1: 2014-07-15 (火) 11:02:14 admin ソース 現: 2022-12-11 (日) 16:12:36 admin ソース
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TITLE:山名家譜 巻之一 TITLE:山名家譜 巻之一
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-*巻之八 [#e59073f5+#contents() 
-|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/361.jpg,mh:240,山名家譜 巻之八);| +*記載人物(P1~P24) [#reaedbc3
-|=P155~P185|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/516.jpg,mh:240,山名家譜 巻之八);| 
 +|[[清和天皇>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000001]]、[[貞純親王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000002]]、[[経基王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000003]]、[[源満仲>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000006]]、[[源頼信>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000008]]、[[源頼義>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000010]]、[[源義家>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000013]]、[[源義國>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]、[[源義重>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000019]]|
-***155 [#c70e4b06+**PDFデータ [#bf12fb31
-|TLEFT:||c +-[[山名家譜第一巻PDFデータ>http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/1117.pdf]] 
-|=156|=155| +#clear
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/363.jpg,mw:320,P156);|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/362.jpg,mw:320,P155);|+
-*豊國 [#xfd04e68] +*P1 [#p0000001]
-一 豊國 中務大輔 従五位下  +
-  豊國は弾正大弼豊定の男にして天文  十七年(1548)戌申年に誕生あり母は管領  細川武蔵守高國の女なり +
-RIGHT:&ref(豊国系図.png,mw:640);+
-一 豊國岩井の城に居住の時に毛利右  馬頭輝元因幡の国を攻とらんと謀  りて軍兵を卒(率)い夜に乗じて潜 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/517.jpg,mw:640,山名家譜 P001);|
-  かに要害を凌て城の後ろに廻り時  の声を揚て攻入り松明を城中に   投入て競い攻る事甚だ急なり +
-  ければ豊國は冑を被らず甲を    着せずして長刀を提げ進んで    敵にむかい勇を振い戦うて敵六 +
-  人を目前に斬伏られければ残る+
-  寄手の兵ども此勢いに恐れて  城中に入る事ならず其間に家  人等来り集りて敵を追払う毛 +山名家伝記 巻の一
-  利が兵ども皆敗北して引かえすを  追討にして首数十を討取る隣国  にも其勇猛なる事を感ず+
-*武田隆信の謀反 [#o85cc39c] +    山名家先祖譜傳
-一 天正(1573~)の始め舎兄源十郎豊数逆臣  武田豊前守隆信が為に鳥取の  城を出奔あり此時に豊國は因州 +
-  八東郡に在城あり此事を聞て  甚だ憤り武田が不義を憎て家臣  田結庄垣屋太田垣等に命じて武 +
-  田豊前守并に上野豊廣を討しめ  らる両人罪を悔て許されん事  を乞といえども豊國これを許さず +
-  して八上郡大玄寺という禅寺に+
-***157 [#sc0574c5] +一、抑も山名家の本姓は清和源氏にして、新田氏流の豪(高)家也。本国は上野国緑埜郡山名庄(群馬県高崎市山名町)也。
-|TLEFT:||c +
-|=158|=157| +
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/365.jpg,mw:320,P158);|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/364.jpg,mw:320,P157);| +
-  おいて両人を斬て舎兄の仇を報  じて後に邑美郡の鳥取城に移り  国中の仕置ありて因幡の国主と +
-  なる+
-    或古記に曰く豊定邑美郡鳥  取に砦を拵え家老衆を置れ  候所に何れも辞退申され望む +一、人皇五十六代・''清和天皇''の諱(在世中の名、水尾天皇)を惟仁と言う。先帝(五十六代)文徳天皇(諱は道康)の第四皇子也。母は藤の明子と言い、太政大臣藤原良房公の娘で、染殿后と称す。
-    人これなしその内に武田豊前  守と申す人は但馬に舅是あり  候所縁を便りとし請を申され +
-    鳥取に在城致され候処に君臣  不和の事出来布施屋形へ敵  をなし其後は数年布施と +
-    鳥取と合戦是あり終には  布施をくづし永禄六(1563)癸亥の年  に布施落城いたし候其後+
-    武田臣下として国を奪取り  候儀もなりがたきゆえ但馬山名  殿御一族の内壱人申受け候えば +天安二年(858)戊寅十一月七日、九歳で即位し、貞観十八年(876)丙申十一月二十九日に皇太子・貞明(陽成天皇)に譲位。 
-    折節然るべき貴族も御入  これなきゆえ壱人叡山に児  になり御座候を武田方へ御越 +元慶三年(879)己亥五月八日に宗縁僧正に就き出家し、法名を素貞と言う。
-    し候是を国主と仰ぎ鳥取に  在城候是則ち禅高公の御事  なりと申候 +
