22: 2015-01-07 (水) 22:45:30 admin ソース 23: 2015-01-08 (木) 16:50:19 admin ソース
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|~|5月11日|八幡の軍勢、力尽き、後村上天皇、囲みを衝いて東條に逃れる。|『太平記』巻31| |~|5月11日|八幡の軍勢、力尽き、後村上天皇、囲みを衝いて東條に逃れる。|『太平記』巻31|
|~|8月26日|山名師氏(師義)、八幡の軍功として、若狭国税所今富庄の知行を佐々木道誉に属して申達せんとすが、道誉の無礼を怒り、伯耆をさして下る。|『太平記』巻32| |~|8月26日|山名師氏(師義)、八幡の軍功として、若狭国税所今富庄の知行を佐々木道誉に属して申達せんとすが、道誉の無礼を怒り、伯耆をさして下る。|『太平記』巻32|
-|~|~|山名師氏(師義)、父時氏(当時53歳)は足利直義と共に南朝方となり、出雲、伯耆、隠岐因幡、四カ国を征服し、南朝の諸軍と相応じて京都に進撃せんとす。|『太平記』巻32、②『家譜』P56[[*43>#nen043]]|+|~|~|山名師氏(師義)、父時氏(当時53歳)は足利直義と共に南朝方となり、出雲、伯耆、隠岐因幡、四カ国を征服し、南朝の諸軍と相応じて京都に進撃せんとす。|『太平記』巻32、[[②『家譜』P56>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000056]] [[*43>#nen043]]|
|~|~|つまり、時氏は血気盛んな息子たちに引っ張られ幕府と袂を分かった。このことで丹波守・若狭守を取り上げられる事となった。|| |~|~|つまり、時氏は血気盛んな息子たちに引っ張られ幕府と袂を分かった。このことで丹波守・若狭守を取り上げられる事となった。||
|~|9月27日|文和と改元。|| |~|9月27日|文和と改元。||
-|1353|正平8年5月7日&br;文和2年|山名時氏、師氏(師義)、伯耆を立ちて、但馬、丹後の兵を集めて上洛。|『太平記』巻32、②『家譜』P59|+|1353|正平8年5月7日&br;文和2年|山名時氏、師氏(師義)、伯耆を立ちて、但馬、丹後の兵を集めて上洛。|『太平記』巻32、[[②『家譜』P59>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000059]]|
|~|~|南方より、四條大納言隆俊を惣大将として3000余騎上洛。[[*44>#nen044]]|| |~|~|南方より、四條大納言隆俊を惣大将として3000余騎上洛。[[*44>#nen044]]||
|~|6月9日|南朝の官軍3000余騎、八條、九條の在家に火をかけ、山陰道の寄手、山名師氏(師義)等5000騎は梅津、桂、嵯峨、仁和寺、西七條に火をかけて、京中に追寄せる。山名が執事小林右京亮、佐々木が勢に打勝ち、山名師氏(師義)は土岐が勢に打勝つ。吉良、石堂、原、蜂屋、宇都宮民部少輔、海東、和田、楠は細川清氏に打勝つ。|| |~|6月9日|南朝の官軍3000余騎、八條、九條の在家に火をかけ、山陰道の寄手、山名師氏(師義)等5000騎は梅津、桂、嵯峨、仁和寺、西七條に火をかけて、京中に追寄せる。山名が執事小林右京亮、佐々木が勢に打勝ち、山名師氏(師義)は土岐が勢に打勝つ。吉良、石堂、原、蜂屋、宇都宮民部少輔、海東、和田、楠は細川清氏に打勝つ。||
|~|~|義詮の軍勢大敗し、義詮、東坂本に逃れる。|『太平記』巻32、②家譜P60| |~|~|義詮の軍勢大敗し、義詮、東坂本に逃れる。|『太平記』巻32、②家譜P60|
-|~|6月12日|高師詮(師直の子)、西山の善峰に陣し、山名の兵これを攻め、師詮は破れ、自害す。|『太平記』巻32、②『家譜』P60[[*45>#nen045]]|+|~|6月12日|高師詮(師直の子)、西山の善峰に陣し、山名の兵これを攻め、師詮は破れ、自害す。|『太平記』巻32、[[②『家譜』P60>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000060]] [[*45>#nen045]]|
