br;○義満一色左京大夫亭、中ノ御門堀川の宿所&br;○其外の諸軍勢内野&br;・細川常久、頼元、二千余騎中ノ御門西大宮右近ノ馬場前&br;・赤松顕則、一千三百余騎冷泉の西大宮の雀森&br;・畠山基国、八百余騎神祇官の北、大庭の椋の木を南に見て土御門の末&br;・大内義弘、五百余騎神祇官の森を背に二条大宮&br;・一色詮範、三百余騎春日猪熊&br;・勘解由小路義重、五百余騎中ノ御門油小路&br;・佐々木高詮、七百余騎一條の大路を前に当て、北野の森を背にして大甞会畠&br;・其外の人々、三千余騎、御馬廻中御門、猪熊、大宮を前に当て一條辺まで陣を取る。&br;◎山名満幸、丹波国篠村より、山を越えて峯の堂に陣を取る。一千余騎| | |
- | | | |○其外の諸軍勢内野| | | + | |~|12月27日|幕府、山崎神人等をして山名氏清等入京の路次を塞ぎ、かつ形勢を注進せしむ。|④氏清年譜、『離宮八幡宮文書』[[*90>#nen090]]| |
- | | | |・細川常久、頼元、二千余騎中ノ御門西大宮右近ノ馬場前| | | + | |~|12月29日|山名勢、洛中に向かって進撃を始める。| | |
- | | | |・赤松顕則、一千三百余騎冷泉の西大宮の雀森| | | + | |~|~|・山名氏家、三百余騎八幡を発し、大渡を越え、淀より藤の森をさして進むが、深田の中へ落ちこみ、淀へ引返し、氏清の勢と合流。&br;・山名氏清、二千余騎淀の浮橋を渡り久我縄手より西岡を経て下桂へ打出て、七條の末を渡り、東洞院を三條までかけ通り、大宮を上りに寄すべしとて、谷の堂までつめたりける。&br;・山名満幸、分国勢一千七百余騎峯の堂をおり下り、梅津の上瀬をこして、二條末へ西ノ口より押し寄せて、河原ノ面東洞院辺に烟り上る時に、内野へ攻め入らんと、梅津に陣を取り、夜明けを待つ。&br;・丹後の守護代小葦の次郎左衛門尉、同平次右衛門尉、土屋党を引具して上梅津より仁和寺へ懸通り、並岡を東へ、一條の通を大将軍の鳥居の前へかけ出て、方々の攻め口で戦いが始まると、一條を東へ懸通して敵の後を襲う計画。| | |
- | | | |・畠山基国、八百余騎神祇官の北、大庭の椋の木を南に見て土御門の末| | | + | |~|12月晦日|◎丹波勢の中で久下、長澤の二人、内野の陣へ加わる。[[*91>#nen091]]|『明徳記』| |
- | | | |・大内義弘、五百余騎神祇官の森を背に二条大宮| | | + | |~|~|◎山名上総介(高義)、小林上野守(重長)、二條大宮へ押寄せ、大内義弘の勢と戦い討死。[[*92>#nen091]]&br;◎山名満幸、土屋党と一手になり千二百余騎、雀の森に進み、細川常久、畠山基国の勢二千七百余騎と戦う。[[*93>#nen093]]&br;・佐々木高詮七百余騎(大甞会畠に控えていた)が春日西の大宮に打ち出て、満幸の兵、土屋党と戦う。土屋党52人討死。&br;・満幸、退却してきた二百五十騎をまとめ、細川・畠山両陣の真中に懸入るが打ち負ける。&br;・満幸、桂川を渡り、丹波路をさして落行く。[[*94>#nen094]]&br;◎山名氏清、一千余騎にて、三條坊門大宮へ押寄る。大内義弘に赤松義則の勢一千三百余騎が合力す。-[[*95>#nen095]]| | |
- | | | |・一色詮範、三百余騎春日猪熊| | | + | |1391|元中8年12月晦日|・山名氏家五百余騎にて、猪熊を上に押し寄せ、赤松勢の真中に切り入り、赤松勢猪熊を北へなだれ引く。[[*96>#nen096]]・山名時熈、御馬廻りなれど、五十三騎にて、二條大路に打出て、氏清の勢の真中へ懸入るが打負ける。[[*97>#nen097]]&br;・一色詮範三百余騎、勘解由小路義重五百余騎、二條大宮へ向け出陣。&br;・山名氏清の子息宮田左馬介、次男七郎、丹波国をさして猪熊を南へ落ち行く。其他の兵共も我先に落ち行く。[[*98>#nen098]]&br;・山名氏清・一色詮範と懸け合う。山名氏家勢・勘解由小路義重、赤松義則勢と揉合う。氏家の勢の中、家喜九郎等三十八人討死。氏家、猪熊を南へ落ち行く。&br;・義満、大宮の合戦に出陣。氏清には、山名の小次郎、山名禅正以下十八騎踏み止まり付添う。山名氏清、一色詮範父子に打ちとられる。山名小次郎討死。[[*99>#nen099]]| | |