-    按ずるに禅高を始め叡山の  児なりというは誤りなり弾正  大弼豊定の舎弟に東陽蔵 +
-    主というあり宗鑑寺の住職に  て後に還俗して因幡国岩  井を知行す此人の事を古 +
-    の記に誤り伝うる成べし +
-***159 [#u679f49e] +
-|TLEFT:||c +
-|=160|=159| +
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/367.jpg,mw:320,P160);|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/366.jpg,mw:320,P159);| +
-    其後禅高公又武田と中悪し  く御なり禅高公を武田追  出し候ゆえ丹後へ浪人なさるゝ +
-    所に出雲浪人山中鹿之助禅  高公を進め因幡国に忍び来  り鳥取城を夜討にいたし申候 +
-    此時武田を討留め武田はたえ申  よしに候夫より禅高公は鳥  取城に御座候えども其節は国中殊 +
-    更乱国となり屋形とは申候えども  国主に用い申ものこれなく  国侍たがいに取合是あり禅 +
-    高公も色々御働これある  よし申候   按ずるに鳥取城は始め豊國 +
-    の舎兄源十郎豊数の居城+
-    なり同国岩井城は武田豊前  守にあづけ置る処に武田逆臣  を企て天正の始め源十郎豊数 +(水尾を隠棲の地とし寺を建立中、発病し、粟田)円覚寺にて元慶四年(880)庚子十二月四日に円覚寺にて崩御。
-    は因州を立退き但馬におもむ  き翌年卒去あり豊國此事  を憤り山中鹿之助を相かたらい +
-    武田豊前を討ほろぼす此記  の説と少しく異なり或記に  曰く禅高公の儀当国さる在所の +
-    老農相語仕候はすなわち当  国布施屋形の御息に候武田  布施をくづし候てより方々 +
-    御浪人当国八東郡に御在城  武田と御合戦これありと申  ものもこれあり候当国布施の +
-    城たえ申候儀も説々に申候弥次+
-***161 [#i3437519+*P2 [#p0000002
-|TLEFT:||c +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/518.jpg,mw:640,山名家譜 P002);|
-|=162|=161| +
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/369.jpg,mw:320,P162);|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/368.jpg,mw:320,P161);| +
-    郎殿と申御屋形の代にくづれ  申よし彼の弥次郎殿打死なさ  れ候墓所高草郡たちみと申 +
-    所に御座侯武田豊前并に其弟  当国高草郡ひよとり尾と申  所の城主武田又三郎と申人両人し +
-    て討申候よし此時布施くづれ  申候とも又は弥次郎殿は屋形の  御子息にて其後屋形は禅高 +
-    公を御養子になされ御病死な  どとも申又は毛利家より布施  を攻くづし申などとも申候て +
-    一円分明成儀存したるものなし  按ずるに布施屋形というは  左京太夫時氏の男中務少輔 +
-    氏冬始て因州布施庄に居+
-    住ありしより子孫此所を  領す是を布施の屋形という  其子孫に弥次郎という人なし 
-    豊國を布施屋形の子というは  誤りなり又弥次郎というは  弾正大弼豊定の兄なり弥次郎 
-    安豊という詳に系図に見えたり  或記に曰く禅高公当国御立  退きなされそのまゝ御領地 
-    なさるゝやあきらかならず  又曰く禅高公当国に御座な  さるゝ時に当国八東郡辺御取り 
-    なさるゝようには申候へども慥(たしか)に  向方御取り向れの所に御在  城なされ候とたしかに存し 
-    たるもの御座なく候当国矢部 
-***163 [#jf819500] +栗田山陵にて荼毘に付し、遺骨を水尾陵におさめて、水尾天皇と謚す。後に清和天皇と改めて謚される。 
-|TLEFT:||c +在位は十八年、皇子皇女は十八人あり。
-|=164|=163| +
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/371.jpg,mw:320,P164);|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/370.jpg,mw:320,P163);| +
-    の城に御座なさるゝと申ものも  御座候へど当国にて矢部の城今  ほど在所しかと存したるものこ +
-    れなく候 +
-    按ずるに豊國の村岡に居住の  事は鳥取落城の後に暫く此  所に居住ありしなり +
-    或記に曰く武田豊前と申人の  儀も当国土民説に申候太閤記  などには禅高公御討なさるゝ +
-    ようにしるしこれあり候えども  当国の土民申候は武田合戦に  打まけられ候て但馬に舅あ +
-    るのゆえ其所へ逃られ候えば舅  の方にて討留め申などと申候  其弟又三郎は当国の国侍打+
-    寄たばかり和談いたし当国  八上郡大玄寺と申禅寺にて  だまし討に仕候と申候墓所 +一、''貞純親王'' 四品 中務卿 
-    当国智頭郡に御座候 +貞純親王は清和天皇の第六皇子。母は神祇伯・中務大輔・棟貞王(第五十三代・桓武天皇の孫)の娘。
-    按ずるに此説は家説と異な  り武田豊前は豊國に亡され  たる事分明也 +
-    又曰く右武田豊前の子孫流  浪候て後には禅高公をたのみ  御家中に有付今に御座候て +
-    武田太郎右衛門殿と申すはその  御末のように当地にて申もの  これあり候又当国にても八 +
-    上郡ひけた村と申所に鳥越  の一党とてこれ有り候百姓は  彼の武田の子孫のよし申候+
-***165 [#u0058af6] +貞観十六年(882)甲午三月十三日に誕生。 
-|TLEFT:||c +元慶六年(882)壬寅十一月五日に元服し四品(親王の位階第四番目)に叙し兵部卿に任命。
-|=166|=165| +
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/373.jpg,mw:320,P166);|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/372.jpg,mw:320,P165);| +
-    或記に曰く当国八東郡きさいち  と申所に覚王寺と申山伏寺御  座候本尊は観音にて御座候 +
-    禅高公此辺に御座なさるゝの  とき御立願成就の儀これある  につき御祈祷所になされ御帰 +
