ページへ戻る

− Links

 印刷 

山名家譜 巻之一 のバックアップソース(No.20) :: 山名氏史料館『山名蔵』のページ

xpwiki:山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一 のバックアップソース(No.20)

« Prev[4]  Next »[5]
TITLE:山名家譜 巻之一
#navi()
#contents()
*記載人物(P1~P24) [#reaedbc3]
|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/516.jpg,mh:240,山名家譜 巻之八);|
|[[清和天皇>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000001]]、[[貞純親王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000002]]、[[経基王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000003]]、[[源満仲>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000006]]、[[源頼信>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000008]]、[[源頼義>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#o010]]、[[源義家>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000013]]、[[源義國>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]、[[源義重>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000019]]|
#clear

*P1 [#p0000001]

|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/517.jpg,mw:640,山名家譜 P001);|
    山名家傳記巻之一
      山名家先祖譜傳

一、抑山名家は清和源姓にして新田一流の
  豪家なり本国上野国緑埜郡山名の
  庄なり

一、人皇五十六代の帝を''清和天皇''と申す
  御諱(いみな)は惟仁と言う五十五代の帝文徳天皇
  (御諱道康)第四の皇子なり御母は皇太后
  藤明子と言う太政大臣藤原の良房公
  の女なり染殿后と称す天安二年戊
  寅十一月七日に即位あり時に九歳なり
  貞観十八丙申年十一月廿九日に位を皇太
  子貞明に譲り給う元慶三年己亥五月
  八日に落飾あり法諱(ほうき)素貞と言う戒師は
  宗縁僧正なり同四年庚子十二月四日円覚
----
一、抑も山名家は清和源姓にして新田氏の流を汲む由緒正しき豪家なり。
 本国は上野国緑埜郡山名の庄なり。(現・群馬県高崎市山名町)

一、人皇五十六代の帝を清和天皇と申す。御諱は惟仁と言う。五十五代の帝・文徳天皇の第四の皇子なり。
 御母は皇太后・藤原明子と言う。太政大臣藤原良房公の娘なり。染殿后と称す。
 天安二年(858)戊寅十一月七日に即位あり時に九歳なり。
 貞観十八年(876)丙申十一月廿九日に位を皇太子・貞明に譲り給う。
 元慶三年(879)己亥五月、八日に剃髪し仏門に入る。法名は素貞と言う。戒師は宗縁僧正なり。
 同四年庚子十二月四日、円覚寺(藤原基経(藤原良房の養子)の栗田山荘)において崩御あり。

*P2 [#p0000002]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/518.jpg,mw:640,山名家譜 P002);|
  寺において崩御あり粟田山白河陵
  に葬り御骨を水尾山の陵に斂(おさ)めて
  水尾天皇と謚す後に改めて清和天皇
  と謚(おくりな)す天下を治め給う事十八年なり
  此帝皇子皇女凡(すぺ)て十八人あり

一、''貞純親王'' 四品 中務卿
  親王貞純は清和天皇第六の皇子にして
  御母は神祇伯中務太輔棟貞王の女なり貞
  観十六年甲午三月十三日に降誕あり元慶
  六年壬寅十一月五日に元服あり四品に叙し
  兵部卿に任ず一条大宮の桃園宮に
  住し給うによりて桃園親王と称す
  後に中務卿に任じ常陸上総等の太守
  となり給う右大臣源能有公の女を娶
  り室家とし給う能有公は文徳天皇の
----
 粟田山白河陵てに荼毘に付し、御骨を水尾山の陵に斂(おさ)める。
 水尾天皇と謚し、後に改めて清和天皇と謚す。
 天下を治め給う事十八年なり。
 此帝皇子皇女凡(すぺ)て十八人あり。

一、貞純親王 四品 中務卿
 親王貞純は清和天皇第六の皇子にして、御母は神祇伯中務太輔棟貞王の女なり。
 貞観十六年(874)甲午三月十三日に降誕あり。
 元慶六年壬寅(882)十一月五日に元服あり四品に叙し、兵部卿に任ず。
 一条大宮の桃園宮に住し給うによりて桃園親王と称す。
 後に中務卿に任じ常陸、上総等の太守となり給う。
 右大臣源能有公の女を娶り、室家とし給う。
 能有公は文徳天皇の

*P3 [#p0000003]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/519.jpg,mw:640,山名家譜 P003);|
 御子にて弓馬の芸に達せらる親王
 其業を受継て射騎の礼式に達し
 給う是によりて勅ありて月華門院の
 白幡を給る延喜十六年丙子五月七日に薨
 去あり
    貞純親王に二子あり長男は経基王
    なり次は経生と言う越後守に任ず

