23: 2015-04-04 (土) 21:32:15 admin ソース 24: 2015-04-09 (木) 11:19:53 admin ソース
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|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/516.jpg,mh:240,山名家譜 巻之八);| |=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/516.jpg,mh:240,山名家譜 巻之八);|
|[[清和天皇>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000001]]、[[貞純親王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000002]]、[[経基王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000003]]、[[源満仲>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000006]]、[[源頼信>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000008]]、[[源頼義>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#o010]]、[[源義家>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000013]]、[[源義國>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]、[[源義重>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000019]]| |[[清和天皇>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000001]]、[[貞純親王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000002]]、[[経基王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000003]]、[[源満仲>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000006]]、[[源頼信>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000008]]、[[源頼義>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#o010]]、[[源義家>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000013]]、[[源義國>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]、[[源義重>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000019]]|
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 +**PDFデータ [#bf12fb31]
 +-[[山名家譜第一巻PDFデータ>http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/1117.pdf]]
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天徳二年(961・応和元年)戊午十一月二十四日西八条の館にて逝去。館の側に池(龍神池)が有り、そこに廟所を建て、大通寺遍照心院(現・六孫王神社)と言う。 天徳二年(961・応和元年)戊午十一月二十四日西八条の館にて逝去。館の側に池(龍神池)が有り、そこに廟所を建て、大通寺遍照心院(現・六孫王神社)と言う。
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 +経基王に八男一女あり