|~|6月13日|義詮、後光厳天皇を奉じて、東近江を経て、美濃の垂井に宿る。|『太平記』巻32、②『家譜』P61| |~|6月13日|義詮、後光厳天皇を奉じて、東近江を経て、美濃の垂井に宿る。|『太平記』巻32、②『家譜』P61|
-|~|7月23日|山名時氏、師氏(師義)、京都に留まるを得ず。伯耆国に下る。|太平記』巻32、②家譜P61[[*46>#nen046]]|+|~|7月23日|山名時氏、師氏(師義)、京都に留まるを得ず。伯耆国に下る。|太平記』巻32、[[②家譜P61>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000061]] [[*46>#nen046]]|
|~|7月29日|尊氏、鎌倉を発し、9月21日光厳天皇とともに上洛。|『太平記』巻32頭注(鶴岡社務記録)| |~|7月29日|尊氏、鎌倉を発し、9月21日光厳天皇とともに上洛。|『太平記』巻32頭注(鶴岡社務記録)|
|~|9月|直冬、南朝から綸旨を賜わり、総追捕使に任ぜらる。|『太平記』巻32頭注(園太暦)[[*47>#nen047]]| |~|9月|直冬、南朝から綸旨を賜わり、総追捕使に任ぜらる。|『太平記』巻32頭注(園太暦)[[*47>#nen047]]|
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|~|12月13日|山名時氏、師氏(師義)直冬を大将として伯耆を発す。|『太平記』巻32[[*48>#nen048]]| |~|12月13日|山名時氏、師氏(師義)直冬を大将として伯耆を発す。|『太平記』巻32[[*48>#nen048]]|
|~| |丹波国の守護仁木頼章は一戦も交えず山名勢を通過させる。|『太平記』巻32| |~| |丹波国の守護仁木頼章は一戦も交えず山名勢を通過させる。|『太平記』巻32|
-|~|12月24日|兵力の大半を播磨の義詮に送った尊氏は、江州武作寺へ落ちる。|『太平記』巻32、②『家譜』P62[[*49>#nen049]]|+|~|12月24日|兵力の大半を播磨の義詮に送った尊氏は、江州武作寺へ落ちる。|『太平記』巻32、[[②『家譜』P62>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000062]] [[*49>#nen049]]|
|1355|正平10年正月16日&br;文和4年|桃井直常、直信、斯波氏頼入洛。|『太平記』巻32[[*50>#nen050]]| |1355|正平10年正月16日&br;文和4年|桃井直常、直信、斯波氏頼入洛。|『太平記』巻32[[*50>#nen050]]|
|~|正月22日|直冬、山名、石堂入洛。|『太平記』巻32[[*51>#nen051]]| |~|正月22日|直冬、山名、石堂入洛。|『太平記』巻32[[*51>#nen051]]|
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|~|~|山名師義は勝れたる兵八百騎を卒して、遊軍としてひかえる。阿保信禅が山名方に変わり、但馬国へ馳せ越え、長九郎左衛門と一緒に播磨へ打て入らんと企てるので、赤松は法花山に城郭を構え、大山越の道を塞いで、五箇所へ勢を差向けた。|| |~|~|山名師義は勝れたる兵八百騎を卒して、遊軍としてひかえる。阿保信禅が山名方に変わり、但馬国へ馳せ越え、長九郎左衛門と一緒に播磨へ打て入らんと企てるので、赤松は法花山に城郭を構え、大山越の道を塞いで、五箇所へ勢を差向けた。||
|~|~|赤松は山名と戦うにも勢少なく、中国の大将細川頼之に備前、備中、備後の兵を集めるよう応援を頼んだが、兵共は己が国々の私戦を捨てかねて、大将に従わなかった。|| |~|~|赤松は山名と戦うにも勢少なく、中国の大将細川頼之に備前、備中、備後の兵を集めるよう応援を頼んだが、兵共は己が国々の私戦を捨てかねて、大将に従わなかった。||
-|~|11月4日|倉懸の城は兵粮がつき、後攻めの頼みもなく、ついに落ちた。山名は山陰道四箇所をあわせ持つこととなった。|『太平記』巻36、②『家譜』P65?68[[*55>#nen055]]|+|~|11月4日|倉懸の城は兵粮がつき、後攻めの頼みもなく、ついに落ちた。山名は山陰道四箇所をあわせ持つこととなった。|『太平記』巻36&br;[[②『家譜』P65~68>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000065]]&br;[[*55>#nen055]]|
