1: 2011-11-04 (金) 16:46:22 admin ソース 現: 2022-12-11 (日) 16:12:43 admin ソース
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-*特別寄稿「山名氏の系譜と事歴」 [#nbd6bc7d]+CENTER:&font(160%){特別寄稿「山名氏の系譜と事歴」};
RIGHT:鳥取県史専門委員 &font(140%){日置粂左衛門}; RIGHT:鳥取県史専門委員 &font(140%){日置粂左衛門};
- +*清和源氏 [#a3af85ae] 
-山名氏は清和源氏の出である。源義家の子義国は、下野国足利庄(現在の栃木県足利郡の全部と安蘇郡の一部を含む)に住んだ。義国の子義重は上野国新田庄(現在の群馬県新田郡)を譲られて新田太郎と言い、新田氏の祖。次子義康は足利庄を譲られて、足利三郎を称して足利の祖となった。 +山名氏は清和源氏の出である。 
-義重の三男義兼は本宗をついで新田氏を名乗ったが、長男義範は上野国名胡郡山名郷に住んで山名氏の祖となった。山名氏の本拠の山名郷は『和名抄』に「山字(山宗)」と記し、多胡郡に属しているが、いつしか緑野郡の所管となり、「但馬村岡山名家譜」に次のように記す。+源義家の子義国は、下野国足利庄(現在の栃木県足利郡の全部と安蘇郡の一部を含む)に住んだ。義国の子義重は上野国新田庄(現在の群馬県新田郡)を譲られて新田太郎と言い、新田氏の祖。次子義康は足利庄を譲られて、足利三郎を称して足利の祖となった。 
 +義重の三男義兼は本宗をついで新田氏を名乗ったが、長男義範は上野国名胡郡山名郷に住んで山名氏の祖となった。 
 +山名氏の本拠の山名郷は『和名抄』に「山字(山宗)」と記し、多胡郡に属しているが、いつしか緑野郡の所管となり、「但馬村岡山名家譜」に次のように記す。
 父義重より上野国緑埜郡山名の庄を以って義範に譲り与へられる。是によりて新田の家名を改めて、山名を以って家号とし、山名の冠者と称せられる。  父義重より上野国緑埜郡山名の庄を以って義範に譲り与へられる。是によりて新田の家名を改めて、山名を以って家号とし、山名の冠者と称せられる。
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 +*山名義範公 [#m3a72535]
 +義範は、山名冠者、あるいは山名三郎を称して、源義経に従い、一ノ谷合戦において軍功をたてた。その後、伊豆守を称して終始頼朝に近侍したが、承久元年(1219)二月に死去したと言う(「家譜」)。
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 +*鎌倉山名 [#j157af1f]
 +重国の子重村以降は、ほとんど歴史の表面にあらわれることなく、したがってその行動もまったく不明に属するが、その四代時氏に至って、頭角をあらわすにいたるのである。『難太平記』に時氏の言葉として次のように見える。
 + 我は建武よりハ、当御代の御かげにて人となりぬれバ、元弘より以往ハ、ただ民百姓のごとくにて、上野の山名といふ所より出侍しかば、渡世のかなしさも、身の程も知にき。
 +時氏以前の山名氏は、上野国山名という所に住んで、生活の苦しさも十分に経験してきたといっている。鎌倉時代の山名氏を知る一史料といえよう。
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 +*山名時氏公 [#he9728fa]
 +「山名家譜」によれば、元弘三年(1333)春、足利尊氏は北条高時の命によって京都へ進発、山名時氏は尊氏に従って功をたて、山名家を興すこととなった。建武四年(1337)三月当時、伯耆守護は石橋和義であったが、その後、まもなく山名時氏に代わった。
 +高師直は建武四年七月二十三日付で、醍醐寺蓮蔵院領伯耆国国延保における甲乙人の濫妨(らんぼう)を止め、それを醍醐寺雑掌に交付するよう命していいる(「三宝院文書」)。この御教書の受取人たる山名時氏は、伯耆国守護といえる。
 +かくして、建武四年の前半に、鎌倉時代を通じて上野国の豪族として、ながくその地を本拠としていた山名氏は、南北朝の動乱を機に伯耆国に進出、やかて守護大名として新しく発展することとなった。
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 +*六分一殿 [#pa0fa593]
 +その後、観応擾乱を経て、山名時氏とその一族は、山陰・山陽・畿内に勢力をのばし、明徳二年(1391)までに一族で伯耆・出雲・丹後・丹波・美作・若狭・備後・隠岐・因幡・和泉・紀州十一ケ国の守護職を歴任した。
 +幕府にあっては侍所所司、山城守護、内談衆頭人などを壱兼任、六分一殿と呼ばれた。
 +しかし、明徳の乱によって山名氏の領国は但馬・伯耆・因幡の三国に激減、のち嘉吉の乱の戦功によって山名氏の惣領山名持豊は、備後・安芸・石見・伊賀・備前・美作・播磨の守護職を獲得した。
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 +*応仁の乱 [#b6cd3298]
 +応仁元年(1467)、足利将軍家の継嗣問題と畠山・斯波の両管領家での相続争いをきっかけとして、京都にあった有力守護大名は細川・山名の両派にわかれて争い、ついに武力衝突へと発展した。これが応仁の乱である。この時の西軍の総帥は、山名持豊(宗全)で、東軍の細川勝元と京で対陣した。
 +文明五年(1473)になると、山名持豊と細川勝元はあいついで没し、在京の諸大名も参戦の意義を失い、ぞれぞれの領国内の在地の情勢が険悪となったこともあって、つぎつぎに帰国した。持豊没後の山名氏は、嫡子教豊の弟政豊が嗣子として家督を継承したが、すでに伯書の守護山名教之は京都を去って領国に下り、持豊に先だって病没。つづく持豊(宗全)の死は、山名一族の結束をゆるがす誘因となった。
 +*応仁以降 [#j9b5a85d]
 +文明六年(1474)四月.山名政豊と細川政元との間に和議が成立、ここに応仁の大乱も終結した。
 +政豊は、領国但馬の経営を垣屋氏に任せて京都にいたが、播磨の赤松政則が因幡の森二郎と結んで反乱を起こさせたので、文明十一年、但馬に帰り、兵を率いて因幡の国衆森二郎を討ち、因幡を鎮定した。
 +ついで伯耆国でも南条下総入道らの国衆が、一族の守護山名政之から離反、山名元之とその子小太郎を擁して、反守護の勢力を結集した。この伯耆の反乱は、文明十二年から翌十三年に及んだが、山名政豊麾下の垣屋・田総らの軍勢によって守護方の勝利となった.
 +RIGHT:(編集者註筆者は本会相談役、本稿は設立総会記念講演の要旨である)
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