一、''経基王'' 正四位上 左衛門権佐
 経基王は貞純親王の長男にして寛平
 七年乙卯二月十五日に桃園宮において誕生
 あり母は右大臣源能有公の女なり貞
 純親王清和帝第六の皇子たるを以て
 世の人経基王を称して六孫王という
 延喜九年己巳十月五日に常寧殿に

*P4 [#p0000004]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/520.jpg,mw:640,山名家譜 P004);|
 おいて元服あり正六位上に叙し左馬
 助に任じ始めて源朝臣姓を賜わる天慶
 三年庚子の春に平将門追討として
 右衛門督藤原の忠文を征東将軍とし
 経基王を副将軍として節刀を賜る
 よりて関東に下向あり駿河国清見ヶ
 関に至るの日に関東において武蔵守
 藤原秀郷陸奥守平貞盛等将門を
 誅罰するのよしを告来るにより
 て帰洛あり是より先に経基王武蔵
 の国司たる時に国府に在留の時に
 将門が叛逆の相ある事を察して彼
 を誅伐せん事を奏聞有といえどもいま
 だ事のあらわれざるを以て勅許な
 し承平年中より将門逆意を関
 東に振うによりて経基王の才智を

*P5 [#p0000005]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/521.jpg,mw:640,山名家譜 P005);|
 賞美あり従四位下に叙せらる同年
 六月に伊予大掾藤原純友を誅伐の
 為に参議小野好古を大将軍とし経基
 王を副将軍として筑紫に差下さる
 不日に純友を誅伐ありて同八月に帰
 京あり軍功の賞として正四位下に叙し
 大宰大弐に任ぜらる経基王は和歌を
 能し天性武略に達し父の業を継て
 弓馬の道に長ぜらる是によりて
 村上天皇(御諱成明)の勅蒙り陸奥守に
 任じ鎮守府将軍に補せらる天徳二
 年戊午十一月廿四日に西八条の館において
 逝去あり即ち館の辺に池あり此
 所に廟所を建て大通寺遍照心院号
 す
  経基王に八男一女あり長男は左馬頭

*P6 [#p0000006]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/522.jpg,mw:640,山名家譜 P006);|
  満仲なり次は左衛門尉満政次は
  武蔵守満季次は右衛門尉満快
  次は下野掾満実次は出羽介満正次は
  上総介満生次は山城守満重という
  ともに子孫繁栄なり女子は従五
  位下源元高の妻なり

一、''満仲'' 正四位下 左馬権頭
 満仲は鎮守府将軍経基王の嫡子に
 して延喜十二年壬申四月十日に西八条の
 館において誕生あり母は武蔵守藤原
 敦有の女なり延長四年丙戌に元服
 あり正六位に叙し左馬助に任ず安和三
 年庚午三月に摂津守に任ぜられ内
 昇殿を聴(ユル)さる満仲父祖の業を継て
 弓馬に達し武略に長ずるを以て大内(オオウチ)

*P7 [#p0000007]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/523.jpg,mw:640,山名家譜 P007);|
 の守護たるべきの勅命を蒙り摂州河
 辺の郡多田庄を賜る天禄元年庚午
 三月十五日に多田圧に来り住せらる同
 二年辛未に多田庄に一寺を建て鷹
 尾山法華三昧院と名く(今の多田院是なり)寛和二
 年丙戍八月十五日に落飾ありて法名を
 満慶と号す長徳三年丁酉八月廿七日に
 逝去あり三昧院に葬むる

  満仲に十男一女あり長男は摂津守
  頼光と云う美濃源氏の大祖なり
  次は大和守頼親という大和源氏の
  大祖なり次は河内守頼信嫡流相
  続なり次は武蔵守頼平次は左衛門尉
  頼範次は山城守頼明次は帯刀長頼
  貞次は法眼円覚次は阿闍梨頼尋と
  いう女子は中将藤原の頼親妻なり

*P8 [#p0000008]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/524.jpg,mw:640,山名家譜 P008);|
一、''頼信'' 正四位上 河内守
 頼信は鎮守府将軍満仲の三男にし
 て天延二年甲戍九月五日誕生あり母は
 大納言藤原の元方の女なり永延二年
 戊子九月十八日に元服あり正六位に叙し
 左馬助に任ず正暦五年甲午三月に勅
 命を蒙り若狭越前の両国に赴き
 群盗を誅伐す寛仁四年庚申九月十日に
 河内国壷井に館を構えて居住す長元
 三年庚午九月に上総介平忠常追討
 の宣旨を賜り同十月廿一日に軍勢を引
 卒(率)して武蔵国河越に至りて忠常が弟
 陸奥守忠頼中村五郎忠将と攻戦う
 忠頼兄弟ともに利なくして引退く
 同四年辛未四月頼信大軍を卒(率)て下総