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|~|~|一方へは、師義(師氏)を大将とし二千余騎、備前、備中|『太平記』巻38[[*57>#nen057]]| |~|~|一方へは、師義(師氏)を大将とし二千余騎、備前、備中|『太平記』巻38[[*57>#nen057]]|
|~|~|両国へ発行す。一勢は備前仁萬堀に陣をとりて、敵を待つ。其国の守護の勢、松田・河村・福林寺・浦上等、皆無勢なれば、城に楯籠る。|| |~|~|両国へ発行す。一勢は備前仁萬堀に陣をとりて、敵を待つ。其国の守護の勢、松田・河村・福林寺・浦上等、皆無勢なれば、城に楯籠る。||
-|~|正平17年|一勢は、多治目備中守[[*58>#nen058]]、猶崎を侍大将として千余騎、|②家譜P69[[*61>#nen061]]|+|~|正平17年|一勢は、多治目備中守[[*58>#nen058]]、猶崎を侍大将として千余騎、|[[②家譜P69>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000069]] [[*61>#nen061]]|
|~|~|備中の新見へ打出たる。|| |~|~|備中の新見へ打出たる。||
|~|~|秋庭三郎[[*59>#nen059]]、水も兵粮も沢山なる松山の城へ多治目、猶崎を引入れしかば、当国の守護越後守師秀[[*60>#nen060]]、備前の徳倉の城へ引退く。備前、備中の国人の大半は、時氏に降参せり。|| |~|~|秋庭三郎[[*59>#nen059]]、水も兵粮も沢山なる松山の城へ多治目、猶崎を引入れしかば、当国の守護越後守師秀[[*60>#nen060]]、備前の徳倉の城へ引退く。備前、備中の国人の大半は、時氏に降参せり。||
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|~|~|但馬国へは山名師義・氏冬・小林重長を侍大将にて二|『太平記』巻38| |~|~|但馬国へは山名師義・氏冬・小林重長を侍大将にて二|『太平記』巻38|
|~|~|千余騎、大山を経て播磨へ出ようとしたが、但馬国守護仁木頼勝等将軍方が楯籠る城が未だ落ちず、但馬の宮方の住人は我国をさしおいて、他国へ越えられないので、しかたなく小林の勢だけで、播磨へ出ようとしたが、赤松直頼が大山に城を構えて通路を塞いだので、小林は丹波へ出て、和久郷に陣を取った。|| |~|~|千余騎、大山を経て播磨へ出ようとしたが、但馬国守護仁木頼勝等将軍方が楯籠る城が未だ落ちず、但馬の宮方の住人は我国をさしおいて、他国へ越えられないので、しかたなく小林の勢だけで、播磨へ出ようとしたが、赤松直頼が大山に城を構えて通路を塞いだので、小林は丹波へ出て、和久郷に陣を取った。||
-|~|~|丹波の守護仁木義尹が待ちかまえていて、また将軍の|②家譜P69?70|+|~|~|丹波の守護仁木義尹が待ちかまえていて、また将軍の|[[②家譜P69~70>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000069]]|
|~|~|命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。|| |~|~|命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。||
|~|~|山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。|| |~|~|山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。||
-|1363|正平18年4月18日&br;貞治2年|山名時氏父子伯耆を発し京都に向い、京都につく。同28日に将軍義詮公に拝謁し、則但馬、因幡、伯耆、丹波、美作の五ヶ国を賜り出雲丹後の守護職となる。|『太平記』巻39、②『家譜』P72[[*64>#nen064]]|+|1363|正平18年4月18日&br;貞治2年|山名時氏父子伯耆を発し京都に向い、京都につく。同28日に将軍義詮公に拝謁し、則但馬、因幡、伯耆、丹波、美作の五ヶ国を賜り出雲丹後の守護職となる。|『太平記』巻39、[[②『家譜』P72>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000072]] [[*64>#nen064]]|