- | | | |・勘解由小路義重、五百余騎中ノ御門油小路| | | + | |
- | | | |・佐々木高詮、七百余騎一條の大路を前に当て、北野の森を背にして大甞会畠| | | + | |
- | | | |・其外の人々、三千余騎、御馬廻中御門、猪熊、大宮を前に当て一條辺まで陣を取る。| | | + | |
- | | | |◎山名満幸、丹波国篠村より、山を越えて峯の堂に陣を取る。一千余騎| | | + | |
- | | |12月27日|幕府、山崎神人等をして山名氏清等入京の路次を塞ぎ、かつ形勢を注進せしむ。|④氏清年譜、『離宮八幡宮文書』[[*90>#nen090]]| | + | |
- | | |12月29日|山名勢、洛中に向かって進撃を始める。| | | + | |
- | | | |・山名氏家、三百余騎八幡を発し、大渡を越え、淀より藤の森をさして進むが、深田の中へ落ちこみ、淀へ引返し、氏清の勢と合流。| | | + | |
- | | | |・山名氏清、二千余騎淀の浮橋を渡り久我縄手より西岡を経て下桂へ打出て、七條の末を渡り、東洞院を三條までかけ通り、大宮を上りに寄すべしとて、谷の堂までつめたりける。| | | + | |
- | | | |・山名満幸、分国勢一千七百余騎峯の堂をおり下り、梅津の上瀬をこして、二條末へ西ノ口より押し寄せて、河原ノ面東洞院辺に烟り上る時に、内野へ攻め入らんと、梅津に陣を取り、夜明けを待つ。| | | + | |
- | | | |・丹後の守護代小葦の次郎左衛門尉、同平次右衛門尉、土屋党を引具して上梅津より仁和寺へ懸通り、並岡を東へ、一條の通を大将軍の鳥居の前へかけ出て、方々の攻め口で戦いが始まると、一條を東へ懸通して敵の後を襲う計画。| | | + | |
- | | |12月晦日|◎丹波勢の中で久下、長澤の二人、内野の陣へ加わる。[[*91>#nen091]]|『明徳記』| | + | |
- | | | |◎山名上総介(高義)、小林上野守(重長)、二條大宮へ押寄せ、大内義弘の勢と戦い討死。[[*92>#nen091]]| | | + | |
- | | | |◎山名満幸、土屋党と一手になり千二百余騎、雀の森に進み、細川常久、畠山基国の勢二千七百余騎と戦う。[[*93>#nen093]]| | | + | |
- | | | |・佐々木高詮七百余騎(大甞会畠に控えていた)が春日西の大宮に打ち出て、満幸の兵、土屋党と戦う。土屋党52人討死。| | | + | |
- | | | |・満幸、退却してきた二百五十騎をまとめ、細川・畠山両陣の真中に懸入るが打ち負ける。| | | + | |
- | | | |・満幸、桂川を渡り、丹波路をさして落行く。[[*94>#nen094]]| | | + | |
- | | | |◎山名氏清、一千余騎にて、三條坊門大宮へ押寄る。大内義弘に赤松義則の勢一千三百余騎が合力す。-[[*95>#nen095]]| | | + | |
- | |1391|元中8年12月晦日|・山名氏家五百余騎にて、猪熊を上に押し寄せ、赤松勢の真中に切り入り、赤松勢猪熊を北へなだれ引く。[[*96>#nen096]]・山名時熈、御馬廻りなれど、五十三騎にて、二條大路に打出て、氏清の勢の真中へ懸入るが打負ける。[[*97>#nen097]]| | | + | |
- | | |明徳2年|・一色詮範三百余騎、勘解由小路義重五百余騎、二條大宮へ向け出陣。| | | + | |
- | | | |・山名氏清の子息宮田左馬介、次男七郎、丹波国をさして猪熊を南へ落ち行く。其他の兵共も我先に落ち行く。[[*98>#nen098]]| | | + | |
- | | | |・山名氏清・一色詮範と懸け合う。山名氏家勢・勘解由小路義重、赤松義則勢と揉合う。氏家の勢の中、家喜九郎等三十八人討死。氏家、猪熊を南へ落ち行く。| | | + | |
- | | | |・義満、大宮の合戦に出陣。氏清には、山名の小次郎、山名禅正以下十八騎踏み止まり付添う。山名氏清、一色詮範父子に打ちとられる。山名小次郎討死。[[*99>#nen099]]| | | + | |
- *85、&aname(nen085);『後鑑』では『明徳記』を引用しているが、去17日を11月17日としている。 | - *85、&aname(nen085);『後鑑』では『明徳記』を引用しているが、去17日を11月17日としている。 | ||
