17: 2015-01-03 (土) 11:54:36 admin ソース 18: 2015-01-04 (日) 23:36:05 admin ソース
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*嘉祥3(850)〜 天慶3(940)[#t6c11f6e] *嘉祥3(850)〜 天慶3(940)[#t6c11f6e]
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|850|嘉祥3年3月25日|惟仁親王(清和天皇)誕生。文徳天皇の第4子。母藤原良房の女、明子。|『尊卑分脈』| |850|嘉祥3年3月25日|惟仁親王(清和天皇)誕生。文徳天皇の第4子。母藤原良房の女、明子。|『尊卑分脈』|
|858|天安2年11月7日|清和天皇が即位(9歳)[[*1>#nen001]]|『尊卑分脈』、[[②家譜P1>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p001]]| |858|天安2年11月7日|清和天皇が即位(9歳)[[*1>#nen001]]|『尊卑分脈』、[[②家譜P1>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p001]]|
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* 天慶3(940)〜康平6(1063)[#t85c67b0] * 天慶3(940)〜康平6(1063)[#t85c67b0]
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|940|天慶3年8月27日|藤原純友の追捕使として、小野好古を長官、経基王を次官とする。[[*6>#nen006]]|「扶桑略記」(①大日1-7)| |940|天慶3年8月27日|藤原純友の追捕使として、小野好古を長官、経基王を次官とする。[[*6>#nen006]]|「扶桑略記」(①大日1-7)|
-|~|8月|経基王が帰郷する。正四位下に叙せられ、太宰大弐に任ぜられる。| |+|~|8月|経基王が帰郷する。正四位下に叙せられ、太宰大弐に任ぜられる。||
|941|天慶4年6月20日|藤原純友、警固使橘遠保に討たれる。|「本朝世紀」(①大日1-7)| |941|天慶4年6月20日|藤原純友、警固使橘遠保に討たれる。|「本朝世紀」(①大日1-7)|
|~|9月6日|追捕使源経基、豊後国で海賊を破り、桑原生行を捕える。|「本朝世紀」(①大日1-7)| |~|9月6日|追捕使源経基、豊後国で海賊を破り、桑原生行を捕える。|「本朝世紀」(①大日1-7)|
-|961|天徳5年11月4日&br;(応和元年)|経基王が逝去。[[*7>#nen007]]| |+|961|天徳5年11月4日&br;(応和元年)|経基王が逝去。[[*7>#nen007]]||
|968|安和元年|源頼信が誕生。満仲の三男。母は大納言藤原元方の女。[[*8>#nen008]]|『国史大辞典』| |968|安和元年|源頼信が誕生。満仲の三男。母は大納言藤原元方の女。[[*8>#nen008]]|『国史大辞典』|
|969|安和2年3月25日|源満仲、橘敏延等謀反の由を密告し、同27日正五位下に叙せられる。[[*9>#nen009]]|『日本紀略』| |969|安和2年3月25日|源満仲、橘敏延等謀反の由を密告し、同27日正五位下に叙せられる。[[*9>#nen009]]|『日本紀略』|
|970|安和3年3月|源満仲が摂津守となる。|[[②家譜P6>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p006]][[*10>#nen010]]| |970|安和3年3月|源満仲が摂津守となる。|[[②家譜P6>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p006]][[*10>#nen010]]|
|~|3月15日|源満仲多田庄に住する。|②家譜P7| |~|3月15日|源満仲多田庄に住する。|②家譜P7|
-|~|(天禄元年)| | |+|~|(天禄元年)|||
|971|天禄2年|多田庄に一寺を建て鷹尾山法華三昧院(現在の多田院)と名付く。|[[②家譜P7>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p007]][[*11>#nen011]]| |971|天禄2年|多田庄に一寺を建て鷹尾山法華三昧院(現在の多田院)と名付く。|[[②家譜P7>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p007]][[*11>#nen011]]|
|986|寛和2年8月15日|源満仲が出家する。法名満慶。|[[②家譜P7>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p007]]、『尊卑分脈』| |986|寛和2年8月15日|源満仲が出家する。法名満慶。|[[②家譜P7>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p007]]、『尊卑分脈』|
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|~|8月25日|源頼義、伊予守に任ぜられ、正四位下に叙せられる。|| |~|8月25日|源頼義、伊予守に任ぜられ、正四位下に叙せられる。||
|~|(日不詳)|源義家、出羽守に任ぜられ、従五位下に叙せられる。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p011]]| |~|(日不詳)|源義家、出羽守に任ぜられ、従五位下に叙せられる。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p011]]|
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-*6、&aname(nen006);『山名家譜』P4では天慶3年6月に藤原純友の追討軍が編成され、源経基が副将軍として筑紫へ下され、不日に純友を謀伐して同8月に帰京、正四位に叙し、大宰大弐に任ぜらる。と記されている。 -*6、&aname(nen006);『山名家譜』P4では天慶3年6月に藤原純友の追討軍が編成され、源経基が副将軍として筑紫へ下され、不日に純友を謀伐して同8月に帰京、正四位に叙し、大宰大弐に任ぜらる。と記されている。
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-*7、&aname(nen007);『尊卑分脈』では天徳5年11月4日卒45歳となっている。『山名家譜』P5では天徳2年(958)11月24日となっている。 -*7、&aname(nen007);『尊卑分脈』では天徳5年11月4日卒45歳となっている。『山名家譜』P5では天徳2年(958)11月24日となっている。
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-*8、&aname(nen008);『山名家譜』P8では天延2年(974)9月5日誕生となっている。 -*8、&aname(nen008);『山名家譜』P8では天延2年(974)9月5日誕生となっている。
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-*9、&aname(nen009);『山名家譜』P7に元禄元年(970)3月源満仲が摂津守になる。また同年3月15日、多田庄に住し、翌年2年多田庄に一寺を楯、鷹尾山法華三昧院(現在の多田院)と名く。と記されている。 -*9、&aname(nen009);『山名家譜』P7に元禄元年(970)3月源満仲が摂津守になる。また同年3月15日、多田庄に住し、翌年2年多田庄に一寺を楯、鷹尾山法華三昧院(現在の多田院)と名く。と記されている。
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-*10、&aname(nen010);改元は3月25日だから、3月15日はまだ安和。 -*10、&aname(nen010);改元は3月25日だから、3月15日はまだ安和。
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-*11、&aname(nen011);『山名家譜』では天禄元年となっているが、改元は3月25日。 -*11、&aname(nen011);『山名家譜』では天禄元年となっているが、改元は3月25日。
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-*12、&aname(nen012);8月27日卒とあり。「系図纂要」 -*12、&aname(nen012);8月27日卒とあり。「系図纂要」
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-*13、&aname(nen013);1039(長暦3)生まれ。『国史大辞典』 -*13、&aname(nen013);1039(長暦3)生まれ。『国史大辞典』
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-*14、&aname(nen014);『国史大辞典』に永承3年81歳没となっている。 -*14、&aname(nen014);『国史大辞典』に永承3年81歳没となっている。
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-*15、&aname(nen015);1053年鎮守府将軍に。『国史大辞典』 -*15、&aname(nen015);1053年鎮守府将軍に。『国史大辞典』
*治暦元年(1065)~保元2年(1157) [#bda7f536] *治暦元年(1065)~保元2年(1157) [#bda7f536]
