1: 2011-10-31 (月) 21:42:35 admin ソース
Line 1: Line 1:
 +#navi() 
 +*三、紅葉燃ゆ ―近世山名氏― [#d3f47693] 
 +**村岡藩領氷ノ山 [#n0005a3c] 
 +明治四年(一八七一)秋十月。 ここ氷ノ山(現、兵庫県関宮町地内、標高一五一〇m、 中国地方第二の高峰)頂上に立った村岡藩主山名義路とその一行は、 眼下にうねりたゆたう山脈(やまなみ)の燃えたつような黄紅葉に息を呑んで佇ち尽しました。 「うわあっ、四方八方見通しじゃ。……爺、これがわが領の最高所か」 
 +**最後の藩主 [#dc6c892f] 
 +義路はこの時十二才。まだ前髪の以合う少年ながら、青々と月代(さかやき)を剃りあげています。 この年二月に父義済が三十八才の若さで没くなりましたから、葬儀が終った四月に家督相続。 六月に太政官(明治新政府)より元服・昇殿(宮中清涼殿に参内できること)が許されたばかりです。 金剛麿改め義路、従五位下(じゅうごいのげ)因幡守(いなばのかみ)・村岡県知事、これが少年の正式な呼称です。 爺と呼ばれた老人は村岡藩筆頭家老池田勣一郎(せきいちろう)。 これも正しくは村岡県大参事・太政官出仕・集議院議員です。このとき五十六才。 ただでさえ五尺そこそこ(一五〇cmぐらい) の小躯(しょうく)が、維新前後の東奔西走でいっそう肉を落したので、老翁と呼ぶにぴったりです。 「ハイッ若。いや違いましたわい。村岡県知事閣下、この氷の山が七味(しつみ)五郷第一峰、但馬・因幡・播磨三国の分水額にごぎいまする」 「爺、そんな言い方はやめてくれ。でないとこちらも”大参事よ〃なんどと呼ばねばならん。ところで、西の方遠くに見えるのが大山か」 「さよう、伯著大山(標高一七一一m、中国地方の最高峰)。あのあたりに時氏公のお墓がありまする」 「すると、こう西から北にかけての一帯が因伯(因幡国と伯著国)じゃな」 「いかにも、ついでに、こちらをご覧くだされ。北から東にかけてが但馬の国、東の山遠くが丹後・丹波となりまする。そしてこなた南側一帯が播磨の国でありまして、南西の側が美作・備前…、備後までは見えませぬな」 「ああ、どちら向いても山名の領国…だったのじゃな。して、わが村岡藩、いや村岡県はどこからどこまでか」 「村岡領は但馬七味郡一円。北の方に海が見えまするなあ。あそこが香住。そこからこの山裾までうねっております川が矢田川、矢田川の流域全部が村岡領でごぎいまする」 「ふう-む、たったこれっぽっちか」 山頂から見おろす其処は展望三百六十度のうち僅か四十度ほどです。 しかも、そのほとんどが広葉樹に覆われた山や谷ばかり、耕地はといえば川筋のところどころに一握りほどずつ張りついているだけです。 「 --なるほど、一万石じゃものな」 「ちがいまする、若。一万一千石ですぞ」 「どつちにしても知れたもんよ」 「若、それを申されてはなりませぬ。そもそもわが山名家の草創は・・・ 「おや、また始まった。爺の十八番が」 「辛棒してお聞きなされ。今日ここへご案内したのも、若ご自身の目や耳でしっかりと爺の”そもそも〃を確かめていただくためですぞ。若よ。実は村岡県もあと一と月たらずで無くなってしまいまする。豊岡県に合併し、やがては播磨・丹波とも一緒になって大きな県になるはず…・・・。 
 +領主としてわが所領をごらんになるのは今日を措いてほかにはごぎいませぬ」 「さように変わるのか」 「そうです。それがご一新(維新)というものです。では始めまするぞ」 
 +**藩祖禅高 [#f41d68a7] 
