22: 2015-01-07 (水) 22:45:30 admin |
現: 2022-12-11 (日) 16:12:44 admin |
| |~|5月11日|八幡の軍勢、力尽き、後村上天皇、囲みを衝いて東條に逃れる。|『太平記』巻31| | | |~|5月11日|八幡の軍勢、力尽き、後村上天皇、囲みを衝いて東條に逃れる。|『太平記』巻31| |
| |~|8月26日|山名師氏(師義)、八幡の軍功として、若狭国税所今富庄の知行を佐々木道誉に属して申達せんとすが、道誉の無礼を怒り、伯耆をさして下る。|『太平記』巻32| | | |~|8月26日|山名師氏(師義)、八幡の軍功として、若狭国税所今富庄の知行を佐々木道誉に属して申達せんとすが、道誉の無礼を怒り、伯耆をさして下る。|『太平記』巻32| |
- | |~|~|山名師氏(師義)、父時氏(当時53歳)は足利直義と共に南朝方となり、出雲、伯耆、隠岐因幡、四カ国を征服し、南朝の諸軍と相応じて京都に進撃せんとす。|『太平記』巻32、②『家譜』P56[[*43>#nen043]]| | + | |~|~|山名師氏(師義)、父時氏(当時53歳)は足利直義と共に南朝方となり、出雲、伯耆、隠岐因幡、四カ国を征服し、南朝の諸軍と相応じて京都に進撃せんとす。|『太平記』巻32、[[②『家譜』P56>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000056]] [[*43>#nen043]]| |
| |~|~|つまり、時氏は血気盛んな息子たちに引っ張られ幕府と袂を分かった。このことで丹波守・若狭守を取り上げられる事となった。|| | | |~|~|つまり、時氏は血気盛んな息子たちに引っ張られ幕府と袂を分かった。このことで丹波守・若狭守を取り上げられる事となった。|| |
| |~|9月27日|文和と改元。|| | | |~|9月27日|文和と改元。|| |
- | |1353|正平8年5月7日&br;文和2年|山名時氏、師氏(師義)、伯耆を立ちて、但馬、丹後の兵を集めて上洛。|『太平記』巻32、②『家譜』P59| | + | |1353|正平8年5月7日&br;文和2年|山名時氏、師氏(師義)、伯耆を立ちて、但馬、丹後の兵を集めて上洛。|『太平記』巻32、[[②『家譜』P59>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000059]]| |
| |~|~|南方より、四條大納言隆俊を惣大将として3000余騎上洛。[[*44>#nen044]]|| | | |~|~|南方より、四條大納言隆俊を惣大将として3000余騎上洛。[[*44>#nen044]]|| |
| |~|6月9日|南朝の官軍3000余騎、八條、九條の在家に火をかけ、山陰道の寄手、山名師氏(師義)等5000騎は梅津、桂、嵯峨、仁和寺、西七條に火をかけて、京中に追寄せる。山名が執事小林右京亮、佐々木が勢に打勝ち、山名師氏(師義)は土岐が勢に打勝つ。吉良、石堂、原、蜂屋、宇都宮民部少輔、海東、和田、楠は細川清氏に打勝つ。|| | | |~|6月9日|南朝の官軍3000余騎、八條、九條の在家に火をかけ、山陰道の寄手、山名師氏(師義)等5000騎は梅津、桂、嵯峨、仁和寺、西七條に火をかけて、京中に追寄せる。山名が執事小林右京亮、佐々木が勢に打勝ち、山名師氏(師義)は土岐が勢に打勝つ。吉良、石堂、原、蜂屋、宇都宮民部少輔、海東、和田、楠は細川清氏に打勝つ。|| |
| |~|~|義詮の軍勢大敗し、義詮、東坂本に逃れる。|『太平記』巻32、②家譜P60| | | |~|~|義詮の軍勢大敗し、義詮、東坂本に逃れる。|『太平記』巻32、②家譜P60| |
- | |~|6月12日|高師詮(師直の子)、西山の善峰に陣し、山名の兵これを攻め、師詮は破れ、自害す。|『太平記』巻32、②『家譜』P60[[*45>#nen045]]| | + | |~|6月12日|高師詮(師直の子)、西山の善峰に陣し、山名の兵これを攻め、師詮は破れ、自害す。|『太平記』巻32、[[②『家譜』P60>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000060]] [[*45>#nen045]]| |
| |~|6月13日|義詮、後光厳天皇を奉じて、東近江を経て、美濃の垂井に宿る。|『太平記』巻32、②『家譜』P61| | | |~|6月13日|義詮、後光厳天皇を奉じて、東近江を経て、美濃の垂井に宿る。|『太平記』巻32、②『家譜』P61| |
- | |~|7月23日|山名時氏、師氏(師義)、京都に留まるを得ず。伯耆国に下る。|太平記』巻32、②家譜P61[[*46>#nen046]]| | + | |~|7月23日|山名時氏、師氏(師義)、京都に留まるを得ず。伯耆国に下る。|太平記』巻32、[[②家譜P61>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000061]] [[*46>#nen046]]| |