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*P9 [#p0000009] *P9 [#p0000009]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/525.jpg,mw:640,山名家譜 P009);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/525.jpg,mw:640,山名家譜 P009);|
-国に至り上総介が籠る所の千葉城をせむ忠常終に利なくして降参せり頼信則忠常を供ない帰洛ありしに美濃国において忠常病死せり頼信忠常を労わり恤(あわれ)むによりて彼が一族門葉の者ども其仁心に感伏して永く源家の家僕となる頼信此度の軍功によりて従四位上に叙せらる此余頼信一世の勇功甚だ多し永承三年戊子九月朔日に卒去あり法名蓮心と号す河内国通法寺に葬る+頼信が忠常を伴い帰京の途中、美濃国にて忠常が病死する。頼信は忠常を哀れみ、忠常の同門は頼信の情け深い心に感服し、永く源氏の家臣として仕える。 
 +頼信はこの軍功により従四位上に叙せられる。この他、頼信の武功は数多し。 
 +永承三年(1048)戊子九月一日に逝去。河内国通法寺に葬る。
-頼信に五男一女あり長男は伊豫守頼義嫡流相続なり次は肥後守頼清次は掃部助頼季次は河内冠者頼任次は常磐五郎義政というともに信濃国に居住して子孫繁栄す是を+頼信に五男一女有り。 
 +①長男は伊予守・頼義、嫡流相続。 
 +②次は肥後守・頼清(信濃源氏村上氏の祖)。 
 +③次は掃部助(かもんのすけ、掃部寮(宮中行事の設営・清掃を行う部署)の次官)・頼季(信濃源氏井上氏の祖)。④次は河内(六位で無官の者)・頼任。 
 +⑤次は常磐五郎・義政。(頼信が平忠常の乱平定により、東国に勢力を張り、頼季も信濃に領地を得ていた)兄弟は信濃国に居住し子孫繁栄し、これを信濃源氏という。
*P10 [#p0000010] *P10 [#p0000010]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/526.jpg,mw:640,山名家譜 P010);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/526.jpg,mw:640,山名家譜 P010);|
-信濃源氏という女子は甲斐守源為満の妻なり 
-一、''頼義'' 従四位上 伊豫守 +女子は甲斐守・源為満の妻なり。 
-頼義は鎮守府将軍頼信の嫡男にして母は一条院の官女修理命婦なり長保五年癸卯四月九日に誕生あり長和二年癸丑に元服あり正六位に叙し兵庫允に任ず永承六年辛卯に陸奥国の押 + 
-領使安部頼良を追討の為に陸奥守に任じ鎮守府将軍に補して節刀を賜り東国に下向あり同六月廿五日に相模国に至り鎌倉郡由比郷に石清水の八幡宮を勧請あり幡(はた)を亀谷の山上に納めらる後世に至りて此山をよびて源氏山とも又は御幡山とも+一、頼義 従四位上 伊野守 
 + 
 +頼義は鎮守府将軍・頼信の嫡男。母は一条天皇の皇后(中宮)の女官・修理命婦(しゅしゅりみょうぶ)。 
 +長保五年(1003)癸卯四月九日に誕生。長和二年(1013)癸丑に元服し正六位に叙せられ、兵庫允に任命される。 
 + 
 +永承六年(1051)辛卯、陸奥国の押領使・安部(倍)頼良追討(前九年の役)の為に陸奥守に任じられ、併せて鎮守府将軍にも任命され、天皇より節刀を賜り(石清水八幡宮にて戦勝祈願を行い)東国に向かう。 
 + 
 +同六月二十五日に相模国鎌倉郡由比卿に石清水八幡を勧請し、源氏の白旗を亀山山上に納める。この山を後生、源氏山又は、御幡山とも言う。
*P11 [#p0000011] *P11 [#p0000011]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/527.jpg,mw:640,山名家譜 P011);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/527.jpg,mw:640,山名家譜 P011);|
-いうなり同七月に奥州に至る安部頼良降参を乞て名を頼時と改む是によりて奥州しばらく平均せり天喜二年甲午八月に阿部頼時が子厨川治郎貞任叛逆を企て衣川の柵に楯籠る同九月に頼義大軍を卒(率)て貞任を攻うつ然るに頼義の国任終るによりて再任の宣旨を蒙り + 
