8: 2020-05-01 (金) 10:43:49 admin ソース 9: 2020-05-01 (金) 16:26:51 admin ソース
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***③「秀吉家康期の山名禅高」 [#y709276c] ***③「秀吉家康期の山名禅高」 [#y709276c]
-秀吉軍による鳥取城落城後から徳川時代までの山名豊国(禅高)の消息を中心として、最近見ることが可能となった史料などを参考にしながら、山名家の家名を取り次ぐ手立てとして、武力ではなく文化を選択した山名禅高の生き方についてお教えいただきました。+秀吉軍による鳥取城落城後から徳川時代までの山名豊国(禅高)の消息を中心として、最近見ることが可能となった史料などを参考にしながら、山名家の家名を次代に取り次ぐ手立てとして、武力ではなく文化を選択した山名禅高の生き方についてお教えいただきました。
 山名豊国(禅高)と言えば、世評的には余り芳しくない評価を良く耳にする。  山名豊国(禅高)と言えば、世評的には余り芳しくない評価を良く耳にする。
 しかし、山名氏にとっては戦国時代に一旦は没落やむ無しの状況にあった山名家を立て直し、鎌倉時代に始まる山名の流れを江戸~明治~現代へと繋がる道筋を模索した中興の祖と言える。  しかし、山名氏にとっては戦国時代に一旦は没落やむ無しの状況にあった山名家を立て直し、鎌倉時代に始まる山名の流れを江戸~明治~現代へと繋がる道筋を模索した中興の祖と言える。
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***④「山名宗全の虚像と実像」 [#x2e008c3] ***④「山名宗全の虚像と実像」 [#x2e008c3]
-50万部に迫るベストセラー『応仁の乱』(中公新書)の著者である呉座先生に、山名宗全が応仁の乱で目指したもの、失ったものを・・・そして、何故、彼が後世の我々に応仁の乱の張本人のように言われてしまうのか?についてお話いただいています。+50万部に迫るベストセラー『応仁の乱』(中公新書)の著者である呉座先生に、山名宗全が応仁の乱で目指したもの、失ったものを・・・そして、何故、宗全が応仁の乱の張本人のように言われてしまうのか?についてお話いただいています。
 様々な要因によって勃発した応仁の乱ではあるが、山名宗全が応仁の乱の張本人のように言われやすい。宗全自身も乱の中で重要な立場であったことは確かだが、強面や強引な変革者のイメージがまさって、責任を押しつけられやすいのか?  様々な要因によって勃発した応仁の乱ではあるが、山名宗全が応仁の乱の張本人のように言われやすい。宗全自身も乱の中で重要な立場であったことは確かだが、強面や強引な変革者のイメージがまさって、責任を押しつけられやすいのか?
 講演では、我々が思う宗全のイメージは確かなものか?また、宗全が応仁の乱で目指していたものをお話し頂きました。  講演では、我々が思う宗全のイメージは確かなものか?また、宗全が応仁の乱で目指していたものをお話し頂きました。


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