| |~|7月29日|尊氏、鎌倉を発し、9月21日光厳天皇とともに上洛。|『太平記』巻32頭注(鶴岡社務記録)| | | |~|7月29日|尊氏、鎌倉を発し、9月21日光厳天皇とともに上洛。|『太平記』巻32頭注(鶴岡社務記録)| |
| |~|9月|直冬、南朝から綸旨を賜わり、総追捕使に任ぜらる。|『太平記』巻32頭注(園太暦)[[*47>#nen047]]| | | |~|9月|直冬、南朝から綸旨を賜わり、総追捕使に任ぜらる。|『太平記』巻32頭注(園太暦)[[*47>#nen047]]| |
| |~|12月13日|山名時氏、師氏(師義)直冬を大将として伯耆を発す。|『太平記』巻32[[*48>#nen048]]| | | |~|12月13日|山名時氏、師氏(師義)直冬を大将として伯耆を発す。|『太平記』巻32[[*48>#nen048]]| |
| |~| |丹波国の守護仁木頼章は一戦も交えず山名勢を通過させる。|『太平記』巻32| | | |~| |丹波国の守護仁木頼章は一戦も交えず山名勢を通過させる。|『太平記』巻32| |
- | |~|12月24日|兵力の大半を播磨の義詮に送った尊氏は、江州武作寺へ落ちる。|『太平記』巻32、②『家譜』P62[[*49>#nen049]]| | + | |~|12月24日|兵力の大半を播磨の義詮に送った尊氏は、江州武作寺へ落ちる。|『太平記』巻32、[[②『家譜』P62>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000062]] [[*49>#nen049]]| |
| |1355|正平10年正月16日&br;文和4年|桃井直常、直信、斯波氏頼入洛。|『太平記』巻32[[*50>#nen050]]| | | |1355|正平10年正月16日&br;文和4年|桃井直常、直信、斯波氏頼入洛。|『太平記』巻32[[*50>#nen050]]| |
| |~|正月22日|直冬、山名、石堂入洛。|『太平記』巻32[[*51>#nen051]]| | | |~|正月22日|直冬、山名、石堂入洛。|『太平記』巻32[[*51>#nen051]]| |
| |~|~|山名師義は勝れたる兵八百騎を卒して、遊軍としてひかえる。阿保信禅が山名方に変わり、但馬国へ馳せ越え、長九郎左衛門と一緒に播磨へ打て入らんと企てるので、赤松は法花山に城郭を構え、大山越の道を塞いで、五箇所へ勢を差向けた。|| | | |~|~|山名師義は勝れたる兵八百騎を卒して、遊軍としてひかえる。阿保信禅が山名方に変わり、但馬国へ馳せ越え、長九郎左衛門と一緒に播磨へ打て入らんと企てるので、赤松は法花山に城郭を構え、大山越の道を塞いで、五箇所へ勢を差向けた。|| |
| |~|~|赤松は山名と戦うにも勢少なく、中国の大将細川頼之に備前、備中、備後の兵を集めるよう応援を頼んだが、兵共は己が国々の私戦を捨てかねて、大将に従わなかった。|| | | |~|~|赤松は山名と戦うにも勢少なく、中国の大将細川頼之に備前、備中、備後の兵を集めるよう応援を頼んだが、兵共は己が国々の私戦を捨てかねて、大将に従わなかった。|| |
- | |~|11月4日|倉懸の城は兵粮がつき、後攻めの頼みもなく、ついに落ちた。山名は山陰道四箇所をあわせ持つこととなった。|『太平記』巻36、②『家譜』P65?68[[*55>#nen055]]| | + | |~|11月4日|倉懸の城は兵粮がつき、後攻めの頼みもなく、ついに落ちた。山名は山陰道四箇所をあわせ持つこととなった。|『太平記』巻36&br;[[②『家譜』P65~68>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000065]]&br;[[*55>#nen055]]| |
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- | *正平17年(1362)?正平23年(1368) [#g6238961] | + | *正平17年(1362)~正平23年(1368) [#g6238961] |
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| |1362|正平17年6月3日&br;康安2年|山名時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々に勢を分つ。|『太平記』巻38[[*56>#nen056]]| | | |1362|正平17年6月3日&br;康安2年|山名時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々に勢を分つ。|『太平記』巻38[[*56>#nen056]]| |
- | |~|~|一方へは、師義(師氏)を大将とし二千余騎、備前、備中|『太平記』巻38[[*57>#nen057]]| | + | |~|~|一方へは、師義(師氏)を大将とし二千余騎、備前、備中両国へ発行す。一勢は備前仁萬堀に陣をとりて、敵を待つ。其国の守護の勢、松田・河村・福林寺・浦上等、皆無勢なれば、城に楯籠る。|『太平記』巻38[[*57>#nen057]]| |
