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山名家譜 巻之八 :: 山名氏史料館『山名蔵』のページ

xpwiki:山名会/刊行物等/山名家譜/巻之八


Table of contents
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山名家譜 巻之八, 735.jpg[4]
P155~P185

P155 anchor.png[5]

一 豊國 中務大輔 従五位下 
  豊國は弾正大弼豊定の男にして天文
  十七年(1548)戌申年に誕生あり母は管領
  細川武蔵守高國の女なり

一 豊國岩井の城に居住の時に毛利右
  馬頭輝元因幡の国を攻とらんと謀
  りて軍兵を卒(率)い夜に乗じて潜
  かに要害を凌て城の後ろに廻り時
  の声を揚て攻入り松明を城中に
  投入て競い攻る事甚だ急なり
  ければ豊國は冑を被らず甲を
  着せずして長刀を提げ進んで
  敵にむかい勇を振い戦うて敵六
  人を目前に斬伏られければ残る

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  寄手の兵ども此勢いに恐れて
  城中に入る事ならず其間に家
  人等来り集りて敵を追払う毛
  利が兵ども皆敗北して引かえすを
  追討にして首数十を討取る隣国
  にも其勇猛なる事を感ず

一 天正(1573~)の始め舎兄源十郎豊数逆臣
  武田豊前守隆信が為に鳥取の
  城を出奔あり此時に豊國は因州
  八東郡に在城あり此事を聞て
  甚だ憤り武田が不義を憎て家臣
  田結庄垣屋太田垣等に命じて武
  田豊前守并に上野豊廣を討しめ
  らる両人罪を悔て許されん事
  を乞といえども豊國これを許さず
  して八上郡大玄寺という禅寺に

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  おいて両人を斬て舎兄の仇を報
  じて後に邑美郡の鳥取城に移り
  国中の仕置ありて因幡の国主と
  なる

    或古記に曰く豊定邑美郡鳥
    取に砦を拵え家老衆を置れ
    候所に何れも辞退申され望む
    人これなしその内に武田豊前
    守と申す人は但馬に舅是あり
    候所縁を便りとし請を申され
    鳥取に在城致され候処に君臣
    不和の事出来布施屋形へ敵
    をなし其後は数年布施と
    鳥取と合戦是あり終には
    布施をくづし永禄六(1563)癸亥の
    年に布施落城いたし候其後

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    武田臣下として国を奪取り
    候儀もなりがたきゆえ但馬山名
    殿御一族の内壱人申受け候えば
    折節然るべき貴族も御入
    これなきゆえ壱人叡山に児
    になり御座候を武田方へ御越
    し候是を国主と仰ぎ鳥取に
    在城候是則ち禅高公の御事
    なりと申候
    按ずるに禅高を始め叡山の
    児なりというは誤りなり弾正
    大弼豊定の舎弟に東陽蔵
    主というあり宗鑑寺の住職に
    て後に還俗して因幡国岩
    井を知行す此人の事を古
    の記に誤り伝うる成べし

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    其後禅高公又武田と中悪し
    く御なり禅高公を武田追
    出し候ゆえ丹後へ浪人なさるゝ
    所に出雲浪人山中鹿之助禅
    高公を進め因幡国に忍び来
    り鳥取城を夜討にいたし申候
    此時武田を討留め武田はたえ申
    よしに候夫より禅高公は鳥
    取城に御座候えども其節は国中殊
    更乱国となり屋形とは申候えども
    国主に用い申ものこれなく
    国侍たがいに取合是あり禅
    高公も色々御働これある
    よし申候
    按ずるに鳥取城は始め豊國
    の舎兄源十郎豊数の居城

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    なり同国岩井城は武田豊前
    守にあづけ置る処に武田逆臣
    を企て天正の始め源十郎豊数
    は因州を立退き但馬におもむ
    き翌年卒去あり豊國此事
    を憤り山中鹿之助を相かたらい
    武田豊前を討ほろぼす此記
    の説と少しく異なり或記に
    曰く禅高公の儀当国さる在所の
    老農相語仕候はすなわち当
    国布施屋形の御息に候武田
    布施をくづし候てより方々
    御浪人当国八東郡に御在城
    武田と御合戦これありと申
    ものもこれあり候当国布施の
    城たえ申候儀も説々に申候弥次