満幸が挙兵の準備をしていたころ、氏清の行動について『明徳記』には、紀伊国へ赴き、舎兄義理合戦への同意を説く。義理は氏清に思い止まるよう諫めるが、聞きいれず、義理も同意し、一門悉く同心して攻め上がらんと沙汰しける。と書かれている。 | 満幸が挙兵の準備をしていたころ、氏清の行動について『明徳記』には、紀伊国へ赴き、舎兄義理合戦への同意を説く。義理は氏清に思い止まるよう諫めるが、聞きいれず、義理も同意し、一門悉く同心して攻め上がらんと沙汰しける。と書かれている。 | ||
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*元中9年(1392) [#t1143616] | *元中9年(1392) [#t1143616] | ||
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- | |1392|元中9年正月1日|義満、一色詮範亭より室町御所へ還る。|『明徳記』| | + | |1392|元中9年正月1日&br;明徳3年|義満、一色詮範亭より室町御所へ還る。|『明徳記』| |
- | | |明徳3年| | | | + | |~|正月4日|乱後の論功行賞がおこなわれる。[[*100>#nen100]]|『明徳記』| |
- | | |正月4日|乱後の論功行賞がおこなわれる。[[*100>#nen100]]|『明徳記』| | + | |~|正月4日|山城国(畠山基国)丹波国(細川頼元)&br;丹後国(一色満範)美作国(赤松義則)&br;和泉国・紀伊国(大内義弘)但馬国(山名時熈)&br;伯耆国(山名氏幸)隠岐国・出雲国(佐々木高詮)&br;一色詮範には、小国の守護より、大庄の思符にはしかずとて、若狭国在所稲積(今富)ノ庄を勲功の庄とす。| | |
- | | |正月4日|山城国(畠山基国)丹波国(細川頼元)| | | + | |~|正月10日|細川頼元御教書を下し、山名追討の事出雲国須波部(諏訪)一族に令す。[[*101>#nen101]]|「諸家文書纂」(『後鑑』)、『明徳記』(日付の記載なし)| |
- | | | |丹後国(一色満範)美作国(赤松義則)| | | + | |~|2月13日|大内義弘、山名義理征伐のため出発。|『明徳記』[[*102>#nen102]]| |
- | | | |和泉国・紀伊国(大内義弘)但馬国(山名時熈)| | | + | |~|2月18日|山名満幸、因幡国青屋の庄にて遁世す。[[*103>#nen103]]|『後鑑』| |
- | | | |伯耆国(山名氏幸)隠岐国・出雲国(佐々木高詮)| | | + | |~|2月19日|土丸城失陥[[*104>#nen104]]|「南朝編年記略」(⑤南北朝史』下)| |
- | | | |一色詮範には、小国の守護より、大庄の思符にはしかずとて、若狭国在所稲積(今富)ノ庄を勲功の庄とす。| | | + | |~|2月25日|山名義理、紀伊藤代城を去り、由良に奔す。[[*105>#nen105]]|「南朝編年記略」(⑤南北朝史』下)| |
- | | |正月10日|細川頼元御教書を下し、山名追討の事出雲国須波部(諏訪)一族に令す。[[*101>#nen101]]|「諸家文書纂」(『後鑑』)、『明徳記』(日付の記載なし)| | + | |~|2月26日|南朝、野上親成をして山名義理を救援せしめようとし、大|『明徳記』[[*106>#nen106]]| |
- | | |2月13日|大内義弘、山名義理征伐のため出発。|『明徳記』[[*102>#nen102]]| | + | |~| |内軍と和佐山に戦う、南軍破れて湯浅城に退き、親成、大内氏に降る。義満、山名氏家を宥す。この日、氏家入京する。| | |
- | | |2月18日|山名満幸、因幡国青屋の庄にて遁世す。[[*103>#nen103]]|『後鑑』| | + | |~|2月28日|山名義理、由良の興国寺塔頭思遠院にて出家し、伊勢へ赴く。|『明徳記』| |
- | |1392|元中9年2月19日|土丸城失陥[[*104>#nen104]]|「南朝編年記略」(⑤南北朝史』下)| | + | |~|3月2日|細川武蔵守頼之入道常久卒。[[*107>#nen107]]|『明徳記』| |
