ページへ戻る

− Links

 印刷 

歴史講演会のご報告 :: 山名氏史料館『山名蔵』

xpwiki:山名会/活動/H29/歴史講演会の講演録

1193.jpg[1]


ページ内コンテンツ
  • 講演録の作成について
  • 講演録の目次
  • 講演録の一部紹介
    • 山名宗全のイメージ
      • 『塵塚物語』の逸話「山名宗全、或る大臣と問答の事」
      • 「赤入道」
  • 講演録サンプルPDF 講演資料PDF
  • 講演録…若干の在庫があります
    • 事務局連絡先

講演録の作成について anchor.png[4]

昨年(H29)は応仁の乱から550年の節目に当たって居り、テレビ番組や歴史雑誌でも、応仁の乱を取り扱った特集を良く目にしました。中でも呉座勇一先生が著された『応仁の乱』(中公新書)は発行部数50万部に及ぶヒットを記録するなど、振り返って見ますとチョッとした応仁の乱ブームの年だったようです。

山名氏一族会もこの応仁の乱550年に際して、昨年の11月26日に京都・西陣織会館を会場『応仁の乱』の呉座先生を講師にお招きし、『山名宗全の虚像と実像』という演題にて、講演をお願いしました。

応仁の乱への関心も高まっていたこともあって歴史講演会には山名会会員、一般の聴講者合わせて百名を上回る方々が御参加いただき、約2時間の間、呉座先生のお話を拝聴し、質問や意見交換など充実した一時を過ごさせていただきました。

この度は、行事を記録しましたビデオより文字お越ししました講演録を呉座先生ご監修いただいた上で作成いたしました。
近年は応仁の乱研究も進み、それに伴って関係史料の解釈も変化して来ていると聞きます。今回の呉座先生の講演も旧来の応仁の乱の解釈とは一歩踏み込んだ、応仁の乱の解説となっております。
当日、講演に参加されました方々は、会場の雰囲気を思い起こしていただき、御参加が叶いませんでした皆様も、この講演録をご一読いただきまして、応仁の乱と山名宗全の関係性に思いを巡らせていただければ幸いです。

Page Top

講演録の目次 anchor.png[6]

山名宗全のイメージ3
『塵塚物語』の逸話「山名宗全、或る大臣と問答の事」3
「赤入道」4
実力主義者・秩序破壊者というイメージ5
宗全の野心が応仁の乱を引き起こした。7
応仁の乱の通説的理解7
足利義視と足利義尚の関係8
文正の政変9
山名宗全のクーデター10
御霊合戦11
応仁の乱へ12
山名宗全の実像12
山名宗全の守旧性12
山名宗全の都市性13
和睦交渉と山名宗全14
山名宗全はなぜ和睦を模索したのか?14
山名宗全の切腹未遂事件14
質疑応答16
「応仁の乱」の歴史的意義について16
「享徳の乱」との関係性について17
『義就』の読み方は「よしなり」か?「よしひろ」か?17
東西両陣を渡り歩いた「足利義視」について17
戦国時代を導いた応仁の乱、政治と宗教18
Page Top

講演録の一部紹介 anchor.png[7]

ただ今ご紹介に預かりました呉座です。この度は山名会講演会でお話しさせていただくということで、大変に光栄に思っております。本日は「山名宗全の虚像と実像」という演題で応仁の乱と山名宗全の関りについてお話したいと思います。

Page Top

山名宗全のイメージ anchor.png[8]

さて、山名一族と言いますと、一般的に一番有名なのは山名宗全だと思います。山名宗全というのは皆様ご存じのように、応仁の乱。応仁の乱は東軍と西軍に分かれて戦ったのですが、東軍の総大将が細川勝元、西軍の総大将が山名宗全ということになります。宗全は本日の会場があるこの西陣辺りに陣を構えて戦ったということになります。
そんな山名宗全ですが、実は宗全が活躍していた室町時代やその後の戦国時代のもので宗全を描いた肖像画というのは残っておらず、江戸時代以降の物しか残っていません。

