TITLE:山名家譜 巻之一 #navi() #contents() *記載人物(P1~P24) [#reaedbc3] |=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/516.jpg,mh:240,山名家譜 巻之八);| |[[清和天皇>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000001]]、[[貞純親王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000002]]、[[経基王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000003]]、[[源満仲>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000006]]、[[源頼信>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000008]]、[[源頼義>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#o010]]、[[源義家>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000013]]、[[源義國>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]、[[源義重>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000019]]| #clear *P1 [#p0000001] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/517.jpg,mw:640,山名家譜 P001);| 山名家伝記 巻の一 山名家先祖譜傳 一、抑も山名家の本姓は清和源氏にして、新田氏流の豪(高)家也。本国は上野国緑埜郡山名庄(群馬県高崎市山名町)也。 一、人皇五十六代・清和天皇の諱(在世中の名、水尾天皇)を惟仁と言う。先帝(五十六代)文徳天皇(諱は道康)の第四皇子也。母は藤の明子と言い、太政大臣藤原良房公の娘で、染殿后と称す。 天安二年(858)戊寅十一月七日、九歳で即位し、貞観十八年(876)丙申十一月二十九日に皇太子・貞明(陽成天皇)に譲位。 元慶三年(879)己亥五月八日に宗縁僧正に就き出家し、法名を素貞と言う。 (水尾を隠棲の地とし寺を建立中、発病し、粟田)円覚寺にて元慶四年(880)庚子十二月四日に円覚寺にて崩御。 *P2 [#p0000002] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/518.jpg,mw:640,山名家譜 P002);| 栗田山陵にて荼毘に付し、遺骨を水尾陵におさめて、水尾天皇と謚す。後に清和天皇と改めて謚される。 在位は十八年、皇子皇女は十八人あり。 一、貞純親王 四品 中務卿 貞純親王は清和天皇の第六皇子。母は神祇伯・中務大輔・棟貞王(第五十三代・桓武天皇の孫)の娘。 貞観十六年(882)甲午三月十三日に誕生。 元慶六年(882)壬寅十一月五日に元服し四品(親王の位階第四番目)に叙し兵部卿に任命。 一条大宮の桃園宮に住し桃園親王と称される。 後に中務卿に任命され、常陸・上総等の太守を務める。(上総・常陸・上野は親王の任国。それらの国の守を大守と言う) 右大臣・源能有公の娘(源柄子)を娶り室とする。能有公は(第五十五代)文徳天皇の子(清和天皇の兄)にして武芸に通じたる親王。 *P3 [#p0000003] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/519.jpg,mw:640,山名家譜 P003);| 貞純親王も(同じく)その業を受け継ぎて、武道の礼式に深く通じ、天皇より月華門院の白旗を下賜される。 喜十六年(916)丙子五月七日に逝去。 貞純親王に二子有り、長男は経基王、次は経生と言い越後の守を務める。 一、経基王 正四位 左衞門佐 経基王は貞純親王の長男にして、寛平七年(895)乙卯二月十五日に桃園宮にて誕生。母は右大臣源能有公の娘なり。 