9: 2012-12-30 (日) 20:51:27 admin[6] [7] | 10: 2012-12-30 (日) 23:18:46 admin[6] [8] | ||
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|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/361.jpg,mh:240);| | |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/361.jpg,mh:240);| | ||
|=P155~P185| | |=P155~P185| | ||
+ | ***155 [#rd802f6d] | ||
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|=156|=155| | |=156|=155| | ||
Line 24: | Line 24: | ||
一 天正(1573~)の始め舎兄源十郎豊数逆臣 武田豊前守隆信が為に鳥取の 城を出奔あり此時に豊國は因州 | 一 天正(1573~)の始め舎兄源十郎豊数逆臣 武田豊前守隆信が為に鳥取の 城を出奔あり此時に豊國は因州 | ||
八東郡に在城あり此事を聞て 甚だ憤り武田が不義を憎て家臣 田結庄垣屋太田垣等に命じて武 | 八東郡に在城あり此事を聞て 甚だ憤り武田が不義を憎て家臣 田結庄垣屋太田垣等に命じて武 | ||
- | 田豊前守?に上野豊廣を討しめ らる両人罪を悔て許されん事 を乞といえども豊國これを許さず | + | 田豊前守并に上野豊廣を討しめ らる両人罪を悔て許されん事 を乞といえども豊國これを許さず |
して八上郡大玄寺という禅寺に | して八上郡大玄寺という禅寺に | ||
+ | ***157 [#tf137561] | ||
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|=158|=157| | |=158|=157| | ||
Line 44: | Line 45: | ||
主というあり宗鑑寺の住職に て後に還俗して因幡国岩 井を知行す此人の事を古 | 主というあり宗鑑寺の住職に て後に還俗して因幡国岩 井を知行す此人の事を古 | ||
の記に誤り伝うる成べし | の記に誤り伝うる成べし | ||
+ | ***159 [#ef3409e7] | ||
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|=160|=159| | |=160|=159| | ||
Line 62: | Line 63: | ||
城たえ申候儀も説々に申候弥次 | 城たえ申候儀も説々に申候弥次 | ||
+ | ***161 [#e8a1e5b5] | ||
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|=162|=161| | |=162|=161| | ||
|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/369.jpg,mw:320,P162);|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/368.jpg,mw:320,P161);| | |=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/369.jpg,mw:320,P162);|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/368.jpg,mw:320,P161);| | ||
郎殿と申御屋形の代にくづれ 申よし彼の弥次郎殿打死なさ れ候墓所高草郡たちみと申 | 郎殿と申御屋形の代にくづれ 申よし彼の弥次郎殿打死なさ れ候墓所高草郡たちみと申 | ||
- | 所に御座侯武田豊前?に其弟 当国高草郡ひよとり尾と申 所の城主武田又三郎と申人両人し | + | 所に御座侯武田豊前并に其弟 当国高草郡ひよとり尾と申 所の城主武田又三郎と申人両人し |