-    依のよしその寺のむかいの在  所市場と申所名城のよしに候  古跡にて候もし此城に御在城 +
-    などなされ候御伝も御座候や此  城むかしは毛利と申人代々  在城のよし此所にても大合戦 +
-    是あるよし右の覚王寺と申  寺とては大破いたし禅高公御  祈祷いたし候一山伏は子孫もたえ +
-    候て柴の庵に餘流の山伏籠+
-    或説に曰く因州岩井郡に豊國  在住あり居城を岩つねの城  と名付らる今において其跡存 +一条大宮の桃園宮に住し桃園親王と称される。
-    ぜりという   此迄+
-*毛利輝元 [#s54e46ed] +後に中務卿に任命され、常陸・上総等の太守を務める。(上総・常陸・上野は親王の任国。それらの国の守を大守と言う)
-一毛利右馬頭輝元は山陰道の内を切  随えて両道を全く手に入んと謀る  此時に豊國は勢い微なりたれば +
- 輝元が因州に攻いらん事を慮て  暫く彼を欺かん為に芸州に使  者を遣し好みを通ぜらる是によ +
- りて輝元より度々軍役をかけて  出勢を催しければ豊國は軍勢  の少きを以て是を辞退せらる +
-* 羽柴秀吉 [#i650be45]+
-一天正九年(1582)辛己五月に羽柴筑前  守秀吉織田信長の命を受て  播州姫路の城を発し大軍を引 +右大臣・源能有公の娘(源柄子)を娶り室とする。能有公は(第五十五代)文徳天皇の子(清和天皇の兄)にして武芸に通じたる親王。
-***167 [#m49557f2] +
-|TLEFT:||c +
-|CENTER:168|CENTER:167| +
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/375.jpg,mw:320,P168);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/374.jpg,mw:320,P167);|+
- 具して因幡に至り鳥取城を囲  み攻む此時に伯耆国羽衣石の城を  守る南条勘兵衛同国岩倉城を守 +*P3 [#p0000003] 
- る小鴨左衛門尉ともに秀吉に降参  す又豊國の家長中村大炊助春次  森下出羽入道道與は豊國と不和 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/519.jpg,mw:640,山名家譜 P003);|
- なりければ森下中村ともに相謀  て逆意を企て毛利が加勢の大将  にて来りたる吉川式部少輔隆久 +
- に密謀を談し豊國の男庄七郎  十二歳なるを取立て豊國を押  籠て国中を押領せん事を謀る +
- 所に豊國此謀を漏れ聞て曰く  今羽柴秀吉大軍を卒(率)て城を  囲み又城中に変を生ず我何 +
- を以て秀吉を防がんや我志に叶わず+
- といえども今秀吉に志を通じて彼が  力をかりて吉川并に逆臣等を  亡さんとて同五月十六日の夜に入て 
- 豊國ひそかに城中を出らる眤近の  侍少々是に随いて秀吉の陣中に  至る秀吉大きによろこびて厚くも 
- てなさる中村森下両人は城中に留  て堅く守る此時に秀吉より豊  國に遺る所の証文に曰く 
-   条々 +貞純親王も(同じく)その業を受け継ぎて、武道の礼式に深く通じ、天皇より月華門院の白旗を下賜される。 
-   一此方別而御入魂之上者御身  上之儀於我等聊不可存疎意候  事 +喜十六年(916)丙子五月七日に逝去。
-   一御居城不可有別儀之事 +
-   一出石郡之儀進之置候条無異儀  可被仰付事+
-***169 [#y0c2422d] +貞純親王に二子有り、長男は経基王、次は経生と言い越後の守を務める。
-|TLEFT:||c +
-|CENTER:170|CENTER:169| +
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/377.jpg,mw:320,P170);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/376.jpg,mw:320,P169);|+
-   右旨八幡大菩薩愛宕山相違有  間敷侯依而如件 +一、''経基王'' 正四位 左衞門佐 
-    天正六(1578)  羽柴筑前守 +経基王は貞純親王の長男にして、寛平七年(895)乙卯二月十五日に桃園宮にて誕生。母は右大臣源能有公の娘なり。 
-     五月十六日     秀吉花押 +貞純親王は清和天皇の第六皇子の故に、世の人は経基王を六孫王と言う。
-      山名殿 +
-          余人々御中 +
-   或説に曰く永禄十二年(1569)己巳七  月に伊丹兵庫助親興池田筑  後守勝政案内として羽柴筑前 +
-   守秀吉但馬国にせめ入るという +
- 秀吉大軍を以て日夜に城を攻ら  る毛利輝元加勢を出さんとして機  を両端にかけて果さず然るに城中 +
- 兵粒つきて上下ともに餓に及ぶに  よりて吉川中村森下等相議し  て福光小三郎を使として浅野弾正+
- 少弼長政が陣に遣して城中雑兵  の一命を助け給わゞ三人ともに自殺し  て城を渡すべしという長政是を秀 +延喜九年(909)己巳十月五日に常寧殿にて元服し、正六位に叙し、左馬助を拝命、源の朝臣姓を賜る。(臣籍降下)
- 吉に申す秀吉是を免し酒食  を城中に遺(おく)らる秀吉より堀尾茂助  吉晴を検使として城を請取らしむ +
- 吉川森下中村城を出て寺にいり  自害す堀尾其首を秀吉の実  検に入る森下中村が首は其不忠を +
- 憎み泥を以て其面に塗たり坂田  孫次郎福光小三郎は吉川が恩をう  けたる者共なれば同く自害す +
- 城中の兵共餓に疲れたるによりて  秀吉の下知として粥を煮て食は  せらる多く食うものは死し少く +
- 食うものは恙がなし秀吉より +
-***171 [#j4425ffc] +
-|TLEFT:||c +
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/379.jpg,mw:320,P172);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/378.jpg,mw:320,P171);|+
-宮部善祥房をして五万石の領地  をあたえて鳥取の城を守らせらる  其後秀吉帰陣の時に豊國に逢 +*P4 [#p0000004] 
-てともに京都におもむき我に属  せらるべしと有ければ豊國答て  我不幸にして不忠の者の為に +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/520.jpg,mw:640,山名家譜 P004);|
-国家を乱し今足下のために数代  の領地を失い他の領国と成り百  八十餘年相伝の領国を離れ人 +
