13: 2015-01-01 (木) 22:56:29 admin ソース 14: 2015-01-01 (木) 23:10:22 admin ソース
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| | |・山名氏清・一色詮範と懸け合う。山名氏家勢・勘解由小路義重、赤松義則勢と揉合う。氏家の勢の中、家喜九郎等三十八人討死。氏家、猪熊を南へ落ち行く。| | | | |・山名氏清・一色詮範と懸け合う。山名氏家勢・勘解由小路義重、赤松義則勢と揉合う。氏家の勢の中、家喜九郎等三十八人討死。氏家、猪熊を南へ落ち行く。| |
| | |・義満、大宮の合戦に出陣。氏清には、山名の小次郎、山名禅正以下十八騎踏み止まり付添う。山名氏清、一色詮範父子に打ちとられる。山名小次郎討死。[[*99>#nen099]]| | | | |・義満、大宮の合戦に出陣。氏清には、山名の小次郎、山名禅正以下十八騎踏み止まり付添う。山名氏清、一色詮範父子に打ちとられる。山名小次郎討死。[[*99>#nen099]]| |
- +- *85、&aname(nen085);『後鑑』では『明徳記』を引用しているが、去17日を11月17日としている。
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--*85、&aname(nen085);『後鑑』では『明徳記』を引用しているが、去17日を11月17日としている。+
満幸が挙兵の準備をしていたころ、氏清の行動について『明徳記』には、紀伊国へ赴き、舎兄義理合戦への同意を説く。義理は氏清に思い止まるよう諫めるが、聞きいれず、義理も同意し、一門悉く同心して攻め上がらんと沙汰しける。と書かれている。 満幸が挙兵の準備をしていたころ、氏清の行動について『明徳記』には、紀伊国へ赴き、舎兄義理合戦への同意を説く。義理は氏清に思い止まるよう諫めるが、聞きいれず、義理も同意し、一門悉く同心して攻め上がらんと沙汰しける。と書かれている。
--*86、&aname(nen086);中務大輔を『後鑑』では氏冬とし、『系図纂要』では氏冬の注に明徳2年12月23日攻落とある。しかし、氏冬は応安3年正月5日に死去したことが、『花営三代記』にあり、明徳の乱に参加したのは氏冬の子、氏家であろう。『新修大阪市史』では『氏家が京都を引き払って山城八幡に逃亡したのが山名側の宣戦となった。』と書かれている。第2巻P427 +- *86、&aname(nen086);中務大輔を『後鑑』では氏冬とし、『系図纂要』では氏冬の注に明徳2年12月23日攻落とある。しかし、氏冬は応安3年正月5日に死去したことが、『花営三代記』にあり、明徳の乱に参加したのは氏冬の子、氏家であろう。『新修大阪市史』では『氏家が京都を引き払って山城八幡に逃亡したのが山名側の宣戦となった。』と書かれている。第2巻P427 
--*87、&aname(nen087);義理のことを匠作と記述している。 +- *87、&aname(nen087);義理のことを匠作と記述している。 
--*88、&aname(nen088);『明徳記』に、氏清の妻が12月24日の朝氏清と分かれ『今は八幡まで御出とて』と書かれている。 +- *88、&aname(nen088);『明徳記』に、氏清の妻が12月24日の朝氏清と分かれ『今は八幡まで御出とて』と書かれている。 
--*89、&aname(nen089);『山名家譜』には12月25日の軍の評定で決定した将軍方の布陣を記されている。 +- *89、&aname(nen089);『山名家譜』には12月25日の軍の評定で決定した将軍方の布陣を記されている。 
-今川泰範 八百騎 久我畷 +|TC:transparent|||c 
-細川常久、頼元  二千騎|中御門大宮表| +|今川泰範|八百騎|久我畷| 
-赤松義則 七百騎 西大宮朱雀 +|細川常久、頼元 |二千騎|中御門大宮表| 
-畠山基国 八百騎 神祇官の北、 +|赤松義則|七百騎|西大宮朱雀| 
-大内義弘 五百騎 二条大宮 +|畠山基国|八百騎|神祇官の北| 
-一色詮範 三百騎 猪熊 +|大内義弘|五百騎|二条大宮| 
-佐々木詮高 七百騎 一条大路のかたわら+|一色詮範|三百騎|猪熊| 
-勘解由小路 +|佐々木詮高|七百騎|一条大路のかたわら、勘解由小路
-時熈兄弟 二百騎 将軍家の本陣に備う+|時熈兄弟|二百騎|将軍家の本陣に備う|