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|1065|治暦元年9月1日|源頼義が出家し、法名を信海と号す。世の人、入道将軍と称す。[[*16>#nen016]]|[[②家譜P12>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p012]]| |1065|治暦元年9月1日|源頼義が出家し、法名を信海と号す。世の人、入道将軍と称す。[[*16>#nen016]]|[[②家譜P12>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p012]]|
|1079|承暦3年8月8日|源義家が勅を蒙り美濃国、八島佐渡守源重宗、多田伊豆守源国房と青野が原で合戦。重宗国房を滅ぼす。|②家譜P13| |1079|承暦3年8月8日|源義家が勅を蒙り美濃国、八島佐渡守源重宗、多田伊豆守源国房と青野が原で合戦。重宗国房を滅ぼす。|②家譜P13|
|1081|永保元年6月|源義家が陸奥守に任ぜられ、鎮守府将軍に補せられて、奥州に下向する。途中、鎌倉で八幡宮を修復。|②家譜P13| |1081|永保元年6月|源義家が陸奥守に任ぜられ、鎮守府将軍に補せられて、奥州に下向する。途中、鎌倉で八幡宮を修復。|②家譜P13|
-|~|8月|源義家が奥州に居住。| |+|~|8月|源義家が奥州に居住。||
|~|~|清原武衡、家衡、清衡兄弟が確執し、義家が是を和睦させるが、家衡は従わず、出羽国沼の柵に楯籠る。|②家譜P14| |~|~|清原武衡、家衡、清衡兄弟が確執し、義家が是を和睦させるが、家衡は従わず、出羽国沼の柵に楯籠る。|②家譜P14|
|1082|永保2年11月3日|源頼義が死去。[[*17>#nen017]]|②家譜P12| |1082|永保2年11月3日|源頼義が死去。[[*17>#nen017]]|②家譜P12|
|1083|永保3年7月|源義国誕生。[[*18>#nen018]]|②家譜P17| |1083|永保3年7月|源義国誕生。[[*18>#nen018]]|②家譜P17|
|1086|応徳3年 春|源義家、国任終わるが、再任の宣旨を受けて奥州に在留。|②家譜P15| |1086|応徳3年 春|源義家、国任終わるが、再任の宣旨を受けて奥州に在留。|②家譜P15|
-|~|~|家衡、武衡と合戦。| |+|~|~|家衡、武衡と合戦。||
|1091|寛治5年11月|源義家、武衡、家衡一族を滅ぼす。|②家譜P15| |1091|寛治5年11月|源義家、武衡、家衡一族を滅ぼす。|②家譜P15|
|1092|寛治6年正月|源義国が元服。陸奥四郎と号す。|②家譜P17| |1092|寛治6年正月|源義国が元服。陸奥四郎と号す。|②家譜P17|
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|1157|保元2年3月8日|新田義重(義国の嫡男)、上野国新田郡を開発し、左衛門督藤原忠雅に寄進し、新田荘を立荘、同荘の下司となる。[[*22>#nen022]]|『山名氏の系譜と事暦』、③守護辞典下巻| |1157|保元2年3月8日|新田義重(義国の嫡男)、上野国新田郡を開発し、左衛門督藤原忠雅に寄進し、新田荘を立荘、同荘の下司となる。[[*22>#nen022]]|『山名氏の系譜と事暦』、③守護辞典下巻|
|~|~|新田義重の長男太郎三郎義範、上野国多胡郡山名郷を伝領する。新田山名氏。[[*23>#nen023]]|③守護辞典下巻| |~|~|新田義重の長男太郎三郎義範、上野国多胡郡山名郷を伝領する。新田山名氏。[[*23>#nen023]]|③守護辞典下巻|
-|~|~|新田義重の三男太郎義兼、新田一族の家督と新田荘内の大部分を受領。| | +|~|~|新田義重の三男太郎義兼、新田一族の家督と新田荘内の大部分を受領。|| 
-|~|~|新田義重の二男太郎義俊、多胡郡里見郷を受領、新田里見氏。| |+|~|~|新田義重の二男太郎義俊、多胡郡里見郷を受領、新田里見氏。||
-*16、&aname(nen016);承保2年(1075)剃髪して伊予入道と称する。『国史大辞典』 -*16、&aname(nen016);承保2年(1075)剃髪して伊予入道と称する。『国史大辞典』
-*17、&aname(nen017);『尊卑分脈』では永保2年10月12日卒88歳。『国史大辞典』に承保2(1075)10月12日没88歳とある。 -*17、&aname(nen017);『尊卑分脈』では永保2年10月12日卒88歳。『国史大辞典』に承保2(1075)10月12日没88歳とある。
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*治承4年(1180)~建久2年(1191) [#yf899c44] *治承4年(1180)~建久2年(1191) [#yf899c44]
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|1180|治承4年4月9日|以仁王、平氏追討の令旨を下す。|『吾妻鏡』巻1| |1180|治承4年4月9日|以仁王、平氏追討の令旨を下す。|『吾妻鏡』巻1|
|~|(月日不詳)|以仁王の綸旨。義重の許に到来し自ら平家を亡して功を立てんと計立て寺尾の城に楯籠る。|②家譜P20[[*24>#nen024]]| |~|(月日不詳)|以仁王の綸旨。義重の許に到来し自ら平家を亡して功を立てんと計立て寺尾の城に楯籠る。|②家譜P20[[*24>#nen024]]|
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|1184|寿永3年1月21日|木曽義仲敗死|『吾妻鏡』巻3| |1184|寿永3年1月21日|木曽義仲敗死|『吾妻鏡』巻3|
|~|2月5日|山名義範、一谷合戦に義経勢として参加し、摂津国に到る。|『吾妻鏡』巻3、②『家譜』P26| |~|2月5日|山名義範、一谷合戦に義経勢として参加し、摂津国に到る。|『吾妻鏡』巻3、②『家譜』P26|
-|~|2月7日|一ノ谷の合戦。|~|+|~|2月7日|一ノ谷の合戦。||
|1185|文治元年3月24日|壇ノ浦の合戦。山名義範所々の戦場において軍功あり。|②家譜P26| |1185|文治元年3月24日|壇ノ浦の合戦。山名義範所々の戦場において軍功あり。|②家譜P26|
|~|8月16日|渡辺神崎において勢揃いありて讃岐国八島に押寄て合戦。|②家譜P26| |~|8月16日|渡辺神崎において勢揃いありて讃岐国八島に押寄て合戦。|②家譜P26|
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*建久3年(1192)~正安2年(1300) [#n9803b2e] *建久3年(1192)~正安2年(1300) [#n9803b2e]
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|1192|建久3年7月27日|頼朝、勅使を招く。その座に山名義範も同席。|『吾妻鏡』巻12| |1192|建久3年7月27日|頼朝、勅使を招く。その座に山名義範も同席。|『吾妻鏡』巻12|
-|~|8月|頼朝、征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開く。| |+|~|8月|頼朝、征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開く。||
|~|建久3年10月19日|北条政子、新誕若宮(実朝)とともに幕府に入る。供奉人に里見義成、新田義兼等。|『吾妻鏡』巻12| |~|建久3年10月19日|北条政子、新誕若宮(実朝)とともに幕府に入る。供奉人に里見義成、新田義兼等。|『吾妻鏡』巻12|
|~|11月25日|頼朝、永福寺供養に参ず。供奉人に山名義範、新田義兼等。|『吾妻鏡』巻12、②『家譜』P28| |~|11月25日|頼朝、永福寺供養に参ず。供奉人に山名義範、新田義兼等。|『吾妻鏡』巻12、②『家譜』P28|
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|~|9月11日|将軍家、箭夜餅。その席に、山名義範も臨む。|『吾妻鏡』巻13| |~|9月11日|将軍家、箭夜餅。その席に、山名義範も臨む。|『吾妻鏡』巻13|
|1194|建久5年1月1日|将軍家の飯の席に里見義成は剣をもつ。|『吾妻鏡』巻13| |1194|建久5年1月1日|将軍家の飯の席に里見義成は剣をもつ。|『吾妻鏡』巻13|
-|~|~|(この頃より『吾妻鏡』は鎌倉幕府の史料としての傾向を強め、編集方法が変化している。)||+|~|=(この頃より『吾妻鏡』は鎌倉幕府の史料としての傾向を強め、編集方法が変化している。)|||
|~|2月2日|北条泰時、幕府にて元服の儀あり。山名義範、里見義成も同席。|『吾妻鏡』巻14| |~|2月2日|北条泰時、幕府にて元服の儀あり。山名義範、里見義成も同席。|『吾妻鏡』巻14|
|~|4月4日|鶴岡臨時祭り。里見義成、奉幣使をつとむ。|『吾妻鏡』巻14| |~|4月4日|鶴岡臨時祭り。里見義成、奉幣使をつとむ。|『吾妻鏡』巻14|
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|~|6月13日|宇治、勢多両所において合戦。山名重村は北条武蔵守泰時の陣にありて、勢多において、敵2人を討ちて、其首を得らる。|②家譜P33| |~|6月13日|宇治、勢多両所において合戦。山名重村は北条武蔵守泰時の陣にありて、勢多において、敵2人を討ちて、其首を得らる。|②家譜P33|
|1250|建長2年3月|閑院殿修造、将軍頼嗣公より諸国の地頭、御家人に造営を仰付らる。山名重村、築地18本の内1本を修造。|②家譜P33| |1250|建長2年3月|閑院殿修造、将軍頼嗣公より諸国の地頭、御家人に造営を仰付らる。山名重村、築地18本の内1本を修造。|②家譜P33|
-|1274|文永11年11月|文永の役| | +|1274|文永11年11月|文永の役|| 
-|1281|弘安4年7月|弘安の役| |+|1281|弘安4年7月|弘安の役||