応仁の乱0-1(鳥取市歴史博物館蔵「山名宗全・細川勝元確執之図」).jpg[9]応仁の乱0-2(国立国会図書館蔵「本朝百人武将伝」).jpg[10]
図 1:山名宗全細川勝元確執の図
(鳥取市歴史博物館蔵)
図 2:『本朝百人武将伝』
(国立国会図書館蔵)

では、実際にどんな物が残っているかと言いますと、これは『山名宗全細川勝元確執の図』(図1)という錦絵で、そこに山名宗全が描かれています。鳥取市の歴史博物館が持っている応仁の乱に関する錦絵です。実は私、11月に鳥取で講演したのですが、その時に鳥取市歴史博物館の方とお話ししたのですけれど、最近この絵の問い合わせが非常に増えていて、写真を使わせてもらえないかという問い合わせが沢山有って、急に有名になったということです。
もう一つは、これも江戸時代のものですが、国立国会図書館が持っている『本朝百人武将伝』(図2)といって、つまり日本の有名な武将を百人集めて、その人たちの紹介や説明をしている本ですが、その日本を代表する有名な武将百人の中の一人として、山名宗全が選ばれていて、宗全の絵が描かれています。
しかし、何れの絵も江戸時代に描かれたもので、山名宗全その人本人を見て描いたものでは無いので、当然、想像で描いているのですが、江戸時代の人から見ても山名宗全という人は非常に強面な、ちょっと悪い感じの人というイメージであったことが分かるかと思います。

Page Top

『塵塚物語』の逸話「山名宗全、或る大臣と問答の事」 anchor.png[11]

そのほかに、宗全の人物像を物語るエピソードとして有名なのは、お手元の資料の最初のページに載せましたが、『塵塚物語』という史料に書かれたものです。戦国時代の天文21(1552)年に作られた本なので、これも応仁の乱の勃発から90年近く経ってから書かれた本ですが、全6巻65話の一番最後に山名宗全に関するエピソードが載っています。
それは、「山名宗全、或大臣と問答の事」というエピソードですが、

「山名金吾入道宗全、いにし大乱の比をひ、或大臣家にまいりて、当代乱世にて、 
諸人これにくるしむなど、さまざまものがたりして侍りける折ふし、亭の大臣ふる
き例をひき給ひて、さまざまかしこく申されけるに、宗全たけくいさめる者なれ 
ば、臆したる気色もなく申侍るは、『君のおほせ事、一往はきこへ侍れど、あなが
ちそれに乗じて例をひからせらるる事しかるべからず。凡そ例といふ文字をば、向
後は時といふ文字にかへて御心えあるべし。それ一切の事はむかしの例にまかせて
何々を張行あるといふ事、此宗全も少々はしる所也…(中略)凡そ例と云は其時が
例也。大法不易、政道は例を引て宜しかるべし。其外の事、いささかにも例をひか
るる事心えず、一概に例になづみて、時を知らざるゆへに、あるひは衰微して門家
とぼしく、あるひは官位のみ競望して其知節をいはず、此くの如くして終に武家に
恥かしめられて、天下うばはれ媚をなす。若しゐて古来の例の文字を今沙汰せば、
宗全ごときの匹夫、君に対して此くの如く同輩の談をのべ侍らんや、是はそも古来
いづれの代の例ぞや、是則時なるべし…(中略)いまよりのちはゆめゆめ以てここ
ろなきゑびすにむかひて、我方の例をのたまふべからず。もし時をしり給はば、身
不肖なりと云ども宗全がはたらきを以て尊主君公みな扶持したてまつるべし』と
苦々しく申ければ、彼大臣も閉口ありて、はじめ興ありつる物がたりも、皆いたづ
らに成けるとぞ、つたえきゝ侍し、是か非か」
(『塵塚物語』)