-の下に立ん事は思いもよらずたゞ  時節をまたんと有ければ秀吉  其言葉の勇有を感心有て是を +
-褒らる秀吉又とわれけるは  足利家より伝来の笹作の太刀有  ときく今偏る所の太刀ならん其 +
-太刀を我に見せらるべしとあり+
-ければ豊國答えて笹作りの太刀は  鹿園院殿より先祖宮内大輔時  熈に譲りあたえらるゝ所にして +天慶三年(940)庚子の春に平将門追討の為に、右衛門の督・藤原忠文を征東将軍とし、経基王は副将軍として天皇より節刀(節(しるし)の刀)を賜る。
-我家の重器たりといえども今かくの  ごとくに累代の領国を離散するの  時節に至りぬれば其太刀今 +
-此に帯せずとて終に笹作の太刀  を秀吉に見せず暇を乞いて同  国村岡に暫く蟄居あり其後に +
-摂津国河辺郡多田圧に来りて  多田氏が宅に幽居あり時に譜代  の家人等に皆暇を授け時節を +
-待べき旨を命ぜらる多田庄に随  遂するものは田結庄宮田垣屋上野  三上浅田多賀の輩のみなり此時 +
-豊國三十四歳なり+
-***173 [#e8d0e349] +関東へ向かう途中、駿河国清見ヶ関に至り武蔵守・藤原秀鄕、陸奥守・平貞盛等が平将門討伐の知らせを受けて帰京する。
-|TLEFT:||c +
-|CENTER:174|CENTER:173| +
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/381.jpg,mw:320,P174);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/380.jpg,mw:320,P173);| +
-*徳川家康 [#e0e281ef] +
-一天正十四(1586)年丙戍に徳川家康公豊  臣秀吉公の招によりて上洛あり  此時に豊國は多田庄より家康公 +
- の旅館に至り本多中務大輔忠  勝榊原式部太輔康政永井右近大夫  直勝西尾隠岐守吉次等に逢て +
- 家康公に拝謁せん事をこわる各  相儀して家康公に執し申則ち  旅館に於て家康公に拝謁せらる +
- 是よりして恩恵日々に厚く直々  に供奉して関東に下向せらる +
-  此時に豊國多田圧より関東  に趣(赴)かるゝによりて多田氏が多  年の懇情を謝せん為に重代 +
-  の脇指を多田氏に授け離別  の情をつくさる今に至て多田兵部+
-  元朝が子孫此脇指を所持すと  いう +これに先立ち、経基王が武蔵国司として赴任の折(承平八年・938)、平将門謀反の予兆を覚り、将門追討を上奏するも、未だ確証乏しく勅許は降りず。
-  或説に此時に山名慶五郎  堯熈も豊國とおなじく家康公に  拝謁すというはあやまりなり +
-  堯熈父子兄弟皆豊臣秀吉  公に仕えて慶長年中に至り  摂州大坂城に籠り秀頼公に +
-  仕う然るに大坂落城におよび  て豊國潜に諭し堯熈父子  をして城中を出奔せしめ +
-  将軍家に拝謁せしめん事を  願わるゝに将軍家の命有  りて堯熈父子京都六条の辺 +
-  蟄居あり詳かに祐豊の譜  伝に見えたり+
-***175 [#cd62c80e] +承平年中より、関東で振るう平将門の逆心を察した経基王の才知を賞して従四位下に叙せられる。
-|TLEFT:||c +
-|CENTER:176|CENTER:175| +
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/383.jpg,mw:320,P176);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/382.jpg,mw:320,P175);|+
-一同十六年(1588)戊子四月十四日に秀吉公  の聚楽の亭へ行幸あるにより家  康公も上洛あり前管領家斯波 +*P5 [#p0000005] 
- 入道三松が宅に渡御あり豊國も  供奉して彼宅に至り三松入道に  対面あり其礼甚だいんぎんなり +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/521.jpg,mw:640,山名家譜 P005);| 
- 家康公還御の後に豊國を召て  仰に曰く三松に対するの礼甚だ  過たり斯波氏は是足利氏の支流 +同年(天慶三年・940)六月、伊予大掾・藤原純友誅伐の為、参議・小野好古を大将軍に、経基王を副将軍に筑紫に派遣される。
- なり汝が家は新田正嫡の一流にして  名家たり近き頃に至るまでも大  国を領して威名ありし事は世の +
- 知る所なり今古えのごとくにあらず  といえ共彼に対して強がちに謙ゆず  らんや我に忠をつくし絶たるを +
- 継ぎ廃たるを興し功名を子孫+
- 残すべしと仰有り豊國忝なき  旨を申て退く +程なく、純友の成敗なって、八月に帰京。この軍功によって正四位下に叙し、太宰大弐(太宰府の次官)に任命される。
-一文禄(1592頃)年中筑紫陣の時に家康公  豊國を召て仰に曰く汝の先祖山名  伊豆守義範と家康が先祖徳川 +
- 四郎義季は兄弟にしてともに新田  大炊助義重の子なり今に至ると  いえども我家と汝の家とは同血同胞 +
- の家なり然ば我何ぞ汝が家を  疎かにするの理あらんや今より後  は我に眤近あるべし我もまた疎かに +
- すべからずと仰あり豊國鈞命  の慇懃なる事を蒙り忝なき  旨を申て退かる聞人皆是を羨む +
-一慶長五(1600)年庚子五月朔日に家康  公諸将を召て上杉中納言景勝を +
-***177 [#qdafc459] +
-|TLEFT:||c +
-|CENTER:176|CENTER:175| +
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/385.jpg,mw:320,P178);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/384.jpg,mw:320,P177);|+
- 御退治あるべき評定有同月九日に  御陣触あり同じく六月十六日に  摂州大坂を御進発あり同く七月 +経基王は和歌を能くし、天性の武略に通じ、父・貞純親王譲りの武道に長じるが故に村上天皇(諱・成明)の勅を受け陸奥守に任命され、鎮守府将軍に補任される。
- 二日に武州江戸城に入らせらる此時  に豊國も供奉して関東に下る同  月廿四日の夜に京都伏見の騒動を +
- 告げ来るよりて家康公諸将と  相議して上方に登り給う同じく九月  十五日に美濃国関原表において +
- 石田治部少輔三成を始め西国方の諸  将皆敗北して家康公御勝利な  り豊國も亀井武蔵守上杉紹常 +
- 入道八木圧左衛門太田垣監物等と  一備えにて軍忠を抽(ぬきんで)らる八木庄左衛門 +
- 太田垣監物は豊國の旧臣たりといえども  当時将軍家に仕う此度豊國と+
