14: 2015-01-01 (木) 23:10:22 admin ソース 15: 2015-01-02 (金) 11:42:13 admin ソース
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*正平9年(1354)~正平16年(1361) [#w4eda6ef] *正平9年(1354)~正平16年(1361) [#w4eda6ef]
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-|1354|正平9年10月18日|尊氏、山名を攻めるため、義詮を播磨国へ下さる。佐々木道誉、赤松則祐したがう。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記10-16)+|1354|正平9年10月18日&br;文和3年|尊氏、山名を攻めるため、義詮を播磨国へ下さる。佐々木道誉、赤松則祐したがう。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記10-16)|
-| |文和3年| | |+
| |12月13日|山名時氏、師氏(師義)直冬を大将として伯耆を発す。|『太平記』巻32[[*48>#nen048]]| | |12月13日|山名時氏、師氏(師義)直冬を大将として伯耆を発す。|『太平記』巻32[[*48>#nen048]]|
| | |丹波国の守護仁木頼章は一戦も交えず山名勢を通過させる。|『太平記』巻32| | | |丹波国の守護仁木頼章は一戦も交えず山名勢を通過させる。|『太平記』巻32|
| |12月24日|兵力の大半を播磨の義詮に送った尊氏は、江州武作寺へ落ちる。|『太平記』巻32、②『家譜』P62[[*49>#nen049]]| | |12月24日|兵力の大半を播磨の義詮に送った尊氏は、江州武作寺へ落ちる。|『太平記』巻32、②『家譜』P62[[*49>#nen049]]|
-|1355|正平10年正月16日|桃井直常、直信、斯波氏頼入洛。|『太平記』巻32[[*50>#nen050]]+|1355|正平10年正月16日&br;文和4年|桃井直常、直信、斯波氏頼入洛。|『太平記』巻32[[*50>#nen050]]|
-| |文和4年| | |+
| |正月22日|直冬、山名、石堂入洛。|『太平記』巻32[[*51>#nen051]]| | |正月22日|直冬、山名、石堂入洛。|『太平記』巻32[[*51>#nen051]]|
| | |尊氏、東坂本に入る。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)[[*52>#nen052]]| | | |尊氏、東坂本に入る。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)[[*52>#nen052]]|
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| |正月23日|尊氏、比叡山に移る。|『太平記』巻32頭注(園太暦)| | |正月23日|尊氏、比叡山に移る。|『太平記』巻32頭注(園太暦)|
| |正月25日|直冬、東寺実相院に陣をとる。楠木正儀は男山に陣をとる。山名時氏は西山に陣をとる。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)| | |正月25日|直冬、東寺実相院に陣をとる。楠木正儀は男山に陣をとる。山名時氏は西山に陣をとる。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)|
-|1355|正平10年2月4日|尊氏、東坂本に着く。義詮、山崎の西、神南の北なる峯に陣をとる。直冬は東寺を攻の城に構える。山名時氏、師氏|『太平記』巻32[[*53>#nen053]]+| |2月4日|尊氏、東坂本に着く。義詮、山崎の西、神南の北なる峯に陣をとる。直冬は東寺を攻の城に構える。山名時氏、師氏|『太平記』巻32[[*53>#nen053]]|
-| |文和4年| | |+
| | |(師義)、淀、鳥羽、赤井、大渡に分けて陣をとる。楠木正儀等は八幡の山下に陣をとる。| | | | |(師義)、淀、鳥羽、赤井、大渡に分けて陣をとる。楠木正儀等は八幡の山下に陣をとる。| |
| |2月6日|山名師氏(師義)、八幡に控えたる南方の勢と一つに成って、神内宿に打寄せる。|『太平記』巻32[[*54>#nen054]]| | |2月6日|山名師氏(師義)、八幡に控えたる南方の勢と一つに成って、神内宿に打寄せる。|『太平記』巻32[[*54>#nen054]]|
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| | |山名師氏(師義)は淀へ帰り、討死した者どもの名字を書きしるし、因幡の岩常谷の道場へ送り、亡卒の後世菩提を弔う。中でも河村弾正には、敵から首を乞受けて弔う。| | | | |山名師氏(師義)は淀へ帰り、討死した者どもの名字を書きしるし、因幡の岩常谷の道場へ送り、亡卒の後世菩提を弔う。中でも河村弾正には、敵から首を乞受けて弔う。| |