貞純親王は清和天皇の第六皇子の故に、世の人は経基王を六孫王と言う。 延喜九年(909)己巳十月五日に常寧殿にて元服し、正六位に叙し、左馬助を拝命、源の朝臣姓を賜る。(臣籍降下) *P4 [#p0000004] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/520.jpg,mw:640,山名家譜 P004);| 天慶三年(940)庚子の春に平将門追討の為に、右衛門の督・藤原忠文を征東将軍とし、経基王は副将軍として天皇より節刀(節(しるし)の刀)を賜る。 関東へ向かう途中、駿河国清見ヶ関に至り武蔵守・藤原秀鄕、陸奥守・平貞盛等が平将門討伐の知らせを受けて帰京する。 これに先立ち、経基王が武蔵国司として赴任の折(承平八年・938)、平将門謀反の予兆を覚り、将門追討を上奏するも、未だ確証乏しく勅許は降りず。 承平年中より、関東で振るう平将門の逆心を察した経基王の才知を賞して従四位下に叙せられる。 *P5 [#p0000005] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/521.jpg,mw:640,山名家譜 P005);| 同年(天慶三年・940)六月、伊予大掾・藤原純友誅伐の為、参議・小野好古を大将軍に、経基王を副将軍に筑紫に派遣される。 程なく、純友の成敗なって、八月に帰京。この軍功によって正四位下に叙し、太宰大弐(太宰府の次官)に任命される。 経基王は和歌を能くし、天性の武略に通じ、父・貞純親王譲りの武道に長じるが故に村上天皇(諱・成明)の勅を受け陸奥守に任命され、鎮守府将軍に補任される。 天徳二年(961・応和元年)戊午十一月二十四日西八条の館にて逝去。館の側に池(龍神池)が有り、そこに廟所を建て、大通寺遍照心院(現・六孫王神社)と言う。 *P6 [#p0000006] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/522.jpg,mw:640,山名家譜 P006);| ①長男は左午頭・満仲。 ②次は左衞門尉・満政。 ③次は武蔵守・満季。 ④次は右衞門尉・満快 ⑤次は下野掾・満実。 ⑥次は出羽介・満正。 ⑦次は上総介・満生 ⑧次は山城守・満重。 共に子孫繁栄。女子は従五位下・源元高の妻なり。 一、満仲 正四位下 左馬権頭 満仲は鎮守府将軍・経基王の嫡子にして、延喜十二年(912)壬申四月十日に西八条の館にて誕生。母は武蔵守・藤原敦有の娘。 延長四年(926)丙戌に元服。正六位に叙し、左馬介に任命される。 安和三年(970)庚午三月、摂津守に任命され宮中清涼殿への参内が許される。(五位補任) 満仲公も父祖譲りで武芸に通じ、武略に秀でていた為、大内(内裏・御所)守護を任され、摂津川辺郡多田庄(兵庫県川西市多田)に領地を賜る。 *P7 [#p0000007] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/523.jpg,mw:640,山名家譜 P007);| 天禄元年(970)庚午三月十五日に多田庄に居を移し、天禄二年(971)に多田庄に一寺を建立、鷲尾山・法華三昧院と名付ける。今の多田院(神社)なり。 寛和二年(986)丙戌八月十五日に出家、法名を慶満と名乗る。 長徳三年(997)丁酉八月二十七日に逝去、法華三昧院に葬る。 満仲に十男一女あり。 ①長男は摂津守・頼光、美濃源氏の太祖なり。 ②次は大和守・頼親、大和源氏の太祖なり。 ③次は河内守・頼信、嫡流相続(宗家)なり。 ④次は武蔵守・頼平。 ⑤次は左衛門尉・頼範。 ⑥次は山城守・頼明。 ⑦次は帯刀長・頼貞。 ⑧次は法眼円覚。 ⑨次は阿闍梨・頼尋という。 ⑩女子は中将・藤原賴親の妻。 *P8 [#p0000008] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/524.jpg,mw:640,山名家譜 P008);| 一、頼信 正四位上 河内守 頼信は鎮守府将軍・満仲の三男にして、天延三年(974)甲戌九月五日に誕生。 母は大納言・藤原元方の娘なり。 永延二年(988)戊子九月一八日に元服、正六位に叙し、左馬助に任命される。 正歴五年(994)甲午三月に勅命を受け若狭越前に赴き群盗を成敗する。寛仁四年(1020)庚申九月十日に河内国壺井に館を構え居住する。 