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    郎殿と申御屋形の代にくづれ
    申よし彼の弥次郎殿打死なさ
    れ候墓所高草郡たちみと申
    所に御座侯武田豊前并に其弟
    当国高草郡ひよとり尾と申
    所の城主武田又三郎と申人両人し
    て討申候よし此時布施くづれ
    申候とも又は弥次郎殿は屋形の
    御子息にて其後屋形は禅高
    公を御養子になされ御病死な
    どとも申又は毛利家より布施
    を攻くづし申などとも申候て
    一円分明成儀存したるものなし
    按ずるに布施屋形というは
    左京太夫時氏の男中務少輔
    氏冬始て因州布施庄に居

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    住ありしより子孫此所を
    領す是を布施の屋形という
    其子孫に弥次郎という人なし
    豊國を布施屋形の子というは
    誤りなり又弥次郎というは
    弾正大弼豊定の兄なり弥次郎
    安豊という詳に系図に見えたり
    或記に曰く禅高公当国御立
    退きなされそのまゝ御領地
    なさるゝやあきらかならず
    又曰く禅高公当国に御座な
    さるゝ時に当国八東郡辺御取り
    なさるゝようには申候へども慥(たしか)に
    向方御取り向れの所に御在
    城なされ候とたしかに存し
    たるもの御座なく候当国矢部

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    の城に御座なさるゝと申ものも
    御座候へど当国にて矢部の城今
    ほど在所しかと存したるものこ
    れなく候
    按ずるに豊國の村岡に居住の
    事は鳥取落城の後に暫く此
    所に居住ありしなり
    或記に曰く武田豊前と申人の
    儀も当国土民説に申候太閤記
    などには禅高公御討なさるゝ
    ようにしるしこれあり候えども
    当国の土民申候は武田合戦に
    打まけられ候て但馬に舅あ
    るのゆえ其所へ逃られ候えば舅
    の方にて討留め申などと申候
    其弟又三郎は当国の国侍打

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    寄たばかり和談いたし当国
    八上郡大玄寺と申禅寺にて
    だまし討に仕候と申候墓所
    当国智頭郡に御座候
    按ずるに此説は家説と異な
    り武田豊前は豊國に亡され
    たる事分明也
    又曰く右武田豊前の子孫流
    浪候て後には禅高公をたのみ
    御家中に有付今に御座候て
    武田太郎右衛門殿と申すはその
    御末のように当地にて申もの
    これあり候又当国にても八
    上郡ひけた村と申所に鳥越
    の一党とてこれ有り候百姓は
    彼の武田の子孫のよし申候

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    或記に曰く当国八東郡きさいち
    と申所に覚王寺と申山伏寺御
    座候本尊は観音にて御座候
    禅高公此辺に御座なさるゝの
    とき御立願成就の儀これある
    につき御祈祷所になされ御帰
    依のよしその寺のむかいの在
    所市場と申所名城のよしに候
    古跡にて候もし此城に御在城
    などなされ候御伝も御座候や此
    城むかしは毛利と申人代々
    在城のよし此所にても大合戦
    是あるよし右の覚王寺と申
    寺とては大破いたし禅高公御
    祈祷いたし候一山伏は子孫もたえ
    候て柴の庵に餘流の山伏籠

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    或説に曰く因州岩井郡に豊國
    在住あり居城を岩つねの城
    と名付らる今において其跡存
    ぜりという   此迄

一、毛利右馬頭輝元は山陰道の内を切
  随えて両道を全く手に入んと謀る
  此時に豊國は勢い微なりたれば
  輝元が因州に攻いらん事を慮て
  暫く彼を欺かん為に芸州に使
  者を遣し好みを通ぜらる是によ
  りて輝元より度々軍役をかけて
  出勢を催しければ豊國は軍勢
  の少きを以て是を辞退せらる

一、天正九年(1582)辛己五月に羽柴筑前
  守秀吉織田信長の命を受て
  播州姫路の城を発し大軍を引

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  具して因幡に至り鳥取城を囲
  み攻む此時に伯耆国羽衣石の城を
  守る南条勘兵衛同国岩倉城を守
  る小鴨左衛門尉ともに秀吉に降参
  す又豊國の家長中村大炊助春次
  森下出羽入道道與は豊國と不和
  なりければ森下中村ともに相謀
  て逆意を企て毛利が加勢の大将
  にて来りたる吉川式部少輔隆久
  に密謀を談し豊國の男庄七郎
  十二歳なるを取立て豊國を押
  籠て国中を押領せん事を謀る
  所に豊國此謀を漏れ聞て曰く
  今羽柴秀吉大軍を卒(率)て城を
  囲み又城中に変を生ず我何
  を以て秀吉を防がんや我志に叶わず