- | |~|~|両国へ発行す。一勢は備前仁萬堀に陣をとりて、敵を待つ。其国の守護の勢、松田・河村・福林寺・浦上等、皆無勢なれば、城に楯籠る。|| | + | |~|正平17年|一勢は、多治目備中守[[*58>#nen058]]、猶崎を侍大将として千余騎、備中の新見へ打出たる。|[[②家譜P69>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000069]] [[*61>#nen061]]| |
- | |~|正平17年|一勢は、多治目備中守[[*58>#nen058]]、猶崎を侍大将として千余騎、|②家譜P69[[*61>#nen061]]| | + | |
- | |~|~|備中の新見へ打出たる。|| | + | |
| |~|~|秋庭三郎[[*59>#nen059]]、水も兵粮も沢山なる松山の城へ多治目、猶崎を引入れしかば、当国の守護越後守師秀[[*60>#nen060]]、備前の徳倉の城へ引退く。備前、備中の国人の大半は、時氏に降参せり。|| | | |~|~|秋庭三郎[[*59>#nen059]]、水も兵粮も沢山なる松山の城へ多治目、猶崎を引入れしかば、当国の守護越後守師秀[[*60>#nen060]]、備前の徳倉の城へ引退く。備前、備中の国人の大半は、時氏に降参せり。|| |
- | |~|~|備後へは富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞、八百騎[[*62>#nen062]]に|『太平記』巻38[[*63>#nen063]]| | + | |~|~|備後へは富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞、八百騎[[*62>#nen062]]にて出雲国より国中へ打出たるに、江田、廣澤、三吉の一族馳著きける間、程無く二千余騎に成りにけり。|『太平記』巻38[[*63>#nen063]]| |
- | |~|~|て出雲国より国中へ打出たるに、江田、廣澤、三吉の一族馳著きける間、程無く二千余騎に成りにけり。|| | + | |
| |~|~|宮下野入道の城を攻めんとする時、石見国より足利直冬五百騎にて富田に力を合わせ戦はんとする。直冬、富田とともに宮下野入道に打ち負ける。|| | | |~|~|宮下野入道の城を攻めんとする時、石見国より足利直冬五百騎にて富田に力を合わせ戦はんとする。直冬、富田とともに宮下野入道に打ち負ける。|| |
- | |~|~|但馬国へは山名師義・氏冬・小林重長を侍大将にて二|『太平記』巻38| | + | |~|~|但馬国へは山名師義・氏冬・小林重長を侍大将にて二千余騎、大山を経て播磨へ出ようとしたが、但馬国守護仁木頼勝等将軍方が楯籠る城が未だ落ちず、但馬の宮方の住人は我国をさしおいて、他国へ越えられないので、しかたなく小林の勢だけで、播磨へ出ようとしたが、赤松直頼が大山に城を構えて通路を塞いだので、小林は丹波へ出て、和久郷に陣を取った。|『太平記』巻38| |
- | |~|~|千余騎、大山を経て播磨へ出ようとしたが、但馬国守護仁木頼勝等将軍方が楯籠る城が未だ落ちず、但馬の宮方の住人は我国をさしおいて、他国へ越えられないので、しかたなく小林の勢だけで、播磨へ出ようとしたが、赤松直頼が大山に城を構えて通路を塞いだので、小林は丹波へ出て、和久郷に陣を取った。|| | + | |~|~|丹波の守護仁木義尹が待ちかまえていて、また将軍の命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。|[[②家譜P69~70>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000069]]| |
- | |~|~|丹波の守護仁木義尹が待ちかまえていて、また将軍の|②家譜P69?70| | + | |
- | |~|~|命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。|| | + | |
| |~|~|山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。|| | | |~|~|山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。|| |
- | |1363|正平18年4月18日&br;貞治2年|山名時氏父子伯耆を発し京都に向い、京都につく。同28日に将軍義詮公に拝謁し、則但馬、因幡、伯耆、丹波、美作の五ヶ国を賜り出雲丹後の守護職となる。|『太平記』巻39、②『家譜』P72[[*64>#nen064]]| | + | |1363|正平18年4月18日&br;貞治2年|山名時氏父子伯耆を発し京都に向い、京都につく。同28日に将軍義詮公に拝謁し、則但馬、因幡、伯耆、丹波、美作の五ヶ国を賜り出雲丹後の守護職となる。|『太平記』巻39、[[②『家譜』P72>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000072]] [[*64>#nen064]]| |