- 一列に命ぜらる同じく十月十六日に  家康公摂州大坂城に入給う同月廿七日  に豊國を召て仰に但馬国におもむ +天徳二年(961・応和元年)戊午十一月二十四日西八条の館にて逝去。館の側に池(龍神池)が有り、そこに廟所を建て、大通寺遍照心院(現・六孫王神社)と言う。
- き気多郡高田庄の領主斎村佐兵衛  佐秀則が竹田の城を請取るべき旨  を命ぜらる豊國則ち但馬に至り +
- 高田庄におもむかる此時に旧臣等  来り集りて城地を請取国中の  仕置をなし竹田の城を給る +
-一同六年(1601)辛丑に同国七味郡に郡替  を仰付られて七味郡一郡を一円に  給る +
-一同十九年(1614)甲寅の冬大坂御陣の  節に家康公上意待て本多上野  介正純は朝夕に昵近して我左右に +
- あり上野介が人数と三浦監物と+
-***179 [#m0470591] 
-|TLEFT:||c 
-|CENTER:180|CENTER:179| 
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/387.jpg,mw:320,P180);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/386.jpg,mw:320,P179);| 
- 豊國相備えにて軍兵を下知して  戦功を抽(ぬきん)ずべしと仰あり豊國領  掌申さる此時に豊國の旗の紋三ツ +経基王に八男一女あり
- 引なり三浦氏も又旗の紋三ツ引な り豊國その混乱せん事を察して  山の字を以て下に添らる家康公 +
- 上意有けるは汝の旗を見るに三ツ  引の下に山の字あり呼て見れば  さんざんのとなえなり旗の紋を改 +
- むべきのよし仰有るによりて二ツ引  両に山の字を付らるこれよりし  て後当家三布白二ツ引両を以て +
- 家の紋とす +
-一家康公駿府に御在城の時に年  始御礼の節国持大名御礼相済て  直に日野入道唯心水無瀬入道一斎+
- 豊國次に上杉畠山土岐と次第し  て御礼ありまた六月十六日嘉定の御  祝儀の節も公家の面々同前に豊 +*P6 [#p0000006] 
- 國を御留ての上に召させられて日野  飛鳥井は三方なり冷泉土御門  舟橋水無瀬豊國は足付なり其餘 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/522.jpg,mw:640,山名家譜 P006);| 
- は列座御縁にて片木にて是を  下されしなり +①長男は左午頭・満仲。 
-一家康公の御前に豊國出仕有る  の時は毎度列座の上座たり家  康公上意にも新田の氏族は山名の +②次は左衞門尉・満政。 
- 外高家の内にこれなきのよし  度々上意あり山名は新田の嫡家  なるによりて類なき家たるの +③次は武蔵守・満季。 
- 間馳走もまた類なきの旨を仰  らるある時豊國家康公の御前に+④次は右衞門尉・満快 
 +⑤次は下野掾・満実。 
 +⑥次は出羽介・満正。 
 +⑦次は上総介・満生 
 +⑧次は山城守・満重。 
 +共に子孫繁栄。女子は従五位下・源元高の妻なり。
-***181 [#j4ea8a73] 
-|TLEFT:||c 
-|CENTER:182|CENTER:181| 
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/389.jpg,mw:320,P182);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/388.jpg,mw:320,P181);| 
- 出て象戯(将棋)の御相手たり時冬に  してことに寒する夜なりしに  豊國古き羽織を着せらる側に +一、''満仲'' 正四位下 左馬権頭 
- 伺公の人々古き羽織を着せられ  候よしをいうに豊國答えて此羽  織は我等因幡に有し頃上洛せし +満仲は鎮守府将軍・経基王の嫡子にして、延喜十二年(912)壬申四月十日に西八条の館にて誕生。母は武蔵守・藤原敦有の娘。
- 時に公方光源院義輝公の召して  御入候を賜わりたるによりて古く候  と答らる家康公聞し召して +
- 笑わせ給い側の人々に宣うは禅高  入道が家には左様なる由緒ある古  き物は多くあるのよしを仰ければ +
- 聞人皆赤面せしとなり其羽織  は金襴なりとぞ +
-一慶長年中に豊國家康公の御  前に伺公あるの時池田備後守脇指を+
- 帯し御前近く出て直訴申上る  其躰不審しく見えければ豊國座  を立て備後守が左右の手をとり +延長四年(926)丙戌に元服。正六位に叙し、左馬介に任命される。
- 引立て御次に退かしむ時に本多  上野介正純を上使として御諚有  けるは豊國若年より所々において +
- 勇傑の働き上聞に達したるによりて  武備の為に兼々昵懇せしめらるゝ  の所に今日の振舞神妙の至り御 +
- 感におぼし召さるゝ所なり他の若  輩にあらば御感状をも下さるべきに  禅高入道のごときは感状を下さるゝ +
- にもあまりありと大きに御感の  上意あり +
-*徳川秀忠 [#b08712a0] +
-一豊國駿府より江戸に来り秀忠公  に拝謁あり滞留の聞しばしば御前+
-***183 [#g5548518] +安和三年(970)庚午三月、摂津守に任命され宮中清涼殿への参内が許される。(五位補任)
-|TLEFT:||c +
-|CENTER:184|CENTER:183| +
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/391.jpg,mw:320,P184);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/390.jpg,mw:320,P183);|+
- に出らるまた秀忠公駿府におもむ  かせられ家康公に謁せらるゝのと  きに豊國の宅において御茶を献 +満仲公も父祖譲りで武芸に通じ、武略に秀でていた為、大内(内裏・御所)守護を任され、摂津川辺郡多田庄(兵庫県川西市多田)に領地を賜る。
- ずべきの上意再三ありけれども  豊國は居宅の見苦しく召仕等も  なく迷惑の由を辞退あるによりて +
- 終に御成はなしとぞ +
-一将軍秀忠公御膳を召上らるゝ  時に豊國御相伴たりときに御盃  を下され御返盃致べきのよしを +
- 上意あり豊國固く辞せらる強い  て辞退あるべからずと再三御諚ある  によりて御返盃あり時に岡田兵部 +
- 少輔御酌たり御次の間において兵  部少輔豊國にむかって曰く唯今  貴辺の御返盃有し事は国主といえ+
- どもかくのごとくの上意有る事を  聞ずと大に感心す聞人も此事を  うらやむ豊國も此儀を以て老後 +*P7 [#p0000007
- のほまれとせらる豊國駿府江戸  等へ両御所の御機嫌伺として相催  滞留の内は御扶助米三百人扶持を +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/523.jpg,mw:640,山名家譜 P007);| 