て討申候よし此時布施くづれ 申候とも又は弥次郎殿は屋形の 御子息にて其後屋形は禅高 | て討申候よし此時布施くづれ 申候とも又は弥次郎殿は屋形の 御子息にて其後屋形は禅高 | ||
公を御養子になされ御病死な どとも申又は毛利家より布施 を攻くづし申などとも申候て | 公を御養子になされ御病死な どとも申又は毛利家より布施 を攻くづし申などとも申候て | ||
Line 77: | Line 78: | ||
安豊という詳に系図に見えたり 或記に曰く禅高公当国御立 退きなされそのまゝ御領地 | 安豊という詳に系図に見えたり 或記に曰く禅高公当国御立 退きなされそのまゝ御領地 | ||
なさるゝやあきらかならず 又曰く禅高公当国に御座な さるゝ時に当国八東郡辺御取り | なさるゝやあきらかならず 又曰く禅高公当国に御座な さるゝ時に当国八東郡辺御取り | ||
- | なさるゝようには申候へども慥に 向方御取り向れの所に御在 城なされ候とたしかに存し | + | なさるゝようには申候へども慥(たしか)に 向方御取り向れの所に御在 城なされ候とたしかに存し |
たるもの御座なく候当国矢部 | たるもの御座なく候当国矢部 | ||
+ | ***163 [#e9e67ce2] | ||
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|=164|=163| | |=164|=163| | ||
Line 97: | Line 99: | ||
上郡ひけた村と申所に鳥越 の一党とてこれ有り候百姓は 彼の武田の子孫のよし申候 | 上郡ひけた村と申所に鳥越 の一党とてこれ有り候百姓は 彼の武田の子孫のよし申候 | ||
+ | ***165 [#s06fd6c7] | ||
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|=166|=165| | |=166|=165| | ||
- | |=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/371.jpg,mw:320,P166);|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/372.jpg,mw:320,P165);| | + | |=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/373.jpg,mw:320,P166);|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/372.jpg,mw:320,P165);| |
或記に曰く当国八東郡きさいち と申所に覚王寺と申山伏寺御 座候本尊は観音にて御座候 | 或記に曰く当国八東郡きさいち と申所に覚王寺と申山伏寺御 座候本尊は観音にて御座候 | ||
禅高公此辺に御座なさるゝの とき御立願成就の儀これある につき御祈祷所になされ御帰 | 禅高公此辺に御座なさるゝの とき御立願成就の儀これある につき御祈祷所になされ御帰 | ||
Line 118: | Line 120: | ||
一天正九年(1582)辛己五月に羽柴筑前 守秀吉織田信長の命を受て 播州姫路の城を発し大軍を引 | 一天正九年(1582)辛己五月に羽柴筑前 守秀吉織田信長の命を受て 播州姫路の城を発し大軍を引 | ||
+ | ***167 [#ded6066c] | ||
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|CENTER:168|CENTER:167| | |CENTER:168|CENTER:167| | ||
Line 130: | Line 132: | ||
を以て秀吉を防がんや我志に叶わず | を以て秀吉を防がんや我志に叶わず | ||
- | といえども今秀吉に志を通じて彼が 力をかりて吉川?に逆臣等を 亡さんとて同五月十六日の夜に入て | + | といえども今秀吉に志を通じて彼が 力をかりて吉川并に逆臣等を 亡さんとて同五月十六日の夜に入て |
豊國ひそかに城中を出らる眤近の 侍少々是に随いて秀吉の陣中に 至る秀吉大きによろこびて厚くも | 豊國ひそかに城中を出らる眤近の 侍少々是に随いて秀吉の陣中に 至る秀吉大きによろこびて厚くも | ||