--*90、&aname(nen090);満幸と氏清との間の合戦は27日と定めていたが、河内国守護代遊佐国長が17ヶ所に城郭を構え、和泉、紀伊国の軍勢が通行するのを妨げたので、八幡の勢がそろわず、合戦を延期せざるを得なかった。 +- *90、&aname(nen090);満幸と氏清との間の合戦は27日と定めていたが、河内国守護代遊佐国長が17ヶ所に城郭を構え、和泉、紀伊国の軍勢が通行するのを妨げたので、八幡の勢がそろわず、合戦を延期せざるを得なかった。 
--*91、&aname(nen091);久下・長澤の者共30余名前夜に降参の打合わせをし、一番先に桂の瀬をわたったところ、上総介(山名高義)の兵共が怪しんで、とりかこんだが、久下・長澤の二人は逸物の馬で馳け抜けて管領の陣へ入り、残りの者共は討ちとられた。 +- *91、&aname(nen091);久下・長澤の者共30余名前夜に降参の打合わせをし、一番先に桂の瀬をわたったところ、上総介(山名高義)の兵共が怪しんで、とりかこんだが、久下・長澤の二人は逸物の馬で馳け抜けて管領の陣へ入り、残りの者共は討ちとられた。 
--*92、&aname(nen092);『群書類従』所収『明徳記』には上総介が誰であったか記されていないが、近衛家蔵『明徳記』では上総介高義となっており、『山名家譜』では上総介義数となっている。 +- *92、&aname(nen092);『群書類従』所収『明徳記』には上総介が誰であったか記されていないが、近衛家蔵『明徳記』では上総介高義となっており、『山名家譜』では上総介義数となっている。 
--*93、&aname(nen093);最初の計画では、満幸の勢は西ノ京口より攻め入り、土屋党は、敵の背後から襲う計画であったが、29日夜、満幸ら五騎が途中道に迷い梅津の陣と合流した頃にはすでに上総守、小林が討死したとの報告を聞き、計画を変更し、土屋党も一手になって攻めることになった。 +- *93、&aname(nen093);最初の計画では、満幸の勢は西ノ京口より攻め入り、土屋党は、敵の背後から襲う計画であったが、29日夜、満幸ら五騎が途中道に迷い梅津の陣と合流した頃にはすでに上総守、小林が討死したとの報告を聞き、計画を変更し、土屋党も一手になって攻めることになった。 
--*94、&aname(nen094);満幸既に討たれんと見ゆる時、松田将監引き返して支え、腹をかき切っている間に満幸は桂川を馳せ渡った。 +- *94、&aname(nen094);満幸既に討たれんと見ゆる時、松田将監引き返して支え、腹をかき切っている間に満幸は桂川を馳せ渡った。 
--*95、&aname(nen095);氏清は西の七條へ打出たところで上総介、小林の討死の報を受け、二條大路、同じく尸を曝すべしと馬を早めた。 +- *95、&aname(nen095);氏清は西の七條へ打出たところで上総介、小林の討死の報を受け、二條大路、同じく尸を曝すべしと馬を早めた。 
--*96、&aname(nen096);氏家は因幡勢を率いて猪熊を上に攻め入り、二條の大路で氏清の勢と一手になる計画であった。赤松勢は一旦引き下がったが、二條猪熊は破られず、又、本陣に馳集まって、終に氏清軍に勝ったと天下に流布した。 +- *96、&aname(nen096);氏家は因幡勢を率いて猪熊を上に攻め入り、二條の大路で氏清の勢と一手になる計画であった。赤松勢は一旦引き下がったが、二條猪熊は破られず、又、本陣に馳集まって、終に氏清軍に勝ったと天下に流布した。 
--*97、&aname(nen097);時熈、既に討たると見えける時、垣屋弾正、滑良の二人が助けに入り、弾正、滑良は討死。時熈は大内勢の陣に馳入る。 +- *97、&aname(nen097);時熈、既に討たると見えける時、垣屋弾正、滑良の二人が助けに入り、弾正、滑良は討死。時熈は大内勢の陣に馳入る。 
--*98、&aname(nen098);氏清は一旦丹波へ引き下り、分国の勢を集め、義理を待って、再度都へ攻め入るよう二人の息子を諭した。 +- *98、&aname(nen098);氏清は一旦丹波へ引き下り、分国の勢を集め、義理を待って、再度都へ攻め入るよう二人の息子を諭した。 
--*99、&aname(nen099);氏清の勢のうち、金野、高山、宇屋、蓮池も落ちてゆき、氏清には、十八騎だけ付添うだけになった。+- *99、&aname(nen099);氏清の勢のうち、金野、高山、宇屋、蓮池も落ちてゆき、氏清には、十八騎だけ付添うだけになった。
*元中9年(1392) [#t1143616] *元中9年(1392) [#t1143616]


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