P155
一 豊國 中務大輔 従五位下
豊國は弾正大弼豊定の男にして天文
十七年(1548)戌申年に誕生あり母は管領
細川武蔵守高國の女なり
一 豊國岩井の城に居住の時に毛利右
馬頭輝元因幡の国を攻とらんと謀
りて軍兵を卒(率)い夜に乗じて潜
かに要害を凌て城の後ろに廻り時
の声を揚て攻入り松明を城中に
投入て競い攻る事甚だ急なり
ければ豊國は冑を被らず甲を
着せずして長刀を提げ進んで
敵にむかい勇を振い戦うて敵六
人を目前に斬伏られければ残る
P156
寄手の兵ども此勢いに恐れて
城中に入る事ならず其間に家
人等来り集りて敵を追払う毛
利が兵ども皆敗北して引かえすを
追討にして首数十を討取る隣国
にも其勇猛なる事を感ず
一 天正(1573~)の始め舎兄源十郎豊数逆臣
武田豊前守隆信が為に鳥取の
城を出奔あり此時に豊國は因州
八東郡に在城あり此事を聞て
甚だ憤り武田が不義を憎て家臣
田結庄垣屋太田垣等に命じて武
田豊前守并に上野豊廣を討しめ
らる両人罪を悔て許されん事
を乞といえども豊國これを許さず
して八上郡大玄寺という禅寺に
P157
おいて両人を斬て舎兄の仇を報
じて後に邑美郡の鳥取城に移り
国中の仕置ありて因幡の国主と
なる
或古記に曰く豊定邑美郡鳥
取に砦を拵え家老衆を置れ
候所に何れも辞退申され望む
人これなしその内に武田豊前
守と申す人は但馬に舅是あり
候所縁を便りとし請を申され
鳥取に在城致され候処に君臣
不和の事出来布施屋形へ敵
をなし其後は数年布施と
鳥取と合戦是あり終には
布施をくづし永禄六(1563)癸亥の
年に布施落城いたし候其後
P158
武田臣下として国を奪取り
候儀もなりがたきゆえ但馬山名
殿御一族の内壱人申受け候えば
折節然るべき貴族も御入
これなきゆえ壱人叡山に児
になり御座候を武田方へ御越
し候是を国主と仰ぎ鳥取に
在城候是則ち禅高公の御事
なりと申候
按ずるに禅高を始め叡山の
児なりというは誤りなり弾正
大弼豊定の舎弟に東陽蔵
主というあり宗鑑寺の住職に
て後に還俗して因幡国岩
井を知行す此人の事を古
の記に誤り伝うる成べし
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其後禅高公又武田と中悪し
く御なり禅高公を武田追
出し候ゆえ丹後へ浪人なさるゝ
所に出雲浪人山中鹿之助禅
高公を進め因幡国に忍び来
り鳥取城を夜討にいたし申候
此時武田を討留め武田はたえ申
よしに候夫より禅高公は鳥
取城に御座候えども其節は国中殊
更乱国となり屋形とは申候えども
国主に用い申ものこれなく
国侍たがいに取合是あり禅
高公も色々御働これある
よし申候
按ずるに鳥取城は始め豊國
の舎兄源十郎豊数の居城
P160
なり同国岩井城は武田豊前
守にあづけ置る処に武田逆臣
を企て天正の始め源十郎豊数
は因州を立退き但馬におもむ
き翌年卒去あり豊國此事
を憤り山中鹿之助を相かたらい
武田豊前を討ほろぼす此記
の説と少しく異なり或記に
曰く禅高公の儀当国さる在所の
老農相語仕候はすなわち当
国布施屋形の御息に候武田
布施をくづし候てより方々
御浪人当国八東郡に御在城
武田と御合戦これありと申
ものもこれあり候当国布施の
城たえ申候儀も説々に申候弥次
P161
郎殿と申御屋形の代にくづれ
申よし彼の弥次郎殿打死なさ
れ候墓所高草郡たちみと申
所に御座侯武田豊前并に其弟
当国高草郡ひよとり尾と申
所の城主武田又三郎と申人両人し
て討申候よし此時布施くづれ
申候とも又は弥次郎殿は屋形の
御子息にて其後屋形は禅高
公を御養子になされ御病死な
どとも申又は毛利家より布施
を攻くづし申などとも申候て
一円分明成儀存したるものなし
按ずるに布施屋形というは
左京太夫時氏の男中務少輔
氏冬始て因州布施庄に居
P162
住ありしより子孫此所を
領す是を布施の屋形という
其子孫に弥次郎という人なし
豊國を布施屋形の子というは
誤りなり又弥次郎というは
弾正大弼豊定の兄なり弥次郎
安豊という詳に系図に見えたり
或記に曰く禅高公当国御立
退きなされそのまゝ御領地