| |1366|正平21年|当時は神主=坊主であった。時氏は山名郷でのその任命権を持っていた。|| | | |1366|正平21年|当時は神主=坊主であった。時氏は山名郷でのその任命権を持っていた。|| |
| |1367|正平22年3月29日&br;貞治6年|中殿の御会にあたり、山名氏清は将軍義詮(よしあき)の帯剣の役として従った。時氏は幕府の引付衆となる。|『太平記』巻40| | | |1367|正平22年3月29日&br;貞治6年|中殿の御会にあたり、山名氏清は将軍義詮(よしあき)の帯剣の役として従った。時氏は幕府の引付衆となる。|『太平記』巻40| |
| |~|8月28日|日吉神社神輿入洛の風聞。朝廷延暦寺の訴訟を裁許せんとするが、武家執事等は拒む。山名時氏、赤松則祐、佐々木氏頼等は裁断有べきの旨意見するが、幕府は遵行を拒む。|『後愚昧記』| | | |~|8月28日|日吉神社神輿入洛の風聞。朝廷延暦寺の訴訟を裁許せんとするが、武家執事等は拒む。山名時氏、赤松則祐、佐々木氏頼等は裁断有べきの旨意見するが、幕府は遵行を拒む。|『後愚昧記』| |
| |~|8月29日|衆徒神輿を奉じ西坂本に降る。諸将の警固。山名時氏、子息等其勢千余騎、多々須河原に陣す。|『後愚昧記』| | | |~|8月29日|衆徒神輿を奉じ西坂本に降る。諸将の警固。山名時氏、子息等其勢千余騎、多々須河原に陣す。|『後愚昧記』| |
- | |~|(月日不詳)|将軍義満、評定衆を定めらる。山名時氏、仁木義長、今川貞世、佐々木氏頼、赤松義則の五人なり。|②家譜P72| | + | |~|(月日不詳)|将軍義満、評定衆を定めらる。山名時氏、仁木義長、今川貞世、佐々木氏頼、赤松義則の五人なり。|[[②家譜P72>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000072]]| |
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- | *正平24年(1369)?天授2年(1376) [#m13cb357] | + | *正平24年(1369)~天授2年(1376) [#m13cb357] |
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| |1369|正平24年正月22日&br;応安2年|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』| | | |1369|正平24年正月22日&br;応安2年|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』| |
| |1370|建徳元年正月5日&br;応安3年|山名時氏の3男氏冬が死去。|『鳥取県史』巻2P226| | | |1370|建徳元年正月5日&br;応安3年|山名時氏の3男氏冬が死去。|『鳥取県史』巻2P226| |
| |~|正月18日|御評定始。日次事。十日依山名氏冬去五日事御斟酌|『花営三代記』| | | |~|正月18日|御評定始。日次事。十日依山名氏冬去五日事御斟酌|『花営三代記』| |
- | |~|4月|将軍義満、細川頼之をして河内、和泉に向わしむ。|②家譜P72| | + | |~|4月|将軍義満、細川頼之をして河内、和泉に向わしむ。|[[②家譜P72>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000072]]| |
| |~|~|山名時氏、父子もこれに従い、4月8日京都を発し15日に河内国に着く。|| | | |~|~|山名時氏、父子もこれに従い、4月8日京都を発し15日に河内国に着く。|| |
| |~|~|時氏父子、今川泰範は一万五千騎で千剱破城に向い、龍泉寺、観音寺両所に陣して戦う。始め時氏父子は観音寺中院に陣し、その後退いて龍泉寺山に陣し城に向いて陣取らる。|| | | |~|~|時氏父子、今川泰範は一万五千騎で千剱破城に向い、龍泉寺、観音寺両所に陣して戦う。始め時氏父子は観音寺中院に陣し、その後退いて龍泉寺山に陣し城に向いて陣取らる。|| |
| |~|~|11月細川頼之諸将と計りて、時氏をして和泉、河内の内に放火し、氏清をして敵の兵粮の道を指塞ぎ、其のついえに乗じて攻んと約して、氏清を止めて、同22日に諸勢京都に帰陣あり。|| | | |~|~|11月細川頼之諸将と計りて、時氏をして和泉、河内の内に放火し、氏清をして敵の兵粮の道を指塞ぎ、其のついえに乗じて攻んと約して、氏清を止めて、同22日に諸勢京都に帰陣あり。|| |
| |~|6月18日|一方内談始行。山名義理。|『花営三代記』| | | |~|6月18日|一方内談始行。山名義理。|『花営三代記』| |
- | |~|12月|山名時氏老年に及ぶにより、領国但馬、因幡、伯耆、美作、|②家譜P74| | + | |~|12月|山名時氏老年に及ぶにより、領国但馬、因幡、伯耆、美作、|[[②家譜P74>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000074]]| |