-て奥州にあり康平五年壬寅十一月廿九日に終に阿部貞任が一族を亡し同六年癸卯二月に帰洛あり相州に至りて八幡宮の社を由比郷に建らる同八月廿五日勧賞の除目行われて頼義を伊豫守に任じ正四位下に叙せらる治暦元年乙巳九月朔日に薙髪あり法名を信海と号す世の人+同七月に奥州に至り、安部(倍)頼良は帰順を願い、(源頼義との同名を憚り)名を頼時と改める。(一条天皇の皇后・藤原彰子の病気平癒祈願の為、安部氏にも大赦が出されていた。) 
 +これにより奥州はしばらくの間、平穏となる。 
 + 
 +天喜二年(1054)甲午八月に阿部(安倍)頼時の子、厨川治(次)郎貞任が謀叛を企て、衣川の柵(砦)に立て籠もる。 
 +同九月に頼良は大軍を率いて貞任を攻めるが、陸奥守の任期を迎えるが、再任され奥州にとどまる。 
 +康平五年(1062)壬寅十一月二十九日に阿部(安倍)貞任の一族を破り、康平六年(1063)癸卯二月に帰京。途中、相州に立ち寄り由比郷に八幡宮を建立。同八月二十五日に頼義の武功を賞して伊予守に任じられ、正四位下に叙せられる。 
 + 
 +治暦元年(1065)乙巳九月一日に出家し法名を信海と称する。世の人々は頼義を入道将軍と呼ぶ。
*P12 [#p0000012] *P12 [#p0000012]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/528.jpg,mw:640,山名家譜 P012);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/528.jpg,mw:640,山名家譜 P012);|
-入道将軍と称す永保二年壬戍十一月三日に卒去あり時に八十八歳なり河内国通法寺に葬る 
-頼義に五男三女ある長男は陸奥守義家嫡流相続なり次は左衛門尉義総次は常陸介義光という甲斐源氏の大祖なり次は女子にして尾張守藤原の時房の妻なり次は西蓮坊快誉という三井寺に住す次は女子にして出羽守平正済が妻なり次は女子にして海道小太郎成衡が妻なり次は三嶋四郎親清という是は頼義伊予国任国の時に彼国の押領使越智の冠者親経が女の腹に出生あり後に親経が家を相続あり則河野+永保二年(1082)壬戌十一月三日に八十八歳で逝去。河内国通法寺に葬る。 
 + 
 +頼義に五男三女あり。 
 +①長男は陸奥守・義家(八幡太郎)。 
 +②次は左(右)衛門尉・義総(綱)(加茂次郎)。 
 +③次は常陸介・義光(新羅三郎)と言い、甲斐源氏の太祖。 
 +④次は女子にして尾張守・藤原時房の妻。 
 +⑤次は三井寺の西蓮坊快誉(伊予阿闍梨)。 
 +⑥次は女子、出羽守・平正済の妻。 
 +⑦次は女子、海道小太郎成衡の妻。 
 +⑧次は三嶋四郎親清と言い、頼義が伊予守の時に伊予国押領使・越智冠者(河野)親経の娘を母に出生。後に(河野)親経の家を相続し河野四郎通信(伊予水軍に将)の祖父。
*P13 [#p0000013] *P13 [#p0000013]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/529.jpg,mw:640,山名家譜 P013);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/529.jpg,mw:640,山名家譜 P013);|
-四郎通信が祖父なり+一、義家 正四位上 陸奥守
-一、''義家'' 正四位上 陸奥守 +義家は鎮守府将軍・頼義の嫡男、長暦二年(1039)戊牛に誕生。幼名を源太と言い、母は上野介・平直方の嫡女(正妻が産んだ長女)。 
-義家は鎮守府将軍頼義の嫡男にして長暦二年戊寅七月十四日に誕生あり少名を源太という母は上野介平直方の嫡女なり永承三年戊午に石清水八幡宮の神殿において元服あり康平六年癸卯に去年十一月廿九日に奥州において父頼義とともに戦功あるによりて従五位下に叙し出羽守に任ぜらる承暦三年己未八月八日に勅を蒙り美濃国に発向しで八島佐渡守源重宗多田伊豆守源國房と青野が原において合戦あり重宗國房を誅戮あり永保元年辛酉六月+永承三年(1048)戊牛石清水八幡宮にて元服。 
 +康平五年(1057)十一月二十九日に奥州にて安倍貞任討伐で、父・頼義と共に戦功を挙げた事により、康平六年(1063)癸卯に従五位に除せられ出羽守に任命される。 
 +承暦三年(1079)己未八月八日に勅命を受け美濃国に向かい八島佐渡守・源重宗(満政の孫)と、多田伊豆守・源国房(満仲の曽孫・頼光の孫)が(美濃国多芸郡の青野ヶ原で大規模な合戦(私闘)を行い、重宗・国房を成敗する。 
 +(重宗・国房は大規模な私闘を行った事を朝廷から咎められ、償還を命じられるも、重宗は従わず、義家が差し向かわされた)
