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山名家譜 巻之八 のバックアップソース(No.5) :: 山名氏史料館『山名蔵』のページ

xpwiki:山名会/刊行物等/山名家譜/巻之八 のバックアップソース(No.5)

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TITLE:豊国 山名豊国
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*山名豊国について [#md3790ae]
**P155 [#qb053878]
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一 豊國 中務大輔 従五位下 
  豊國は弾正大弼豊定の男にして天文  十七年(1548)戌申年に誕生あり母は管領  細川武蔵守高國の女なり

一 豊國岩井の城に居住の時に毛利右  馬頭輝元因幡の国を攻とらんと謀  りて軍兵を卒(率)い夜に乗じて潜
  かに要害を凌て城の後ろに廻り時  の声を揚て攻入り松明を城中に   投入て競い攻る事甚だ急なり
  ければ豊國は胃を被らず甲を    着せずして長刀を提げ進んで    敵にむかい勇を振い戦うて敵六
  人を目前に斬伏られければ残る

**P156 [#s9d2b826]
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  寄手の兵ども此勢いに恐れて  城中に入る事ならず其間に家  人等来り集りて敵を追払う毛
  利が兵ども皆敗北して引かえすを  追討にして首数十を討取る隣国  にも其勇猛なる事を感ず
*武田隆信の謀反 [#ga06f92d]
一 天正(1573~)の始め舎兄源十郎豊数逆臣  武田豊前守隆信が為に鳥取の  城を出奔あり此時に豊國は因州
  八東郡に在城あり此事を聞て  甚だ憤り武田が不義を憎て家臣  田結庄垣屋太田垣等に命じて武
  田豊前守?に上野豊廣を討しめ  らる両人罪を悔て許されん事  を乞といえども豊國これを許さず
  して八上郡大玄寺という禅寺に

**P157 [#t29844b1]
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  おいて両人を斬て舎兄の仇を報  じて後に邑美郡の鳥取城に移り  国中の仕置ありて因幡の国主と
  なる

    或古記に曰く豊定邑美郡鳥  取に砦を拵え家老衆を置れ  候所に何れも辞退申され望む
    人これなしその内に武田豊前  守と申す人は但馬に舅是あり  候所縁を便りとし請を申され
    鳥取に在城致され候処に君臣  不和の事出来布施屋形へ敵  をなし其後は数年布施と
    鳥取と合戦是あり終には  布施をくづし永禄六(1563)癸亥の年  に布施落城いたし候其後

**P158 [#b3db9120]
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   武田臣下として国を奪取り  候儀もなりがたきゆえ但馬山名  殿御一族の内壱人申受け候えば
   折節然るべき貴族も御入  これなきゆえ壱人叡山に児  になり御座候を武田方へ御越
   し候是を国主と仰ぎ鳥取に  在城候是則ち禅高公の御事  なりと申候
   按ずるに禅高を始め叡山の  児なりというは誤りなり弾正  大弼豊定の舎弟に東陽蔵
   主というあり宗鑑寺の住職に  て後に還俗して因幡国岩  井を知行す此人の事を古
   の記に誤り伝うる成べし

**P159 [#e9eb7adf]
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   其後禅高公又武田と中悪し  く御なり禅高公を武田追  出し候ゆえ丹後へ浪人なさるゝ
   所に出雲浪人山中鹿之助禅  高公を進め因幡国に忍び来  り鳥取城を夜討にいたし申候
   此時武田を討留め武田はたえ申  よしに候夫より禅高公は鳥  取城に御座候えども其節は国中殊
   更乱国となり屋形とは申候えども  国主に用い申ものこれなく  国侍たがいに取合是あり禅
   高公も色々御働これある  よし申候   按ずるに鳥取城は始め豊國
   の舎兄源十郎豊数の居城