|1285|弘安8年11月17日|城入道一族叛逆。合戦。山名義長(重村の長男)御所方にて戦功あり。|②家譜P34| |1285|弘安8年11月17日|城入道一族叛逆。合戦。山名義長(重村の長男)御所方にて戦功あり。|②家譜P34|
|1300|正安2年3月3日|信濃国御家人市河盛房の所領同中野西条の田地について幕府が御書を発した時、山名盛康(この人物は不明)、その使者となる。|③守護辞典下巻P388| |1300|正安2年3月3日|信濃国御家人市河盛房の所領同中野西条の田地について幕府が御書を発した時、山名盛康(この人物は不明)、その使者となる。|③守護辞典下巻P388|
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** [#ma4faff5] ** [#ma4faff5]
-*25、&aname(nen025);『山名家譜』では3月9日となっている。 -*25、&aname(nen025);『山名家譜』では3月9日となっている。
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*正安3年(1301)~暦応4年(1340) [#u9de0726] *正安3年(1301)~暦応4年(1340) [#u9de0726]
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|1301|正安3年8月25日|山名新治郎行直、同中務丞俊行、同三郎五郎為俊等、将軍家の仰に背き叛逆を起すによりて誅戮せらる。是によりて其一跡を以て山名義俊に宛行わる。(この項は『山名家譜』にはあって『吾妻鏡』には記載がない。)|②家譜P35| |1301|正安3年8月25日|山名新治郎行直、同中務丞俊行、同三郎五郎為俊等、将軍家の仰に背き叛逆を起すによりて誅戮せらる。是によりて其一跡を以て山名義俊に宛行わる。(この項は『山名家譜』にはあって『吾妻鏡』には記載がない。)|②家譜P35|
|~|(月日不詳)|山名政氏(義俊の長男)、上杉三郎藤原重房の女を娶る。|②家譜P36| |~|(月日不詳)|山名政氏(義俊の長男)、上杉三郎藤原重房の女を娶る。|②家譜P36|
|1302|乾元元年9月|北條相模守貞時、最勝園寺供養するによりて将軍久明親王出御あり。此時山名義俊帯刀の列にありて供奉たり。|②家譜P35| |1302|乾元元年9月|北條相模守貞時、最勝園寺供養するによりて将軍久明親王出御あり。此時山名義俊帯刀の列にありて供奉たり。|②家譜P35|
|1303|嘉元元年月日不詳|山名時氏(政氏の嫡男)誕生。少名を小太郎と言う。母は上杉重房の女なり。|②家譜P39| |1303|嘉元元年月日不詳|山名時氏(政氏の嫡男)誕生。少名を小太郎と言う。母は上杉重房の女なり。|②家譜P39|
-|1324|正中元年|正中の変(後醍醐天皇の討幕計画発覚)| |+|1324|正中元年|正中の変(後醍醐天皇の討幕計画発覚)||
|1326|嘉暦2年|山名政氏、剃髪。法名を道高。|②家譜P36| |1326|嘉暦2年|山名政氏、剃髪。法名を道高。|②家譜P36|
|1331|元弘元年3月|後醍醐天皇、北條相模守高時を征伐の企て。山名時氏は鎌倉にありて、将軍守邦親王を守護する。|②家譜P40| |1331|元弘元年3月|後醍醐天皇、北條相模守高時を征伐の企て。山名時氏は鎌倉にありて、将軍守邦親王を守護する。|②家譜P40|
-|~|9月|幕府は光厳天皇を擁立。| |+|~|9月|幕府は光厳天皇を擁立。||
|~|=(室町時代初期の基本文献である『太平記』には読み物としての面白さもある。)||| |~|=(室町時代初期の基本文献である『太平記』には読み物としての面白さもある。)|||
|1333|正慶2年3月27日|北條高時が下知として、足利治郎大輔高氏、名越尾張守高家を大将として京都に赴かしむ。|| |1333|正慶2年3月27日|北條高時が下知として、足利治郎大輔高氏、名越尾張守高家を大将として京都に赴かしむ。||
Line 271: Line 265:
|~|延元元年6月2日|山名時氏、尊氏の下知として比叡山に赴き、西坂に陣す。|②家譜P50| |~|延元元年6月2日|山名時氏、尊氏の下知として比叡山に赴き、西坂に陣す。|②家譜P50|
|~|6月20日|新田義貞、山門の寄手を討破り、山名時氏京都へ引き退る。|②家譜P50| |~|6月20日|新田義貞、山門の寄手を討破り、山名時氏京都へ引き退る。|②家譜P50|
-|1337|建武4年|山名時氏、伯耆国の守護職となる。|~+|1337|建武4年|山名時氏、伯耆国の守護職となる。|| 
-|~|延元2年7月以前|三宝院文書第2回採訪一|~|+|~|延元2年7月以前|三宝院文書第2回採訪一||
|1340|暦応4年3月|高師直、塩冶判官出雲国守護佐々木高貞が叛逆ある旨を尊氏に訴う。(塩冶征伐については諸文献に多くの不突合がある。)|②家譜P50| |1340|暦応4年3月|高師直、塩冶判官出雲国守護佐々木高貞が叛逆ある旨を尊氏に訴う。(塩冶征伐については諸文献に多くの不突合がある。)|②家譜P50|
-|~|~|尊氏、山名時氏、桃井直常等に塩冶を追討せしむ。| |+|~|~|尊氏、山名時氏、桃井直常等に塩冶を追討せしむ。||
|~|3月24日|塩冶高貞、密かに京都を逃れ、出雲国に赴く。[[*27>#nen027]]|②家譜P51、『太平記』巻21| |~|3月24日|塩冶高貞、密かに京都を逃れ、出雲国に赴く。[[*27>#nen027]]|②家譜P51、『太平記』巻21|
|1340|暦応4年|山名時氏の嫡男右衛門佐師義、賀古川にて、塩冶六郎貞泰を討ちとる。|②家譜P51、『太平記』巻21| |1340|暦応4年|山名時氏の嫡男右衛門佐師義、賀古川にて、塩冶六郎貞泰を討ちとる。|②家譜P51、『太平記』巻21|
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|~|~|塩冶高貞の妻子、播州蔭山の宿で桃井直常に攻められて亡ぶ。[[*28>#nen028]]|②家譜P52| |~|~|塩冶高貞の妻子、播州蔭山の宿で桃井直常に攻められて亡ぶ。[[*28>#nen028]]|②家譜P52|
|~|3月末日|塩冶高貞、出雲国に下着。山名時氏父子、宍道山にて高貞を討つ。高貞自害す。[[*29>#nen029]]|②家譜P52| |~|3月末日|塩冶高貞、出雲国に下着。山名時氏父子、宍道山にて高貞を討つ。高貞自害す。[[*29>#nen029]]|②家譜P52|
-|~|~|時氏、国中の仕置を成して京都に帰陣あり。| |+|~|~|時氏、国中の仕置を成して京都に帰陣あり。||
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*興国2年(1341)~正平5年(1350) [#k6103bdb] *興国2年(1341)~正平5年(1350) [#k6103bdb]
-|40|140|~|~|c+|40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1341|興国2年3月末頃&br;暦応4年|山名時氏、出雲国の守護職となる。(守護職は南北朝によって異なる。つまり、幕府の承認の有無。)|『二尊院文書』[[*30>#nen030]]| |1341|興国2年3月末頃&br;暦応4年|山名時氏、出雲国の守護職となる。(守護職は南北朝によって異なる。つまり、幕府の承認の有無。)|『二尊院文書』[[*30>#nen030]]|
|~|10月以前|山名時氏、丹後国の守護職となる。|『西大寺文書』[[*31>#nen031]]| |~|10月以前|山名時氏、丹後国の守護職となる。|『西大寺文書』[[*31>#nen031]]|
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*正平6年(1351)~正平8年(1353) [#kb7a4834] *正平6年(1351)~正平8年(1353) [#kb7a4834]
-|40|140|~|~|c+|40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1351|正平6年正月7日&br;観応2年|直義7万騎にて、八幡山に陣し、義詮を攻めんとする。|『太平記』巻29、『兵庫県史』巻2P686| |1351|正平6年正月7日&br;観応2年|直義7万騎にて、八幡山に陣し、義詮を攻めんとする。|『太平記』巻29、『兵庫県史』巻2P686|
-|~|~|尊氏は山名時氏を先鋒として上洛をはかり西宮を経て瀬川(箕面市)に駐留。|~|+|~|~|尊氏は山名時氏を先鋒として上洛をはかり西宮を経て瀬川(箕面市)に駐留。||
|~|正月10日|尊氏と直義軍とが接触し、赤松範資が尊氏軍の主力となり大渡で戦う。|『兵庫県史』巻2P686| |~|正月10日|尊氏と直義軍とが接触し、赤松範資が尊氏軍の主力となり大渡で戦う。|『兵庫県史』巻2P686|
|~|正月15日|尊氏は桃井軍と四條河原で戦う。山名時氏が直義軍に投じた為、戦況は一変し、尊氏、師直、佐々木道誉は敗れて丹波に逃れる。|『兵庫県史』巻2P686| |~|正月15日|尊氏は桃井軍と四條河原で戦う。山名時氏が直義軍に投じた為、戦況は一変し、尊氏、師直、佐々木道誉は敗れて丹波に逃れる。|『兵庫県史』巻2P686|
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|~|2月26日|師直、師泰兄弟を上杉能憲が武庫川辺で斬殺。|『兵庫県史』巻2P688| |~|2月26日|師直、師泰兄弟を上杉能憲が武庫川辺で斬殺。|『兵庫県史』巻2P688|
|~|3月25日以前|山名時氏が出雲守護職となる。|『二尊院文書』[[*38>#nen038]]| |~|3月25日以前|山名時氏が出雲守護職となる。|『二尊院文書』[[*38>#nen038]]|
-|~|6月|尊氏が義詮とともに直義討伐の計画に着手する。|~|+|~|6月|尊氏が義詮とともに直義討伐の計画に着手する。||
|~|8月1日|直義が斯波高経、上杉朝定、山名時氏等を従えて北国に逃走。|『兵庫県史』巻2P690| |~|8月1日|直義が斯波高経、上杉朝定、山名時氏等を従えて北国に逃走。|『兵庫県史』巻2P690|