- 下し賜わるすべて恩恵の厚き事  他にこえたり +天禄元年(970)庚午三月十五日に多田庄に居を移し、天禄二年(971)に多田庄に一寺を建立、鷲尾山・法華三昧院と名付ける。今の多田院(神社)なり。 
-*蒲原での火事 [#d609f55e+寛和二年(986)丙戌八月十五日に出家、法名を慶満と名乗る。 
-一豊國曽て領地に趣(赴)かるゝの時駿州  蒲原駅に止宿ある処に其夜在  家より火災おこりて豊國の旅宿 +長徳三年(997)丁酉八月二十七日に逝去、法華三昧院に葬る。
- も焼亡せり此時に室町家より伝  来の笹作の太刀ならびに代々の口  宣(くぜん)其外足利将軍家よりの御 +
- 教書等多く焼失せり +
-*豊國の逝去 [#nbb26368] +
-一寛永三年(1626)丙寅十月七日に豊國卒+
-***185 [#l7818167] +満仲に十男一女あり。 
-|TLEFT:||c +①長男は摂津守・頼光、美濃源氏の太祖なり。 
-|CENTER:185| +②次は大和守・頼親、大和源氏の太祖なり。 
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/392.jpg,mw:320,P185);|+③次は河内守・頼信、嫡流相続(宗家)なり。 
 +④次は武蔵守・頼平。 
 +⑤次は左衛門尉・頼範。 
 +⑥次は山城守・頼明。 
 +⑦次は帯刀長・頼貞。 
 +⑧次は法眼円覚。 
 +⑨次は阿闍梨・頼尋という。 
 +⑩女子は中将・藤原賴親の妻。
- 去有り時に七十九歳なり京都  妙心寺塔中に葬り法名東林院殿  徹庵高公大居士と号す則ち寺 +*P8 [#p0000008] 
- を東林院と名づけ英首座(英首座は山名太郎左衛門豊義の子にして則ち豊國の孫なり竺翁和尚と号す) +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/524.jpg,mw:640,山名家譜 P008);| 
- を以て院主とす +一、''頼信'' 正四位上 河内守 
-   豊國に五男一女あり長男庄  七郎は因州鳥取城において早世  あり次男豊政正統相続なり + 
-   次を庄兵衛という早世なり次  は女子朽葉七郎左衛門が妻なり  次は太郎左衛門豊義という次を +頼信は鎮守府将軍・満仲の三男にして、天延三年(974)甲戌九月五日に誕生。 
-   兵庫豊晴というともに子孫繁  多也詳かに系図に見えたり+母は大納言・藤原元方の娘なり。 
 +永延二年(988)戊子九月一八日に元服、正六位に叙し、左馬助に任命される。 
 +正歴五年(994)甲午三月に勅命を受け若狭越前に赴き群盗を成敗する。寛仁四年(1020)庚申九月十日に河内国壺井に館を構え居住する。 
 + 
 +長元三年(1030)庚午九月に上総介・平忠常追討の宣旨を受け、同年十月二十一日に軍勢を率い武蔵国川越に至り、平忠常の弟(父?)、陸奥守・平忠頼と中村五郎忠将(平忠頼の子)と戦う。忠頼兄弟(親子?)共に勝ち目なく退く。 
 +長元四年(1031)辛未四月、頼信は大軍を率いて下総国に至り、上総介・平忠常が籠もる千葉城を攻め、忠常は勝ち目なく降伏する。 
 + 
 +*P9 [#p0000009] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/525.jpg,mw:640,山名家譜 P009);| 
 +頼信が忠常を伴い帰京の途中、美濃国にて忠常が病死する。頼信は忠常を哀れみ、忠常の同門は頼信の情け深い心に感服し、永く源氏の家臣として仕える。 
 +頼信はこの軍功により従四位上に叙せられる。この他、頼信の武功は数多し。 
 +永承三年(1048)戊子九月一日に逝去。河内国通法寺に葬る。 
 + 
 +頼信に五男一女有り。 
 +①長男は伊予守・頼義、嫡流相続。 
 +②次は肥後守・頼清(信濃源氏村上氏の祖)。 
 +③次は掃部助(かもんのすけ、掃部寮(宮中行事の設営・清掃を行う部署)の次官)・頼季(信濃源氏井上氏の祖)。④次は河内(六位で無官の者)・頼任。 
 +⑤次は常磐五郎・義政。(頼信が平忠常の乱平定により、東国に勢力を張り、頼季も信濃に領地を得ていた)兄弟は信濃国に居住し子孫繁栄し、これを信濃源氏という。 
 + 
 +*P10 [#p0000010] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/526.jpg,mw:640,山名家譜 P010);| 
 + 
 +女子は甲斐守・源為満の妻なり。 
 + 
 +一、''頼義'' 従四位上 伊野守 
 + 
 +頼義は鎮守府将軍・頼信の嫡男。母は一条天皇の皇后(中宮)の女官・修理命婦(しゅしゅりみょうぶ)。 
 +長保五年(1003)癸卯四月九日に誕生。長和二年(1013)癸丑に元服し正六位に叙せられ、兵庫允に任命される。 
 + 
 +永承六年(1051)辛卯、陸奥国の押領使・安部(倍)頼良追討(前九年の役)の為に陸奥守に任じられ、併せて鎮守府将軍にも任命され、天皇より節刀を賜り(石清水八幡宮にて戦勝祈願を行い)東国に向かう。 
 + 
 +同六月二十五日に相模国鎌倉郡由比卿に石清水八幡を勧請し、源氏の白旗を亀山山上に納める。この山を後生、源氏山又は、御幡山とも言う。 
 + 
 +*P11 [#p0000011] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/527.jpg,mw:640,山名家譜 P011);| 
 + 
 +同七月に奥州に至り、安部(倍)頼良は帰順を願い、(源頼義との同名を憚り)名を頼時と改める。(一条天皇の皇后・藤原彰子の病気平癒祈願の為、安部氏にも大赦が出されていた。) 
 +これにより奥州はしばらくの間、平穏となる。 
 + 
 +天喜二年(1054)甲午八月に阿部(安倍)頼時の子、厨川治(次)郎貞任が謀叛を企て、衣川の柵(砦)に立て籠もる。 
 +同九月に頼良は大軍を率いて貞任を攻めるが、陸奥守の任期を迎えるが、再任され奥州にとどまる。 
 +康平五年(1062)壬寅十一月二十九日に阿部(安倍)貞任の一族を破り、康平六年(1063)癸卯二月に帰京。途中、相州に立ち寄り由比郷に八幡宮を建立。同八月二十五日に頼義の武功を賞して伊予守に任じられ、正四位下に叙せられる。 
 + 
 +治暦元年(1065)乙巳九月一日に出家し法名を信海と称する。世の人々は頼義を入道将軍と呼ぶ。 
 + 
 +*P12 [#p0000012] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/528.jpg,mw:640,山名家譜 P012);| 
 + 
 +永保二年(1082)壬戌十一月三日に八十八歳で逝去。河内国通法寺に葬る。 