てなさる中村森下両人は城中に留 て堅く守る此時に秀吉より豊 國に遺る所の証文に曰く | てなさる中村森下両人は城中に留 て堅く守る此時に秀吉より豊 國に遺る所の証文に曰く | ||
Line 139: | Line 141: | ||
一出石郡之儀進之置候条無異儀 可被仰付事 | 一出石郡之儀進之置候条無異儀 可被仰付事 | ||
+ | ***169 [#s87605c7] | ||
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|CENTER:170|CENTER:169| | |CENTER:170|CENTER:169| | ||
Line 159: | Line 162: | ||
城中の兵共餓に疲れたるによりて 秀吉の下知として粥を煮て食は せらる多く食うものは死し少く | 城中の兵共餓に疲れたるによりて 秀吉の下知として粥を煮て食は せらる多く食うものは死し少く | ||
食うものは恙がなし秀吉より | 食うものは恙がなし秀吉より | ||
+ | ***171 [#jaebbd4a] | ||
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Line 166: | Line 169: | ||
てともに京都におもむき我に属 せらるべしと有ければ豊國答て 我不幸にして不忠の者の為に | てともに京都におもむき我に属 せらるべしと有ければ豊國答て 我不幸にして不忠の者の為に | ||
国家を乱し今足下のために数代 の領地を失い他の領国と成り百 八十餘年相伝の領国を離れ人 | 国家を乱し今足下のために数代 の領地を失い他の領国と成り百 八十餘年相伝の領国を離れ人 | ||
- | の下に立ん事は思いもよらずたゞ ず時節をまたんと布ければ秀吉 其言葉の勇有を感心有て是を | + | の下に立ん事は思いもよらずたゞ 時節をまたんと有ければ秀吉 其言葉の勇有を感心有て是を |
褒らる秀吉又とわれけるは 足利家より伝来の笹作の太刀有 ときく今偏る所の太刀ならん其 | 褒らる秀吉又とわれけるは 足利家より伝来の笹作の太刀有 ときく今偏る所の太刀ならん其 | ||
太刀を我に見せらるべしとあり | 太刀を我に見せらるべしとあり | ||
Line 177: | Line 180: | ||
豊國三十四歳なり | 豊國三十四歳なり | ||
+ | ***173 [#b0a62d02] | ||
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+ | *徳川家康 [#w2ac1cbd] | ||
一天正十四(1586)年丙戍に徳川家康公豊 臣秀吉公の招によりて上洛あり 此時に豊國は多田庄より家康公 | 一天正十四(1586)年丙戍に徳川家康公豊 臣秀吉公の招によりて上洛あり 此時に豊國は多田庄より家康公 | ||
の旅館に至り本多中務大輔忠 勝榊原式部太輔康政永井右近大夫 直勝西尾隠岐守吉次等に逢て | の旅館に至り本多中務大輔忠 勝榊原式部太輔康政永井右近大夫 直勝西尾隠岐守吉次等に逢て | ||
Line 194: | Line 198: | ||
将軍家に拝謁せしめん事を 願わるゝに将軍家の命有 りて堯熈父子京都六条の辺 | 将軍家に拝謁せしめん事を 願わるゝに将軍家の命有 りて堯熈父子京都六条の辺 | ||
蟄居あり詳かに祐豊の譜 伝に見えたり | 蟄居あり詳かに祐豊の譜 伝に見えたり | ||
+ | ***175 [#p3b434f0] | ||
|TLEFT:||c | |TLEFT:||c | ||
|CENTER:176|CENTER:175| | |CENTER:176|CENTER:175| | ||
Line 212: | Line 216: | ||
すべからずと仰あり豊國鈞命 の慇懃なる事を蒙り忝なき 旨を申て退かる聞人皆是を羨む | すべからずと仰あり豊國鈞命 の慇懃なる事を蒙り忝なき 旨を申て退かる聞人皆是を羨む | ||
一慶長五(1600)年庚子五月朔日に家康 公諸将を召て上杉中納言景勝を | 一慶長五(1600)年庚子五月朔日に家康 公諸将を召て上杉中納言景勝を | ||