- | | |明徳3年| | | | + | |~|閏10月5日|後亀山天皇神器を後小松天皇に譲る。(南北朝合一)|「綾小路宰相入道記」(⑤『南北朝史』下)| |
- | | |2月25日|山名義理、紀伊藤代城を去り、由良に奔す。[[*105>#nen105]]|「南朝編年記略」(⑤南北朝史』下)| | + | |~| |元中九年の号を停めて、明徳三年となる。|「南朝編年記略附録」(⑤『南北朝史』下)| |
- | | |2月26日|南朝、野上親成をして山名義理を救援せしめようとし、大|『明徳記』[[*106>#nen106]]| | + | |~|12月|幕府、京都内野に明徳の乱の追善の為法華万部経会を修する。|『山名常熈と禅刹』| |
- | | | |内軍と和佐山に戦う、南軍破れて湯浅城に退き、親成、大内氏に降る。義満、山名氏家を宥す。この日、氏家入京する。| | | + | |
- | | |2月28日|山名義理、由良の興国寺塔頭思遠院にて出家し、伊勢へ赴く。|『明徳記』| | + | |
- | | |3月2日|細川武蔵守頼之入道常久卒。[[*107>#nen107]]|『明徳記』| | + | |
- | | |閏10月5日|後亀山天皇神器を後小松天皇に譲る。(南北朝合一)|「綾小路宰相入道記」(⑤『南北朝史』下)| | + | |
- | | | |元中九年の号を停めて、明徳三年となる。|「南朝編年記略附録」(⑤『南北朝史』下)| | + | |
- | | |12月|幕府、京都内野に明徳の乱の追善の為法華万部経会を修する。|『山名常熈と禅刹』| | + | |
** [#b07d3ba5] | ** [#b07d3ba5] | ||
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-*119、&aname(nen119);山名時清が宮田に打入り、都へ向う途中、追分にて合戦し、幕府方兵、宮の上野が討ち取られたことが、『堺記』に記されているが、『東寺光明講過去帳』に宮下野が討死とあるから、山名(宮田)時清幕府軍の合戦が12月7日に起こったことがわかる。 | -*119、&aname(nen119);山名時清が宮田に打入り、都へ向う途中、追分にて合戦し、幕府方兵、宮の上野が討ち取られたことが、『堺記』に記されているが、『東寺光明講過去帳』に宮下野が討死とあるから、山名(宮田)時清幕府軍の合戦が12月7日に起こったことがわかる。 | ||
『佐竹文書』 | 『佐竹文書』 | ||
- | 去七日於丹波八田庄、山名宮内退治の時、若党4人討死、剰令被疵、到忠節條、犬神妙之至也、弥可抽戦功之状如件。 | + | 去七日於丹波八田庄、山名宮内退治の時、若党4人討死、剰令被疵、到忠節條、犬神妙之至也、弥可抽戦功之状如件。 |
- | 応永六年十二月十五日 | + | 応永六年十二月十五日 |
- | 曽我平治右衛門殿|足利義持(満)花押 | + | 曽我平治右衛門殿 足利義持 |
+ | (満)花押 | ||
この文書で去7日は『後鑑』では12月7日としているが、合戦が行われたのは丹波八田庄(船井郡畑荘)である。(『角川日本地名大辞典』26.京都府上巻) | この文書で去7日は『後鑑』では12月7日としているが、合戦が行われたのは丹波八田庄(船井郡畑荘)である。(『角川日本地名大辞典』26.京都府上巻) | ||
12月7日の同じ日に2ヶ所で合戦がおこなわれたことになるが、『堺記』では、負うわけでの合戦のみ記されていて、八田庄の合戦については何も記されていない。『山名家譜』では、11月18日に、八田庄の合戦については何も記されていない。『山名家譜』では、11月18日に、八田庄で合戦があり、時熈の勢が宮田、満氏、氏明、時清を討ち取ったと記されている。 | 12月7日の同じ日に2ヶ所で合戦がおこなわれたことになるが、『堺記』では、負うわけでの合戦のみ記されていて、八田庄の合戦については何も記されていない。『山名家譜』では、11月18日に、八田庄の合戦については何も記されていない。『山名家譜』では、11月18日に、八田庄で合戦があり、時熈の勢が宮田、満氏、氏明、時清を討ち取ったと記されている。 | ||