|~|8月5日以前|幕府は佐々木氏を出雲守護職として認めている。|『二尊院文書』[[*39>#nen039]]| |~|8月5日以前|幕府は佐々木氏を出雲守護職として認めている。|『二尊院文書』[[*39>#nen039]]|
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|~|5月11日|八幡の軍勢、力尽き、後村上天皇、囲みを衝いて東條に逃れる。|『太平記』巻31| |~|5月11日|八幡の軍勢、力尽き、後村上天皇、囲みを衝いて東條に逃れる。|『太平記』巻31|
|~|8月26日|山名師氏(師義)、八幡の軍功として、若狭国税所今富庄の知行を佐々木道誉に属して申達せんとすが、道誉の無礼を怒り、伯耆をさして下る。|『太平記』巻32| |~|8月26日|山名師氏(師義)、八幡の軍功として、若狭国税所今富庄の知行を佐々木道誉に属して申達せんとすが、道誉の無礼を怒り、伯耆をさして下る。|『太平記』巻32|
-|~|~|山名師氏(師義)、父時氏(当時53歳)は足利直義と共に南朝方となり、出雲、伯耆、隠岐因幡、四カ国を征服し、|『太平記』巻32、②『家譜』P56[[*43>#nen043]]+|~|~|山名師氏(師義)、父時氏(当時53歳)は足利直義と共に南朝方となり、出雲、伯耆、隠岐因幡、四カ国を征服し、南朝の諸軍と相応じて京都に進撃せんとす。|『太平記』巻32、②『家譜』P56[[*43>#nen043]]| 
-|~|~|南朝の諸軍と相応じて京都に進撃せんとす。|~+|~|~|つまり、時氏は血気盛んな息子たちに引っ張られ幕府と袂を分かった。このことで丹波守・若狭守を取り上げられる事となった。|| 
-|~|~|つまり、時氏は血気盛んな息子たちに引っ張られ幕府と袂を分かった。このことで丹波守・若狭守を取り上げられる事となった。| | +|~|9月27日|文和と改元。||
-|~|9月27日|文和と改元。| |+
|1353|正平8年5月7日&br;文和2年|山名時氏、師氏(師義)、伯耆を立ちて、但馬、丹後の兵を集めて上洛。|『太平記』巻32、②『家譜』P59| |1353|正平8年5月7日&br;文和2年|山名時氏、師氏(師義)、伯耆を立ちて、但馬、丹後の兵を集めて上洛。|『太平記』巻32、②『家譜』P59|
-|~|~|南方より、四條大納言隆俊を惣大将として3000余騎上洛。[[*44>#nen044]]|~+|~|~|南方より、四條大納言隆俊を惣大将として3000余騎上洛。[[*44>#nen044]]|| 
-|~|6月9日|南朝の官軍3000余騎、八條、九條の在家に火をかけ、山陰道の寄手、山名師氏(師義)等5000騎は梅津、桂、嵯峨、仁和寺、西七條に火をかけて、京中に追寄せる。山名が執事小林右京亮、佐々木が勢に打勝ち、山名師氏(師義)は土岐が勢に打勝つ。吉良、石堂、原、蜂屋、宇都宮民部少輔、海東、和田、楠は細川清氏に打勝つ。| |+|~|6月9日|南朝の官軍3000余騎、八條、九條の在家に火をかけ、山陰道の寄手、山名師氏(師義)等5000騎は梅津、桂、嵯峨、仁和寺、西七條に火をかけて、京中に追寄せる。山名が執事小林右京亮、佐々木が勢に打勝ち、山名師氏(師義)は土岐が勢に打勝つ。吉良、石堂、原、蜂屋、宇都宮民部少輔、海東、和田、楠は細川清氏に打勝つ。||
|~|~|義詮の軍勢大敗し、義詮、東坂本に逃れる。|『太平記』巻32、②家譜P60| |~|~|義詮の軍勢大敗し、義詮、東坂本に逃れる。|『太平記』巻32、②家譜P60|
|~|6月12日|高師詮(師直の子)、西山の善峰に陣し、山名の兵これを攻め、師詮は破れ、自害す。|『太平記』巻32、②『家譜』P60[[*45>#nen045]]| |~|6月12日|高師詮(師直の子)、西山の善峰に陣し、山名の兵これを攻め、師詮は破れ、自害す。|『太平記』巻32、②『家譜』P60[[*45>#nen045]]|
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*正平9年(1354)~正平16年(1361) [#w4eda6ef] *正平9年(1354)~正平16年(1361) [#w4eda6ef]
-|40|140| | |c+|40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1354|正平9年10月18日&br;文和3年|尊氏、山名を攻めるため、義詮を播磨国へ下さる。佐々木道誉、赤松則祐したがう。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記10-16)| |1354|正平9年10月18日&br;文和3年|尊氏、山名を攻めるため、義詮を播磨国へ下さる。佐々木道誉、赤松則祐したがう。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記10-16)|
-| |12月13日|山名時氏、師氏(師義)直冬を大将として伯耆を発す。|『太平記』巻32[[*48>#nen048]]| +|~|12月13日|山名時氏、師氏(師義)直冬を大将として伯耆を発す。|『太平記』巻32[[*48>#nen048]]| 
-| | |丹波国の守護仁木頼章は一戦も交えず山名勢を通過させる。|『太平記』巻32| +|~| |丹波国の守護仁木頼章は一戦も交えず山名勢を通過させる。|『太平記』巻32| 
-| |12月24日|兵力の大半を播磨の義詮に送った尊氏は、江州武作寺へ落ちる。|『太平記』巻32、②『家譜』P62[[*49>#nen049]]|+|~|12月24日|兵力の大半を播磨の義詮に送った尊氏は、江州武作寺へ落ちる。|『太平記』巻32、②『家譜』P62[[*49>#nen049]]|
|1355|正平10年正月16日&br;文和4年|桃井直常、直信、斯波氏頼入洛。|『太平記』巻32[[*50>#nen050]]| |1355|正平10年正月16日&br;文和4年|桃井直常、直信、斯波氏頼入洛。|『太平記』巻32[[*50>#nen050]]|
-| |正月22日|直冬、山名、石堂入洛。|『太平記』巻32[[*51>#nen051]]| +|~|正月22日|直冬、山名、石堂入洛。|『太平記』巻32[[*51>#nen051]]| 
-| | |尊氏、東坂本に入る。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)[[*52>#nen052]]| +|~|~|尊氏、東坂本に入る。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)[[*52>#nen052]]| 
-| | |桃井直常、斯波氏頼、如意山に登る。| | +|~|~|桃井直常、斯波氏頼、如意山に登る。| | 
-| |正月23日|尊氏、比叡山に移る。|『太平記』巻32頭注(園太暦)| +|~|正月23日|尊氏、比叡山に移る。|『太平記』巻32頭注(園太暦)| 
-| |正月25日|直冬、東寺実相院に陣をとる。楠木正儀は男山に陣をとる。山名時氏は西山に陣をとる。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)| +|~|正月25日|直冬、東寺実相院に陣をとる。楠木正儀は男山に陣をとる。山名時氏は西山に陣をとる。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)| 
-| |2月4日|尊氏、東坂本に着く。義詮、山崎の西、神南の北なる峯に陣をとる。直冬は東寺を攻の城に構える。山名時氏、師氏|『太平記』巻32[[*53>#nen053]]| +|~|2月4日|尊氏、東坂本に着く。義詮、山崎の西、神南の北なる峯に陣をとる。直冬は東寺を攻の城に構える。山名時氏、師氏|『太平記』巻32[[*53>#nen053]]| 
-| | |(師義)、淀、鳥羽、赤井、大渡に分けて陣をとる。楠木正儀等は八幡の山下に陣をとる。| | +|~|~|(師義)、淀、鳥羽、赤井、大渡に分けて陣をとる。楠木正儀等は八幡の山下に陣をとる。|| 
-| |2月6日|山名師氏(師義)、八幡に控えたる南方の勢と一つに成って、神内宿に打寄せる。|『太平記』巻32[[*54>#nen054]]| +|~|2月6日|山名師氏(師義)、八幡に控えたる南方の勢と一つに成って、神内宿に打寄せる。|『太平記』巻32[[*54>#nen054]]| 
-| | |山名師氏(師義)、赤松則祐の一族・佐々木道誉の若党が守る一陣を破る。| | +|~|~|山名師氏(師義)、赤松則祐の一族・佐々木道誉の若党が守る一陣を破る。|| 
-| | |山名時氏、細河頼之・繁氏等が守る二陣を破る。| | +|~|~|山名時氏、細河頼之・繁氏等が守る二陣を破る。|| 
-| | |山名勢、義詮の陣を守る佐々木道誉の頸を取ろうと近づくが、赤松則祐の勢にはばまれ、山崎をさして引く。| | +|~|~|山名勢、義詮の陣を守る佐々木道誉の頸を取ろうと近づくが、赤松則祐の勢にはばまれ、山崎をさして引く。|| 
-| | |山名師氏(師義)、左ノ目から小耳の根へ射付けられ、馬も射られ自害せんとするを、河村弾正が自分の馬に師氏を乗せて行く。河村弾正は切死す。| | +|~|~|山名師氏(師義)、左ノ目から小耳の根へ射付けられ、馬も射られ自害せんとするを、河村弾正が自分の馬に師氏を乗せて行く。河村弾正は切死す。|| 
-| | |山名師氏(師義)は淀へ帰り、討死した者どもの名字を書きしるし、因幡の岩常谷の道場へ送り、亡卒の後世菩提を弔う。中でも河村弾正には、敵から首を乞受けて弔う。| | +|~|~|山名師氏(師義)は淀へ帰り、討死した者どもの名字を書きしるし、因幡の岩常谷の道場へ送り、亡卒の後世菩提を弔う。中でも河村弾正には、敵から首を乞受けて弔う。|| 
-| |3月13日|直冬、国々の大将相共に、東寺、淀、鳥羽の陣を引て、八幡、住吉、天王寺、堺の浦へ落ちる。|『太平記』巻33|+|~|3月13日|直冬、国々の大将相共に、東寺、淀、鳥羽の陣を引て、八幡、住吉、天王寺、堺の浦へ落ちる。|『太平記』巻33|
|1358|正平13年4月29日&br;延文3年|尊氏、癒瘡を患い、逝去する。(54歳)|『太平記』巻33| |1358|正平13年4月29日&br;延文3年|尊氏、癒瘡を患い、逝去する。(54歳)|『太平記』巻33|