+ | ***177 [#ib765caa] | ||
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- | 御退治あるべき評定有同月九日に御陣触あり同じく六月十六日に摂州大坂を御進発あり同く七月二日に武州江戸城に入らせらる此時に豊國も供奉して関東に下る同月廿四日の夜に京都伏見の騒動を告げ来るよりて家康公諸将と相議して上方に登り給う同じく九月十五日に美濃国関原表において石田治部少輔三成を始め西国方の諸将皆敗北して家康公御勝利なり豊國も亀井武蔵守上杉紹常入道八木圧左衛門太田垣監物等とぬきんで一備えにて軍忠を抽らる八木庄左衛門太田垣監物は豊國の旧臣たりといえども当時将軍家に仕う此度豊國と | + | 御退治あるべき評定有同月九日に 御陣触あり同じく六月十六日に 摂州大坂を御進発あり同く七月 |
+ | 二日に武州江戸城に入らせらる此時 に豊國も供奉して関東に下る同 月廿四日の夜に京都伏見の騒動を | ||
+ | 告げ来るよりて家康公諸将と 相議して上方に登り給う同じく九月 十五日に美濃国関原表において | ||
+ | 石田治部少輔三成を始め西国方の諸 将皆敗北して家康公御勝利な り豊國も亀井武蔵守上杉紹常 | ||
+ | 入道八木圧左衛門太田垣監物等と 一備えにて軍忠を抽(ぬきんで)らる八木庄左衛門 | ||
+ | 太田垣監物は豊國の旧臣たりといえども 当時将軍家に仕う此度豊國と | ||
- | 一列に命ぜらる同じく十月十六日に家康公摂州大坂城に入給う同月廿七日に豊國を召て仰に但馬国におもむき気多郡高田庄の領主斎村佐兵衛佐秀則が竹田の城を請取るべき旨を命ぜらる豊國則ち但馬に至り高田庄におもむかる此時に旧臣等来り集りて城地を請取国中の仕置をなし竹田の城を給る一同六年辛丑に同国七味郡に郡替を仰付られて七味郡一郡を一円に給る一同十九年甲寅の冬大坂御陣の節に家康公上意待て本多上野介正純は朝夕に昵近して我左右にあり上野介が人数と三浦監物と | + | 一列に命ぜらる同じく十月十六日に 家康公摂州大坂城に入給う同月廿七日 に豊國を召て仰に但馬国におもむ |
+ | き気多郡高田庄の領主斎村佐兵衛 佐秀則が竹田の城を請取るべき旨 を命ぜらる豊國則ち但馬に至り | ||
+ | 高田庄におもむかる此時に旧臣等 来り集りて城地を請取国中の 仕置をなし竹田の城を給る | ||
+ | 一同六年(1601)辛丑に同国七味郡に郡替 を仰付られて七味郡一郡を一円に 給る | ||
+ | 一同十九年(1614)甲寅の冬大坂御陣の 節に家康公上意待て本多上野 介正純は朝夕に昵近して我左右に | ||
+ | あり上野介が人数と三浦監物と | ||
+ | ***179 [#ca7ea44d] | ||
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- | 豊國相備えにて軍兵を下知してぬきん戦功を抽ずべしと仰あり豊國領掌申さる此時に豊國の旗の紋三 引なり三浦氏も又旗の紋三 引なり豊國その混乱せん事を察して山の字を以て下に添らる家康公上意有けるは汝の旗を見るに三 引の下に山の字あり呼て見ればさんざんのとなえなり旗の紋を改むべきのよし仰有るによりて二 引両に山の字を付らるこれよりして後当家三布白二 引両を以て家の紋とす一家康公駿府に御在城の時に年始御礼の節国持大名御礼相済て直に日野入道唯心水無瀬入道一斎 | + | 豊國相備えにて軍兵を下知して 戦功を抽(ぬきん)ずべしと仰あり豊國領 掌申さる此時に豊國の旗の紋三ツ |
+ | 引なり三浦氏も又旗の紋三ツ引な り豊國その混乱せん事を察して 山の字を以て下に添らる家康公 | ||
+ | 上意有けるは汝の旗を見るに三ツ 引の下に山の字あり呼て見れば さんざんのとなえなり旗の紋を改 | ||
+ | むべきのよし仰有るによりて二ツ引 両に山の字を付らるこれよりし て後当家三布白二ツ引両を以て | ||
+ | 家の紋とす | ||
+ | 一家康公駿府に御在城の時に年 始御礼の節国持大名御礼相済て 直に日野入道唯心水無瀬入道一斎 | ||