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* 山名氏編年史参考・関連文献 [#c9e11a26] | * 山名氏編年史参考・関連文献 [#c9e11a26] | ||
- | |10|160| |c | + | |10|160|~|c |
|>|>|CC:#66ffcc 1000年代| | |>|>|CC:#66ffcc 1000年代| | ||
| |『大鏡』|1025(万寿2年)このころ成立、著者については諸説あり。仮名文・列伝体、藤原氏栄華の時代中心。以後の歴史書に影響。| | | |『大鏡』|1025(万寿2年)このころ成立、著者については諸説あり。仮名文・列伝体、藤原氏栄華の時代中心。以後の歴史書に影響。| | ||
- | | |『陸奥話記』|1051~62別名『陸奥物語』、著者不明、前九年の役の戦記。| | + | |~|『陸奥話記』|1051~62別名『陸奥物語』、著者不明、前九年の役の戦記。| |
|>|>|CC:#66ffcc 1100年代| | |>|>|CC:#66ffcc 1100年代| | ||
| |『今鏡』|1170(嘉応2年)成立。没落期の貴族社会を記す。| | | |『今鏡』|1170(嘉応2年)成立。没落期の貴族社会を記す。| | ||
- | | |『吾妻鏡』|1180(治永4年)4月~1266(文永3年)7月の間について記す。鎌倉時代史の基本書。漢文調から脱化した独特の武家用語。| | + | |~|『吾妻鏡』|1180(治永4年)4月~1266(文永3年)7月の間について記す。鎌倉時代史の基本書。漢文調から脱化した独特の武家用語。| |
- | | |『鎌倉大日記』|1180(治永4年)~1589(天正17年)(著者不明)武家政権を中心とした年表、室町期に至る。| | + | |~|『鎌倉大日記』|1180(治永4年)~1589(天正17年)(著者不明)武家政権を中心とした年表、室町期に至る。| |
|>|>|CC:#66ffcc 1200年代| | |>|>|CC:#66ffcc 1200年代| | ||
| |『愚管抄』|1220(承久2年)天台座主・慈圓。漢家年代、皇帝年代記と古代以降の社会の動きを評論。歴史の道理で示す。| | | |『愚管抄』|1220(承久2年)天台座主・慈圓。漢家年代、皇帝年代記と古代以降の社会の動きを評論。歴史の道理で示す。| | ||
- | | |『花園天皇宸記』|1200年代後半。花園天皇。両統の争いを詳しく述べる。| | + | |~|『花園天皇宸記』|1200年代後半。花園天皇。両統の争いを詳しく述べる。| |
|>|>|CC:#66ffcc 1300年代| | |>|>|CC:#66ffcc 1300年代| | ||
| |『嘉元記』|1305(嘉元3年)~1364(貞治2年)の間の朝野の雑事について記している。| | | |『嘉元記』|1305(嘉元3年)~1364(貞治2年)の間の朝野の雑事について記している。| | ||
- | | |『眞曲抄』|1306(嘉元4年)明空、鎌倉時代に流行した宴曲を集成。| | + | |~|『眞曲抄』|1306(嘉元4年)明空、鎌倉時代に流行した宴曲を集成。| |
- | | |『園太暦』|1311(応長元年)2月~1354(延文4年)12月。洞院公賢の旧記。南北朝期の公家の動向を述べている。| | + | |~|『園太暦』|1311(応長元年)2月~1354(延文4年)12月。洞院公賢の旧記。南北朝期の公家の動向を述べている。| |
- | | |『庭訓往来』|1300年代前半期。玄患の作か。鎌倉以後の上層武士階級の諸事。| | + | |~|『庭訓往来』|1300年代前半期。玄患の作か。鎌倉以後の上層武士階級の諸事。| |
- | | |『祇園執行旧記』|1343(康応2年)~1372(応安5年)。細川氏、一向宗、足利将軍の動静を記す。| | + | |~|『祇園執行旧記』|1343(康応2年)~1372(応安5年)。細川氏、一向宗、足利将軍の動静を記す。| |
- | | |『太平記』|1346(正享元年)ころ成立。小島法師か。南朝と山名氏に理解。広く読まれた。| | + | |~|『太平記』|1346(正享元年)ころ成立。小島法師か。南朝と山名氏に理解。広く読まれた。| |