 + 
 +頼義に五男三女あり。 
 +①長男は陸奥守・義家(八幡太郎)。 
 +②次は左(右)衛門尉・義総(綱)(加茂次郎)。 
 +③次は常陸介・義光(新羅三郎)と言い、甲斐源氏の太祖。 
 +④次は女子にして尾張守・藤原時房の妻。 
 +⑤次は三井寺の西蓮坊快誉(伊予阿闍梨)。 
 +⑥次は女子、出羽守・平正済の妻。 
 +⑦次は女子、海道小太郎成衡の妻。 
 +⑧次は三嶋四郎親清と言い、頼義が伊予守の時に伊予国押領使・越智冠者(河野)親経の娘を母に出生。後に(河野)親経の家を相続し河野四郎通信(伊予水軍に将)の祖父。 
 + 
 +*P13 [#p0000013] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/529.jpg,mw:640,山名家譜 P013);| 
 +一、''義家'' 正四位上 陸奥守 
 + 
 +義家は鎮守府将軍・頼義の嫡男、長暦二年(1039)戊牛に誕生。幼名を源太と言い、母は上野介・平直方の嫡女(正妻が産んだ長女)。 
 +永承三年(1048)戊牛石清水八幡宮にて元服。 
 +康平五年(1057)十一月二十九日に奥州にて安倍貞任討伐で、父・頼義と共に戦功を挙げた事により、康平六年(1063)癸卯に従五位に除せられ出羽守に任命される。 
 +承暦三年(1079)己未八月八日に勅命を受け美濃国に向かい八島佐渡守・源重宗(満政の孫)と、多田伊豆守・源国房(満仲の曽孫・頼光の孫)が(美濃国多芸郡の青野ヶ原で大規模な合戦(私闘)を行い、重宗・国房を成敗する。 
 +(重宗・国房は大規模な私闘を行った事を朝廷から咎められ、償還を命じられるも、重宗は従わず、義家が差し向かわされた) 
 + 
 +*P14 [#p0000014] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/530.jpg,mw:640,山名家譜 P014);| 
 + 
 +永保元年(1081)辛酉六月陸奥守に任じられ、鎮守府将軍(陸奥・出羽両国の兵を指揮し、領国の防衛を統括した)に補任される。奥州に向かう途中に、相州鎌倉にて八幡宮を修復する。同八月奥州に着任。 
 +清原真人武則(真人は姓、清原氏は出羽の有力豪族)の子、武衡・家衡・清衡三兄弟の間に争いごとが有り、義家はこれを和解させようと試みたが、家衡は義家の裁定全くに従わず、出羽国沼の柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に立て籠もる。 
 + 
 +応徳三年(1086)丙寅の春に陸奥守の任が終わるが、国中の人々が義家の人徳を慕い強く再任を願う。再任の宣旨が下りて奥州に在留し、国内の巡視を行う。 
 +出羽の視察へと赴いた折に、家衡が軍勢を率いて出羽・陸奥の国境まで出て、義家を待ち構えるが、 
 + 
 +*P15 [#p0000015] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/531.jpg,mw:640,山名家譜 P015);| 
 + 
 +義家は事を構えず国境を越えずに国府に戻る。 
 +武衡はこの事を聞き、出羽に赴いては家衡と共に謀をして出羽金沢(秋田県横手市)の城に立て籠もる。義家はやむを得ず兵を率いて、合戦に臨む。 
 + 
 +寛治五年(1091)辛未十一月に武衡・家衡の一党を打ち破り、陸奥出羽両国に平穏をもたらす。 
 +この時の源氏の武威に畏れ入り関東の多くの名家勇士は源氏の麾下(指揮下)に入り、永く源氏の家臣となる。 
 + 
 +嘉保二年(1095)乙亥の秋、宮中月華門に参上し「鳴弦の儀」(弓を使用する宮中退魔儀礼)を勤める。即ち正四位に叙せられ内昇殿(宮中清涼殿への昇殿)を聴(ゆる)される。 
 + 
 +長治二年(1105)乙酉七月四日に病により出家し、法名を信了と名乗り、同八月十八日に逝去、河内国通法寺に葬る。 
 + 
 +*P16 [#p0000016] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/532.jpg,mw:640,山名家譜 P016);| 
 + 
 + 
 +義家に七男あり。 
 +①長男は左衛門尉・義宗。若くして死する。 
 +②次は対馬守・義親と言う。康和二年(1100)庚辰に勅命に背き、同三月二十九日に出雲国に流罪となる。永久二年(1114)正月二十日に出雲国にて死罪となる。然れども子孫は多く、義親の五男為義は義家の養子となり家を継ぐ。為義は右大将(源)頼朝の祖父なり。 
 +③三男は河内守・義忠。天仁元(二)年(1108)戊子二月三日に叔父義光(義家の弟)に暗殺される。 
 +④次は加賀介・義国。 
 +⑤次は左兵衛尉・義時。 
 +⑥次は陸奥六郎・義隆。 
 +⑦次は出家し、増珍と言う。 
 + 
 +*P17 [#p0000017] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/533.jpg,mw:640,山名家譜 P017);| 
 + 
 +一、''義国'' 加賀介  式部大夫 
 +     従五位下 
 +義国は鎮守府将軍・義家の四男。永保三年(1083)癸亥七月に誕生。母は中宮亮(すけ)・藤原有綱の娘。 
 +寛治六年(1092)壬申正月に元服し、陸奥四郎と名乗る。 
 +康和元年(1099)己卯に上皇の御所を警備する北面の武士として仕え、従六位に叙し、兵庫允に任命される。 
 +同五年(1103)癸未八月帯刀長(たちはきのおさ、皇太子の警護官の長)に任命。 
 +天治元年(1124)甲辰九月に加賀介に任命され従五位に叙す。(一説には、この時に式部大夫、又曰く、下野守に任命されたとも言う) 
 +久安六年(1150)庚午八月参陣の途中、右大将(藤原)実能(従一位)一行の行列に遭遇し、義国は不注意から下馬の礼を失し、実能公はその無礼を咎めら、 
 + 
 +*P18 [#p0000018] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/534.jpg,mw:640,山名家譜 P018);| 
 + 
 +随身の侍等が義国を馬から引き降ろす。義国の家来はこの振る舞いに大いに憤慨し、実能公の本所(詰め所)押しかけては火を放ち焼き払う騒動があり、勅勘(天皇から受ける咎め)を受け下野国に下向させられ、足利庄(栃木県足利市)にて蟄居。 
 + 
 +仁平四年(1154)甲戌三月十六日に出家、世の人は荒賀入道と呼ぶ。 
 + 
 +久寿二年(1155)乙亥六月二十六日に七十三歳で逝去。 
 + 
 +義国に四男あり。 
 +①長男は大炊介・義重。 
 +②次は陸奥守・義康。足利氏諸流の太祖にして、征夷大将軍(足利)尊氏公の八代前の先祖。 