*P14 [#p0000014] *P14 [#p0000014]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/530.jpg,mw:640,山名家譜 P014);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/530.jpg,mw:640,山名家譜 P014);|
-に陸奥守に任じ鎮守府将軍に補し奥州に下向あり時に相州鎌倉に至り八幡宮を修復ありて同八月に奥州に至り国府に居住せらる此時奥州の住人清原真人武則が子武衡家衡清衡兄弟確執の事あり義家是を和睦せしめらるといえども家衡曽(かつ)て義家の下知に随わず出羽国沼の柵に楯籠る応徳三年丙寅の春に国任すでに終る国中の人民みな義家の仁和の徳になつきて再任を望む事しきりなるによりて再任の宣旨を蒙りて奥州に在留ありて国中を巡視あり出羽の地におもむかんとせらる時に家衡軍勢を引具して出羽陸奥の境に+ 
 +永保元年(1081)辛酉六月陸奥守に任じられ、鎮守府将軍(陸奥・出羽両国の兵を指揮し、領国の防衛を統括した)に補任される。奥州に向かう途中に、相州鎌倉にて八幡宮を修復する。同八月奥州に着任。 
 +清原真人武則(真人は姓、清原氏は出羽の有力豪族)の子、武衡・家衡・清衡三兄弟の間に争いごとが有り、義家はこれを和解させようと試みたが、家衡は義家の裁定全くに従わず、出羽国沼の柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に立て籠もる。 
 + 
 +応徳三年(1086)丙寅の春に陸奥守の任が終わるが、国中の人々が義家の人徳を慕い強く再任を願う。再任の宣旨が下りて奥州に在留し、国内の巡視を行う。 
 +出羽の視察へと赴いた折に、家衡が軍勢を率いて出羽・陸奥の国境まで出て、義家を待ち構えるが、
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|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/531.jpg,mw:640,山名家譜 P015);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/531.jpg,mw:640,山名家譜 P015);|
-出て戦いを決せんとす義家此事にあらざるのゆえに境を越ずして国府に帰らる武衡此事を聞て出羽に赴き家衡とともに謀をなして仙北金沢の城に楯籠る是によりて義家やむ事を得ずして軍兵を卒(率)て合戦あり寛治五年辛未十一月に終に武衡家衡が一族を討亡して奥羽の両国を平均に治らる此時に源家の武威を恐れ関東の名家勇士多く其旗下に属して永く源家の家人となる嘉保二年乙亥の秋月華門に候して鳴絃の法を行わる則ち内昇殿を聴され正四位上に叙せらる長治二年乙酉七月四日に病によりて薙髪あり法名信了という同八月十八日+ 
 +義家は事を構えず国境を越えずに国府に戻る。 
 +武衡はこの事を聞き、出羽に赴いては家衡と共に謀をして出羽金沢(秋田県横手市)の城に立て籠もる。義家はやむを得ず兵を率いて、合戦に臨む。 
 + 
 +寛治五年(1091)辛未十一月に武衡・家衡の一党を打ち破り、陸奥出羽両国に平穏をもたらす。 
 +この時の源氏の武威に畏れ入り関東の多くの名家勇士は源氏の麾下(指揮下)に入り、永く源氏の家臣となる。 
 + 
 +嘉保二年(1095)乙亥の秋、宮中月華門に参上し「鳴弦の儀」(弓を使用する宮中退魔儀礼)を勤める。即ち正四位に叙せられ内昇殿(宮中清涼殿への昇殿)を聴(ゆる)される。 
 + 
 +長治二年(1105)乙酉七月四日に病により出家し、法名を信了と名乗り、同八月十八日に逝去、河内国通法寺に葬る。
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-に卒去あり河内国通法寺に葬る 
-義家に七男あり長男は左兵衛尉義宗という早世なり次は対馬守義親という康和二年庚辰に勅命を叛き同三月廿一日に擒となり同月廿九日に出雲国に配流せらる永久二年正月廿日に出雲国において誅せらる然れども子孫繁多なり義親の五男治部尉為義は義家の養子として家業を継ぐ即ち右大将頼朝の祖父なり義家の三男を河内守義忠という天仁元年戊子二月七日に叔父義光の為に害せらる次は加賀介義國次は左兵衛尉義+ 
 +義家に七男あり。 
 +①長男は左衛門尉・義宗。若くして死する。 