- | | |『愚管記』|1352(文和2年)3月。関白近衛道嗣の日記。南北朝の交渉公家の動向など。| | + | |~|『愚管記』|1352(文和2年)3月。関白近衛道嗣の日記。南北朝の交渉公家の動向など。| |
- | | |『楠木合戦注文』|不明。『続々群議類従』所収| | + | |~|『楠木合戦注文』|不明。『続々群議類従』所収| |
- | | |『尊卑分脈』|1360年頃~1450年頃。洞院公定と後三代で著す。室町初期の諸家の系図の集大成。| | + | |~|『尊卑分脈』|1360年頃~1450年頃。洞院公定と後三代で著す。室町初期の諸家の系図の集大成。| |
- | | |『後愚昧記』|1361(康安元年)~1383(永徳3年)。三篠公忠の日記。朝儀に関する記事。| | + | |~|『後愚昧記』|1361(康安元年)~1383(永徳3年)。三篠公忠の日記。朝儀に関する記事。| |
- | | |『花営三代記』|1367(貞治6年)別名『室町記』、筆者不明。足利義満・義持・義理の3代にわたる幕府の日記| | + | |~|『花営三代記』|1367(貞治6年)別名『室町記』、筆者不明。足利義満・義持・義理の3代にわたる幕府の日記| |
- | | |『増鏡』|1374(文中3年)二條良基。編年体の歴史物語。大覚寺統に同情的、仮名文。| | + | |~|『増鏡』|1374(文中3年)二條良基。編年体の歴史物語。大覚寺統に同情的、仮名文。| |
- | | |『明徳記』|1392(明徳3年)夏~翌年冬。山名氏清の乱についての戦記物語。| | + | |~|『明徳記』|1392(明徳3年)夏~翌年冬。山名氏清の乱についての戦記物語。| |
- | | |『応永記』|1399(応永6年)著者不明。別名『大内義弘退治記』。義満の時代を記す。| | + | |~|『応永記』|1399(応永6年)著者不明。別名『大内義弘退治記』。義満の時代を記す。| |
|>|>|CC:#66ffcc 1400年代| | |>|>|CC:#66ffcc 1400年代| | ||
| |『難太平記』|1402(応永9年)今川負世。下克上の風潮を指摘。山名時氏の言葉を引く『太平記』を批判。| | | |『難太平記』|1402(応永9年)今川負世。下克上の風潮を指摘。山名時氏の言葉を引く『太平記』を批判。| | ||
- | | |『蔭涼軒日録』|1435(永享7年)~1493(明応2年)相国寺蔭涼軒の公用日記。| | + | |~|『蔭涼軒日録』|1435(永享7年)~1493(明応2年)相国寺蔭涼軒の公用日記。| |
- | | |『永享記』|1436(永享8年)~1488(長享2年)著書、成立年不明。関東地方の争乱について。足利持氏から北条早雲まで。| | + | |~|『永享記』|1436(永享8年)~1488(長享2年)著書、成立年不明。関東地方の争乱について。足利持氏から北条早雲まで。| |
- | | |『応仁記』|1444頃(永安年間)~1558頃(永禄年間)著者不明。のち『応仁略記』『応仁別記』あり。| | + | |~|『応仁記』|1444頃(永安年間)~1558頃(永禄年間)著者不明。のち『応仁略記』『応仁別記』あり。| |
- | | |『細川勝元記』|1464(寛政5年)~翌年。著者不明。| | + | |~|『細川勝元記』|1464(寛政5年)~翌年。著者不明。| |
- | | |『狂雲集』|室町時代中期に成立。一休の詩集、一休の宗教的情熱や思想のもの。| | + | |~|『狂雲集』|室町時代中期に成立。一休の詩集、一休の宗教的情熱や思想のもの。| |
- | | |『實隆公記』|1474(文明6年)正月~1536(天文5年)三篠西實隆。元は『愚記』という。室町後記の公家の生活・文化事情について。| | + | |~|『實隆公記』|1474(文明6年)正月~1536(天文5年)三篠西實隆。元は『愚記』という。室町後記の公家の生活・文化事情について。| |
- | | |『足利季世記』|1487(長享元年)~1569(永禄12年)著者、成立年不明。室町幕府末期の政権抗争を記した軍記物。| | + | |~|『足利季世記』|1487(長享元年)~1569(永禄12年)著者、成立年不明。室町幕府末期の政権抗争を記した軍記物。| |