- | 豊國次に上杉畠山土岐と次第して御礼ありまた六月十六日嘉定の御祝儀の節も公家の面々同前に豊國を御留ての上に召させられて日野飛鳥井は三方なり冷泉土御門舟橋水無瀬豊國は足付なり其餘は列座御縁にて片木にて是を下されしなり一家康公の御前に豊國出仕有るの時は毎度列座の上座たり家康公上意にも新田の氏族は山名の外高家の内にこれなきのよし度々上意あり山名は新田の嫡家なるによりて類なき家たるの間馳走もまた類なきの旨を仰らるある時豊國家康公の御前に | + | 豊國次に上杉畠山土岐と次第し て御礼ありまた六月十六日嘉定の御 祝儀の節も公家の面々同前に豊 |
+ | 國を御留ての上に召させられて日野 飛鳥井は三方なり冷泉土御門 舟橋水無瀬豊國は足付なり其餘 | ||
+ | は列座御縁にて片木にて是を 下されしなり | ||
+ | 一家康公の御前に豊國出仕有る の時は毎度列座の上座たり家 康公上意にも新田の氏族は山名の | ||
+ | 外高家の内にこれなきのよし 度々上意あり山名は新田の嫡家 なるによりて類なき家たるの | ||
+ | 間馳走もまた類なきの旨を仰 らるある時豊國家康公の御前に | ||
+ | ***181 [#ac6941af] | ||
|TLEFT:||c | |TLEFT:||c | ||
|CENTER:182|CENTER:181| | |CENTER:182|CENTER:181| | ||
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- | 云将棋 出て象戯の御相手たり時冬にしてことに寒する夜なりしに豊國古き羽織を着せらる側に伺公の人々古き羽織を着せられ候よしをいうに豊國答えて此羽織は我等因幡に有し頃上洛せし時に公方光源院義輝公の召して御入候を賜わりたるによりて古く候と答らる家康公聞し召して笑わせ給い側の人々に宣うは禅高入道が家には左様なる由緒ある古き物は多くあるのよしを仰ければ聞人皆赤面せしとなり其羽織は金襴なりとぞ一慶長年中に豊國家康公の御前に伺公あるの時池田備後守脇指を | + | 出て象戯(将棋)の御相手たり時冬に してことに寒する夜なりしに 豊國古き羽織を着せらる側に |
+ | 伺公の人々古き羽織を着せられ 候よしをいうに豊國答えて此羽 織は我等因幡に有し頃上洛せし | ||
+ | 時に公方光源院義輝公の召して 御入候を賜わりたるによりて古く候 と答らる家康公聞し召して | ||
+ | 笑わせ給い側の人々に宣うは禅高 入道が家には左様なる由緒ある古 き物は多くあるのよしを仰ければ | ||
+ | 聞人皆赤面せしとなり其羽織 は金襴なりとぞ | ||
+ | 一慶長年中に豊國家康公の御 前に伺公あるの時池田備後守脇指を | ||
- | 帯し御前近く出て直訴申上る其躰不審しく見えければ豊國座一を立て備後守が左右の手をとり引立て御次に退かしむ時に本多上野介正純を上使として御諚布けるは豊國若年より所々において勇傑の働き上聞に達したるによりて武備の為に兼々昵懇せしめらる丶の所に今日の振舞神妙の至り御感におぼし召さる丶所なり他の若輩にあらば御感状をも下さるべきに禅高入道のごときは感状を下さる丶にもあまりありと大きに御感の上意あり一豊國駿府より江戸に来り秀忠公に拝謁あり滞留の聞しばしば御前 | + | 帯し御前近く出て直訴申上る 其躰不審しく見えければ豊國座 を立て備後守が左右の手をとり |
+ | 引立て御次に退かしむ時に本多 上野介正純を上使として御諚有 けるは豊國若年より所々において | ||
+ | 勇傑の働き上聞に達したるによりて 武備の為に兼々昵懇せしめらるゝ の所に今日の振舞神妙の至り御 | ||
+ | 感におぼし召さるゝ所なり他の若 輩にあらば御感状をも下さるべきに 禅高入道のごときは感状を下さるゝ | ||
+ | にもあまりありと大きに御感の 上意あり | ||
+ | *徳川秀忠 [#d609dac5] | ||
+ | 一豊國駿府より江戸に来り秀忠公 に拝謁あり滞留の聞しばしば御前 | ||
+ | ***183 [#rb07fddc] | ||
|TLEFT:||c | |TLEFT:||c | ||
|CENTER:184|CENTER:183| | |CENTER:184|CENTER:183| | ||