なさるゝやあきらかならず
又曰く禅高公当国に御座な
さるゝ時に当国八東郡辺御取り
なさるゝようには申候へども慥(たしか)に
向方御取り向れの所に御在
城なされ候とたしかに存し
たるもの御座なく候当国矢部
P163
の城に御座なさるゝと申ものも
御座候へど当国にて矢部の城今
ほど在所しかと存したるものこ
れなく候
按ずるに豊國の村岡に居住の
事は鳥取落城の後に暫く此
所に居住ありしなり
或記に曰く武田豊前と申人の
儀も当国土民説に申候太閤記
などには禅高公御討なさるゝ
ようにしるしこれあり候えども
当国の土民申候は武田合戦に
打まけられ候て但馬に舅あ
るのゆえ其所へ逃られ候えば舅
の方にて討留め申などと申候
其弟又三郎は当国の国侍打
P164
寄たばかり和談いたし当国
八上郡大玄寺と申禅寺にて
だまし討に仕候と申候墓所
当国智頭郡に御座候
按ずるに此説は家説と異な
り武田豊前は豊國に亡され
たる事分明也
又曰く右武田豊前の子孫流
浪候て後には禅高公をたのみ
御家中に有付今に御座候て
武田太郎右衛門殿と申すはその
御末のように当地にて申もの
これあり候又当国にても八
上郡ひけた村と申所に鳥越
の一党とてこれ有り候百姓は
彼の武田の子孫のよし申候
P165
或記に曰く当国八東郡きさいち
と申所に覚王寺と申山伏寺御
座候本尊は観音にて御座候
禅高公此辺に御座なさるゝの
とき御立願成就の儀これある
につき御祈祷所になされ御帰
依のよしその寺のむかいの在
所市場と申所名城のよしに候
古跡にて候もし此城に御在城
などなされ候御伝も御座候や此
城むかしは毛利と申人代々
在城のよし此所にても大合戦
是あるよし右の覚王寺と申
寺とては大破いたし禅高公御
祈祷いたし候一山伏は子孫もたえ
候て柴の庵に餘流の山伏籠
P166
或説に曰く因州岩井郡に豊國
在住あり居城を岩つねの城
と名付らる今において其跡存
ぜりという 此迄
一、毛利右馬頭輝元は山陰道の内を切
随えて両道を全く手に入んと謀る
此時に豊國は勢い微なりたれば
輝元が因州に攻いらん事を慮て
暫く彼を欺かん為に芸州に使
者を遣し好みを通ぜらる是によ
りて輝元より度々軍役をかけて
出勢を催しければ豊國は軍勢
の少きを以て是を辞退せらる
一、天正九年(1582)辛己五月に羽柴筑前
守秀吉織田信長の命を受て
播州姫路の城を発し大軍を引
P167
具して因幡に至り鳥取城を囲
み攻む此時に伯耆国羽衣石の城を
守る南条勘兵衛同国岩倉城を守
る小鴨左衛門尉ともに秀吉に降参
す又豊國の家長中村大炊助春次
森下出羽入道道與は豊國と不和
なりければ森下中村ともに相謀
て逆意を企て毛利が加勢の大将
にて来りたる吉川式部少輔隆久
に密謀を談し豊國の男庄七郎
十二歳なるを取立て豊國を押
籠て国中を押領せん事を謀る
所に豊國此謀を漏れ聞て曰く
今羽柴秀吉大軍を卒(率)て城を
囲み又城中に変を生ず我何
を以て秀吉を防がんや我志に叶わず
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といえども今秀吉に志を通じて彼が
力をかりて吉川并に逆臣等を
亡さんとて同五月十六日の夜に入て
豊國ひそかに城中を出らる眤近の
侍少々是に随いて秀吉の陣中に
至る秀吉大きによろこびて厚くも
てなさる中村森下両人は城中に留
て堅く守る此時に秀吉より豊
國に遺る所の証文に曰く
条々
一、此方別而御入魂之上者御身
上之儀於我等聊不可存疎意候
事
一、御居城不可有別儀之事
一、出石郡之儀進之置候条無異儀
可被仰付事
P169
右旨八幡大菩薩愛宕山相違有
間敷侯依而如件
天正六(1578) 羽柴筑前守
五月十六日 秀吉花押
山名殿
余人々御中
或説に曰く永禄十二年(1569)己巳七
月に伊丹兵庫助親興池田筑
後守勝政案内として羽柴筑前
守秀吉但馬国にせめ入るという
秀吉大軍を以て日夜に城を攻ら
る毛利輝元加勢を出さんとして機
を両端にかけて果さず然るに城中
兵粒つきて上下ともに餓に及ぶに
よりて吉川中村森下等相議し
て福光小三郎を使として浅野弾正
P170