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  といえども今秀吉に志を通じて彼が
  力をかりて吉川并に逆臣等を
  亡さんとて同五月十六日の夜に入て
  豊國ひそかに城中を出らる眤近の
  侍少々是に随いて秀吉の陣中に
  至る秀吉大きによろこびて厚くも
  てなさる中村森下両人は城中に留
  て堅く守る此時に秀吉より豊
  國に遺る所の証文に曰く

   条々
   一、此方別而御入魂之上者御身
     上之儀於我等聊不可存疎意候
     事
   一、御居城不可有別儀之事
   一、出石郡之儀進之置候条無異儀
     可被仰付事

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   右旨八幡大菩薩愛宕山相違有
   間敷侯依而如件
    天正六(1578)  羽柴筑前守
     五月十六日     秀吉花押
      山名殿
          余人々御中

  或説に曰く永禄十二年(1569)己巳七
  月に伊丹兵庫助親興池田筑
  後守勝政案内として羽柴筑前
  守秀吉但馬国にせめ入るという
  秀吉大軍を以て日夜に城を攻ら
  る毛利輝元加勢を出さんとして機
  を両端にかけて果さず然るに城中
  兵粒つきて上下ともに餓に及ぶに
  よりて吉川中村森下等相議し
  て福光小三郎を使として浅野弾正

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  少弼長政が陣に遣して城中雑兵
  の一命を助け給わゞ三人ともに自殺し
  て城を渡すべしという長政是を秀
  吉に申す秀吉是を免し酒食
  を城中に遺(おく)らる秀吉より堀尾茂助
  吉晴を検使として城を請取らしむ
  吉川森下中村城を出て寺にいり
  自害す堀尾其首を秀吉の実
  検に入る森下中村が首は其不忠を
  憎み泥を以て其面に塗たり坂田
  孫次郎福光小三郎は吉川が恩をう
  けたる者共なれば同く自害す
  城中の兵共餓に疲れたるによりて
  秀吉の下知として粥を煮て食は
  せらる多く食うものは死し少く
  食うものは恙がなし秀吉より

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  宮部善祥房をして五万石の領地
  をあたえて鳥取の城を守らせらる
  其後秀吉帰陣の時に豊國に逢
  てともに京都におもむき我に属
  せらるべしと有ければ豊國答て
  我不幸にして不忠の者の為に
  国家を乱し今足下のために数代
  の領地を失い他の領国と成り百
  八十餘年相伝の領国を離れ人
  の下に立ん事は思いもよらずたゞ
  時節をまたんと有ければ秀吉
  其言葉の勇有を感心有て是を
  褒らる秀吉又とわれけるは
  足利家より伝来の笹作の太刀有
  ときく今偏る所の太刀ならん其
  太刀を我に見せらるべしとあり

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  ければ豊國答えて笹作りの太刀は
  鹿園院殿より先祖宮内大輔時
  熈に譲りあたえらるゝ所にして
  我家の重器たりといえども今かくの
  ごとくに累代の領国を離散するの
  時節に至りぬれば其太刀今
  此に帯せずとて終に笹作の太刀
  を秀吉に見せず暇を乞いて同
  国村岡に暫く蟄居あり其後に
  摂津国河辺郡多田圧に来りて
  多田氏が宅に幽居あり時に譜代
  の家人等に皆暇を授け時節を
  待べき旨を命ぜらる多田庄に随
  遂するものは田結庄宮田垣屋上野
  三上浅田多賀の輩のみなり此時
  豊國三十四歳なり

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一、天正十四(1586)年丙戍に徳川家康公豊
  臣秀吉公の招によりて上洛あり
  此時に豊國は多田庄より家康公
  の旅館に至り本多中務大輔忠
  勝榊原式部太輔康政永井右近大夫
  直勝西尾隠岐守吉次等に逢て
  家康公に拝謁せん事をこわる各
  相儀して家康公に執し申則ち
  旅館に於て家康公に拝謁せらる
  是よりして恩恵日々に厚く直々
  に供奉して関東に下向せらる
  此時に豊國多田圧より関東
  に趣(赴)かるゝによりて多田氏が多
  年の懇情を謝せん為に重代
  の脇指を多田氏に授け離別
  の情をつくさる今に至て多田兵部