-|1361|正平16年7月12日&br;康安元年|山名時氏、嫡子師氏(師義)、次男中務大輔、出雲、伯耆、因幡3箇所の勢3千騎を率いて美作へ発向す。| | +|1361|正平16年7月12日&br;康安元年|山名時氏、嫡子師氏(師義)、次男中務大輔、出雲、伯耆、因幡3箇所の勢3千騎を率いて美作へ発向す。|| 
-| | |名木木山二箇条、篠向の城、大見丈ノ城、菩提寺ノ城、小原ノ城大野城、六箇所の城は一矢も射ず降参する。| | +|~|~|名木木山二箇条、篠向の城、大見丈ノ城、菩提寺ノ城、小原ノ城大野城、六箇所の城は一矢も射ず降参する。|| 
-| | |林野、妙見二ノ城は20日あまりこらえたるが、山名方にひきいれられる。| | +|~|~|林野、妙見二ノ城は20日あまりこらえたるが、山名方にひきいれられる。|| 
-| | |倉懸、城一つ残り、佐用貞久、有元佐久がわずか二・三百騎にて楯籠りたり。山名時氏、子息中務少輔三千余騎にて押寄せ城の四方の山々峯々二十三箇所に陣を取る。| | +|~|~|倉懸、城一つ残り、佐用貞久、有元佐久がわずか二・三百騎にて楯籠りたり。山名時氏、子息中務少輔三千余騎にて押寄せ城の四方の山々峯々二十三箇所に陣を取る。|| 
-| | |播磨と美作の堺には竹山・千草・吉野・石堂が峯の四箇所に赤松則祐が百騎づつ勢を籠める。| | +|~|~|播磨と美作の堺には竹山・千草・吉野・石堂が峯の四箇所に赤松則祐が百騎づつ勢を籠める。|| 
-| | |山名の執事小林重長は二千余騎にて星祭ノ獄へ打上り、城を眼下に見下ろしてひかえる。| | +|~|~|山名の執事小林重長は二千余騎にて星祭ノ獄へ打上り、城を眼下に見下ろしてひかえる。|| 
-| | |赤松世貞・舎弟則祐・其弟氏範・光範・師範・直範・顕範・佐用・上月・眞嶋・杉原の一族、二千余騎、高倉山の麓に陣を取る。| | +|~|~|赤松世貞・舎弟則祐・其弟氏範・光範・師範・直範・顕範・佐用・上月・眞嶋・杉原の一族、二千余騎、高倉山の麓に陣を取る。|| 
-| | |山名師義は勝れたる兵八百騎を卒して、遊軍としてひかえる。阿保信禅が山名方に変わり、但馬国へ馳せ越え、長九郎左衛門と一緒に播磨へ打て入らんと企てるので、赤松は法花山に城郭を構え、大山越の道を塞いで、五箇所へ勢を差向けた。| | +|~|~|山名師義は勝れたる兵八百騎を卒して、遊軍としてひかえる。阿保信禅が山名方に変わり、但馬国へ馳せ越え、長九郎左衛門と一緒に播磨へ打て入らんと企てるので、赤松は法花山に城郭を構え、大山越の道を塞いで、五箇所へ勢を差向けた。|| 
-| | |赤松は山名と戦うにも勢少なく、中国の大将細川頼之に備前、備中、備後の兵を集めるよう応援を頼んだが、兵共は己が国々の私戦を捨てかねて、大将に従わなかった。| | +|~|~|赤松は山名と戦うにも勢少なく、中国の大将細川頼之に備前、備中、備後の兵を集めるよう応援を頼んだが、兵共は己が国々の私戦を捨てかねて、大将に従わなかった。|| 
-| |11月4日|倉懸の城は兵粮がつき、後攻めの頼みもなく、ついに落ちた。山名は山陰道四箇所をあわせ持つこととなった。|『太平記』巻36、②『家譜』P65〜68[[*55>#nen055]]|+|~|11月4日|倉懸の城は兵粮がつき、後攻めの頼みもなく、ついに落ちた。山名は山陰道四箇所をあわせ持つこととなった。|『太平記』巻36、②『家譜』P65〜68[[*55>#nen055]]|
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*正平17年(1362)〜正平23年(1368) [#g6238961] *正平17年(1362)〜正平23年(1368) [#g6238961]
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|1362|正平17年6月3日&br;康安2年|山名時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々に勢を分つ。|『太平記』巻38[[*56>#nen056]]| |1362|正平17年6月3日&br;康安2年|山名時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々に勢を分つ。|『太平記』巻38[[*56>#nen056]]|
-| | |一方へは、師義(師氏)を大将とし二千余騎、備前、備中|『太平記』巻38[[*57>#nen057]]| +|~|~|一方へは、師義(師氏)を大将とし二千余騎、備前、備中|『太平記』巻38[[*57>#nen057]]| 
-| | |両国へ発行す。一勢は備前仁萬堀に陣をとりて、敵を待つ。其国の守護の勢、松田・河村・福林寺・浦上等、皆無勢なれば、城に楯籠る。| | +|~|~|両国へ発行す。一勢は備前仁萬堀に陣をとりて、敵を待つ。其国の守護の勢、松田・河村・福林寺・浦上等、皆無勢なれば、城に楯籠る。|| 
-| |正平17年|一勢は、多治目備中守[[*58>#nen058]]、猶崎を侍大将として千余騎、|②家譜P69[[*61>#nen061]]| +|~|正平17年|一勢は、多治目備中守[[*58>#nen058]]、猶崎を侍大将として千余騎、|②家譜P69[[*61>#nen061]]| 
-| | |備中の新見へ打出たる。| | +|~|~|備中の新見へ打出たる。|| 
-| | |秋庭三郎[[*59>#nen059]]、水も兵粮も沢山なる松山の城へ多治目、猶崎を引入れしかば、当国の守護越後守師秀[[*60>#nen060]]、備前の徳倉の城へ引退く。備前、備中の国人の大半は、時氏に降参せり。| | +|~|~|秋庭三郎[[*59>#nen059]]、水も兵粮も沢山なる松山の城へ多治目、猶崎を引入れしかば、当国の守護越後守師秀[[*60>#nen060]]、備前の徳倉の城へ引退く。備前、備中の国人の大半は、時氏に降参せり。|| 
-| | |備後へは富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞、八百騎[[*62>#nen062]]に|『太平記』巻38[[*63>#nen063]]| +|~|~|備後へは富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞、八百騎[[*62>#nen062]]に|『太平記』巻38[[*63>#nen063]]| 
-| | |て出雲国より国中へ打出たるに、江田、廣澤、三吉の一族馳著きける間、程無く二千余騎に成りにけり。| | +|~|~|て出雲国より国中へ打出たるに、江田、廣澤、三吉の一族馳著きける間、程無く二千余騎に成りにけり。|| 
-| | |宮下野入道の城を攻めんとする時、石見国より足利直冬五百騎にて富田に力を合わせ戦はんとする。直冬、富田とともに宮下野入道に打ち負ける。| | +|~|~|宮下野入道の城を攻めんとする時、石見国より足利直冬五百騎にて富田に力を合わせ戦はんとする。直冬、富田とともに宮下野入道に打ち負ける。|| 
-| | |但馬国へは山名師義・氏冬・小林重長を侍大将にて二|『太平記』巻38| +|~|~|但馬国へは山名師義・氏冬・小林重長を侍大将にて二|『太平記』巻38| 
-| | |千余騎、大山を経て播磨へ出ようとしたが、但馬国守護仁木頼勝等将軍方が楯籠る城が未だ落ちず、但馬の宮方の住人は我国をさしおいて、他国へ越えられないので、しかたなく小林の勢だけで、播磨へ出ようとしたが、赤松直頼が大山に城を構えて通路を塞いだので、小林は丹波へ出て、和久郷に陣を取った。| | +|~|~|千余騎、大山を経て播磨へ出ようとしたが、但馬国守護仁木頼勝等将軍方が楯籠る城が未だ落ちず、但馬の宮方の住人は我国をさしおいて、他国へ越えられないので、しかたなく小林の勢だけで、播磨へ出ようとしたが、赤松直頼が大山に城を構えて通路を塞いだので、小林は丹波へ出て、和久郷に陣を取った。|| 
-| | |丹波の守護仁木義尹が待ちかまえていて、また将軍の|②家譜P69〜70| +|~|~|丹波の守護仁木義尹が待ちかまえていて、また将軍の|②家譜P69〜70| 
-| | |命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。| | +|~|~|命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。|| 
-| | |山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。| |+|~|~|山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。||
|1363|正平18年4月18日&br;貞治2年|山名時氏父子伯耆を発し京都に向い、京都につく。同28日に将軍義詮公に拝謁し、則但馬、因幡、伯耆、丹波、美作の五ヶ国を賜り出雲丹後の守護職となる。|『太平記』巻39、②『家譜』P72[[*64>#nen064]]| |1363|正平18年4月18日&br;貞治2年|山名時氏父子伯耆を発し京都に向い、京都につく。同28日に将軍義詮公に拝謁し、則但馬、因幡、伯耆、丹波、美作の五ヶ国を賜り出雲丹後の守護職となる。|『太平記』巻39、②『家譜』P72[[*64>#nen064]]|
-|1366|正平21年|当時は神主=坊主であった。時氏は山名郷でのその任命権を持っていた。| |+|1366|正平21年|当時は神主=坊主であった。時氏は山名郷でのその任命権を持っていた。||
|1367|正平22年3月29日&br;貞治6年|中殿の御会にあたり、山名氏清は将軍義詮(よしあき)の帯剣の役として従った。時氏は幕府の引付衆となる。|『太平記』巻40| |1367|正平22年3月29日&br;貞治6年|中殿の御会にあたり、山名氏清は将軍義詮(よしあき)の帯剣の役として従った。時氏は幕府の引付衆となる。|『太平記』巻40|
-| |12月7日|義詮、逝去す。(38歳)|『太平記』巻40|+|~|12月7日|義詮、逝去す。(38歳)|『太平記』巻40|