- | | |『鹿苑日録』|1487(長享元年)~1651(慶安4年)『蔭涼軒日録』の続編。遣明使についての記事あり。| | + | |~|『鹿苑日録』|1487(長享元年)~1651(慶安4年)『蔭涼軒日録』の続編。遣明使についての記事あり。| |
|>|>|CC:#66ffcc 1500年代| | |>|>|CC:#66ffcc 1500年代| | ||
| |『続神皇正統記』|1500年頃、小槻晴富。| | | |『続神皇正統記』|1500年頃、小槻晴富。| | ||
- | | |『蜷川親孝日記』|1516(永正13年)から1522(大永2年)までの残闘記。政所の日記| | + | |~|『蜷川親孝日記』|1516(永正13年)から1522(大永2年)までの残闘記。政所の日記| |
- | | |『応仁乱消息』|1523(大永3年)頃成立。不明両軍の他に公家民衆の動向を記す。| | + | |~|『応仁乱消息』|1523(大永3年)頃成立。不明両軍の他に公家民衆の動向を記す。| |
- | | |『大内義隆記』|1551(天文20年)この頃成立。| | + | |~|『大内義隆記』|1551(天文20年)この頃成立。| |
- | | |『永禄記』|1565(永禄8年)~1568(同11年)、著者不明。将軍義輝の暗殺から義昭が織田信長を頼って幕府を再興しようとするまでの事情。| | + | |~|『永禄記』|1565(永禄8年)~1568(同11年)、著者不明。将軍義輝の暗殺から義昭が織田信長を頼って幕府を再興しようとするまでの事情。| |
- | | |『二川分流記』|1570頃、生島宗竹。細川家の二党派(高国と澄元)の抗争中心。| | + | |~|『二川分流記』|1570頃、生島宗竹。細川家の二党派(高国と澄元)の抗争中心。| |
- | | |『赤松記』|1588(天正16年)因幡守入道定阿。赤松氏の起こり、円心時代の全盛、嘉吉の乱、応仁の乱、戦国期の内訌を述べる。| | + | |~|『赤松記』|1588(天正16年)因幡守入道定阿。赤松氏の起こり、円心時代の全盛、嘉吉の乱、応仁の乱、戦国期の内訌を述べる。| |
- | | |『赤松再興記』|年代著者不明。嘉吉の乱後の赤松氏再興の様子を述べた軍記物。| | + | |~|『赤松再興記』|年代著者不明。嘉吉の乱後の赤松氏再興の様子を述べた軍記物。| |
- | | |『山名家犬追物記』|不明、別名〔篠葉集〕。山名政豊(『続群書類従合戦部』所収)| | + | |~|『山名家犬追物記』|不明、別名〔篠葉集〕。山名政豊(『続群書類従合戦部』所収)| |
- | | |『天台座主記』|1597(慶長2年)頃。824年から1597年までの天台座主の歴名記。| | + | |~|『天台座主記』|1597(慶長2年)頃。824年から1597年までの天台座主の歴名記。| |
|>|>|CC:#66ffcc 1600年代| | |>|>|CC:#66ffcc 1600年代| | ||
| |『勢州軍記』|1638(寛永15年)神戸良政。室町期から織豊政権までの伊勢國神戸氏の動向。漢文。| | | |『勢州軍記』|1638(寛永15年)神戸良政。室町期から織豊政権までの伊勢國神戸氏の動向。漢文。| | ||
- | | |『寛政重修家譜』|1641(寛永18年)~1812(文化2年)徳川幕府による大名、旗本の系譜編纂。| | + | |~|『寛政重修家譜』|1641(寛永18年)~1812(文化2年)徳川幕府による大名、旗本の系譜編纂。| |
- | | |『本朝通鑑』|1644(正保元年)~1670(寛文10年)、林羅山・林鵞峯(春斉)。神代から慶長6年までの漢文の編箪史。173巻。| | + | |~|『本朝通鑑』|1644(正保元年)~1670(寛文10年)、林羅山・林鵞峯(春斉)。神代から慶長6年までの漢文の編箪史。173巻。| |
- | | |『鹿苑日録』|1651(慶安3年)。相国寺鹿苑院の僧録司の日記。| | + | |~|『鹿苑日録』|1651(慶安3年)。相国寺鹿苑院の僧録司の日記。| |
- | | |『日本王代一覧』|1652(慶安5年)小浜藩主・酒井忠勝の求めで林鵞峯(春斉)。神代から正親町天皇まての事件の要点をまとめる。| | + | |~|『日本王代一覧』|1652(慶安5年)小浜藩主・酒井忠勝の求めで林鵞峯(春斉)。神代から正親町天皇まての事件の要点をまとめる。| |