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  元朝が子孫此脇指を所持すと
  いう
  或説に此時に山名慶五郎
  堯熈も豊國とおなじく家康公に
  拝謁すというはあやまりなり
  堯熈父子兄弟皆豊臣秀吉
  公に仕えて慶長年中に至り
  摂州大坂城に籠り秀頼公に
  仕う然るに大坂落城におよび
  て豊國潜に諭し堯熈父子
  をして城中を出奔せしめ
  将軍家に拝謁せしめん事を
  願わるゝに将軍家の命有
  りて堯熈父子京都六条の辺
  蟄居あり詳かに祐豊の譜
  伝に見えたり

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一、同十六年(1588)戊子四月十四日に秀吉公
  の聚楽の亭へ行幸あるにより家
  康公も上洛あり前管領家斯波
  入道三松が宅に渡御あり豊國も
  供奉して彼宅に至り三松入道に
  対面あり其礼甚だいんぎんなり
  家康公還御の後に豊國を召て
  仰に曰く三松に対するの礼甚だ
  過たり斯波氏は是足利氏の支流
  なり汝が家は新田正嫡の一流にして
  名家たり近き頃に至るまでも大
  国を領して威名ありし事は世の
  知る所なり今古えのごとくにあらず
  といえ共彼に対して強がちに謙ゆず
  らんや我に忠をつくし絶たるを
  継ぎ廃たるを興し功名を子孫

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  残すべしと仰有り豊國忝なき
  旨を申て退く
一、文禄(1592頃)年中筑紫陣の時に家康公
  豊國を召て仰に曰く汝の先祖山名
  伊豆守義範と家康が先祖徳川
  四郎義季は兄弟にしてともに新田
  大炊助義重の子なり今に至ると
  いえども我家と汝の家とは同血同胞
  の家なり然ば我何ぞ汝が家を
  疎かにするの理あらんや今より後
  は我に眤近あるべし我もまた疎かに
  すべからずと仰あり豊國鈞命
  の慇懃なる事を蒙り忝なき
  旨を申て退かる聞人皆是を羨む
一、慶長五(1600)年庚子五月朔日に家康
  公諸将を召て上杉中納言景勝を

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  御退治あるべき評定有同月九日に
  御陣触あり同じく六月十六日に
  摂州大坂を御進発あり同く七月
  二日に武州江戸城に入らせらる此時
  に豊國も供奉して関東に下る同
  月廿四日の夜に京都伏見の騒動を
  告げ来るよりて家康公諸将と
  相議して上方に登り給う同じく九月
  十五日に美濃国関原表において
  石田治部少輔三成を始め西国方の諸
  将皆敗北して家康公御勝利な
  り豊國も亀井武蔵守上杉紹常
  入道八木圧左衛門太田垣監物等と
  一備えにて軍忠を抽(ぬきんで)らる八木庄左衛門
  太田垣監物は豊國の旧臣たりといえども
  当時将軍家に仕う此度豊國と

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  一列に命ぜらる同じく十月十六日に
  家康公摂州大坂城に入給う同月廿七日
  に豊國を召て仰に但馬国におもむ
  き気多郡高田庄の領主斎村佐兵衛
  佐秀則が竹田の城を請取るべき旨
  を命ぜらる豊國則ち但馬に至り
  高田庄におもむかる此時に旧臣等
  来り集りて城地を請取国中の
  仕置をなし竹田の城を給る
一、同六年(1601)辛丑に同国七味郡に郡替
  を仰付られて七味郡一郡を一円に
  給る
一、同十九年(1614)甲寅の冬大坂御陣の
  節に家康公上意待て本多上野
  介正純は朝夕に昵近して我左右に
  あり上野介が人数と三浦監物と

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  豊國相備えにて軍兵を下知して
  戦功を抽(ぬきん)ずべしと仰あり豊國領
  掌申さる此時に豊國の旗の紋三ツ
  引なり三浦氏も又旗の紋三ツ引な
  り豊國その混乱せん事を察して
  山の字を以て下に添らる家康公
  上意有けるは汝の旗を見るに三ツ
  引の下に山の字あり呼て見れば
  さんざんのとなえなり旗の紋を改
  むべきのよし仰有るによりて二ツ引
  両に山の字を付らるこれよりし
  て後当家三布白二ツ引両を以て
  家の紋とす
一、家康公駿府に御在城の時に年
  始御礼の節国持大名御礼相済て
  直に日野入道唯心水無瀬入道一斎