|1368|正平23年4月17日&br;応安元年|山名時氏・三男氏冬・四男氏清は将軍義満の元服に際し、剣、鞍、馬を献ず。|「鹿苑院殿御元服記」(『後鑑』)[[*65>#nen065]]| |1368|正平23年4月17日&br;応安元年|山名時氏・三男氏冬・四男氏清は将軍義満の元服に際し、剣、鞍、馬を献ず。|「鹿苑院殿御元服記」(『後鑑』)[[*65>#nen065]]|
-| |5月15日|山名時氏、并子息中務少輔、御所において始行。|「花営三代記」(『群書類従』)[[*66>#nen066]]| +|~|5月15日|山名時氏、并子息中務少輔、御所において始行。|「花営三代記」(『群書類従』)[[*66>#nen066]]| 
-| |8月28日|日吉神社神輿入洛の風聞。朝廷延暦寺の訴訟を裁許せ|『後愚昧記』| +|~|8月28日|日吉神社神輿入洛の風聞。朝廷延暦寺の訴訟を裁許せんとするが、武家執事等は拒む。山名時氏、赤松則祐、佐々木氏頼等は裁断有べきの旨意見するが、幕府は遵行を拒む。|『後愚昧記』| 
-| | |んとするが、武家執事等は拒む。山名時氏、赤松則祐、佐々木氏頼等は裁断有べきの旨意見するが、幕府は遵行を拒む。| | +|~|8月29日|衆徒神輿を奉じ西坂本に降る。諸将の警固。山名時氏、子息等其勢千余騎、多々須河原に陣す。|『後愚昧記』| 
-| |8月29日|衆徒神輿を奉じ西坂本に降る。諸将の警固。山名時氏、子息等其勢千余騎、多々須河原に陣す。|『後愚昧記』| +|~|(月日不詳)|将軍義満、評定衆を定めらる。山名時氏、仁木義長、今川貞世、佐々木氏頼、赤松義則の五人なり。|②家譜P72|
-| |(月日不詳)|将軍義満、評定衆を定めらる。山名時氏、仁木義長、今川貞世、佐々木氏頼、赤松義則の五人なり。|②家譜P72|+
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*正平24年(1369)〜天授2年(1376) [#m13cb357] *正平24年(1369)〜天授2年(1376) [#m13cb357]
-|40|140| | |c+|40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1369|正平24年正月22日&br;応安2年|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』| |1369|正平24年正月22日&br;応安2年|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』|
-| |2月7日|楠木正儀、幕府に投降。|『花営三代記』|+|~|2月7日|楠木正儀、幕府に投降。|『花営三代記』|
|1370|建徳元年正月5日&br;応安3年|山名時氏の3男氏冬が死去。|『鳥取県史』巻2P226| |1370|建徳元年正月5日&br;応安3年|山名時氏の3男氏冬が死去。|『鳥取県史』巻2P226|
-| |正月18日|御評定始。日次事。十日依山名氏冬去五日事御斟酌|『花営三代記』| +|~|正月18日|御評定始。日次事。十日依山名氏冬去五日事御斟酌|『花営三代記』| 
-| |4月|将軍義満、細川頼之をして河内、和泉に向わしむ。|②家譜P72| +|~|4月|将軍義満、細川頼之をして河内、和泉に向わしむ。|②家譜P72| 
-| | |山名時氏、父子もこれに従い、4月8日京都を発し15日に河内国に着く。| | +|~|~|山名時氏、父子もこれに従い、4月8日京都を発し15日に河内国に着く。|| 
-| | |時氏父子、今川泰範は一万五千騎で千剱破城に向い、龍泉寺、観音寺両所に陣して戦う。始め時氏父子は観音寺中院に陣し、その後退いて龍泉寺山に陣し城に向いて陣取らる。| | +|~|~|時氏父子、今川泰範は一万五千騎で千剱破城に向い、龍泉寺、観音寺両所に陣して戦う。始め時氏父子は観音寺中院に陣し、その後退いて龍泉寺山に陣し城に向いて陣取らる。|| 
-| | |11月細川頼之諸将と計りて、時氏をして和泉、河内の内に放火し、氏清をして敵の兵粮の道を指塞ぎ、其のついえに乗じて攻んと約して、氏清を止めて、同22日に諸勢京都に帰陣あり。| | +|~|~|11月細川頼之諸将と計りて、時氏をして和泉、河内の内に放火し、氏清をして敵の兵粮の道を指塞ぎ、其のついえに乗じて攻んと約して、氏清を止めて、同22日に諸勢京都に帰陣あり。|| 
-| |6月18日|一方内談始行。山名義理。|『花営三代記』| +|~|6月18日|一方内談始行。山名義理。|『花営三代記』| 
-| |12月|山名時氏老年に及ぶにより、領国但馬、因幡、伯耆、美作、|②家譜P74| +|~|12月|山名時氏老年に及ぶにより、領国但馬、因幡、伯耆、美作、|②家譜P74| 
-| | |丹波、丹後、紀伊、和泉、備後、隠岐、出雲十一カ国を家嫡に譲り与え隠居すべきのよしを乞わる。[[*67>#nen067]]| | +|~|~|丹波、丹後、紀伊、和泉、備後、隠岐、出雲十一カ国を家嫡に譲り与え隠居すべきのよしを乞わる。[[*67>#nen067]]|| 
-| | |将軍家許容あり、よりて十一カ国を以って子息に分ち与えらる。世に時氏公を称して六分の一殿と言う。| |+|~|~|将軍家許容あり、よりて十一カ国を以って子息に分ち与えらる。世に時氏公を称して六分の一殿と言う。||
|1371|建徳2年2月28日&br;応安4年|山名時氏死去。行年69歳|②家譜P75[[*68>#nen068]]| |1371|建徳2年2月28日&br;応安4年|山名時氏死去。行年69歳|②家譜P75[[*68>#nen068]]|
-| |建徳2年6月22日|南方渡河事。一方上瀬。放手渡。|『花営三代記』| +|~|建徳2年6月22日|南方渡河事。一方上瀬。放手渡。|『花営三代記』| 
-| | |細川頼元、山名義理、氏清、楠木正儀。| | +|~|~|細川頼元、山名義理、氏清、楠木正儀。|| 
-| |8月6日|南征諸軍上洛。山名義理、氏清等。|『花営三代記』|+|~|8月6日|南征諸軍上洛。山名義理、氏清等。|『花営三代記』|
|1372|文中元年正月23日&br;応安5年|小侍所沙汰始。山名右衛門左入道亭(師義)にて、始行される。山名次郎時義。|『花営三代記』| |1372|文中元年正月23日&br;応安5年|小侍所沙汰始。山名右衛門左入道亭(師義)にて、始行される。山名次郎時義。|『花営三代記』|
-| |2月10日|六條八幡宮御社参。供奉人馬打次第山名宮内少輔(干時小侍所)|『花営三代記』| +|~|2月10日|六條八幡宮御社参。供奉人馬打次第山名宮内少輔(干時小侍所)|『花営三代記』| 
-| |10月17日|幕府、丹波守護山名氏清をして、稲岡某押領する所の石田本荘一色名を吉田社に還付せしむ。|「吉田家日次記」(④氏清年譜)| +|~|10月17日|幕府、丹波守護山名氏清をして、稲岡某押領する所の石田本荘一色名を吉田社に還付せしむ。|「吉田家日次記」(④氏清年譜)| 
-| |11月1日|幕府、山名氏清をして、中澤一族の吉田社領丹波味間二品勅旨地頭職を押領するを禁ぜしむ。|「吉田家日次記」(④氏清年譜)|+|~|11月1日|幕府、山名氏清をして、中澤一族の吉田社領丹波味間二品勅旨地頭職を押領するを禁ぜしむ。|「吉田家日次記」(④氏清年譜)|
|1373|文中2年12月19日&br;応安6年|幕府、丹波守護山名氏清をして、其部下の同国安国寺領今西村半済を押領するを止め、之を同寺雑掌に還付せしむ。|「安国寺文書」(④氏清年譜)| |1373|文中2年12月19日&br;応安6年|幕府、丹波守護山名氏清をして、其部下の同国安国寺領今西村半済を押領するを止め、之を同寺雑掌に還付せしむ。|「安国寺文書」(④氏清年譜)|
-| |12月27日|山門神輿造替沙汰執行される。貢馬内覧二番。鴾毛五尺三寸。山名師義。|『花営三代記』| +|~|12月27日|山門神輿造替沙汰執行される。貢馬内覧二番。鴾毛五尺三寸。山名師義。|『花営三代記』| 
-| |(月日不明)|伊勢国合戦。山名氏清、仁木義長を破る。|『後鑑』|+|~|(月日不明)|伊勢国合戦。山名氏清、仁木義長を破る。|『後鑑』|
|1374|文中3年1月24日&br;応安7年|守護山名氏清、東寺領丹波国大山荘に『カヤカリノ夫』五人に十日間の夫役をかける。|「東寺百合文書」(④氏清年譜)| |1374|文中3年1月24日&br;応安7年|守護山名氏清、東寺領丹波国大山荘に『カヤカリノ夫』五人に十日間の夫役をかける。|「東寺百合文書」(④氏清年譜)|
-| |4月28日|佐女牛八幡宮御社参。次近習の人々に山名時義(干時小侍所)|『後鑑』| +|~|4月28日|佐女牛八幡宮御社参。次近習の人々に山名時義(干時小侍所)|『後鑑』| 
-| |12月25日|貢馬内覧。二番。黒駮。山名師義。| |+|~|12月25日|貢馬内覧。二番。黒駮。山名師義。||
|1375|天授元年3月27日&br;永和元年|石清水八幡宮御社参。供奉人に小侍所。山名弾正少弼。|『花営三代記』| |1375|天授元年3月27日&br;永和元年|石清水八幡宮御社参。供奉人に小侍所。山名弾正少弼。|『花営三代記』|
-| |6月5日|山名、佐々木家臣闘争。死傷数人。|『後鑑』|+|~|6月5日|山名、佐々木家臣闘争。死傷数人。|『後鑑』|
|1376|天授2年3月11日&br;永和2年|山名右衛門佐入道(師義)他界。|『花営三代記』| |1376|天授2年3月11日&br;永和2年|山名右衛門佐入道(師義)他界。|『花営三代記』|
-| |7月19日|山名時義被官衆地下人と芋洗橋に戦う。山名方6人うたれる。| | +|~|7月19日|山名時義被官衆地下人と芋洗橋に戦う。山名方6人うたれる。|| 
-| |7月20日|時義、雪辱のため軍勢を発向せんとするが、義満に制止される。|『後愚昧記』| +|~|7月20日|時義、雪辱のため軍勢を発向せんとするが、義満に制止される。|『後愚昧記』| 
-| |閏7月5日|山名右衛門佐入道後家他界。|『花営三代記』| +|~|閏7月5日|山名右衛門佐入道後家他界。|『花営三代記』| 
-| |12月27日|貢馬。二番鴾毛。山名時義。| |+|~|12月27日|貢馬。二番鴾毛。山名時義。||
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*天授3年(1377)〜天授6年(1380) [#k1b50565] *天授3年(1377)〜天授6年(1380) [#k1b50565]