*P9 [#p0000009]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/525.jpg,mw:640,山名家譜 P009);|
 国に至り上総介が籠る所の千葉
 城をせむ忠常終に利なくして降参
 せり頼信則忠常を供ない帰洛あり
 しに美濃国において忠常病死せ
 り頼信忠常を労わり恤(あわれ)むによりて
 彼が一族門葉の者ども其仁心に感伏
 して永く源家の家僕となる頼信
 此度の軍功によりて従四位上に叙せら
 る此余頼信一世の勇功甚だ多し永
 承三年戊子九月朔日に卒去あり法名
 蓮心と号す河内国通法寺に葬る

  頼信に五男一女あり長男は伊豫守
  頼義嫡流相続なり次は肥後守頼清
  次は掃部助頼季次は河内冠者頼任
  次は常磐五郎義政というともに信濃
  国に居住して子孫繁栄す是を

*P10 [#p0000010]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/526.jpg,mw:640,山名家譜 P010);|
  信濃源氏という女子は甲斐守源為
  満の妻なり

一、''頼義'' 従四位上 伊豫守
 頼義は鎮守府将軍頼信の嫡男にして
 母は一条院の官女修理命婦なり長保
 五年癸卯四月九日に誕生あり長和二年
 癸丑に元服あり正六位に叙し兵庫允
 に任ず永承六年辛卯に陸奥国の押
 領使安部頼良を追討の為に陸奥守
 に任じ鎮守府将軍に補して節刀
 を賜り東国に下向あり同六月廿五日
 に相模国に至り鎌倉郡由比郷に石清
 水の八幡宮を勧請あり幡(はた)を亀谷の
 山上に納めらる後世に至りて此山
 をよびて源氏山とも又は御幡山とも

*P11 [#p0000011]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/527.jpg,mw:640,山名家譜 P011);|
 いうなり同七月に奥州に至る安部
 頼良降参を乞て名を頼時と改む
 是によりて奥州しばらく平均せり
 天喜二年甲午八月に阿部頼時が子厨
 川治郎貞任叛逆を企て衣川の柵に楯
 籠る同九月に頼義大軍を卒(率)て
 貞任を攻うつ然るに頼義の国任
 終るによりて再任の宣旨を蒙り
 て奥州にあり康平五年壬寅十一月
 廿九日に終に阿部貞任が一族を亡し同
 六年癸卯二月に帰洛あり相州に
 至りて八幡宮の社を由比郷に建ら
 る同八月廿五日勧賞の除目行われて
 頼義を伊豫守に任じ正四位下に叙
 せらる治暦元年乙巳九月朔日に薙
 髪あり法名を信海と号す世の人

*P12 [#p0000012]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/528.jpg,mw:640,山名家譜 P012);|
 入道将軍と称す永保二年壬戍十一月
 三日に卒去あり時に八十八歳なり
 河内国通法寺に葬る

  頼義に五男三女ある長男は陸奥
  守義家嫡流相続なり次は左衛門尉
  義総次は常陸介義光という甲斐
  源氏の大祖なり次は女子にして
  尾張守藤原の時房の妻なり
  次は西蓮坊快誉という三井寺に
  住す次は女子にして出羽守平正済
  が妻なり次は女子にして海道
  小太郎成衡が妻なり次は三嶋四郎
  親清という是は頼義伊予国任国
  の時に彼国の押領使越智の冠
  者親経が女の腹に出生あり後
 に親経が家を相続あり則河野

*P13 [#p0000013]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/529.jpg,mw:640,山名家譜 P013);|
  四郎通信が祖父なり

一、''義家'' 正四位上 陸奥守
 義家は鎮守府将軍頼義の嫡男に
 して長暦二年戊寅七月十四日に誕生あ
 り少名を源太という母は上野介平直方
 の嫡女なり永承三年戊午に石清
 水八幡宮の神殿において元服あり
 康平六年癸卯に去年十一月廿九日に
 奥州において父頼義とともに戦功
 あるによりて従五位下に叙し出羽守
 に任ぜらる承暦三年己未八月八日に
 勅を蒙り美濃国に発向しで八島佐
 渡守源重宗多田伊豆守源國房と青
 野が原において合戦あり重宗國
 房を誅戮あり永保元年辛酉六月