**P160 [#f522a8ba]
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   なり同国岩井城は武田豊前  守にあづけ置る処に武田逆臣  を企て天正の始め源十郎豊数
   は因州を立退き但馬におもむ  き翌年卒去あり豊國此事  を憤り山中鹿之助を相かたらい
   武田豊前を討ほろぼす此記  の説と少しく異なり或記に  曰く禅高公の儀当国さる在所の
   老農相語仕候はすなわち当  国布施屋形の御息に候武田  布施をくづし候てより方々
   御浪人当国八東郡に御在城  武田と御合戦これありと申  ものもこれあり候当国布施の
   城たえ申候儀も説々に申候弥次

**P161 [#kfc85299]
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   郎殿と申御屋形の代にくづれ  申よし彼の弥次郎殿打死なさ  れ候墓所高草郡たちみと申
   所に御座侯武田豊前?に其弟  当国高草郡ひよとり尾と申  所の城主武田又三郎と申人両人し
   て討申候よし此時布施くづれ  申候とも又は弥次郎殿は屋形の  御子息にて其後屋形は禅高
   公を御養子になされ御病死な  どとも申又は毛利家より布施  を攻くづし申などとも申候て
   一円分明成儀存したるものなし  按ずるに布施屋形というは  左京太夫時氏の男中務少輔
   氏冬始て因州布施庄に居
**P162 [#rcceb189]
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   住ありしより子孫此所を  領す是を布施の屋形という  其子孫に弥次郎という人なし
   豊國を布施屋形の子というは  誤りなり又弥次郎というは  弾正大弼豊定の兄なり弥次郎
   安豊という詳に系図に見えたり  或記に曰く禅高公当国御立  退きなされそのまゝ御領地
   なさるゝやあきらかならず  又曰く禅高公当国に御座な  さるゝ時に当国八東郡辺御取り
   なさるゝようには申候へども慥に  向方御取り向れの所に御在  城なされ候とたしかに存し
   たるもの御座なく候当国矢部

**P163 [#v406b4f9]
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   の城に御座なさるゝと申ものも  御座候へど当国にて矢部の城今  ほど在所しかと存したるものこ
   れなく候
   按ずるに豊國の村岡に居住の  事は鳥取落城の後に暫く此  所に居住ありしなり
   或記に曰く武田豊前と申人の  儀も当国土民説に申候太閤記  などには禅高公御討なさるゝ
   ようにしるしこれあり候えども  当国の土民申候は武田合戦に  打まけられ候て但馬に舅あ
   るのゆえ其所へ逃られ候えば舅  の方にて討留め申などと申候  其弟又三郎は当国の国侍打

**P164 [#ka2bbca7]
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   寄たばかり和談いたし当国  八上郡大玄寺と申禅寺にて  だまし討に仕候と申候墓所
   当国智頭郡に御座候
   按ずるに此説は家説と異な  り武田豊前は豊國に亡され  たる事分明也
   又曰く右武田豊前の子孫流  浪候て後には禅高公をたのみ  御家中に有付今に御座候て
   武田太郎右衛門殿と申すはその  御末のように当地にて申もの  これあり候又当国にても八
   上郡ひけた村と申所に鳥越  の一党とてこれ有り候百姓は  彼の武田の子孫のよし申候

**P165 [#h7a4a4c8]
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   或記に曰く当国八東郡きさいち  と申所に覚王寺と申山伏寺御  座候本尊は観音にて御座候
   禅高公此辺に御座なさるゝの  とき御立願成就の儀これある  につき御祈祷所になされ御帰
   依のよしその寺のむかいの在  所市場と申所名城のよしに候  古跡にて候もし此城に御在城
   などなされ候御伝も御座候や此  城むかしは毛利と申人代々  在城のよし此所にても大合戦
   是あるよし右の覚王寺と申  寺とては大破いたし禅高公御  祈祷いたし候一山伏は子孫もたえ
   候て柴の庵に餘流の山伏籠

