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村岡山名初代にして、因幡山名最後の当主。 のバックアップ差分(No.4) :: 山名氏史料館『山名蔵』のページ

xpwiki:山名会/山名氏/山名豊国 のバックアップ差分(No.4)

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3: 2011-10-01 (土) 23:19:25 admin[6] ソース[7] 4: 2011-10-31 (月) 22:48:08 admin[6] ソース[8]
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*豊国の評価 [#bd967f80] *豊国の評価 [#bd967f80]
領国を追い出されては、再び国に戻り、そして強国に城を攻められ降伏し、その後も家臣として働き、また、新たな敵に攻められながらも、巧みに流れを読み情勢を判断し、山名の名を後世に伝えたその処世術と判断は「暗愚な総大将」とは違う一面を見ることが出来ると思う。 領国を追い出されては、再び国に戻り、そして強国に城を攻められ降伏し、その後も家臣として働き、また、新たな敵に攻められながらも、巧みに流れを読み情勢を判断し、山名の名を後世に伝えたその処世術と判断は「暗愚な総大将」とは違う一面を見ることが出来ると思う。
 +**但馬山名の復興など [#uefb9654]
 +余り知られていないが、かっての総領家である但馬山名氏第十代尭熈(あきひろ・氏政とも)が清水と姓を替え(家臣清水氏の養子となっていた)地下(じげ)に埋もれていたのを救い出し、家康に周旋して旗本にとり立ててもらい、この家系も以後連綿と続いて明治を迎えています。
 +また、因幡時代の旧臣―武田・中村等、反禅高の首謀者たちが、鳥取械落城後、諸国に流浪しているのを呼び戻し、旧怨を問わずに高禄を与えて家臣団上席に据えるなどの、逸話も伝えられています。
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