| |3月13日|直冬、国々の大将相共に、東寺、淀、鳥羽の陣を引て、八幡、住吉、天王寺、堺の浦へ落ちる。|『太平記』巻33| | |3月13日|直冬、国々の大将相共に、東寺、淀、鳥羽の陣を引て、八幡、住吉、天王寺、堺の浦へ落ちる。|『太平記』巻33|
-|1358|正平13年4月29日|尊氏、癒瘡を患い、逝去する。(54歳)|『太平記』巻33+|1358|正平13年4月29日&br;延文3年|尊氏、癒瘡を患い、逝去する。(54歳)|『太平記』巻33| 
-| |延文3年| | +|1361|正平16年7月12日&br;康安元年|山名時氏、嫡子師氏(師義)、次男中務大輔、出雲、伯耆、因幡3箇所の勢3千騎を率いて美作へ発向す。| |
-|1361|正平16年7月12日|山名時氏、嫡子師氏(師義)、次男中務大輔、出雲、伯耆、因幡3箇所の勢3千騎を率いて美作へ発向す。| | +
-| |康安元年| | |+
| | |名木木山二箇条、篠向の城、大見丈ノ城、菩提寺ノ城、小原ノ城大野城、六箇所の城は一矢も射ず降参する。| | | | |名木木山二箇条、篠向の城、大見丈ノ城、菩提寺ノ城、小原ノ城大野城、六箇所の城は一矢も射ず降参する。| |
| | |林野、妙見二ノ城は20日あまりこらえたるが、山名方にひきいれられる。| | | | |林野、妙見二ノ城は20日あまりこらえたるが、山名方にひきいれられる。| |
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** [#yad6383f] ** [#yad6383f]
-*48、&aname(nen048);時氏は播磨に入り義詮を討ち、その後丹波へでて仁木頼章の佐野城を打落とす計画であったが、越中の桃井直常、越前の斯波高経より飛脚が到来して、時氏に急ぎ京都へ攻上ってほしい、同時に北陸からも攻上る由の知らせを受け、時氏は急據、上洛することになった。 -*48、&aname(nen048);時氏は播磨に入り義詮を討ち、その後丹波へでて仁木頼章の佐野城を打落とす計画であったが、越中の桃井直常、越前の斯波高経より飛脚が到来して、時氏に急ぎ京都へ攻上ってほしい、同時に北陸からも攻上る由の知らせを受け、時氏は急據、上洛することになった。
--*49、&aname(nen049):太平記の本文では正月12日だが、頭注では12月24日を正しいとしている。+-*49、&aname(nen049);太平記の本文では正月12日だが、頭注では12月24日を正しいとしている。
-*50、&aname(nen050);太平記の本文では正月13日だが、頭注では正月16日となっている。(園太暦) -*50、&aname(nen050);太平記の本文では正月13日だが、頭注では正月16日となっている。(園太暦)
-*51、&aname(nen051);太平記の文では正月13日だが、頭注では正月22日となっている。(園太暦)『山名家譜』P63では、 -*51、&aname(nen051);太平記の文では正月13日だが、頭注では正月22日となっている。(園太暦)『山名家譜』P63では、
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*正平17年(1362)〜正平23年(1368) [#g6238961] *正平17年(1362)〜正平23年(1368) [#g6238961]
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-|1362|正平17年6月3日|山名時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々に勢を分つ。|『太平記』巻38[[*56>#nen056]]+|1362|正平17年6月3日&br;康安2年|山名時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々に勢を分つ。|『太平記』巻38[[*56>#nen056]]|
-| |康安2年| | |+
| | |一方へは、師義(師氏)を大将とし二千余騎、備前、備中|『太平記』巻38[[*57>#nen057]]| | | |一方へは、師義(師氏)を大将とし二千余騎、備前、備中|『太平記』巻38[[*57>#nen057]]|
| | |両国へ発行す。一勢は備前仁萬堀に陣をとりて、敵を待つ。其国の守護の勢、松田・河村・福林寺・浦上等、皆無勢なれば、城に楯籠る。| | | | |両国へ発行す。一勢は備前仁萬堀に陣をとりて、敵を待つ。其国の守護の勢、松田・河村・福林寺・浦上等、皆無勢なれば、城に楯籠る。| |
-|1362|正平17年|一勢は、多治目備中守[[*58>#nen058]]、猶崎を侍大将として千余騎、|②家譜P69[[*61>#nen061]]+| |正平17年|一勢は、多治目備中守[[*58>#nen058]]、猶崎を侍大将として千余騎、|②家譜P69[[*61>#nen061]]|
