7: 2012-12-26 (水) 16:40:36 admin[6] [7] | 8: 2012-12-28 (金) 15:37:39 admin[6] [8] | ||
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宮部善祥房をして五万石の領地 をあたえて鳥取の城を守らせらる 其後秀吉帰陣の時に豊國に逢 | 宮部善祥房をして五万石の領地 をあたえて鳥取の城を守らせらる 其後秀吉帰陣の時に豊國に逢 | ||
てともに京都におもむき我に属 せらるべしと有ければ豊國答て 我不幸にして不忠の者の為に | てともに京都におもむき我に属 せらるべしと有ければ豊國答て 我不幸にして不忠の者の為に | ||
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待べき旨を命ぜらる多田庄に随 遂するものは田結庄宮田垣屋上野 三上浅田多賀の輩のみなり此時 | 待べき旨を命ぜらる多田庄に随 遂するものは田結庄宮田垣屋上野 三上浅田多賀の輩のみなり此時 | ||
豊國三十四歳なり | 豊國三十四歳なり | ||
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+ | 一天正十四(1586)年丙戍に徳川家康公豊 臣秀吉公の招によりて上洛あり 此時に豊國は多田庄より家康公 | ||
+ | の旅館に至り本多中務大輔忠 勝榊原式部太輔康政永井右近大夫 直勝西尾隠岐守吉次等に逢て | ||
+ | 家康公に拝謁せん事をこわる各 相儀して家康公に執し申則ち 旅館に於て家康公に拝謁せらる | ||
+ | 是よりして恩恵日々に厚く直々 に供奉して関東に下向せらる | ||
+ | 此時に豊國多田圧より関東 に趣(赴)かるゝによりて多田氏が多 年の懇情を謝せん為に重代 | ||
+ | の脇指を多田氏に授け離別 の情をつくさる今に至て多田兵部 | ||
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+ | 元朝が子孫此脇指を所持すと いう | ||
+ | 或説に此時に山名慶五郎 堯熈獺も豊國とおなじく家康公に 拝謁すというはあやまりなり | ||
+ | 堯熈父子兄弟皆豊臣秀吉 公に仕えて慶長年中に至り 摂州大坂城に籠り秀頼公に | ||
+ | 仕う然るに大坂落城におよび て豊國潜に諭し堯熈父子 をして城中を出奔せしめ | ||
+ | 将軍家に拝謁せしめん事を 願わるゝに将軍家の命有 りて堯熈父子京都六条の辺 | ||
+ | 蟄居あり詳かに祐豊の譜 伝に見えたり | ||
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+ | 一同十六年(1588)戊子四月十四日に秀吉公 の聚楽の亭へ行幸あるにより家 康公も上洛あり前管領家斯波 | ||
+ | 入道三松が宅に渡御あり豊國も 供奉して彼宅に至り三松入道に 対面あり其礼甚だいんぎんなり | ||
+ | 家康公還御の後に豊國を召て 仰に曰く三松に対するの礼甚だ 過たり斯波氏は是足利氏の支流 | ||
+ | なり汝が家は新田正嫡の一流にして 名家たり近き頃に至るまでも大 国を領して威名ありし事は世の | ||
+ | 知る所なり今古えのごとくにあらず といえ共彼に対して強がちに謙ゆず らんや我に忠をつくし絶たるを | ||
+ | 継ぎ廃たるを興し功名を子孫 | ||
+ | 残すべしと仰有り豊國忝なき 旨を申て退く | ||
+ | 一文禄(1592頃)年中筑紫陣の時に家康公 豊國を召て仰に曰く汝の先祖山名 伊豆守義範と家康が先祖徳川 | ||
+ | 四郎義季は兄弟にしてともに新田 大炊助義重の子なり今に至ると いえども我家と汝の家とは同血同胞 | ||
+ | の家なり然ば我何ぞ汝が家を 疎かにするの理あらんや今より後 は我に眤近あるべし我もまた疎かに | ||
+ | すべからずと仰あり豊國鈞命 の慇懃なる事を蒙り忝なき 旨を申て退かる聞人皆是を羨む | ||
+ | 一慶長五(1600)年庚子五月朔日に家康 公諸将を召て上杉中納言景勝を | ||
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