| |~|~|丹波、丹後、紀伊、和泉、備後、隠岐、出雲十一カ国を家嫡に譲り与え隠居すべきのよしを乞わる。[[*67>#nen067]]|| | | |~|~|丹波、丹後、紀伊、和泉、備後、隠岐、出雲十一カ国を家嫡に譲り与え隠居すべきのよしを乞わる。[[*67>#nen067]]|| |
| |~|~|将軍家許容あり、よりて十一カ国を以って子息に分ち与えらる。世に時氏公を称して六分の一殿と言う。|| | | |~|~|将軍家許容あり、よりて十一カ国を以って子息に分ち与えらる。世に時氏公を称して六分の一殿と言う。|| |
- | |1371|建徳2年2月28日&br;応安4年|山名時氏死去。行年69歳|②家譜P75[[*68>#nen068]]| | + | |1371|建徳2年2月28日&br;応安4年|山名時氏死去。行年69歳|[[②家譜P75>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000075]] [[*68>#nen068]]| |
| |~|建徳2年6月22日|南方渡河事。一方上瀬。放手渡。|『花営三代記』| | | |~|建徳2年6月22日|南方渡河事。一方上瀬。放手渡。|『花営三代記』| |
| |~|~|細川頼元、山名義理、氏清、楠木正儀。|| | | |~|~|細川頼元、山名義理、氏清、楠木正儀。|| |
| |~|2月11日|山名義理等、石垣城を陥いる。|『後鑑』[[*72>#nen072]]| | | |~|2月11日|山名義理等、石垣城を陥いる。|『後鑑』[[*72>#nen072]]| |
| |~|7月25日|右大将家御拝賀。先陣山名民部少輔(干時侍所、随兵百余騎)[[*73>#nen073]]|『後鑑』| | | |~|7月25日|右大将家御拝賀。先陣山名民部少輔(干時侍所、随兵百余騎)[[*73>#nen073]]|『後鑑』| |
- | |~|8月日不明|山名時義、備後国を賜る。|②家譜P78| | + | |~|8月日不明|山名時義、備後国を賜る。|[[②家譜P78>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000078]]| |
| |~|12月3日|山名讃岐守(義幸)、中国援兵(時義)の為進発。|『後鑑』[[*74>#nen074]]| | | |~|12月3日|山名讃岐守(義幸)、中国援兵(時義)の為進発。|『後鑑』[[*74>#nen074]]| |
| |~|12月7日|貢馬引次第。二番山名左京大夫跡。|『花営三代記』| | | |~|12月7日|貢馬引次第。二番山名左京大夫跡。|『花営三代記』| |
| |~|3月26日|義満帰洛。|『後鑑』(厳島詣記)| | | |~|3月26日|義満帰洛。|『後鑑』(厳島詣記)| |
| |~|3月27日|徒歩より帰路せし人、山名満幸等。|『後鑑』(厳島詣記)| | | |~|3月27日|徒歩より帰路せし人、山名満幸等。|『後鑑』(厳島詣記)| |
- | |~|5月9日|山名時義、但馬国において卒去(44歳)。|②家譜P79[[*78>#nen078]]| | + | |~|5月9日|山名時義、但馬国において卒去(44歳)。|[[②家譜P79>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000079]][[*78>#nen078]]| |
| |~|~|竹野の圓通寺に葬る。(『後鑑』では5月4日となっている。)|| | | |~|~|竹野の圓通寺に葬る。(『後鑑』では5月4日となっている。)|| |
| |~|5月頃|山名伊豆守(義熈)、備後国の守護となる。[[*79>#nen077]]|| | | |~|5月頃|山名伊豆守(義熈)、備後国の守護となる。[[*79>#nen077]]|| |
- | |~|8月某日|義満、山名時熈、氏之に上洛すべき旨を命ず。兄弟共に病の由にて上洛せず。|②家譜P80| | + | |~|8月某日|義満、山名時熈、氏之に上洛すべき旨を命ず。兄弟共に病の由にて上洛せず。|[[②家譜P80>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000080]]| |
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| ** [#h85db167] | | ** [#h85db167] |
| *元中7年(1390)~元中8年(1391)11月 [#t9da1644] | | *元中7年(1390)~元中8年(1391)11月 [#t9da1644] |
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- | |1390|元中7年2月某日&br;康応2年|義満、山名氏清、満幸に時熈兄弟を討つべき旨を命ず。|②家譜P82[[*80>#nen080]]| | + | |1390|元中7年2月某日&br;康応2年|義満、山名氏清、満幸に時熈兄弟を討つべき旨を命ず。|[[②家譜P82>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000082]] [[*80>#nen080]]| |