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- | に出らるまた秀忠公駿府におもむかせられ家康公に謁せらる丶のときに豊國の宅において御茶を献ずべきの上意再三ありけれども豊國は居宅の見苦しく召仕等もなく迷惑の由を辞退あるによりて終に御成はなしとぞ一将軍秀忠公御膳を召上らる丶時に豊國御相伴たりときに御盃を下され御返盃致べきのよしを上意あり豊國固く辞せらる強いて辞退あるべからずと再三御諚あるによりて御返盃あり時に岡田兵部少輔御酌たり御次の間において兵部少輔豊國にむかって曰く唯今貴辺の御返盃有し事は国主といえ | + | に出らるまた秀忠公駿府におもむ かせられ家康公に謁せらるゝのと きに豊國の宅において御茶を献 |
+ | ずべきの上意再三ありけれども 豊國は居宅の見苦しく召仕等も なく迷惑の由を辞退あるによりて | ||
+ | 終に御成はなしとぞ | ||
+ | 一将軍秀忠公御膳を召上らるゝ 時に豊國御相伴たりときに御盃 を下され御返盃致べきのよしを | ||
+ | 上意あり豊國固く辞せらる強い て辞退あるべからずと再三御諚ある によりて御返盃あり時に岡田兵部 | ||
+ | 少輔御酌たり御次の間において兵 部少輔豊國にむかって曰く唯今 貴辺の御返盃有し事は国主といえ | ||
- | どもかくのごとくの上意有る事を聞ずと大に感心す聞人も此事をうらやむ豊國も此儀を以て老後のほまれとせらる豊國駿府江戸等へ両御所の御機嫌伺として相催滞留の内は御扶助米三百人扶持を下し賜わるすべて恩恵の厚き事他にこえたり云赴 一豊國曽て領地に趣かる丶の時駿州蒲原駅に止宿ある処に其夜在家より火災おこりて豊國の旅宿亅も焼亡せり此時に室町家より伝く来の笹作の太刀ならびに代々の口ぜん宣其外足利将軍家よりの御教書等多く焼失せり心寛永三年丙寅十月七日に豊國卒 | + | どもかくのごとくの上意有る事を 聞ずと大に感心す聞人も此事を うらやむ豊國も此儀を以て老後 |
+ | のほまれとせらる豊國駿府江戸 等へ両御所の御機嫌伺として相催 滞留の内は御扶助米三百人扶持を | ||
+ | 下し賜わるすべて恩恵の厚き事 他にこえたり | ||
+ | *蒲原での火事 [#nf4ccf21] | ||
+ | 一豊國曽て領地に趣(赴)かるゝの時駿州 蒲原駅に止宿ある処に其夜在 家より火災おこりて豊國の旅宿 | ||
+ | も焼亡せり此時に室町家より伝 来の笹作の太刀ならびに代々の口 宣(くぜん)其外足利将軍家よりの御 | ||
+ | 教書等多く焼失せり | ||
+ | *豊國の逝去 [#o0b1bbc6] | ||
+ | 一寛永三年(1626)丙寅十月七日に豊國卒 | ||
+ | ***185 [#s2b90f0c] | ||
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|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/392.jpg,mw:320,P185);| | |CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/392.jpg,mw:320,P185);| | ||
- | 去有り時に七十九歳なり京都妙心寺塔中に葬り法名東林院殿徹庵高公大居士と号す則ち寺を東林院と名づけ蓍蠡靆離野の子にして則ち豊國の孫なり竺翁和尚と号すを以て院主とす豊國に五男一女あり長男庄七郎は因州鳥取城において早世あり次男豊政正統相続なり次を庄兵衛という早世なり次は女子朽葉七郎左衛門が妻なり次は太郎左衛門豊義という次を兵庫豊晴というともに子孫繁多也詳かに系図に見えたり | + | 去有り時に七十九歳なり京都 妙心寺塔中に葬り法名東林院殿 徹庵高公大居士と号す則ち寺 |
+ | を東林院と名づけ英首座(英首座は山名太郎左衛門豊義の子にして則ち豊國の孫なり竺翁和尚と号す) | ||
+ | を以て院主とす | ||
+ | 豊國に五男一女あり長男庄 七郎は因州鳥取城において早世 あり次男豊政正統相続なり | ||
+ | 次を庄兵衛という早世なり次 は女子朽葉七郎左衛門が妻なり 次は太郎左衛門豊義という次を | ||
+ | 兵庫豊晴というともに子孫繁 多也詳かに系図に見えたり | ||
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