 +②次は対馬守・義親と言う。康和二年(1100)庚辰に勅命に背き、同三月二十九日に出雲国に流罪となる。永久二年(1114)正月二十日に出雲国にて死罪となる。然れども子孫は多く、義親の五男為義は義家の養子となり家を継ぐ。為義は右大将(源)頼朝の祖父なり。 
 +③三男は河内守・義忠。天仁元(二)年(1108)戊子二月三日に叔父義光(義家の弟)に暗殺される。 
 +④次は加賀介・義国。 
 +⑤次は左兵衛尉・義時。 
 +⑥次は陸奥六郎・義隆。 
 +⑦次は出家し、増珍と言う。
*P17 [#p0000017] *P17 [#p0000017]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/533.jpg,mw:640,山名家譜 P017);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/533.jpg,mw:640,山名家譜 P017);|
-  時次は陸奥六郎義隆次は出家 
-  増珍と号す 
-一、''義國'' 加賀介 従五位下 式部太夫 +一、義国 加賀介  式部大夫 
- 義國は鎮守府将軍義家の四男にして +     従五位下 
- 永保三年癸亥七月に誕生あり母は +義国は鎮守府将軍・義家の四男。永保三年(1083)癸亥七月に誕生。母は中宮亮(すけ)・藤原有綱の娘。 
- 中宮亮藤原有綱の女なり寛治六年 +寛治六年(1092)壬申正月に元服し、陸奥四郎と名乗る。 
- 壬申正月に元服あり陸奥四郎と号す +康和元年(1099)己卯に上皇の御所を警備する北面の武士として仕え、従六位に叙し、兵庫允に任命される。 
- 康和元年己卯に院の北面に候して +同五年(1103)癸未八月帯刀長(たちはきのおさ、皇太子の警護官の長)に任命。 
- 従六位に叙し兵庫允に任ず同五年癸 +天治元年(1124)甲辰九月に加賀介に任命され従五位に叙す。(一説には、この時に式部大夫、又曰く、下野守に任命されたとも言う) 
- 未八月に帯刀長に補せらる天治元年 +久安六年(1150)庚午八月参陣の途中、右大将(藤原)実能(従一位)一行の行列に遭遇し、義国は不注意から下馬の礼を失し、実能公はその無礼を咎めら、
- 甲辰九月に加賀介に任じ従五位下に叙 +
- す(或日此時に式部太夫に任ず 又日下野守に任ずという)久安六年庚午八月 +
- 参陣の路次において右大将実能公に参り +
- 逢て義國あやまりて下馬におよばず +
- 実能公其狼籍をとがめる随身の侍等+
*P18 [#p0000018] *P18 [#p0000018]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/534.jpg,mw:640,山名家譜 P018);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/534.jpg,mw:640,山名家譜 P018);|
- はせよりて義國を馬より控落すに 
- よりて義國の良等家人大に此事 
- を憤りて実能公の本所に馳向て火を 
- 放て焼払うこれによりて義國勅勘 
- をこうむりて下野国に下向ありて足 
- 利の庄に蟄居ありて仁平四年甲戍 
- 三月十六日に薙髪あり世の人称して 
- 荒加賀入道という久寿二年乙亥六月 
- 廿六日に卒去あり時に七十三歳なり 
-  義國に四男あり長男大炊助義 +随身の侍等が義国を馬から引き降ろす。義国の家来はこの振る舞いに大いに憤慨し、実能公の本所(詰め所)押しかけては火を放ち焼き払う騒動があり、勅勘(天皇から受ける咎め)を受け下野国に下向させられ、足利庄(栃木県足利市)にて蟄居。 
-  重次は陸奥守義康という足利氏 + 
-  諸流の大祖なりこれ征夷大 +仁平四年(1154)甲戌三月十六日に出家、世の人は荒賀入道と呼ぶ。 
-  将軍尊氏公八代の祖なり次は左 + 
-  衛門尉國康という次を蔵人判官 +久寿二年(1155)乙亥六月二十六日に七十三歳で逝去。 
-  季邦という+ 
 +義国に四男あり。 
 +①長男は大炊介・義重。 
 +②次は陸奥守・義康。足利氏諸流の太祖にして、征夷大将軍(足利)尊氏公の八代前の先祖。 
 +③次は左衛門尉・国康。 
 +④次は蔵人判官・季邦と言う。
*P19 [#p0000019] *P19 [#p0000019]
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-一、''義重'' 左衛門尉 従五位下 大炊助 + 
- 義重は式部太夫義國の長男にして +一、義重 左衛門尉 大炊助 