*P14 [#p0000014]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/530.jpg,mw:640,山名家譜 P014);|
 に陸奥守に任じ鎮守府将軍に補
 し奥州に下向あり時に相州鎌倉
 に至り八幡宮を修復ありて同八月に
 奥州に至り国府に居住せらる此時
 奥州の住人清原真人武則が子武衡
 家衡清衡兄弟確執の事あり義家
 是を和睦せしめらるといえども家衡
 曽(かつ)て義家の下知に随わず出羽国
 沼の柵に楯籠る応徳三年丙寅の
 春に国任すでに終る国中の人民
 みな義家の仁和の徳になつきて
 再任を望む事しきりなるによりて
 再任の宣旨を蒙りて奥州に
 在留ありて国中を巡視あり出羽の
 地におもむかんとせらる時に家衡
 軍勢を引具して出羽陸奥の境に

*P15 [#p0000015]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/531.jpg,mw:640,山名家譜 P015);|
 出て戦いを決せんとす義家此事
 にあらざるのゆえに境を越ずして
 国府に帰らる武衡此事を聞て出
 羽に赴き家衡とともに謀をなして
 仙北金沢の城に楯籠る是によりて
 義家やむ事を得ずして軍兵を卒(率)
 て合戦あり寛治五年辛未十一月に
 終に武衡家衡が一族を討亡して奥羽
 の両国を平均に治らる此時に源家
 の武威を恐れ関東の名家勇士
 多く其旗下に属して永く源家の
 家人となる嘉保二年乙亥の秋月華
 門に候して鳴絃の法を行わる則ち
 内昇殿を聴され正四位上に叙せらる
 長治二年乙酉七月四日に病によりて
 薙髪あり法名信了という同八月十八日

*P16 [#p0000016]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/532.jpg,mw:640,山名家譜 P016);|
に卒去あり河内国通法寺に葬
る

  義家に七男あり長男は左兵衛尉
  義宗という早世なり次は対馬守義
  親という康和二年庚辰に勅命
  を叛き同三月廿一日に擒となり同
  月廿九日に出雲国に配流せらる
  永久二年正月廿日に出雲国に
  おいて誅せらる然れども子孫
  繁多なり義親の五男治部尉
  為義は義家の養子として家
  業を継ぐ即ち右大将頼朝の
  祖父なり義家の三男を河内守
  義忠という天仁元年戊子二月
  七日に叔父義光の為に害せらる
  次は加賀介義國次は左兵衛尉義

*P17 [#p0000017]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/533.jpg,mw:640,山名家譜 P017);|
  時次は陸奥六郎義隆次は出家
  増珍と号す

一、''義國'' 加賀介 従五位下 式部太夫
 義國は鎮守府将軍義家の四男にして
 永保三年癸亥七月に誕生あり母は
 中宮亮藤原有綱の女なり寛治六年
 壬申正月に元服あり陸奥四郎と号す
 康和元年己卯に院の北面に候して
 従六位に叙し兵庫允に任ず同五年癸
 未八月に帯刀長に補せらる天治元年
 甲辰九月に加賀介に任じ従五位下に叙
 す(或日此時に式部太夫に任ず 又日下野守に任ずという)久安六年庚午八月
 参陣の路次において右大将実能公に参り
 逢て義國あやまりて下馬におよばず
 実能公其狼籍をとがめる随身の侍等

*P18 [#p0000018]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/534.jpg,mw:640,山名家譜 P018);|
 はせよりて義國を馬より控落すに
 よりて義國の良等家人大に此事
 を憤りて実能公の本所に馳向て火を
 放て焼払うこれによりて義國勅勘
 をこうむりて下野国に下向ありて足
 利の庄に蟄居ありて仁平四年甲戍
 三月十六日に薙髪あり世の人称して
 荒加賀入道という久寿二年乙亥六月
 廿六日に卒去あり時に七十三歳なり

  義國に四男あり長男大炊助義
  重次は陸奥守義康という足利氏
  諸流の大祖なりこれ征夷大
  将軍尊氏公八代の祖なり次は左
  衛門尉國康という次を蔵人判官
  季邦という

*P19 [#p0000019]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/535.jpg,mw:640,山名家譜 P019);|
一、''義重'' 左衛門尉 従五位下 大炊助
 義重は式部太夫義國の長男にして
 母は上野介敦基の女なり永久五年
 丁酉誕生あり禁廷につかえて九条院
 判官代となる保元元年丙子七月十一日に
 新院御謀叛ありて当今と御合戦に
 およぶのとき義重兄弟ともに当今の
 御味方となりて同十二日に大に戦功あり
 同十三日に除目行われて義重を新田
 庄の下司職に補せられ義康を左衛
 門尉に任ぜられ内昇殿を聴さる平
 治元年己卯十二月廿七日に下野守義朝
 (右大将源頼朝父也)父子右衛門督藤原信頼と謀て
 叛逆を起すの時に義朝の一族たるを
 以て義重を語らうといえども義重彼