-| |康安2年| | |+
| | |備中の新見へ打出たる。| | | | |備中の新見へ打出たる。| |
| | |秋庭三郎[[*59>#nen059]]、水も兵粮も沢山なる松山の城へ多治目、猶崎を引入れしかば、当国の守護越後守師秀[[*60>#nen060]]、備前の徳倉の城へ引退く。備前、備中の国人の大半は、時氏に降参せり。| | | | |秋庭三郎[[*59>#nen059]]、水も兵粮も沢山なる松山の城へ多治目、猶崎を引入れしかば、当国の守護越後守師秀[[*60>#nen060]]、備前の徳倉の城へ引退く。備前、備中の国人の大半は、時氏に降参せり。| |
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| | |命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。| | | | |命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。| |
| | |山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。| | | | |山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。| |
-|1363|正平18年4月18日|山名時氏父子伯耆を発し京都に向い、京都につく。同28日に将軍義詮公に拝謁し、則但馬、因幡、伯耆、丹波、美作の五ヶ国を賜り出雲丹後の守護職となる。|『太平記』巻39、②『家譜』P72[[*64>#nen064]]+|1363|正平18年4月18日&br;貞治2年|山名時氏父子伯耆を発し京都に向い、京都につく。同28日に将軍義詮公に拝謁し、則但馬、因幡、伯耆、丹波、美作の五ヶ国を賜り出雲丹後の守護職となる。|『太平記』巻39、②『家譜』P72[[*64>#nen064]]|
-| |貞治2年| | |+
|1366|正平21年|当時は神主=坊主であった。時氏は山名郷でのその任命権を持っていた。| | |1366|正平21年|当時は神主=坊主であった。時氏は山名郷でのその任命権を持っていた。| |
-|1367|正平22年3月29日|中殿の御会にあたり、山名氏清は将軍義詮(よしあき)の帯剣の役として従った。時氏は幕府の引付衆となる。|『太平記』巻40+|1367|正平22年3月29日&br;貞治6年|中殿の御会にあたり、山名氏清は将軍義詮(よしあき)の帯剣の役として従った。時氏は幕府の引付衆となる。|『太平記』巻40|
-| |貞治6年| | |+
| |12月7日|義詮、逝去す。(38歳)|『太平記』巻40| | |12月7日|義詮、逝去す。(38歳)|『太平記』巻40|
-|1368|正平23年4月17日|山名時氏・三男氏冬・四男氏清は将軍義満の元服に際し、剣、鞍、馬を献ず。|「鹿苑院殿御元服記」(『後鑑』)[[*65>#nen065]]+|1368|正平23年4月17日&br;応安元年|山名時氏・三男氏冬・四男氏清は将軍義満の元服に際し、剣、鞍、馬を献ず。|「鹿苑院殿御元服記」(『後鑑』)[[*65>#nen065]]|
-| |応安元年| | |+
| |5月15日|山名時氏、并子息中務少輔、御所において始行。|「花営三代記」(『群書類従』)[[*66>#nen066]]| | |5月15日|山名時氏、并子息中務少輔、御所において始行。|「花営三代記」(『群書類従』)[[*66>#nen066]]|
| |8月28日|日吉神社神輿入洛の風聞。朝廷延暦寺の訴訟を裁許せ|『後愚昧記』| | |8月28日|日吉神社神輿入洛の風聞。朝廷延暦寺の訴訟を裁許せ|『後愚昧記』|
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| |12月25日|義満、諸将を召て軍の評定。[[*89>#nen089]]|『明徳記』| | |12月25日|義満、諸将を召て軍の評定。[[*89>#nen089]]|『明徳記』|
|1391|元中8年12月26日|将軍方の布陣決まる。|『明徳記』| |1391|元中8年12月26日|将軍方の布陣決まる。|『明徳記』|
-| |明徳2年| | | +| | |○今川泰範&br; 赤松顕則、佐々木高満都合八百余騎東寺&br;○義満一色左京大夫亭、中ノ御門堀川の宿所| |
-| | |○今川泰範| | +
-| | |赤松顕則、佐々木高満都合八百余騎東寺| | +
-| | |○義満一色左京大夫亭、中ノ御門堀川の宿所| |+
| | |○其外の諸軍勢内野| | | | |○其外の諸軍勢内野| |
| | |・細川常久、頼元、二千余騎中ノ御門西大宮右近ノ馬場前| | | | |・細川常久、頼元、二千余騎中ノ御門西大宮右近ノ馬場前| |


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