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  豊國次に上杉畠山土岐と次第し
  て御礼ありまた六月十六日嘉定の御
  祝儀の節も公家の面々同前に豊
  國を御留ての上に召させられて日野
  飛鳥井は三方なり冷泉土御門
  舟橋水無瀬豊國は足付なり其餘
  は列座御縁にて片木にて是を
  下されしなり
一、家康公の御前に豊國出仕有る
  の時は毎度列座の上座たり家
  康公上意にも新田の氏族は山名の
  外高家の内にこれなきのよし
  度々上意あり山名は新田の嫡家
  なるによりて類なき家たるの
  間馳走もまた類なきの旨を仰
  らるある時豊國家康公の御前に

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  出て象戯(将棋)の御相手たり時冬に
  してことに寒する夜なりしに
  豊國古き羽織を着せらる側に
  伺公の人々古き羽織を着せられ
  候よしをいうに豊國答えて此羽
  織は我等因幡に有し頃上洛せし
  時に公方光源院義輝公の召して
  御入候を賜わりたるによりて古く候
  と答らる家康公聞し召して
  笑わせ給い側の人々に宣うは禅高
  入道が家には左様なる由緒ある古
  き物は多くあるのよしを仰ければ
  聞人皆赤面せしとなり其羽織
  は金襴なりとぞ
一、慶長年中に豊國家康公の御
  前に伺公あるの時池田備後守脇指を

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  帯し御前近く出て直訴申上る
  其躰不審しく見えければ豊國座
  を立て備後守が左右の手をとり
  引立て御次に退かしむ時に本多
  上野介正純を上使として御諚有
  けるは豊國若年より所々において
  勇傑の働き上聞に達したるによりて
  武備の為に兼々昵懇せしめらるゝ
  の所に今日の振舞神妙の至り御
  感におぼし召さるゝ所なり他の若
  輩にあらば御感状をも下さるべきに
  禅高入道のごときは感状を下さるゝ
  にもあまりありと大きに御感の
  上意あり

一、豊國駿府より江戸に来り秀忠公
  に拝謁あり滞留の聞しばしば御前

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  に出らるまた秀忠公駿府におもむ
  かせられ家康公に謁せらるゝのと
  きに豊國の宅において御茶を献
  ずべきの上意再三ありけれども
  豊國は居宅の見苦しく召仕等も
  なく迷惑の由を辞退あるによりて
  終に御成はなしとぞ
一、将軍秀忠公御膳を召上らるゝ
  時に豊國御相伴たりときに御盃
  を下され御返盃致べきのよしを
  上意あり豊國固く辞せらる強い
  て辞退あるべからずと再三御諚ある
  によりて御返盃あり時に岡田兵部
  少輔御酌たり御次の間において兵
  部少輔豊國にむかって曰く唯今
  貴辺の御返盃有し事は国主といえ

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  どもかくのごとくの上意有る事を
  聞ずと大に感心す聞人も此事を
  うらやむ豊國も此儀を以て老後
  のほまれとせらる豊國駿府江戸
  等へ両御所の御機嫌伺として相催
  滞留の内は御扶助米三百人扶持を
  下し賜わるすべて恩恵の厚き事
  他にこえたり

一、豊國曽て領地に趣(赴)かるゝの時駿州
  蒲原駅に止宿ある処に其夜在
  家より火災おこりて豊國の旅宿
  も焼亡せり此時に室町家より伝
  来の笹作の太刀ならびに代々の口
  宣(くぜん)其外足利将軍家よりの御
  教書等多く焼失せり

一、寛永三年(1626)丙寅十月七日に豊國卒

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  去有り時に七十九歳なり京都
  妙心寺塔中に葬り法名東林院殿
  徹庵高公大居士と号す則ち寺
  を東林院と名づけ英首座(英首座は山名太郎左衛門豊義の子にして則ち豊國の孫なり竺翁和尚と号す)を以て院主とす

  豊國に五男一女あり長男庄
  七郎は因州鳥取城において早世
  あり次男豊政正統相続なり
  次を庄兵衛という早世なり次
  は女子朽葉七郎左衛門が妻なり
  次は太郎左衛門豊義という次を
  兵庫豊晴というともに子孫繁
  多也詳かに系図に見えたり



Last-modified: 2022-12-11 (Sun) 16:12:39 (JST) (530d) by admin