-|40|140| | |c+|40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1377|天授3年2月28日|山名氏清、父時氏の七回忌法要を三条大宮長福寺に修す。|「迎陽記」(④氏清年譜)| |1377|天授3年2月28日|山名氏清、父時氏の七回忌法要を三条大宮長福寺に修す。|「迎陽記」(④氏清年譜)|
| |永和3年| | | | |永和3年| | |
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*弘和元年(1381)~元中6年(1389) [#e9cfd84a] *弘和元年(1381)~元中6年(1389) [#e9cfd84a]
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|1381|弘和元年1月24日|山名氏清、大軍を以て泉州土丸城を囲む。和田正武病みて、その子正利・正次防戦す。然と雖も城落ち、神宮寺師綱、福塚忠貞等討死。|「南朝編年記略」(④氏清年譜)| |1381|弘和元年1月24日|山名氏清、大軍を以て泉州土丸城を囲む。和田正武病みて、その子正利・正次防戦す。然と雖も城落ち、神宮寺師綱、福塚忠貞等討死。|「南朝編年記略」(④氏清年譜)|
| |永徳元年| | | | |永徳元年| | |
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*元中7年(1390)~元中8年(1391)11月 [#t9da1644] *元中7年(1390)~元中8年(1391)11月 [#t9da1644]
-|40|140| | |c+|40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1390|元中7年2月某日|義満、山名氏清、満幸に時熈兄弟を討つべき旨を命ず。|②家譜P82[[*80>#nen080]]| |1390|元中7年2月某日|義満、山名氏清、満幸に時熈兄弟を討つべき旨を命ず。|②家譜P82[[*80>#nen080]]|
| |康応2年| | | | |康応2年| | |
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*元中8年(1391)12月 [#e165c61e] *元中8年(1391)12月 [#e165c61e]
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|1391|元中8年12月17日&br;明徳2年|山名満幸、兵を起し丹後国の京方の代官を追出す。|『明徳記』[[*85>#nen085]]| |1391|元中8年12月17日&br;明徳2年|山名満幸、兵を起し丹後国の京方の代官を追出す。|『明徳記』[[*85>#nen085]]|
|~|12月19日|河内国守護代遊佐国長、山名氏清が合戦の用意をし、今にも立つと注進す。|『明徳記』| |~|12月19日|河内国守護代遊佐国長、山名氏清が合戦の用意をし、今にも立つと注進す。|『明徳記』|
|~|12月23日|山名中無大輔(氏家)、都を落ち、八幡へ馳せ下る。|『明徳記』[[*86>#nen086]]| |~|12月23日|山名中無大輔(氏家)、都を落ち、八幡へ馳せ下る。|『明徳記』[[*86>#nen086]]|
|~|12月24日|義満より、山名義理へ反乱を止めるよう諭す。義理従わず|『明徳記』、『太平記』| |~|12月24日|義満より、山名義理へ反乱を止めるよう諭す。義理従わず|『明徳記』、『太平記』|
-|~|~|(義理は氏清をいさめるでも無し、和歌山からも出ない)。『明徳記』[[*87>#nen087]]、『太平記』(氏清を魅力的な人物として、描いている。)| |+|~|~|(義理は氏清をいさめるでも無し、和歌山からも出ない)。『明徳記』[[*87>#nen087]]、『太平記』(氏清を魅力的な人物として、描いている。)||
|~|~|山名氏清、山城国、和泉国、丹波国、但馬国、摂津国東成郡、住之江郡の兵を率いて八幡に陣す。(明徳の乱)|「南方紀伝」(④氏清年譜)[[*88>#nen088]]| |~|~|山名氏清、山城国、和泉国、丹波国、但馬国、摂津国東成郡、住之江郡の兵を率いて八幡に陣す。(明徳の乱)|「南方紀伝」(④氏清年譜)[[*88>#nen088]]|
|~|12月25日|義満、諸将を召て軍の評定。[[*89>#nen089]]|『明徳記』| |~|12月25日|義満、諸将を召て軍の評定。[[*89>#nen089]]|『明徳記』|
|1391|元中8年12月26日|将軍方の布陣決まる。|『明徳記』| |1391|元中8年12月26日|将軍方の布陣決まる。|『明徳記』|
-|~|~|○今川泰範&br; 赤松顕則、佐々木高満都合八百余騎東寺&br;○義満一色左京大夫亭、中ノ御門堀川の宿所&br;○其外の諸軍勢内野&br;・細川常久、頼元、二千余騎中ノ御門西大宮右近ノ馬場前&br;・赤松顕則、一千三百余騎冷泉の西大宮の雀森&br;・畠山基国、八百余騎神祇官の北、大庭の椋の木を南に見て土御門の末&br;・大内義弘、五百余騎神祇官の森を背に二条大宮&br;・一色詮範、三百余騎春日猪熊&br;・勘解由小路義重、五百余騎中ノ御門油小路&br;・佐々木高詮、七百余騎一條の大路を前に当て、北野の森を背にして大甞会畠&br;・其外の人々、三千余騎、御馬廻中御門、猪熊、大宮を前に当て一條辺まで陣を取る。&br;◎山名満幸、丹波国篠村より、山を越えて峯の堂に陣を取る。一千余騎| |+|~|~|○今川泰範&br; 赤松顕則、佐々木高満都合八百余騎東寺&br;○義満一色左京大夫亭、中ノ御門堀川の宿所&br;○其外の諸軍勢内野&br;・細川常久、頼元、二千余騎中ノ御門西大宮右近ノ馬場前&br;・赤松顕則、一千三百余騎冷泉の西大宮の雀森&br;・畠山基国、八百余騎神祇官の北、大庭の椋の木を南に見て土御門の末&br;・大内義弘、五百余騎神祇官の森を背に二条大宮&br;・一色詮範、三百余騎春日猪熊&br;・勘解由小路義重、五百余騎中ノ御門油小路&br;・佐々木高詮、七百余騎一條の大路を前に当て、北野の森を背にして大甞会畠&br;・其外の人々、三千余騎、御馬廻中御門、猪熊、大宮を前に当て一條辺まで陣を取る。&br;◎山名満幸、丹波国篠村より、山を越えて峯の堂に陣を取る。一千余騎||
|~|12月27日|幕府、山崎神人等をして山名氏清等入京の路次を塞ぎ、かつ形勢を注進せしむ。|④氏清年譜、『離宮八幡宮文書』[[*90>#nen090]]| |~|12月27日|幕府、山崎神人等をして山名氏清等入京の路次を塞ぎ、かつ形勢を注進せしむ。|④氏清年譜、『離宮八幡宮文書』[[*90>#nen090]]|
-|~|12月29日|山名勢、洛中に向かって進撃を始める。| | +|~|12月29日|山名勢、洛中に向かって進撃を始める。|| 
-|~|~|・山名氏家、三百余騎八幡を発し、大渡を越え、淀より藤の森をさして進むが、深田の中へ落ちこみ、淀へ引返し、氏清の勢と合流。&br;・山名氏清、二千余騎淀の浮橋を渡り久我縄手より西岡を経て下桂へ打出て、七條の末を渡り、東洞院を三條までかけ通り、大宮を上りに寄すべしとて、谷の堂までつめたりける。&br;・山名満幸、分国勢一千七百余騎峯の堂をおり下り、梅津の上瀬をこして、二條末へ西ノ口より押し寄せて、河原ノ面東洞院辺に烟り上る時に、内野へ攻め入らんと、梅津に陣を取り、夜明けを待つ。&br;・丹後の守護代小葦の次郎左衛門尉、同平次右衛門尉、土屋党を引具して上梅津より仁和寺へ懸通り、並岡を東へ、一條の通を大将軍の鳥居の前へかけ出て、方々の攻め口で戦いが始まると、一條を東へ懸通して敵の後を襲う計画。| |+|~|~|・山名氏家、三百余騎八幡を発し、大渡を越え、淀より藤の森をさして進むが、深田の中へ落ちこみ、淀へ引返し、氏清の勢と合流。&br;・山名氏清、二千余騎淀の浮橋を渡り久我縄手より西岡を経て下桂へ打出て、七條の末を渡り、東洞院を三條までかけ通り、大宮を上りに寄すべしとて、谷の堂までつめたりける。&br;・山名満幸、分国勢一千七百余騎峯の堂をおり下り、梅津の上瀬をこして、二條末へ西ノ口より押し寄せて、河原ノ面東洞院辺に烟り上る時に、内野へ攻め入らんと、梅津に陣を取り、夜明けを待つ。&br;・丹後の守護代小葦の次郎左衛門尉、同平次右衛門尉、土屋党を引具して上梅津より仁和寺へ懸通り、並岡を東へ、一條の通を大将軍の鳥居の前へかけ出て、方々の攻め口で戦いが始まると、一條を東へ懸通して敵の後を襲う計画。||
|~|12月晦日|◎丹波勢の中で久下、長澤の二人、内野の陣へ加わる。[[*91>#nen091]]|『明徳記』| |~|12月晦日|◎丹波勢の中で久下、長澤の二人、内野の陣へ加わる。[[*91>#nen091]]|『明徳記』|
-|~|~|◎山名上総介(高義)、小林上野守(重長)、二條大宮へ押寄せ、大内義弘の勢と戦い討死。[[*92>#nen091]]&br;◎山名満幸、土屋党と一手になり千二百余騎、雀の森に進み、細川常久、畠山基国の勢二千七百余騎と戦う。[[*93>#nen093]]&br;・佐々木高詮七百余騎(大甞会畠に控えていた)が春日西の大宮に打ち出て、満幸の兵、土屋党と戦う。土屋党52人討死。&br;・満幸、退却してきた二百五十騎をまとめ、細川・畠山両陣の真中に懸入るが打ち負ける。&br;・満幸、桂川を渡り、丹波路をさして落行く。[[*94>#nen094]]&br;◎山名氏清、一千余騎にて、三條坊門大宮へ押寄る。大内義弘に赤松義則の勢一千三百余騎が合力す。-[[*95>#nen095]]| | +|~|~|◎山名上総介(高義)、小林上野守(重長)、二條大宮へ押寄せ、大内義弘の勢と戦い討死。[[*92>#nen091]]&br;◎山名満幸、土屋党と一手になり千二百余騎、雀の森に進み、細川常久、畠山基国の勢二千七百余騎と戦う。[[*93>#nen093]]&br;・佐々木高詮七百余騎(大甞会畠に控えていた)が春日西の大宮に打ち出て、満幸の兵、土屋党と戦う。土屋党52人討死。&br;・満幸、退却してきた二百五十騎をまとめ、細川・畠山両陣の真中に懸入るが打ち負ける。&br;・満幸、桂川を渡り、丹波路をさして落行く。[[*94>#nen094]]&br;◎山名氏清、一千余騎にて、三條坊門大宮へ押寄る。大内義弘に赤松義則の勢一千三百余騎が合力す。-[[*95>#nen095]]|| 