長元三年(1030)庚午九月に上総介・平忠常追討の宣旨を受け、同年十月二十一日に軍勢を率い武蔵国川越に至り、平忠常の弟(父?)、陸奥守・平忠頼と中村五郎忠将(平忠頼の子)と戦う。忠頼兄弟(親子?)共に勝ち目なく退く。 長元四年(1031)辛未四月、頼信は大軍を率いて下総国に至り、上総介・平忠常が籠もる千葉城を攻め、忠常は勝ち目なく降伏する。 *P9 [#p0000009] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/525.jpg,mw:640,山名家譜 P009);| 国に至り上総介が籠る所の千葉城をせむ忠常終に利なくして降参せり頼信則忠常を供ない帰洛ありしに美濃国において忠常病死せり頼信忠常を労わり恤(あわれ)むによりて彼が一族門葉の者ども其仁心に感伏して永く源家の家僕となる頼信此度の軍功によりて従四位上に叙せらる此余頼信一世の勇功甚だ多し永承三年戊子九月朔日に卒去あり法名蓮心と号す河内国通法寺に葬る 頼信に五男一女あり長男は伊豫守頼義嫡流相続なり次は肥後守頼清次は掃部助頼季次は河内冠者頼任次は常磐五郎義政というともに信濃国に居住して子孫繁栄す是を *P10 [#p0000010] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/526.jpg,mw:640,山名家譜 P010);| 信濃源氏という女子は甲斐守源為満の妻なり 一、''頼義'' 従四位上 伊豫守 頼義は鎮守府将軍頼信の嫡男にして母は一条院の官女修理命婦なり長保五年癸卯四月九日に誕生あり長和二年癸丑に元服あり正六位に叙し兵庫允に任ず永承六年辛卯に陸奥国の押 領使安部頼良を追討の為に陸奥守に任じ鎮守府将軍に補して節刀を賜り東国に下向あり同六月廿五日に相模国に至り鎌倉郡由比郷に石清水の八幡宮を勧請あり幡(はた)を亀谷の山上に納めらる後世に至りて此山をよびて源氏山とも又は御幡山とも *P11 [#p0000011] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/527.jpg,mw:640,山名家譜 P011);| いうなり同七月に奥州に至る安部頼良降参を乞て名を頼時と改む是によりて奥州しばらく平均せり天喜二年甲午八月に阿部頼時が子厨川治郎貞任叛逆を企て衣川の柵に楯籠る同九月に頼義大軍を卒(率)て貞任を攻うつ然るに頼義の国任終るによりて再任の宣旨を蒙り て奥州にあり康平五年壬寅十一月廿九日に終に阿部貞任が一族を亡し同六年癸卯二月に帰洛あり相州に至りて八幡宮の社を由比郷に建らる同八月廿五日勧賞の除目行われて頼義を伊豫守に任じ正四位下に叙せらる治暦元年乙巳九月朔日に薙髪あり法名を信海と号す世の人 *P12 [#p0000012] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/528.jpg,mw:640,山名家譜 P012);| 入道将軍と称す永保二年壬戍十一月三日に卒去あり時に八十八歳なり河内国通法寺に葬る 頼義に五男三女ある長男は陸奥守義家嫡流相続なり次は左衛門尉義総次は常陸介義光という甲斐源氏の大祖なり次は女子にして尾張守藤原の時房の妻なり次は西蓮坊快誉という三井寺に住す次は女子にして出羽守平正済が妻なり次は女子にして海道小太郎成衡が妻なり次は三嶋四郎親清という是は頼義伊予国任国の時に彼国の押領使越智の冠者親経が女の腹に出生あり後に親経が家を相続あり則河野 *P13 [#p0000013] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/529.jpg,mw:640,山名家譜 P013);| 四郎通信が祖父なり 一、''義家'' 正四位上 陸奥守 義家は鎮守府将軍頼義の嫡男にして長暦二年戊寅七月十四日に誕生あり少名を源太という母は上野介平直方の嫡女なり永承三年戊午に石清水八幡宮の神殿において元服あり康平六年癸卯に去年十一月廿九日に奥州において父頼義とともに戦功あるによりて従五位下に叙し出羽守に任ぜらる承暦三年己未八月八日に勅を蒙り美濃国に発向しで八島佐渡守源重宗多田伊豆守源國房と青野が原において合戦あり重宗國房を誅戮あり永保元年辛酉六月 *P14 [#p0000014] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/530.jpg,mw:640,山名家譜 P014);| に陸奥守に任じ鎮守府将軍に補し奥州に下向あり時に相州鎌倉に至り八幡宮を修復ありて同八月に奥州に至り国府に居住せらる此時奥州の住人清原真人武則が子武衡家衡清衡兄弟確執の事あり義家是を和睦せしめらるといえども家衡曽(かつ)て義家の下知に随わず出羽国沼の柵に楯籠る応徳三年丙寅の春に国任すでに終る国中の人民みな義家の仁和の徳になつきて再任を望む事しきりなるによりて再任の宣旨を蒙りて奥州に在留ありて国中を巡視あり出羽の地におもむかんとせらる時に家衡軍勢を引具して出羽陸奥の境に *P15 [#p0000015] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/531.jpg,mw:640,山名家譜 P015);| 出て戦いを決せんとす義家此事にあらざるのゆえに境を越ずして国府に帰らる武衡此事を聞て出羽に赴き家衡とともに謀をなして仙北金沢の城に楯籠る是によりて義家やむ事を得ずして軍兵を卒(率)て合戦あり寛治五年辛未十一月に終に武衡家衡が一族を討亡して奥羽の両国を平均に治らる此時に源家の武威を恐れ関東の名家勇士多く其旗下に属して永く源家の家人となる嘉保二年乙亥の秋月華門に候して鳴絃の法を行わる則ち内昇殿を聴され正四位上に叙せらる長治二年乙酉七月四日に病によりて薙髪あり法名信了という同八月十八日 *P16 [#p0000016] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/532.jpg,mw:640,山名家譜 P016);| に卒去あり河内国通法寺に葬る 義家に七男あり長男は左兵衛尉義宗という早世なり次は対馬守義親という康和二年庚辰に勅命を叛き同三月廿一日に擒となり同月廿九日に出雲国に配流せらる永久二年正月廿日に出雲国において誅せらる然れども子孫繁多なり義親の五男治部尉為義は義家の養子として家業を継ぐ即ち右大将頼朝の祖父なり義家の三男を河内守義忠という天仁元年戊子二月七日に叔父義光の為に害せらる次は加賀介義國次は左兵衛尉義 *P17 [#p0000017] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/533.jpg,mw:640,山名家譜 P017);| 時次は陸奥六郎義隆次は出家 増珍と号す 一、''義國'' 加賀介 従五位下 式部太夫 義國は鎮守府将軍義家の四男にして 永保三年癸亥七月に誕生あり母は 中宮亮藤原有綱の女なり寛治六年 壬申正月に元服あり陸奥四郎と号す 康和元年己卯に院の北面に候して 従六位に叙し兵庫允に任ず同五年癸 未八月に帯刀長に補せらる天治元年 甲辰九月に加賀介に任じ従五位下に叙 す(或日此時に式部太夫に任ず 又日下野守に任ずという)久安六年庚午八月 参陣の路次において右大将実能公に参り 逢て義國あやまりて下馬におよばず 実能公其狼籍をとがめる随身の侍等 *P18 [#p0000018] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/534.jpg,mw:640,山名家譜 P018);| はせよりて義國を馬より控落すに よりて義國の良等家人大に此事 を憤りて実能公の本所に馳向て火を 放て焼払うこれによりて義國勅勘 をこうむりて下野国に下向ありて足 利の庄に蟄居ありて仁平四年甲戍 三月十六日に薙髪あり世の人称して 荒加賀入道という久寿二年乙亥六月 廿六日に卒去あり時に七十三歳なり 義國に四男あり長男大炊助義 重次は陸奥守義康という足利氏 諸流の大祖なりこれ征夷大 将軍尊氏公八代の祖なり次は左 衛門尉國康という次を蔵人判官 季邦という *P19 [#p0000019] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/535.jpg,mw:640,山名家譜 P019);| 一、''義重'' 左衛門尉 従五位下 大炊助 義重は式部太夫義國の長男にして 母は上野介敦基の女なり永久五年 丁酉誕生あり禁廷につかえて九条院 判官代となる保元元年丙子七月十一日に 新院御謀叛ありて当今と御合戦に およぶのとき義重兄弟ともに当今の 御味方となりて同十二日に大に戦功あり 同十三日に除目行われて義重を新田 