2: 2011-10-01 (土) 17:06:31 admin ソース
Attached file: 山名豊国像.jpg
現: 2022-12-11 (日) 16:12:42 admin ソース
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秀吉に下った豊国は秀吉の軍に加わり鳥取城を攻める側となる。その後、秀吉の御伽集として、持ち前の文化的才能を発揮し秀吉に仕えた、関が原の合戦では家康側に付き、その功績により但馬七美郷を領地として安堵され、交代寄合(大身旗本として大名と同等の扱い)として代々の将軍に仕える基礎を築いた。 秀吉に下った豊国は秀吉の軍に加わり鳥取城を攻める側となる。その後、秀吉の御伽集として、持ち前の文化的才能を発揮し秀吉に仕えた、関が原の合戦では家康側に付き、その功績により但馬七美郷を領地として安堵され、交代寄合(大身旗本として大名と同等の扱い)として代々の将軍に仕える基礎を築いた。
*豊国と家康 [#m21a15a7] *豊国と家康 [#m21a15a7]
-家康が征夷大将軍に就任した折に室町幕府の足利義稙から山名氏当主に贈られた羽織を着て参上したという逸話があるが、これは山名も徳川(得川)も同じく新田の流れをくみ、足利の祖とも、同流れであることを意識してのことかもしれない。(参照:[[略系図]])+家康が征夷大将軍に就任した折に室町幕府の足利義稙から山名氏当主に贈られた羽織を着て参上したという逸話があるが、これは徳川(得川)も山名と同じく新田の流れをくみ、足利の祖とも同じ流れであることを意識(黙認?)((徳川が清和源氏であるかどうか?については判然としないが、「清和源氏の流れ」である必要があったらしい。))してのことかもしれない。
*豊国の評価 [#bd967f80] *豊国の評価 [#bd967f80]
領国を追い出されては、再び国に戻り、そして強国に城を攻められ降伏し、その後も家臣として働き、また、新たな敵に攻められながらも、巧みに流れを読み情勢を判断し、山名の名を後世に伝えたその処世術と判断は「暗愚な総大将」とは違う一面を見ることが出来ると思う。 領国を追い出されては、再び国に戻り、そして強国に城を攻められ降伏し、その後も家臣として働き、また、新たな敵に攻められながらも、巧みに流れを読み情勢を判断し、山名の名を後世に伝えたその処世術と判断は「暗愚な総大将」とは違う一面を見ることが出来ると思う。
 +**但馬山名の復興など [#uefb9654]
 +余り知られていないが、かっての総領家である但馬山名氏第十代尭熈(あきひろ・氏政とも)が清水と姓を替え(家臣清水氏の養子となっていた)地下(じげ)に埋もれていたのを救い出し、家康に周旋して旗本にとり立ててもらい、この家系も以後連綿と続いて明治を迎えています。
 +また、因幡時代の旧臣―武田・中村等、反禅高の首謀者たちが、鳥取械落城後、諸国に流浪しているのを呼び戻し、旧怨を問わずに高禄を与えて家臣団上席に据えるなどの、逸話も伝えられています。
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