 +「そもそもですじゃ。山名氏が今日まで七百年の名跡を伝えることができたのは、ひとえに藩祖禅高公(本名は 豊国、一五四八~一六二六)のお働きによるものですぞ。ごらんくだされい。この但馬全域は室町の初めより山名氏本貫の地でありましたが、今を去る三百年前、織田・豊臣の天下統一に反したがために攻め滅ぼされ、山名総領家は一旦断絶したのですぞ。その山名の家名を再興されたのが、こちら因幡の国を治められていた豊国禅高公にございまする。因幡の国はもともと六分一殿時氏公の第三子氏冬公の系統が守護職を受けついでおられました。ところが、戦国末期の動乱でどうにも立ちゆかなくなりましてな。但馬宗家から豊定公(総領家祐豊の 弟)を迎えて息をついだわけでごぎいまする。その第二子が豊国公で、因幡の国最後の守護職となられましたわ。公は天下争乱の行く末をつくづくと観望なさり、西の毛利はもはや命運尽きたり、これからは東の織田が天下となろうと見究められましてごぎる。しかし、何分にも因幡の国は毛利圏の地つづきであり、国人衆も毛利側とはじっこんにて、若い領主の意向に従いませぬ。あれやこれやのやりとりの末、禅高公は鳥取の城を出て、東の羽柴(秀吉、中国征伐の総大将) に与力なさいました。この分別が山名家を救ったのですぞ。案の定、鳥取城は秀吉公お得意の飢(かつ)え攻めで篭城百数十日の末落城し、毛利色の国人衆も四分五裂という始末。 天正十年(一五八二)信長公急逝の後、締高公は太閤殿下(豊臣秀吉)に近侍され、次いでの神君(徳川家僕)からは、両家の先祖が兄弟であった因縁から格別の待遇をいただかれてごぎいまする」 
 +**徳川氏と山名氏 [#waeb3fab] 
 +「この山名徳川同族説ですが、さきの略系図をごらんください。太祖義範の弟義李が得川租です。後に徳川と好字に改められたといわれています。」 「で、そのころ、名誉ある山名氏歴代の祭祀料として拝領されたのが、此の七味五郷でありまする。禅高公があのとき家臣どもの侭(まま)になって、毛利に組されておれば、但馬宗家と同様に因幡山名の存在など鎧袖一触(かいしゅういっしょく)、一朝にして潰されておりましたでしょうな」 
 +**禅高神号と孝仁天皇 [#ecfc3d79] 
 +「うん、ようわかった。じやが爺よ。わが家では禅高公だけ、何故”豊国禅高七味権現”(ほうこくぜんこうしつみごんげん)などとお呼びするのじゃ。ほかのご歴代同様に″東林院殿″という院号をお持ちなのに、どうして権現様なのじゃ」 「良いとこへお気づきなされました、若。このいわくは家中の老どももあまり知ってはおりますまい。- たしか神号を戴かれましたのは天保六年(一八三五)、禅高公二百回忌に当ってでありました。この権現号を下されたのは、吉田神道の社家や都あたりに掃いて捨てるほどある名神大社ではごぎいませぬ。恐れ多くも時の帝仁孝天皇御直々の勅諚(ちょくじょう・みことのり)にごぎりまするぞ。 わが家は十代義問公(一八〇八~一八五九)の治世でありました。若よ。法雲寺(藩公菩提寺、兵庫県村岡町)にある勅書をご覧になられませ。それには、この神号を追諡(ついし・おくり名)するので神法を紹隆し宝祚(ほうそ・天皇の御代)延長を祈り奉れとあって、宛名は東林院御坊となってごぎいまする」 
 +**花園東林院 [#za43e79c] 
 +#navi()


トップ   差分 バックアップ リロード印刷に適した表示   全ページ一覧 単語検索 最新ページの一覧   ヘルプ   最新ページのRSS 1.0 最新ページのRSS 2.0 最新ページのRSS Atom Powered by xpWiki
Counter: 2403, today: 1, yesterday: 0