23: 2015-01-08 (木) 16:50:19 admin ソース 24: 2015-01-09 (金) 17:35:39 admin ソース
Line 438: Line 438:
#back(,right,0) #back(,right,0)
-*正平17年(1362)?正平23年(1368) [#g6238961]+*正平17年(1362)~正平23年(1368) [#g6238961]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1362|正平17年6月3日&br;康安2年|山名時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々に勢を分つ。|『太平記』巻38[[*56>#nen056]]| |1362|正平17年6月3日&br;康安2年|山名時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々に勢を分つ。|『太平記』巻38[[*56>#nen056]]|
-|~|~|一方へは、師義(師氏)を大将とし二千余騎、備前、備中|『太平記』巻38[[*57>#nen057]]+|~|~|一方へは、師義(師氏)を大将とし二千余騎、備前、備中両国へ発行す。一勢は備前仁萬堀に陣をとりて、敵を待つ。其国の守護の勢、松田・河村・福林寺・浦上等、皆無勢なれば、城に楯籠る。|『太平記』巻38[[*57>#nen057]]| 
-|~|~|両国へ発行す。一勢は備前仁萬堀に陣をとりて、敵を待つ。其国の守護の勢、松田・河村・福林寺・浦上等、皆無勢なれば、城に楯籠る。|+|~|正平17年|一勢は、多治目備中守[[*58>#nen058]]、猶崎を侍大将として千余騎、備中の新見へ打出たる。|[[②家譜P69>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000069]] [[*61>#nen061]]|
-|~|正平17年|一勢は、多治目備中守[[*58>#nen058]]、猶崎を侍大将として千余騎、|[[②家譜P69>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000069]] [[*61>#nen061]]+
-|~|~|備中の新見へ打出たる。||+
|~|~|秋庭三郎[[*59>#nen059]]、水も兵粮も沢山なる松山の城へ多治目、猶崎を引入れしかば、当国の守護越後守師秀[[*60>#nen060]]、備前の徳倉の城へ引退く。備前、備中の国人の大半は、時氏に降参せり。|| |~|~|秋庭三郎[[*59>#nen059]]、水も兵粮も沢山なる松山の城へ多治目、猶崎を引入れしかば、当国の守護越後守師秀[[*60>#nen060]]、備前の徳倉の城へ引退く。備前、備中の国人の大半は、時氏に降参せり。||
-|~|~|備後へは富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞、八百騎[[*62>#nen062]]|『太平記』巻38[[*63>#nen063]]+|~|~|備後へは富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞、八百騎[[*62>#nen062]]にて出雲国より国中へ打出たるに、江田、廣澤、三吉の一族馳著きける間、程無く二千余騎に成りにけり。|『太平記』巻38[[*63>#nen063]]|
-|~|~|て出雲国より国中へ打出たるに、江田、廣澤、三吉の一族馳著きける間、程無く二千余騎に成りにけり。||+
|~|~|宮下野入道の城を攻めんとする時、石見国より足利直冬五百騎にて富田に力を合わせ戦はんとする。直冬、富田とともに宮下野入道に打ち負ける。|| |~|~|宮下野入道の城を攻めんとする時、石見国より足利直冬五百騎にて富田に力を合わせ戦はんとする。直冬、富田とともに宮下野入道に打ち負ける。||
-|~|~|但馬国へは山名師義・氏冬・小林重長を侍大将にて二|『太平記』巻38| +|~|~|但馬国へは山名師義・氏冬・小林重長を侍大将にて二千余騎、大山を経て播磨へ出ようとしたが、但馬国守護仁木頼勝等将軍方が楯籠る城が未だ落ちず、但馬の宮方の住人は我国をさしおいて、他国へ越えられないので、しかたなく小林の勢だけで、播磨へ出ようとしたが、赤松直頼が大山に城を構えて通路を塞いだので、小林は丹波へ出て、和久郷に陣を取った。|『太平記』巻38| 
-|~|~|千余騎、大山を経て播磨へ出ようとしたが、但馬国守護仁木頼勝等将軍方が楯籠る城が未だ落ちず、但馬の宮方の住人は我国をさしおいて、他国へ越えられないので、しかたなく小林の勢だけで、播磨へ出ようとしたが、赤松直頼が大山に城を構えて通路を塞いだので、小林は丹波へ出て、和久郷に陣を取った。|| +|~|~|丹波の守護仁木義尹が待ちかまえていて、また将軍の命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。|[[②家譜P69~70>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000069]]|