 +③次は左衛門尉・国康。 
 +④次は蔵人判官・季邦と言う。 
 + 
 +*P19 [#p0000019] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/535.jpg,mw:640,山名家譜 P019);| 
 + 
 +一、''義重'' 左衛門尉 大炊助 
 +     従五位下 
 + 
 +義重は式部大夫・義国の長男にして、母は上野介(藤原)敦基の娘。永久五年(1117)丁酉に誕生。 
 +(長じて)禁裏に仕え、九条院(近衛天皇の中宮・藤原呈子)の判官代を務める。 
 +保元元年(1156)丙子七月十一日に新院(崇徳上皇)が御謀叛(保元の乱)を起こして今上天皇(後白河天皇)との合戦に及ぶ。義重・義康兄弟は今上天皇側に付き、同十二日に大いに戦功を上げ、同十三日に除目(任命の儀式)が行われ、義重は新田庄(上野国新田郡・群馬県太田市周辺)の下司職(げししき、荘園の実務を行う荘官)に補任され、義康は左衛門尉に補任される。 
 +平治元年(1159)乙卯十二月二十七日に下野守(源)義朝(右大将源頼朝の父)父子が右衛門督・藤原信頼と謀って反乱(平治の乱)を起こす。この時、義朝は同族の故に行動を共にする事を説得するが、 
 + 
 +*P20 [#p0000020] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/536.jpg,mw:640,山名家譜 P020);| 
 + 
 +義重は義朝側に付かず禁裏を守護する。 
 +乱後は上野国に戻り、群馬郡寺尾(高崎市寺尾町)の郷に城を築き居住。晩年に至って出家し、法名を上西と名乗る。 
 +治承三年(1179)乙亥右兵衛佐(源)頼朝(を始め諸国の源氏)に向け(以仁王から)平家追討の令旨が発せられる。 
 +   (原本には「院宣」、「勅令」とあるが、皇子からの令であるので、ここは「令旨」とする。) 
 +頼朝は(配流先の)伊豆国で兵を募り挙兵する。 
 +これに先立ち高倉の宮(以仁王)からの綸言が義重の手許にも届き、義重は我こそが八幡太郎・義家の嫡孫であるとの思いから、 
 +  (頼朝は曽孫で義重より一代下がる。《義家―義親―為義―義朝―頼朝の順で言えば玄孫。》 
 +   又、頼朝の兄の義平は娘婿。時に義重62才、頼朝32才) 
 +頼朝の麾下(きか・旗下、指揮下)に付こうとせず、自ら平家追討の功を挙げることを計り寺尾の城に立て籠もる。 
 +同年九月に頼朝は(義重に)麾下に加わるように書を送り促すも、義重は返答せず。 
 +同十二月に頼朝は安達九郎盛長を使いとして寄越し義重の「自立の志」(独力での決起?)を諫められる。 
 + 
 +*P21 [#p0000021] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/537.jpg,mw:640,山名家譜 P021);| 
 +義重は頼朝に仁君(仁愛深き君主)の器量を大きさを覚って鎌倉に参陣し、同月二十二日に初めて頼朝に謁見する。 
 + 
 +養和元年(1181)辛丑七月十四日に義重と頼朝の間に不和が生じる。義重の娘(祥寿姫)は最初、頼朝の兄・義平(悪源太)に嫁ぐいでいたが、義平が(平治の乱で)永暦元年(1160)庚辰正月十八日に捕らえられ、同月二十一日に処刑される。是によって(未亡人となった)姫を他家に嫁がせず既に二十二年が経っていた。 
 + 
 +頼朝は伏見冠者広綱を使いとして姫に艶書を送り密かに繋がりを持とうとしていたが、姫はひとたび義平の妻として誓った身なれば、義を重んじ義弟が兄の妻との密通を謀る不義に怒り返事をせず。 
 + 
 +*P22 [#p0000022] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/538.jpg,mw:640,山名家譜 P022);| 
 + 
 +そんな折、鎌倉を訪れていた義重に頼朝は直に姫の事を頼み込み譲り受けようとするが、義重は承知する事無く、遂には師六郎と再婚させ、頼朝はこの事に憤り、義重との間が不仲となる。 
 + 
 +文治(一説には治承四年(1180)庚子十二月二十二日、義重は頼朝から気色(内意?信任?)を受けると言う)二年(1186)丙午二月に義重は上野・越後両国の守護となる。後世、子孫は両国の間に領地を有して、それぞれに土地の名を冠して家号とする者多し。 
 + 
 +健久四年(1193)癸丑四月に頼朝公、下野国那須野で狩りを行い、その帰路、上野国に立ち寄り新田の城に逗留す。同月二十八日に新田を出て鎌倉に戻る。この時、山名冠者義範・新田冠者義兼がお供を務める。 
 + 
 +建仁二年(1202))壬戌正月十四日に義重は上野国新田郡にて六十八(八十六)歳で逝去。 
 + 
 +義重に七男一女有り。 
 + 
 +*P23 [#p0000023] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/539.jpg,mw:640,山名家譜 P023);| 
 +①長男は山名冠者義範、即ち当家の太祖。 
 +②次は大新田太郎義俊、後に群馬郡里見に居し里見太郎と名乗り、子孫繁栄なり。 
 +③次は新田太郎義兼、義重の家督を継ぎ新田氏流の祖となる。義兼は左中将(新田)義貞の七代前の先祖なり。 
 +④次は徳(得)川四郎義季(世羅田義季)、子孫繁多。 
 +⑤次は額田(戸)五郎義経。 
 +⑥次は新田冠者義光。 
 +⑦次は新田子四郎義佐。 
 +⑧次は女子、初めは悪源太(源)義平の妻となり、その後、師六郎に嫁ぐ。 
 +②次は新田判官代義孝、生まれは平賀冠者盛義の三男で、新羅三郎義光(義重の祖父・義家の弟)の孫。義重の養子とする。 
 + 
 +*P24 [#p0000024] 
 +|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/540.jpg,mw:640,山名家譜 P024);| 
 + 
 +新田大炊助義重(義国長男)の子孫は上野国・下野国・越後国に繁栄する。 
 +山名・里見・新田・徳川(得川?)・額田(額戸(ごうど)?)・大嶋・田中・大井田・高林・平沢・鳥山・脇屋・大館・堀口・一井・世良田・江田・豊岡・金屋等の諸氏は皆その子孫なり。世にこれを新田源氏と言う。 
 + 
 +足利陸奥守義兼(義国二男)の子孫は上野国・下野国の間に繁栄する。 
 +矢田・仁木・広沢・荒川・細川・戸賀崎・足利・岩松・畠山・桃井・吉良・今川・斯波・石橋・渋川・石堂・上野・小俣・加古等の諸氏は皆その子孫なり。世にこれを足利源氏と言う。 
 + 
 +従って式部大夫義国をもって、新田・足利両流の太祖とする。
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