- | |~|3月14日|山名時熈、但馬国圓通寺にに竹野郷内曽木谷を寄進。|②家譜P81[[*81>#nen081]]| | + | |~|3月14日|山名時熈、但馬国圓通寺にに竹野郷内曽木谷を寄進。|[[②家譜P81>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000081]] [[*81>#nen081]]| |
- | |1390|元中7年3月17日&br;康応2年|氏清、満幸、軍勢を率いて但馬国に発行す。|②家譜P82[[*82>#nen082]]| | + | |1390|元中7年3月17日&br;康応2年|氏清、満幸、軍勢を率いて但馬国に発行す。|[[②家譜P82>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000082]] [[*82>#nen082]]| |
| |~|3月18日|細川頼之、備後国の守護となる。|『後鑑』[[*83>#nen083]]| | | |~|3月18日|細川頼之、備後国の守護となる。|『後鑑』[[*83>#nen083]]| |
| |~|明徳元年9月17日&br;(3月26日改元)|山名氏清、但馬国一宮出石神神社に禁制を下す。|「出石神社文書」(④氏清年譜)| | | |~|明徳元年9月17日&br;(3月26日改元)|山名氏清、但馬国一宮出石神神社に禁制を下す。|「出石神社文書」(④氏清年譜)| |
- | |1391|元中8年8月某日&br;明徳2年|山名時熈兄弟潜かに京に上り、東山の辺或は清水寺の辺に隠れて罪なき旨を将軍家に訴う。|②家譜P83| | + | |1391|元中8年8月某日&br;明徳2年|山名時熈兄弟潜かに京に上り、東山の辺或は清水寺の辺に隠れて罪なき旨を将軍家に訴う。|[[②家譜P83>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000083]]| |
| |~|10月10日|山名氏清、和泉より淀まで登りし時、満幸京より淀へ馳下り、時熈兄弟の赦免の儀につき話す。|『明徳記』| | | |~|10月10日|山名氏清、和泉より淀まで登りし時、満幸京より淀へ馳下り、時熈兄弟の赦免の儀につき話す。|『明徳記』| |
| |~|10月11日|山名氏清、宇治にて義満を迎え紅葉の遊覧を約していたが、氏清病と称して参らず、義満不興至極して還御。|『明徳記』| | | |~|10月11日|山名氏清、宇治にて義満を迎え紅葉の遊覧を約していたが、氏清病と称して参らず、義満不興至極して還御。|『明徳記』| |
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| |1392|元中9年正月1日&br;明徳3年|義満、一色詮範亭より室町御所へ還る。|『明徳記』| | | |1392|元中9年正月1日&br;明徳3年|義満、一色詮範亭より室町御所へ還る。|『明徳記』| |
- | |~|正月4日|乱後の論功行賞がおこなわれる。[[*100>#nen100]]|『明徳記』| | + | |~|正月4日|乱後の論功行賞がおこなわれる。&br; 山城国(畠山基国)丹波国(細川頼元)&br; 丹後国(一色満範)美作国(赤松義則)&br; 和泉国・紀伊国(大内義弘)但馬国(山名時熈)&br; 伯耆国(山名氏幸)隠岐国・出雲国(佐々木高詮)&br; 一色詮範には、小国の守護より、大庄の思符にはしかずとて、若狭国在所稲積(今富)ノ庄を勲功の庄とす。[[*100>#nen100]]|『明徳記』| |
- | |~|正月4日|山城国(畠山基国)丹波国(細川頼元)&br;丹後国(一色満範)美作国(赤松義則)&br;和泉国・紀伊国(大内義弘)但馬国(山名時熈)&br;伯耆国(山名氏幸)隠岐国・出雲国(佐々木高詮)&br;一色詮範には、小国の守護より、大庄の思符にはしかずとて、若狭国在所稲積(今富)ノ庄を勲功の庄とす。|| | + | |
| |~|正月10日|細川頼元御教書を下し、山名追討の事出雲国須波部(諏訪)一族に令す。[[*101>#nen101]]|「諸家文書纂」(『後鑑』)、『明徳記』(日付の記載なし)| | | |~|正月10日|細川頼元御教書を下し、山名追討の事出雲国須波部(諏訪)一族に令す。[[*101>#nen101]]|「諸家文書纂」(『後鑑』)、『明徳記』(日付の記載なし)| |
| |~|2月13日|大内義弘、山名義理征伐のため出発。|『明徳記』[[*102>#nen102]]| | | |~|2月13日|大内義弘、山名義理征伐のため出発。|『明徳記』[[*102>#nen102]]| |
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- | *明徳4年(1393)?応永5年(1398) [#z24c897f] | + | *明徳4年(1393)~応永5年(1398) [#z24c897f] |