庄の下司職に補せられ義康を左衛 門尉に任ぜられ内昇殿を聴さる平 治元年己卯十二月廿七日に下野守義朝 (右大将源頼朝父也)父子右衛門督藤原信頼と謀て 叛逆を起すの時に義朝の一族たるを 以て義重を語らうといえども義重彼 *P20 [#p0000020] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/536.jpg,mw:640,山名家譜 P020);| に与せず禁廷を守護せらる其後 上野国にかえり群馬郡寺尾の郷に城 を築いて此所に居住せらる老年に 及び薙髪して法名を上西と号す治 承三年己亥右兵衛佐頼朝に院宣を賜 て平家追討の勅命あり頼朝伊豆国 において義兵を揚らる是より先きに 高倉の宮の綸旨義重の許に到来す 義重は正しく義家朝臣の嫡孫たるを 以て頼朝の下知に随わずして自ら平家 を亡して功を立ん事を計て寺尾の 城に楯籠る同九月に頼朝書を以て 義重を催捉せらるといえども義重返 答に及ぱず同十二月に頼朝より安達 藤九郎盛長を使として上野国に遣 し義重自立の志有事を責らる *P21 [#p0000021] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/537.jpg,mw:640,山名家譜 P021);| 義重は頼朝仁君の器量有事を感心 ありて鎌倉に赴き同月廿二日始めて頼朝 に謁見せらる養和元年辛丑七月十四日 に義重と頼朝不和に及ぶの事あり 始め義重の女を以て頼朝の兄悪源 太義平に嫁すべきの約諾ありしに義平 は永暦元年庚辰正月十八日に擒にせら れ同廿一日害せらる是によりて此女を 他に嫁せざる事今年に至りて二十 二年なり然るに頼朝蜜かに伏見冠者 廣綱を使として艶書を以て此女に通 ぜらるといえども此女義を守て一たび義 平の妻たるべきの約あれば頼朝其弟と して兄の妻を犯さんとはかるのよし を怒て返事に及ず然るに義重此度 鎌倉に来らるゝによりて頼朝直に *P22 [#p0000022] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/538.jpg,mw:640,山名家譜 P022);| 彼女を乞請らるゝといえども義重此事 を承引なく終に彼女を以て師の六郎 に再嫁せらる頼朝此事を憤て不和な り(一に日治承四年庚子十二月廿二日義重頼朝公の気色を蒙ると云う)文治二年丙午三月 に義重を以て上野越後両国の守護 とす此に至り後世に子孫両国の間を 領地して其所の名を以て其家号とす る者多し建久四年癸丑四月に頼朝公 下野国那須野において狩りし其帰路に 上野国に至り新田の城に滞留あり 同廿八日新田を発して鎌倉に帰らる 時に義重の男山名冠者義範新田 冠者義兼供奉たり建仁二年壬戍 正月十四日義重上野国新田郡において 卒去あり時に六十八歳(八十六歳) 義重に七男一女あり長男は山名冠者 *P23 [#p0000023] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/539.jpg,mw:640,山名家譜 P023);| 義範という即ち当家の大祖也 次は大新田太郎義俊という後に 群馬郡里見に居住して里見太郎 と号す子孫繁栄なり次は新田 太郎義兼という義重の家督を 継て新田一流の祖なり此人左中将 義貞七代の祖なり次は徳川四郎 義季という子孫繁多なり次は額田 五郎義経という子孫あり次は新田 冠者義光という次は新田小四郎義 佐という次は女子始め悪源太義平の 妻となり後に師六郎に嫁す次は 新田判官代義隆という実は平賀 冠者盛義が三男にして新羅三郎 義光の孫なり義重養て子と す *P24 [#p0000024] |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/540.jpg,mw:640,山名家譜 P024);| 新田大炊助義重(義國長男)の子孫は上野下野越後に繁栄せり山名里見新田徳川額田大嶋田中大井田高林平澤鳥山脇屋大館堀口一井世良田江田豊岡金屋等の諸氏皆其子孫也世に是を新田源氏と称す足利陸奥守義康(義國二男)の子孫は上野下野の間に繁栄せり矢田仁木廣沢荒川細川戸賀崎足利岩松畠山桃井吉良今川斯波石橋渋川石堂一色上野小俣加古等の諸氏みな其子孫なり世に是を足利源氏というよりて式部太夫義國を以て新田足利両流の大祖とする者也 #navi