-|~|~|丹波の守護仁木義尹が待ちかまえていて、また将軍の|[[②家譜P69~70>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000069]]+
-|~|~|命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。||+
|~|~|山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。|| |~|~|山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。||
|1363|正平18年4月18日&br;貞治2年|山名時氏父子伯耆を発し京都に向い、京都につく。同28日に将軍義詮公に拝謁し、則但馬、因幡、伯耆、丹波、美作の五ヶ国を賜り出雲丹後の守護職となる。|『太平記』巻39、[[②『家譜』P72>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000072]] [[*64>#nen064]]| |1363|正平18年4月18日&br;貞治2年|山名時氏父子伯耆を発し京都に向い、京都につく。同28日に将軍義詮公に拝謁し、則但馬、因幡、伯耆、丹波、美作の五ヶ国を賜り出雲丹後の守護職となる。|『太平記』巻39、[[②『家譜』P72>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000072]] [[*64>#nen064]]|
Line 674: Line 669:
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1392|元中9年正月1日&br;明徳3年|義満、一色詮範亭より室町御所へ還る。|『明徳記』| |1392|元中9年正月1日&br;明徳3年|義満、一色詮範亭より室町御所へ還る。|『明徳記』|
-|~|正月4日|乱後の論功行賞がおこなわれる。[[*100>#nen100]]|『明徳記』| +|~|正月4日|乱後の論功行賞がおこなわれる。&br; 山城国(畠山基国)丹波国(細川頼元)&br; 丹後国(一色満範)美作国(赤松義則)&br; 和泉国・紀伊国(大内義弘)但馬国(山名時熈)&br; 伯耆国(山名氏幸)隠岐国・出雲国(佐々木高詮)&br; 一色詮範には、小国の守護より、大庄の思符にはしかずとて、若狭国在所稲積(今富)ノ庄を勲功の庄とす。[[*100>#nen100]]|『明徳記』|
-|~|正月4日|山城国(畠山基国)丹波国(細川頼元)&br;丹後国(一色満範)美作国(赤松義則)&br;和泉国・紀伊国(大内義弘)但馬国(山名時熈)&br;伯耆国(山名氏幸)隠岐国・出雲国(佐々木高詮)&br;一色詮範には、小国の守護より、大庄の思符にはしかずとて、若狭国在所稲積(今富)ノ庄を勲功の庄とす。||+
|~|正月10日|細川頼元御教書を下し、山名追討の事出雲国須波部(諏訪)一族に令す。[[*101>#nen101]]|「諸家文書纂」(『後鑑』)、『明徳記』(日付の記載なし)| |~|正月10日|細川頼元御教書を下し、山名追討の事出雲国須波部(諏訪)一族に令す。[[*101>#nen101]]|「諸家文書纂」(『後鑑』)、『明徳記』(日付の記載なし)|
|~|2月13日|大内義弘、山名義理征伐のため出発。|『明徳記』[[*102>#nen102]]| |~|2月13日|大内義弘、山名義理征伐のため出発。|『明徳記』[[*102>#nen102]]|
Line 709: Line 703:
#back(,right,0) #back(,right,0)
-*明徳4年(1393)?応永5年(1398) [#z24c897f]+*明徳4年(1393)~応永5年(1398) [#z24c897f]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1393|明徳4年2月5日|山名満幸・塩冶遠江入道、出雲国三刀屋代に押寄せ合戦。城主須和部菊松丸、満幸等を追い払う。|「諸家文書纂」(『後鑑』)| |1393|明徳4年2月5日|山名満幸・塩冶遠江入道、出雲国三刀屋代に押寄せ合戦。城主須和部菊松丸、満幸等を追い払う。|「諸家文書纂」(『後鑑』)|


トップ   差分 バックアップ リロード印刷に適した表示   全ページ一覧 単語検索 最新ページの一覧   ヘルプ   最新ページのRSS 1.0 最新ページのRSS 2.0 最新ページのRSS Atom Powered by xpWiki
Counter: 5439, today: 1, yesterday: 0