少弼長政が陣に遣して城中雑兵
の一命を助け給わゞ三人ともに自殺し
て城を渡すべしという長政是を秀
吉に申す秀吉是を免し酒食
を城中に遺(おく)らる秀吉より堀尾茂助
吉晴を検使として城を請取らしむ
吉川森下中村城を出て寺にいり
自害す堀尾其首を秀吉の実
検に入る森下中村が首は其不忠を
憎み泥を以て其面に塗たり坂田
孫次郎福光小三郎は吉川が恩をう
けたる者共なれば同く自害す
城中の兵共餓に疲れたるによりて
秀吉の下知として粥を煮て食は
せらる多く食うものは死し少く
食うものは恙がなし秀吉より
P171
宮部善祥房をして五万石の領地
をあたえて鳥取の城を守らせらる
其後秀吉帰陣の時に豊國に逢
てともに京都におもむき我に属
せらるべしと有ければ豊國答て
我不幸にして不忠の者の為に
国家を乱し今足下のために数代
の領地を失い他の領国と成り百
八十餘年相伝の領国を離れ人
の下に立ん事は思いもよらずたゞ
時節をまたんと有ければ秀吉
其言葉の勇有を感心有て是を
褒らる秀吉又とわれけるは
足利家より伝来の笹作の太刀有
ときく今偏る所の太刀ならん其
太刀を我に見せらるべしとあり
P172
ければ豊國答えて笹作りの太刀は
鹿園院殿より先祖宮内大輔時
熈に譲りあたえらるゝ所にして
我家の重器たりといえども今かくの
ごとくに累代の領国を離散するの
時節に至りぬれば其太刀今
此に帯せずとて終に笹作の太刀
を秀吉に見せず暇を乞いて同
国村岡に暫く蟄居あり其後に
摂津国河辺郡多田圧に来りて
多田氏が宅に幽居あり時に譜代
の家人等に皆暇を授け時節を
待べき旨を命ぜらる多田庄に随
遂するものは田結庄宮田垣屋上野
三上浅田多賀の輩のみなり此時
豊國三十四歳なり
P173
一、天正十四(1586)年丙戍に徳川家康公豊
臣秀吉公の招によりて上洛あり
此時に豊國は多田庄より家康公
の旅館に至り本多中務大輔忠
勝榊原式部太輔康政永井右近大夫
直勝西尾隠岐守吉次等に逢て
家康公に拝謁せん事をこわる各
相儀して家康公に執し申則ち
旅館に於て家康公に拝謁せらる
是よりして恩恵日々に厚く直々
に供奉して関東に下向せらる
此時に豊國多田圧より関東
に趣(赴)かるゝによりて多田氏が多
年の懇情を謝せん為に重代
の脇指を多田氏に授け離別
の情をつくさる今に至て多田兵部
P174
元朝が子孫此脇指を所持すと
いう
或説に此時に山名慶五郎
堯熈も豊國とおなじく家康公に
拝謁すというはあやまりなり
堯熈父子兄弟皆豊臣秀吉
公に仕えて慶長年中に至り
摂州大坂城に籠り秀頼公に
仕う然るに大坂落城におよび
て豊國潜に諭し堯熈父子
をして城中を出奔せしめ
将軍家に拝謁せしめん事を
願わるゝに将軍家の命有
りて堯熈父子京都六条の辺
蟄居あり詳かに祐豊の譜
伝に見えたり
P175
一、同十六年(1588)戊子四月十四日に秀吉公
の聚楽の亭へ行幸あるにより家
康公も上洛あり前管領家斯波
入道三松が宅に渡御あり豊國も
供奉して彼宅に至り三松入道に
対面あり其礼甚だいんぎんなり
家康公還御の後に豊國を召て
仰に曰く三松に対するの礼甚だ
過たり斯波氏は是足利氏の支流
なり汝が家は新田正嫡の一流にして
名家たり近き頃に至るまでも大
国を領して威名ありし事は世の
知る所なり今古えのごとくにあらず
といえ共彼に対して強がちに謙ゆず
らんや我に忠をつくし絶たるを
継ぎ廃たるを興し功名を子孫
P176
残すべしと仰有り豊國忝なき
旨を申て退く
一、文禄(1592頃)年中筑紫陣の時に家康公
豊國を召て仰に曰く汝の先祖山名
伊豆守義範と家康が先祖徳川
四郎義季は兄弟にしてともに新田
大炊助義重の子なり今に至ると
いえども我家と汝の家とは同血同胞
の家なり然ば我何ぞ汝が家を
疎かにするの理あらんや今より後
は我に眤近あるべし我もまた疎かに
すべからずと仰あり豊國鈞命
の慇懃なる事を蒙り忝なき
旨を申て退かる聞人皆是を羨む
一、慶長五(1600)年庚子五月朔日に家康
公諸将を召て上杉中納言景勝を
P177
御退治あるべき評定有同月九日に
御陣触あり同じく六月十六日に
摂州大坂を御進発あり同く七月
二日に武州江戸城に入らせらる此時