|1366|正平21年|当時は神主=坊主であった。時氏は山名郷でのその任命権を持っていた。|| |1366|正平21年|当時は神主=坊主であった。時氏は山名郷でのその任命権を持っていた。||
|1367|正平22年3月29日&br;貞治6年|中殿の御会にあたり、山名氏清は将軍義詮(よしあき)の帯剣の役として従った。時氏は幕府の引付衆となる。|『太平記』巻40| |1367|正平22年3月29日&br;貞治6年|中殿の御会にあたり、山名氏清は将軍義詮(よしあき)の帯剣の役として従った。時氏は幕府の引付衆となる。|『太平記』巻40|
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|~|8月28日|日吉神社神輿入洛の風聞。朝廷延暦寺の訴訟を裁許せんとするが、武家執事等は拒む。山名時氏、赤松則祐、佐々木氏頼等は裁断有べきの旨意見するが、幕府は遵行を拒む。|『後愚昧記』| |~|8月28日|日吉神社神輿入洛の風聞。朝廷延暦寺の訴訟を裁許せんとするが、武家執事等は拒む。山名時氏、赤松則祐、佐々木氏頼等は裁断有べきの旨意見するが、幕府は遵行を拒む。|『後愚昧記』|
|~|8月29日|衆徒神輿を奉じ西坂本に降る。諸将の警固。山名時氏、子息等其勢千余騎、多々須河原に陣す。|『後愚昧記』| |~|8月29日|衆徒神輿を奉じ西坂本に降る。諸将の警固。山名時氏、子息等其勢千余騎、多々須河原に陣す。|『後愚昧記』|
-|~|(月日不詳)|将軍義満、評定衆を定めらる。山名時氏、仁木義長、今川貞世、佐々木氏頼、赤松義則の五人なり。|②家譜P72|+|~|(月日不詳)|将軍義満、評定衆を定めらる。山名時氏、仁木義長、今川貞世、佐々木氏頼、赤松義則の五人なり。|[[②家譜P72>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000072]]|
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-*正平24年(1369)?天授2年(1376) [#m13cb357]+*正平24年(1369)~天授2年(1376) [#m13cb357]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1369|正平24年正月22日&br;応安2年|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』| |1369|正平24年正月22日&br;応安2年|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』|
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|1370|建徳元年正月5日&br;応安3年|山名時氏の3男氏冬が死去。|『鳥取県史』巻2P226| |1370|建徳元年正月5日&br;応安3年|山名時氏の3男氏冬が死去。|『鳥取県史』巻2P226|
|~|正月18日|御評定始。日次事。十日依山名氏冬去五日事御斟酌|『花営三代記』| |~|正月18日|御評定始。日次事。十日依山名氏冬去五日事御斟酌|『花営三代記』|
-|~|4月|将軍義満、細川頼之をして河内、和泉に向わしむ。|②家譜P72|+|~|4月|将軍義満、細川頼之をして河内、和泉に向わしむ。|[[②家譜P72>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000072]]|
|~|~|山名時氏、父子もこれに従い、4月8日京都を発し15日に河内国に着く。|| |~|~|山名時氏、父子もこれに従い、4月8日京都を発し15日に河内国に着く。||
|~|~|時氏父子、今川泰範は一万五千騎で千剱破城に向い、龍泉寺、観音寺両所に陣して戦う。始め時氏父子は観音寺中院に陣し、その後退いて龍泉寺山に陣し城に向いて陣取らる。|| |~|~|時氏父子、今川泰範は一万五千騎で千剱破城に向い、龍泉寺、観音寺両所に陣して戦う。始め時氏父子は観音寺中院に陣し、その後退いて龍泉寺山に陣し城に向いて陣取らる。||