*P20 [#p0000020]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/536.jpg,mw:640,山名家譜 P020);|
 に与せず禁廷を守護せらる其後
 上野国にかえり群馬郡寺尾の郷に城
 を築いて此所に居住せらる老年に
 及び薙髪して法名を上西と号す治
 承三年己亥右兵衛佐頼朝に院宣を賜
 て平家追討の勅命あり頼朝伊豆国
 において義兵を揚らる是より先きに
 高倉の宮の綸旨義重の許に到来す
 義重は正しく義家朝臣の嫡孫たるを
 以て頼朝の下知に随わずして自ら平家
 を亡して功を立ん事を計て寺尾の
 城に楯籠る同九月に頼朝書を以て
 義重を催捉せらるといえども義重返
 答に及ぱず同十二月に頼朝より安達
 藤九郎盛長を使として上野国に遣
 し義重自立の志有事を責らる

*P21 [#p0000021]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/537.jpg,mw:640,山名家譜 P021);|
 義重は頼朝仁君の器量有事を感心
 ありて鎌倉に赴き同月廿二日始めて頼朝
 に謁見せらる養和元年辛丑七月十四日
 に義重と頼朝不和に及ぶの事あり
 始め義重の女を以て頼朝の兄悪源
 太義平に嫁すべきの約諾ありしに義平
 は永暦元年庚辰正月十八日に擒にせら
 れ同廿一日害せらる是によりて此女を
 他に嫁せざる事今年に至りて二十
 二年なり然るに頼朝蜜かに伏見冠者
 廣綱を使として艶書を以て此女に通
 ぜらるといえども此女義を守て一たび義
 平の妻たるべきの約あれば頼朝其弟と
 して兄の妻を犯さんとはかるのよし
 を怒て返事に及ず然るに義重此度
 鎌倉に来らるゝによりて頼朝直に

*P22 [#p0000022]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/538.jpg,mw:640,山名家譜 P022);|
 彼女を乞請らるゝといえども義重此事
 を承引なく終に彼女を以て師の六郎
 に再嫁せらる頼朝此事を憤て不和な
 り(一に日治承四年庚子十二月廿二日義重頼朝公の気色を蒙ると云う)文治二年丙午三月
 に義重を以て上野越後両国の守護
 とす此に至り後世に子孫両国の間を
 領地して其所の名を以て其家号とす
 る者多し建久四年癸丑四月に頼朝公
 下野国那須野において狩りし其帰路に
 上野国に至り新田の城に滞留あり
 同廿八日新田を発して鎌倉に帰らる
 時に義重の男山名冠者義範新田
 冠者義兼供奉たり建仁二年壬戍
 正月十四日義重上野国新田郡において
 卒去あり時に六十八歳(八十六歳)

  義重に七男一女あり長男は山名冠者

*P23 [#p0000023]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/539.jpg,mw:640,山名家譜 P023);|
  義範という即ち当家の大祖也
  次は大新田太郎義俊という後に
  群馬郡里見に居住して里見太郎
  と号す子孫繁栄なり次は新田
  太郎義兼という義重の家督を
  継て新田一流の祖なり此人左中将
  義貞七代の祖なり次は徳川四郎
  義季という子孫繁多なり次は額田
  五郎義経という子孫あり次は新田
  冠者義光という次は新田小四郎義
  佐という次は女子始め悪源太義平の
  妻となり後に師六郎に嫁す次は
  新田判官代義隆という実は平賀
  冠者盛義が三男にして新羅三郎
  義光の孫なり義重養て子と
  す

*P24 [#p0000024]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/540.jpg,mw:640,山名家譜 P024);|
  新田大炊助義重(義國長男)の子孫は上野
  下野越後に繁栄せり山名里見
  新田徳川額田大嶋田中大井田高林
  平澤鳥山脇屋大館堀口一井世良
  田江田豊岡金屋等の諸氏皆其
  子孫也世に是を新田源氏と称す
  足利陸奥守義康(義國二男)の子孫は
  上野下野の間に繁栄せり矢田
  仁木廣沢荒川細川戸賀崎足
  利岩松畠山桃井吉良今川斯波
  石橋渋川石堂一色上野小俣加古
  等の諸氏みな其子孫なり世に
  是を足利源氏というよりて式部太夫
  義國を以て新田足利両流の大祖
  とする者也

#navi

« Prev[4]  Next »[5]