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| |1393|明徳4年2月5日|山名満幸・塩冶遠江入道、出雲国三刀屋代に押寄せ合戦。城主須和部菊松丸、満幸等を追い払う。|「諸家文書纂」(『後鑑』)| | | |1393|明徳4年2月5日|山名満幸・塩冶遠江入道、出雲国三刀屋代に押寄せ合戦。城主須和部菊松丸、満幸等を追い払う。|「諸家文書纂」(『後鑑』)| |
| |~|10月19日|泉州堺において犬追物あり。山名時熈(七匹)|「和泉、堺御犬追物日記」(『後鑑』)| | | |~|10月19日|泉州堺において犬追物あり。山名時熈(七匹)|「和泉、堺御犬追物日記」(『後鑑』)| |
| |~|10月21日|又、和泉堺において犬追物あり。この日、若君始めて鳥を射たまふ山名時熈(九匹)|「和泉、堺御犬追物日記」(『後鑑』)| | | |~|10月21日|又、和泉堺において犬追物あり。この日、若君始めて鳥を射たまふ山名時熈(九匹)|「和泉、堺御犬追物日記」(『後鑑』)| |
- | |1394|明徳5年4月19日|義満、但馬国圓通寺に寺領寄附。|②家譜| | + | |1394|明徳5年4月19日|義満、但馬国圓通寺に寺領寄附。|[[②家譜P93>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000093]]| |
| |~|(応永元年)| | | | | |~|(応永元年)| | | |
| |~|11月24日|山名満幸挙兵の報あり、この日赤松義則、之を討つため、美作に進発する。|「東寺百合文書」(⑤南北朝史』下)| | | |~|11月24日|山名満幸挙兵の報あり、この日赤松義則、之を討つため、美作に進発する。|「東寺百合文書」(⑤南北朝史』下)| |
| |~|3月20日|義満、山名満幸誅罸の賞として、出雲・隠岐両国守護職および闕所分を京極高詮にあてがう。[[*109>#nen109]]|「佐々木文書」(⑤南北朝史』下)| | | |~|3月20日|義満、山名満幸誅罸の賞として、出雲・隠岐両国守護職および闕所分を京極高詮にあてがう。[[*109>#nen109]]|「佐々木文書」(⑤南北朝史』下)| |
| |1398|応永5年|この年、義満、三職七頭を定む。|「南方紀傅」(『後鑑』)[[*110>#nen110]]| | | |1398|応永5年|この年、義満、三職七頭を定む。|「南方紀傅」(『後鑑』)[[*110>#nen110]]| |
- | |1399|応永6年9月21日|山名氏清の子息、宮田時清・宮田氏明、丹波に蟄居せしが、一揆を起こし、畑の城に籠る。[[*111>#nen111]]|②家譜P95| | + | |1399|応永6年9月21日|山名氏清の子息、宮田時清・宮田氏明、丹波に蟄居せしが、一揆を起こし、畑の城に籠る。[[*111>#nen111]]|[[②家譜P95>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000095]]| |
| |~|10月13日|大内義弘、兵を率い和泉堺浦に到る。[[*112>#nen112]]|『堺記』、『応永記』| | | |~|10月13日|大内義弘、兵を率い和泉堺浦に到る。[[*112>#nen112]]|『堺記』、『応永記』| |
| |~|10月27日|義満、絶海中津を使者として堺に派遣し、大内義弘の慰撫につとめるが、義弘は従わず。[[*113>#nen113]]|『堺記』、『応永記』| | | |~|10月27日|義満、絶海中津を使者として堺に派遣し、大内義弘の慰撫につとめるが、義弘は従わず。[[*113>#nen113]]|『堺記』、『応永記』| |
| |~|~|義満、各社寺に戦勝を祈願させる。|「柳原家記録」(①大日7-4)| | | |~|~|義満、各社寺に戦勝を祈願させる。|「柳原家記録」(①大日7-4)| |
- | |~|11月5日|山名時熈兄弟、宮田時清を討つため丹波に向う。将軍家より曽我平次左衛門尉祐明を添えらる。|②家譜P95[[*114>#nen114]]| | + | |~|11月5日|山名時熈兄弟、宮田時清を討つため丹波に向う。将軍家より曽我平次左衛門尉祐明を添えらる。|[[②家譜P95>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000095]][[*114>#nen114]]| |
| |~|11月8日|細川頼基、京極高詮、赤松義則、都合八千余騎にて、淀、山崎より、和泉国に発向す。|『堺記』[[*115>#nen115]]| | | |~|11月8日|細川頼基、京極高詮、赤松義則、都合八千余騎にて、淀、山崎より、和泉国に発向す。|『堺記』[[*115>#nen115]]| |
| |~|~|義満、東寺に陣す。御共の人々畠山基国、同満家、斯波義将、同義重、吉良、石塔、渋川、一色、土岐、今川、武田、小笠原、富樫、河野等都合三万余騎。|『堺記』、『応永記』| | | |~|~|義満、東寺に陣す。御共の人々畠山基国、同満家、斯波義将、同義重、吉良、石塔、渋川、一色、土岐、今川、武田、小笠原、富樫、河野等都合三万余騎。|『堺記』、『応永記』| |