- | | |『大日本史』|1657(明暦3年)~1906(明治39年)徳川光圀の意図で始まる。水戸藩代々の儒家による。| | + | |~|『大日本史』|1657(明暦3年)~1906(明治39年)徳川光圀の意図で始まる。水戸藩代々の儒家による。| |
- | | |『陰徳太平記』|1665(寛文5年)頃完成、吉川家家臣・香川正矩編著。戦国時代における、毛利氏を中心とした中国地方の諸家の興亡を記述。| | + | |~|『陰徳太平記』|1665(寛文5年)頃完成、吉川家家臣・香川正矩編著。戦国時代における、毛利氏を中心とした中国地方の諸家の興亡を記述。| |
|>|>|CC:#66ffcc 1700年代| | |>|>|CC:#66ffcc 1700年代| | ||
| |『南朝編年録』|1713年(正徳3年)跡部良顕。南朝73年間の事蹟。| | | |『南朝編年録』|1713年(正徳3年)跡部良顕。南朝73年間の事蹟。| | ||
|>|>|CC:#66ffcc 1800年代| | |>|>|CC:#66ffcc 1800年代| | ||
| |『郡書一覧』|1801(享和元年)、大坂の書籍商・尾崎雅嘉。| | | |『郡書一覧』|1801(享和元年)、大坂の書籍商・尾崎雅嘉。| | ||
- | | |『郡書類従』|1819(文政2年)塙保己一。江戸期以前の国書で、木版可能なもの1270余種を編集。| | + | |~|『郡書類従』|1819(文政2年)塙保己一。江戸期以前の国書で、木版可能なもの1270余種を編集。| |
- | | |『日本外史』|1827(文政10年)漢文の武家時代史。| | + | |~|『日本外史』|1827(文政10年)漢文の武家時代史。| |
- | | |『後鑑』|1843頃(天保年間)幕府の儒臣・成島良譲の編。室町幕府の歴史を『吾妻鏡』の体裁にならい、編年体で編纂。『太平記』『梅松論』からの引用多し。| | + | |~|『後鑑』|1843頃(天保年間)幕府の儒臣・成島良譲の編。室町幕府の歴史を『吾妻鏡』の体裁にならい、編年体で編纂。『太平記』『梅松論』からの引用多し。| |
- | | |『歴代残闕日記』|1858(安政5年)、信濃藩主掘直格の命で国学者黒川春村が編集。「宇多天皇御記」から江戸来期までの日記、記録320点。| | + | |~|『歴代残闕日記』|1858(安政5年)、信濃藩主掘直格の命で国学者黒川春村が編集。「宇多天皇御記」から江戸来期までの日記、記録320点。| |
- | | |『続日本史』|1873(明治6年)一色重熈。『大日本史』の後続を意図、古代から豊臣氏までの田制も。| | + | |~|『続日本史』|1873(明治6年)一色重熈。『大日本史』の後続を意図、古代から豊臣氏までの田制も。| |
- | | |『史籍集覧』|1881(明治14年)~1885(明治18年)、『群書類従』の補遺と、それ以後の著書を集録。| | + | |~|『史籍集覧』|1881(明治14年)~1885(明治18年)、『群書類従』の補遺と、それ以後の著書を集録。| |
|>|>|CC:#66ffcc 1900年代| | |>|>|CC:#66ffcc 1900年代| | ||
| |『大日本史料』|1902(明治35年)刊行始まる、現在も継続中。東京大学史料編纂所。『六国史』に続く約1000年間の事件を年月日順に掲記。| | | |『大日本史料』|1902(明治35年)刊行始まる、現在も継続中。東京大学史料編纂所。『六国史』に続く約1000年間の事件を年月日順に掲記。| | ||
- | | |『系圖綜覧』|1915(大正4年)、国書刊行会。『群書類従』に収められなかった諸家の系譜等。| | + | |~|『系圖綜覧』|1915(大正4年)、国書刊行会。『群書類従』に収められなかった諸家の系譜等。| |
- | | |『平賀文書』|1937(昭和12年)東京大学史料編纂所。出羽国平賀氏の1288~1713までの文書(『大日本古文書』家わけ14所収)| | + | |~|『平賀文書』|1937(昭和12年)東京大学史料編纂所。出羽国平賀氏の1288~1713までの文書(『大日本古文書』家わけ14所収)| |
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