に豊國も供奉して関東に下る同
月廿四日の夜に京都伏見の騒動を
告げ来るよりて家康公諸将と
相議して上方に登り給う同じく九月
十五日に美濃国関原表において
石田治部少輔三成を始め西国方の諸
将皆敗北して家康公御勝利な
り豊國も亀井武蔵守上杉紹常
入道八木圧左衛門太田垣監物等と
一備えにて軍忠を抽(ぬきんで)らる八木庄左衛門
太田垣監物は豊國の旧臣たりといえども
当時将軍家に仕う此度豊國と
178
一列に命ぜらる同じく十月十六日に
家康公摂州大坂城に入給う同月廿七日
に豊國を召て仰に但馬国におもむ
き気多郡高田庄の領主斎村佐兵衛
佐秀則が竹田の城を請取るべき旨
を命ぜらる豊國則ち但馬に至り
高田庄におもむかる此時に旧臣等
来り集りて城地を請取国中の
仕置をなし竹田の城を給る
一、同六年(1601)辛丑に同国七味郡に郡替
を仰付られて七味郡一郡を一円に
給る
一、同十九年(1614)甲寅の冬大坂御陣の
節に家康公上意待て本多上野
介正純は朝夕に昵近して我左右に
あり上野介が人数と三浦監物と
P179
豊國相備えにて軍兵を下知して
戦功を抽(ぬきん)ずべしと仰あり豊國領
掌申さる此時に豊國の旗の紋三ツ
引なり三浦氏も又旗の紋三ツ引な
り豊國その混乱せん事を察して
山の字を以て下に添らる家康公
上意有けるは汝の旗を見るに三ツ
引の下に山の字あり呼て見れば
さんざんのとなえなり旗の紋を改
むべきのよし仰有るによりて二ツ引
両に山の字を付らるこれよりし
て後当家三布白二ツ引両を以て
家の紋とす
一、家康公駿府に御在城の時に年
始御礼の節国持大名御礼相済て
直に日野入道唯心水無瀬入道一斎
180
豊國次に上杉畠山土岐と次第し
て御礼ありまた六月十六日嘉定の御
祝儀の節も公家の面々同前に豊
國を御留ての上に召させられて日野
飛鳥井は三方なり冷泉土御門
舟橋水無瀬豊國は足付なり其餘
は列座御縁にて片木にて是を
下されしなり
一、家康公の御前に豊國出仕有る
の時は毎度列座の上座たり家
康公上意にも新田の氏族は山名の
外高家の内にこれなきのよし
度々上意あり山名は新田の嫡家
なるによりて類なき家たるの
間馳走もまた類なきの旨を仰
らるある時豊國家康公の御前に
P181
出て象戯(将棋)の御相手たり時冬に
してことに寒する夜なりしに
豊國古き羽織を着せらる側に
伺公の人々古き羽織を着せられ
候よしをいうに豊國答えて此羽
織は我等因幡に有し頃上洛せし
時に公方光源院義輝公の召して
御入候を賜わりたるによりて古く候
と答らる家康公聞し召して
笑わせ給い側の人々に宣うは禅高
入道が家には左様なる由緒ある古
き物は多くあるのよしを仰ければ
聞人皆赤面せしとなり其羽織
は金襴なりとぞ
一、慶長年中に豊國家康公の御
前に伺公あるの時池田備後守脇指を
182
帯し御前近く出て直訴申上る
其躰不審しく見えければ豊國座
を立て備後守が左右の手をとり
引立て御次に退かしむ時に本多
上野介正純を上使として御諚有
けるは豊國若年より所々において
勇傑の働き上聞に達したるによりて
武備の為に兼々昵懇せしめらるゝ
の所に今日の振舞神妙の至り御
感におぼし召さるゝ所なり他の若
輩にあらば御感状をも下さるべきに
禅高入道のごときは感状を下さるゝ
にもあまりありと大きに御感の
上意あり
一、豊國駿府より江戸に来り秀忠公
に拝謁あり滞留の聞しばしば御前
P183
に出らるまた秀忠公駿府におもむ
かせられ家康公に謁せらるゝのと
きに豊國の宅において御茶を献
ずべきの上意再三ありけれども
豊國は居宅の見苦しく召仕等も
なく迷惑の由を辞退あるによりて
終に御成はなしとぞ
一、将軍秀忠公御膳を召上らるゝ
時に豊國御相伴たりときに御盃
を下され御返盃致べきのよしを
上意あり豊國固く辞せらる強い
て辞退あるべからずと再三御諚ある
によりて御返盃あり時に岡田兵部
少輔御酌たり御次の間において兵
部少輔豊國にむかって曰く唯今
貴辺の御返盃有し事は国主といえ
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