| |~|11月14日|義満、八幡に陣し、其の日八幡より、管領、前管領を始として都合三万余騎、和泉国に発行す。|『堺記』、『応永記』| | | |~|11月14日|義満、八幡に陣し、其の日八幡より、管領、前管領を始として都合三万余騎、和泉国に発行す。|『堺記』、『応永記』| |
| |~|11月21日|足利満兼、幕府を援くと称して、武州府中へ発向す。[[*116>#nen116]]|『鎌倉大日記』| | | |~|11月21日|足利満兼、幕府を援くと称して、武州府中へ発向す。[[*116>#nen116]]|『鎌倉大日記』| |
- | |~|11月27日|山名時熈、丹波国から帰陣す。[[*117>#nen117]]|②家譜P96| | + | |~|11月27日|山名時熈、丹波国から帰陣す。[[*117>#nen117]]|[[②家譜P96>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000096]]| |
| |~|11月29日|幕府の兵、大内義弘の堺城を攻める。|『堺記』、『応永記』| | | |~|11月29日|幕府の兵、大内義弘の堺城を攻める。|『堺記』、『応永記』| |
| |~|~|山名右衛門佐入道(時熈)、同民部少輔をはじめとして一門五百騎、北の方三の木戸を攻め破らんと戦う。[[*118>#nen118]]|| | | |~|~|山名右衛門佐入道(時熈)、同民部少輔をはじめとして一門五百騎、北の方三の木戸を攻め破らんと戦う。[[*118>#nen118]]|| |
| |1404|応永11年4月24日|伯山名澄幸、同国束積の内津間分を同国大山寺権現燈明料所として、同寺に寄進す。|「集古文書」(①大日7-6)| | | |1404|応永11年4月24日|伯山名澄幸、同国束積の内津間分を同国大山寺権現燈明料所として、同寺に寄進す。|「集古文書」(①大日7-6)| |
| |~|4月26日|これより先、幕府、山名時熈に安芸国を御料国として預ける。是日時、小早川・・・竹原・・・弘景に知行支証の提出を明治、六月中の参洛を促す。|「小早川文書」、⑥常熈年譜| | | |~|4月26日|これより先、幕府、山名時熈に安芸国を御料国として預ける。是日時、小早川・・・竹原・・・弘景に知行支証の提出を明治、六月中の参洛を促す。|「小早川文書」、⑥常熈年譜| |
- | |~|5月19日|山名持豊(少名を小次郎)生まれる。父時熈、母師義の女|「②家譜」P99| | + | |~|5月19日|山名持豊(少名を小次郎)生まれる。父時熈、母師義の女|[[②家譜P99>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之五#p0000099]]| |
| |~|6月12日|南溟昌運、但馬楞厳寺常楽院寺規を定める。|「楞厳寺文書」(⑥常熈年譜)| | | |~|6月12日|南溟昌運、但馬楞厳寺常楽院寺規を定める。|「楞厳寺文書」(⑥常熈年譜)| |
| |~|6月26日|幕府、安芸守護代山名満氏(氏清の子)をして同国地頭家人等の当知行新本所の支証を8月5日限提出すべきことを令せしむ。|「福原家文書」(①大日7-6)| | | |~|6月26日|幕府、安芸守護代山名満氏(氏清の子)をして同国地頭家人等の当知行新本所の支証を8月5日限提出すべきことを令せしむ。|「福原家文書」(①大日7-6)| |
| |~|11月22日|山名常勝教清(義理の孫)、入澤土佐入道に令して、石見周布観心に同国周布郷地の地を安堵し、渡付する。|「萩藩閥閲録」(⑥常熈年譜)| | | |~|11月22日|山名常勝教清(義理の孫)、入澤土佐入道に令して、石見周布観心に同国周布郷地の地を安堵し、渡付する。|「萩藩閥閲録」(⑥常熈年譜)| |
| |1413|応永20年1月22日|足利義持、山名時熈邸に渡御|「満済准后日記」(⑥常熈年譜)| | | |1413|応永20年1月22日|足利義持、山名時熈邸に渡御|「満済准后日記」(⑥常熈年譜)| |
- | |~|是月|山名小次郎(時熈の子)、足利義持の御前にて元服。十歳、義持の一字を賜り、持豊と名づく。|②家譜P99| | + | |~|是月|山名小次郎(時熈の子)、足利義持の御前にて元服。十歳、義持の一字を賜り、持豊と名づく。|[[②家譜P99>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之五#p0000099]]| |
| |~|1月25日|足利義持、義嗣、青蓮院に詣でる。管領、山名八郎ら供奉する。|「教興卿記」(①大日7-17)| | | |~|1月25日|足利義持、義嗣、青蓮院に詣でる。管領、山名八郎ら供奉する。|「教興卿記」(①大日7-17)| |
| |~|3月8日|石見守護代入澤康明、幕府の旨を承け、同国益田秀兼をして、同国得屋郷四分方を安堵せしむ。|「益田文書」(①大日7-18)| | | |~|3月8日|石見守護代入澤康明、幕府の旨を承け、同国益田秀兼をして、同国得屋郷四分方を安堵せしむ。|「益田文書」(①大日7-18)| |