|~|~|11月細川頼之諸将と計りて、時氏をして和泉、河内の内に放火し、氏清をして敵の兵粮の道を指塞ぎ、其のついえに乗じて攻んと約して、氏清を止めて、同22日に諸勢京都に帰陣あり。|| |~|~|11月細川頼之諸将と計りて、時氏をして和泉、河内の内に放火し、氏清をして敵の兵粮の道を指塞ぎ、其のついえに乗じて攻んと約して、氏清を止めて、同22日に諸勢京都に帰陣あり。||
|~|6月18日|一方内談始行。山名義理。|『花営三代記』| |~|6月18日|一方内談始行。山名義理。|『花営三代記』|
-|~|12月|山名時氏老年に及ぶにより、領国但馬、因幡、伯耆、美作、|②家譜P74|+|~|12月|山名時氏老年に及ぶにより、領国但馬、因幡、伯耆、美作、|[[②家譜P74>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000074]]|
|~|~|丹波、丹後、紀伊、和泉、備後、隠岐、出雲十一カ国を家嫡に譲り与え隠居すべきのよしを乞わる。[[*67>#nen067]]|| |~|~|丹波、丹後、紀伊、和泉、備後、隠岐、出雲十一カ国を家嫡に譲り与え隠居すべきのよしを乞わる。[[*67>#nen067]]||
|~|~|将軍家許容あり、よりて十一カ国を以って子息に分ち与えらる。世に時氏公を称して六分の一殿と言う。|| |~|~|将軍家許容あり、よりて十一カ国を以って子息に分ち与えらる。世に時氏公を称して六分の一殿と言う。||
-|1371|建徳2年2月28日&br;応安4年|山名時氏死去。行年69歳|②家譜P75[[*68>#nen068]]|+|1371|建徳2年2月28日&br;応安4年|山名時氏死去。行年69歳|[[②家譜P75>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000075]] [[*68>#nen068]]|
|~|建徳2年6月22日|南方渡河事。一方上瀬。放手渡。|『花営三代記』| |~|建徳2年6月22日|南方渡河事。一方上瀬。放手渡。|『花営三代記』|
|~|~|細川頼元、山名義理、氏清、楠木正儀。|| |~|~|細川頼元、山名義理、氏清、楠木正儀。||
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|~|2月11日|山名義理等、石垣城を陥いる。|『後鑑』[[*72>#nen072]]| |~|2月11日|山名義理等、石垣城を陥いる。|『後鑑』[[*72>#nen072]]|
|~|7月25日|右大将家御拝賀。先陣山名民部少輔(干時侍所、随兵百余騎)[[*73>#nen073]]|『後鑑』| |~|7月25日|右大将家御拝賀。先陣山名民部少輔(干時侍所、随兵百余騎)[[*73>#nen073]]|『後鑑』|
-|~|8月日不明|山名時義、備後国を賜る。|②家譜P78|+|~|8月日不明|山名時義、備後国を賜る。|[[②家譜P78>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000078]]|
|~|12月3日|山名讃岐守(義幸)、中国援兵(時義)の為進発。|『後鑑』[[*74>#nen074]]| |~|12月3日|山名讃岐守(義幸)、中国援兵(時義)の為進発。|『後鑑』[[*74>#nen074]]|
|~|12月7日|貢馬引次第。二番山名左京大夫跡。|『花営三代記』| |~|12月7日|貢馬引次第。二番山名左京大夫跡。|『花営三代記』|
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|~|3月26日|義満帰洛。|『後鑑』(厳島詣記)| |~|3月26日|義満帰洛。|『後鑑』(厳島詣記)|
|~|3月27日|徒歩より帰路せし人、山名満幸等。|『後鑑』(厳島詣記)| |~|3月27日|徒歩より帰路せし人、山名満幸等。|『後鑑』(厳島詣記)|
-|~|5月9日|山名時義、但馬国において卒去(44歳)。|②家譜P79[[*78>#nen078]]|+|~|5月9日|山名時義、但馬国において卒去(44歳)。|[[②家譜P79>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000079]][[*78>#nen078]]|