≪大意≫
山名宗全は応仁の乱の頃にある大臣の邸に行って、昨今世が乱れている事について語った事が有って、大臣の方は「昔はこんな事が有った。」「あんな事が有った」「昔の例によればこうだった」と色々と賢く語ったが、それに対して宗全は、まあ、あなたの言っていることも分かる。しかし、たしかに一理あるのだけれども、昔はこうだったというのは良くない。これからは昔の「例」ではという言葉に代えて、「時」という言葉を使いなさい。「例」と言ってもそれは其の時の例で、昔の例が今の世の中にそのまま通用するという事では無い。あくまで其の時の例であって、時代が変わって社会が変わったら、そんな物は意味が無くなるのだ。だから例にばかり拘るべきでは無い。あなたたち、即ち公家貴族たちはそう言った時代の変化というものをきちんと認識せずに例にばかりとらわれていたから、武士に天下を取られてしまったのでしょう。そもそも私(山名宗全)のような身分賎しき武士が、大臣と対等に語り合うということが昔は有りましたか。そんな例は無いでしょう。これこそが時というものです。もう例に拘るのは、やめるべきです。あなたが現実を見て、今現在の世の中の流れに適応しようとするなら、わたくし宗全があなたをお助けしましょう。と言って、完全に大臣の方がやり込められてしまい、大臣は黙りこくってしまった。
これは有名な逸話でご存じの方も多いですが、ここで描かれている宗全は、昔の例やしきたり、秩序やルール等はどうでもよく、今現在の時代に適応することが大事であり、旧来のしきたりに縛られない変革者のイメージが強く出ています。
勿論、これは宗全が死んでから何十年も経ってから出来た本に書いてある話なので、これが本当の話かどうかは分からないのですが、少なくともこの本が成立した戦国時代の人たちは、山名宗全というのは旧来のしきたりとかルールに拘らない人だと思っていた。

Page Top

「赤入道」 anchor.png[13]

もう少し宗全が生きていた時代に近いもので、山名宗全についてどのように言っているかというと、資料にあるように宗全は「赤入道」とあだ名されていたようです。
『続郡書類従』の「山名系図」には、
「宗全の面色、甚だ赤し。世人呼んで曰く、赤入道」
というように書いてある。それから、応仁の乱について書かれた軍記物である『応仁別記』の中では、細川方が山名の邸に矢文を打ち込んで山名を挑発するのですが、その文面には

「ウテナクハ ヤメヤ山名ノ赤入道 手ツメニナレハ 御所ヲ頼ヌ」、

つまり、
戦う気が有るなら出てこい。戦う気が無いなら諦めて降参しろ。宗全は困ったら将軍に助けを頼む腰抜けなのか。
と挑発をしている。
ここでも山名の赤入道という言葉がでてくる。やはり宗全は赤入道と言われていたようですね。
更に一休宗純が作った漢詩集の『狂雲集』には、

	「山名金吾は鞍馬の毘沙門の化身、鞍馬の多門は赤面顔」

山名宗全は武神である毘沙門の化身であり、やはりここでも山名宗全は顔が赤いということが書かれてある。
これは単純に見た目が赤ら顔と言いたいのではなく、恐らく直ぐに怒る人であるということを言いたい訳です。短気で直ぐに怒るおっかない宗全のイメージがあったのでしょう。


サンプルのため、以下省略

Page Top

講演録…若干の在庫があります anchor.png[17]

上記で紹介致しましたH29山名会歴史講演会での、呉座勇一先生の講演録ですが、80部ほど在庫が御座います。
上記のサンプル等をご覧頂き、ご興味がある方が御座いましたら一部300円(送料別)でお分け致します。詳しくは下記をご覧下さい。

  • 協力金:一部300円(送料別)
  • お問合せ:メールフォーム[18](法雲寺のサイトに移ります。) 又は、下記事務局までご連絡下さい。
    ※余り余裕がある残数ではありませんので、品切れの際はご容赦下さい。
Page Top

事務局連絡先 anchor.png[19]

FAX送信先:0796-98-1161
全國山名氏一族会 事務局  電話:0796-98-1151
〒667-1311兵庫県美方郡香美町村岡区村岡2365法雲寺内



Last-modified: 2018-06-05 (火) 13:54:50 (JST) (134d) by admin