-|1391|元中8年12月晦日|・山名氏家五百余騎にて、猪熊を上に押し寄せ、赤松勢の真中に切り入り、赤松勢猪熊を北へなだれ引く。[[*96>#nen096]]・山名時熈、御馬廻りなれど、五十三騎にて、二條大路に打出て、氏清の勢の真中へ懸入るが打負ける。[[*97>#nen097]]&br;・一色詮範三百余騎、勘解由小路義重五百余騎、二條大宮へ向け出陣。&br;・山名氏清の子息宮田左馬介、次男七郎、丹波国をさして猪熊を南へ落ち行く。其他の兵共も我先に落ち行く。[[*98>#nen098]]&br;・山名氏清・一色詮範と懸け合う。山名氏家勢・勘解由小路義重、赤松義則勢と揉合う。氏家の勢の中、家喜九郎等三十八人討死。氏家、猪熊を南へ落ち行く。&br;・義満、大宮の合戦に出陣。氏清には、山名の小次郎、山名禅正以下十八騎踏み止まり付添う。山名氏清、一色詮範父子に打ちとられる。山名小次郎討死。[[*99>#nen099]]| |+|~|12月晦日|・山名氏家五百余騎にて、猪熊を上に押し寄せ、赤松勢の真中に切り入り、赤松勢猪熊を北へなだれ引く。[[*96>#nen096]]・山名時熈、御馬廻りなれど、五十三騎にて、二條大路に打出て、氏清の勢の真中へ懸入るが打負ける。[[*97>#nen097]]&br;・一色詮範三百余騎、勘解由小路義重五百余騎、二條大宮へ向け出陣。&br;・山名氏清の子息宮田左馬介、次男七郎、丹波国をさして猪熊を南へ落ち行く。其他の兵共も我先に落ち行く。[[*98>#nen098]]&br;・山名氏清・一色詮範と懸け合う。山名氏家勢・勘解由小路義重、赤松義則勢と揉合う。氏家の勢の中、家喜九郎等三十八人討死。氏家、猪熊を南へ落ち行く。&br;・義満、大宮の合戦に出陣。氏清には、山名の小次郎、山名禅正以下十八騎踏み止まり付添う。山名氏清、一色詮範父子に打ちとられる。山名小次郎討死。[[*99>#nen099]]||
- *85、&aname(nen085);『後鑑』では『明徳記』を引用しているが、去17日を11月17日としている。 - *85、&aname(nen085);『後鑑』では『明徳記』を引用しているが、去17日を11月17日としている。
満幸が挙兵の準備をしていたころ、氏清の行動について『明徳記』には、紀伊国へ赴き、舎兄義理合戦への同意を説く。義理は氏清に思い止まるよう諫めるが、聞きいれず、義理も同意し、一門悉く同心して攻め上がらんと沙汰しける。と書かれている。 満幸が挙兵の準備をしていたころ、氏清の行動について『明徳記』には、紀伊国へ赴き、舎兄義理合戦への同意を説く。義理は氏清に思い止まるよう諫めるが、聞きいれず、義理も同意し、一門悉く同心して攻め上がらんと沙汰しける。と書かれている。
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*元中9年(1392) [#t1143616] *元中9年(1392) [#t1143616]
-|40|140| | |c+|40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1392|元中9年正月1日&br;明徳3年|義満、一色詮範亭より室町御所へ還る。|『明徳記』| |1392|元中9年正月1日&br;明徳3年|義満、一色詮範亭より室町御所へ還る。|『明徳記』|
|~|正月4日|乱後の論功行賞がおこなわれる。[[*100>#nen100]]|『明徳記』| |~|正月4日|乱後の論功行賞がおこなわれる。[[*100>#nen100]]|『明徳記』|
-|~|正月4日|山城国(畠山基国)丹波国(細川頼元)&br;丹後国(一色満範)美作国(赤松義則)&br;和泉国・紀伊国(大内義弘)但馬国(山名時熈)&br;伯耆国(山名氏幸)隠岐国・出雲国(佐々木高詮)&br;一色詮範には、小国の守護より、大庄の思符にはしかずとて、若狭国在所稲積(今富)ノ庄を勲功の庄とす。| |+|~|正月4日|山城国(畠山基国)丹波国(細川頼元)&br;丹後国(一色満範)美作国(赤松義則)&br;和泉国・紀伊国(大内義弘)但馬国(山名時熈)&br;伯耆国(山名氏幸)隠岐国・出雲国(佐々木高詮)&br;一色詮範には、小国の守護より、大庄の思符にはしかずとて、若狭国在所稲積(今富)ノ庄を勲功の庄とす。||
|~|正月10日|細川頼元御教書を下し、山名追討の事出雲国須波部(諏訪)一族に令す。[[*101>#nen101]]|「諸家文書纂」(『後鑑』)、『明徳記』(日付の記載なし)| |~|正月10日|細川頼元御教書を下し、山名追討の事出雲国須波部(諏訪)一族に令す。[[*101>#nen101]]|「諸家文書纂」(『後鑑』)、『明徳記』(日付の記載なし)|
|~|2月13日|大内義弘、山名義理征伐のため出発。|『明徳記』[[*102>#nen102]]| |~|2月13日|大内義弘、山名義理征伐のため出発。|『明徳記』[[*102>#nen102]]|
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|~|2月25日|山名義理、紀伊藤代城を去り、由良に奔す。[[*105>#nen105]]|「南朝編年記略」(⑤南北朝史』下)| |~|2月25日|山名義理、紀伊藤代城を去り、由良に奔す。[[*105>#nen105]]|「南朝編年記略」(⑤南北朝史』下)|
|~|2月26日|南朝、野上親成をして山名義理を救援せしめようとし、大|『明徳記』[[*106>#nen106]]| |~|2月26日|南朝、野上親成をして山名義理を救援せしめようとし、大|『明徳記』[[*106>#nen106]]|
-|~| |内軍と和佐山に戦う、南軍破れて湯浅城に退き、親成、大内氏に降る。義満、山名氏家を宥す。この日、氏家入京する。| |+|~| |内軍と和佐山に戦う、南軍破れて湯浅城に退き、親成、大内氏に降る。義満、山名氏家を宥す。この日、氏家入京する。||
|~|2月28日|山名義理、由良の興国寺塔頭思遠院にて出家し、伊勢へ赴く。|『明徳記』| |~|2月28日|山名義理、由良の興国寺塔頭思遠院にて出家し、伊勢へ赴く。|『明徳記』|
|~|3月2日|細川武蔵守頼之入道常久卒。[[*107>#nen107]]|『明徳記』| |~|3月2日|細川武蔵守頼之入道常久卒。[[*107>#nen107]]|『明徳記』|
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*明徳4年(1393)〜応永5年(1398) [#z24c897f] *明徳4年(1393)〜応永5年(1398) [#z24c897f]
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|1393|明徳4年2月5日|山名満幸・塩冶遠江入道、出雲国三刀屋代に押寄せ合戦。城主須和部菊松丸、満幸等を追い払う。|「諸家文書纂」(『後鑑』)| |1393|明徳4年2月5日|山名満幸・塩冶遠江入道、出雲国三刀屋代に押寄せ合戦。城主須和部菊松丸、満幸等を追い払う。|「諸家文書纂」(『後鑑』)|
| |4月11日|義満、河野通能に命じ、伊予国の軍勢を伯耆国に発行させ、山名氏幸に合力せしむ。|「河野文書」(『後鑑』)| | |4月11日|義満、河野通能に命じ、伊予国の軍勢を伯耆国に発行させ、山名氏幸に合力せしむ。|「河野文書」(『後鑑』)|
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*応永7年(1400)〜応永12年(1405) [#ia42fe43] *応永7年(1400)〜応永12年(1405) [#ia42fe43]
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|1400|応永7年正月24日|因幡守護山名氏家、幕府の旨を奉じ、土屋次郎をして同国吉岡保湯河小日置上郷内の地を山城鞍馬寺雑掌に渡付せしむ。[[*122>#nen122]]|「華頂要略」(①大日7-4)| |1400|応永7年正月24日|因幡守護山名氏家、幕府の旨を奉じ、土屋次郎をして同国吉岡保湯河小日置上郷内の地を山城鞍馬寺雑掌に渡付せしむ。[[*122>#nen122]]|「華頂要略」(①大日7-4)|
| |6月1日|但馬守護山名時熈、同国興布土荘地頭職内の三十石を興布土中務丞に宛行う。|「山崎文書」(①大日7-4)| | |6月1日|但馬守護山名時熈、同国興布土荘地頭職内の三十石を興布土中務丞に宛行う。|「山崎文書」(①大日7-4)|
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*応永13年(1406)〜応永23年(1416) [#h356d99a] *応永13年(1406)〜応永23年(1416) [#h356d99a]
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|1406|応永13年3月15日|安芸守護代山名満氏、吉川弾正少弼の死去により、其一族をして同経見を総領として之に同心せしめ、又弾正少弼の遺領同国大朝庄及び志地原を経見に宛行う。|「吉川家文書」(①大日7-7)| |1406|応永13年3月15日|安芸守護代山名満氏、吉川弾正少弼の死去により、其一族をして同経見を総領として之に同心せしめ、又弾正少弼の遺領同国大朝庄及び志地原を経見に宛行う。|「吉川家文書」(①大日7-7)|
| |3月23日|山名時熈、但馬円通寺内大智庵に敷地を安堵する。26日、時熈、円通大智庵に大有和尚塔頭要脚として、但馬国竹野郷地頭領家両職内田地弐町四段余、阿古谷山崎村山林等を寄進する。|「円通寺文書」(⑥常熈年譜」| | |3月23日|山名時熈、但馬円通寺内大智庵に敷地を安堵する。26日、時熈、円通大智庵に大有和尚塔頭要脚として、但馬国竹野郷地頭領家両職内田地弐町四段余、阿古谷山崎村山林等を寄進する。|「円通寺文書」(⑥常熈年譜」|


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