|~|~|竹野の圓通寺に葬る。(『後鑑』では5月4日となっている。)|| |~|~|竹野の圓通寺に葬る。(『後鑑』では5月4日となっている。)||
|~|5月頃|山名伊豆守(義熈)、備後国の守護となる。[[*79>#nen077]]|| |~|5月頃|山名伊豆守(義熈)、備後国の守護となる。[[*79>#nen077]]||
-|~|8月某日|義満、山名時熈、氏之に上洛すべき旨を命ず。兄弟共に病の由にて上洛せず。|②家譜P80|+|~|8月某日|義満、山名時熈、氏之に上洛すべき旨を命ず。兄弟共に病の由にて上洛せず。|[[②家譜P80>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000080]]|
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*元中7年(1390)~元中8年(1391)11月 [#t9da1644] *元中7年(1390)~元中8年(1391)11月 [#t9da1644]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
-|1390|元中7年2月某日&br;康応2年|義満、山名氏清、満幸に時熈兄弟を討つべき旨を命ず。|②家譜P82[[*80>#nen080]]| +|1390|元中7年2月某日&br;康応2年|義満、山名氏清、満幸に時熈兄弟を討つべき旨を命ず。|[[②家譜P82>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000082]] [[*80>#nen080]]| 
-|~|3月14日|山名時熈、但馬国圓通寺にに竹野郷内曽木谷を寄進。|②家譜P81[[*81>#nen081]]| +|~|3月14日|山名時熈、但馬国圓通寺にに竹野郷内曽木谷を寄進。|[[②家譜P81>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000081]] [[*81>#nen081]]| 
-|1390|元中7年3月17日&br;康応2年|氏清、満幸、軍勢を率いて但馬国に発行す。|②家譜P82[[*82>#nen082]]|+|1390|元中7年3月17日&br;康応2年|氏清、満幸、軍勢を率いて但馬国に発行す。|[[②家譜P82>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000082]] [[*82>#nen082]]|
|~|3月18日|細川頼之、備後国の守護となる。|『後鑑』[[*83>#nen083]]| |~|3月18日|細川頼之、備後国の守護となる。|『後鑑』[[*83>#nen083]]|
|~|明徳元年9月17日&br;(3月26日改元)|山名氏清、但馬国一宮出石神神社に禁制を下す。|「出石神社文書」(④氏清年譜)| |~|明徳元年9月17日&br;(3月26日改元)|山名氏清、但馬国一宮出石神神社に禁制を下す。|「出石神社文書」(④氏清年譜)|
-|1391|元中8年8月某日&br;明徳2年|山名時熈兄弟潜かに京に上り、東山の辺或は清水寺の辺に隠れて罪なき旨を将軍家に訴う。|②家譜P83|+|1391|元中8年8月某日&br;明徳2年|山名時熈兄弟潜かに京に上り、東山の辺或は清水寺の辺に隠れて罪なき旨を将軍家に訴う。|[[②家譜P83>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000083]]|
|~|10月10日|山名氏清、和泉より淀まで登りし時、満幸京より淀へ馳下り、時熈兄弟の赦免の儀につき話す。|『明徳記』| |~|10月10日|山名氏清、和泉より淀まで登りし時、満幸京より淀へ馳下り、時熈兄弟の赦免の儀につき話す。|『明徳記』|
|~|10月11日|山名氏清、宇治にて義満を迎え紅葉の遊覧を約していたが、氏清病と称して参らず、義満不興至極して還御。|『明徳記』| |~|10月11日|山名氏清、宇治にて義満を迎え紅葉の遊覧を約していたが、氏清病と称して参らず、義満不興至極して還御。|『明徳記』|


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