**P166 [#y17b63cf]
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   或説に曰く因州岩井郡に豊國  在住あり居城を岩つねの城  と名付らる今において其跡存
   ぜりという   此迄
*毛利輝元 [#k1d15787]
一毛利右馬頭輝元は山陰道の内を切  随えて両道を全く手に入んと謀る  此時に豊國は勢い微なりたれば
 輝元が因州に攻いらん事を慮て  暫く彼を欺かん為に芸州に使  者を遣し好みを通ぜらる是によ
 りて輝元より度々軍役をかけて  出勢を催しければ豊國は軍勢  の少きを以て是を辞退せらる
*羽柴秀吉 [#e1881c91]
一天正九年(1582)辛己五月に羽柴筑前  守秀吉織田信長の命を受て  播州姫路の城を発し大軍を引

**P167 [#r8b4d859]
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 具して因幡に至り鳥取城を囲  み攻む此時に伯耆国羽衣石の城を  守る南条勘兵衛同国岩倉城を守
 る小鴨左衛門尉ともに秀吉に降参  す又豊國の家長中村大炊助春次  森下出羽入道道與は豊國と不和
 なりければ森下中村ともに相謀  て逆意を企て毛利が加勢の大将  にて来りたる吉川式部少輔隆久
 に密謀を談し豊國の男庄七郎  十二歳なるを取立て豊國を押  籠て国中を押領せん事を謀る
 所に豊國此謀を漏れ聞て曰く  今羽柴秀吉大軍を卒(率)て城を  囲み又城中に変を生ず我何
 を以て秀吉を防がんや我志に叶わず

**P168 [#vf75d269]
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 といえども今秀吉に志を通じて彼が  力をかりて吉川幷に逆臣等を  亡さんとて同五月十六日の夜に入て
 豊國ひそかに城中を出らる眤近の  侍少々是に随いて秀吉の陣中に  至る秀吉大きによろこびて厚くも
 てなさる中村森下両人は城中に留  て堅く守る此時に秀吉より豊  國に遺る所の証文に曰く

   条々
   一此方別而御入魂之上者御身  上之儀於我等聊不可存疎意候  事
   一御居城不可有別儀之事
   一出石郡之儀進之置候条無異儀  可被仰付事

**P169 [#nf1357a0]
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   右旨八幡大菩薩愛宕山相違有  間敷侯依而如件
    天正六(1578)  羽柴筑前守
     五月十六日     秀吉花押
      山名殿
          余人々御中
   或説に曰く永禄十二年(1569)己巳七  月に伊丹兵庫助親興池田筑  後守勝政案内として羽柴筑前
   守秀吉但馬国にせめ入るという
 秀吉大軍を以て日夜に城を攻ら  る毛利輝元加勢を出さんとして機  を両端にかけて果さず然るに城中
 兵粒つきて上下ともに餓に及ぶに  よりて吉川中村森下等相議し  て福光小三郎を使として浅野弾正

**P170 [#d0e4b594]
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 少弼長政が陣に遣して城中雑兵  の一命を助け給わゞ三人ともに自殺し  て城を渡すべしという長政是を秀
 吉に申す秀吉是を免し酒食  を城中に遺(おく)らる秀吉より堀尾茂助  吉晴を検使として城を請取らしむ
 吉川森下中村城を出て寺にいり  自害す堀尾其首を秀吉の実  検に入る森下中村が首は其不忠を
 憎み泥を以て其面に塗たり坂田  孫次郎福光小三郎は吉川が恩をう  けたる者共なれば同く自害す
 城中の兵共餓に疲れたるによりて  秀吉の下知として粥を煮て食は  せらる多く食うものは死し少く
 食うものは恙がなし秀吉より

**P171 [#e17edf2b]
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**P172 [#g029a155]
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**P173 [#e34a43bc]
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**P174 [#pf8f7b58]
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**P175 [#l6a7e521]
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**P176 [#e5bd332b]
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**P177 [#q7b24f3d]
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**P178 [#pfe95c59]
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**P185 [#f6b1d176]
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