- 母は上野介敦基の女なり永久五年 +     従五位下 
- 丁酉誕生あり禁廷につかえて九条院 + 
- 判官代となる保元元年丙子七月十一日に +義重は式部大夫・義国の長男にして、母は上野介(藤原)敦基の娘。永久五年(1117)丁酉に誕生。 
- 新院御謀叛ありて当今と御合戦に +(長じて)禁裏に仕え、九条院(近衛天皇の中宮・藤原呈子)の判官代を務める。 
- およぶのとき義重兄弟ともに当今の +保元元年(1156)丙子七月十一日に新院(崇徳上皇)が御謀叛(保元の乱)を起こして今上天皇(後白河天皇)との合戦に及ぶ。義重・義康兄弟は今上天皇側に付き、同十二日に大いに戦功を上げ、同十三日に除目(任命の儀式)が行われ、義重は新田庄(上野国新田郡・群馬県太田市周辺)の下司職(げししき、荘園の実務を行う荘官)に補任され、義康は左衛門尉に補任される。 
- 御味方となりて同十二日に大に戦功あり +平治元年(1159)乙卯十二月二十七日に下野守(源)義朝(右大将源頼朝の父)父子が右衛門督・藤原信頼と謀って反乱(平治の乱)を起こす。この時、義朝は同族の故に行動を共にする事を説得するが、
- 同十三日に除目行われて義重を新田 +
- 庄の下司職に補せられ義康を左衛 +
- 門尉に任ぜられ内昇殿を聴さる平 +
- 治元年己卯十二月廿七日に下野守義朝 +
- (右大将源頼朝父也)父子右衛門督藤原信頼と謀て +
- 叛逆を起すの時に義朝の一族たるを +
- 以て義重を語らうといえども義重彼+
*P20 [#p0000020] *P20 [#p0000020]
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- に与せず禁廷を守護せらる其後 + 
- 上野国にかえり群馬郡寺尾の郷に城 +義重は義朝側に付かず禁裏を守護する。 
- を築いて此所に居住せらる老年に +乱後は上野国に戻り、群馬郡寺尾(高崎市寺尾町)の郷に城を築き居住。晩年に至って出家し、法名を上西と名乗る。 
- 及び薙髪して法名を上西と号す治 +治承三年(1179)乙亥右兵衛佐(源)頼朝(を始め諸国の源氏)に向け(以仁王から)平家追討の令旨が発せられる。 
- 承三年己亥右兵衛佐頼朝に院宣を賜 +   (原本には「院宣」、「勅令」とあるが、皇子からの令であるので、ここは「令旨」とする。) 
- て平家追討の勅命あり頼朝伊豆国 +頼朝は(配流先の)伊豆国で兵を募り挙兵する。 
- において義兵を揚らる是より先きに +これに先立ち高倉の宮(以仁王)からの綸言が義重の手許にも届き、義重は我こそが八幡太郎・義家の嫡孫であるとの思いから、 
- 高倉の宮の綸旨義重の許に到来す +  (頼朝は曽孫で義重より一代下がる。《義家―義親―為義―義朝―頼朝の順で言えば玄孫。》 
- 義重は正しく義家朝臣の嫡孫たるを +   又、頼朝の兄の義平は娘婿。時に義重62才、頼朝32才) 
- 以て頼朝の下知に随わずして自ら平家 +頼朝の麾下(きか・旗下、指揮下)に付こうとせず、自ら平家追討の功を挙げることを計り寺尾の城に立て籠もる。 
- を亡して功を立ん事を計て寺尾の +同年九月に頼朝は(義重に)麾下に加わるように書を送り促すも、義重は返答せず。 
- 城に楯籠る同九月に頼朝書を以て +同十二月に頼朝は安達九郎盛長を使いとして寄越し義重の「自立の志」(独力での決起?)を諫められる。
- 義重を催捉せらるといえども義重返 +
- 答に及ぱず同十二月に頼朝より安達 +
- 藤九郎盛長を使として上野国に遣 +
- し義重自立の志有事を責らる+
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- 義重は頼朝仁君の器量有事を感心 +義重は頼朝に仁君(仁愛深き君主)の器量を大きさを覚って鎌倉に参陣し、同月二十二日に初めて頼朝に謁見する。 
- ありて鎌倉に赴き同月廿二日始めて頼朝 + 
- に謁見せらる養和元年辛丑七月十四日 +養和元年(1181)辛丑七月十四日に義重と頼朝の間に不和が生じる。義重の娘(祥寿姫)は最初、頼朝の兄・義平(悪源太)に嫁ぐいでいたが、義平が(平治の乱で)永暦元年(1160)庚辰正月十八日に捕らえられ、同月二十一日に処刑される。是によって(未亡人となった)姫を他家に嫁がせず既に二十二年が経っていた。 
- に義重と頼朝不和に及ぶの事あり + 
- 始め義重の女を以て頼朝の兄悪源 +頼朝は伏見冠者広綱を使いとして姫に艶書を送り密かに繋がりを持とうとしていたが、姫はひとたび義平の妻として誓った身なれば、義を重んじ義弟が兄の妻との密通を謀る不義に怒り返事をせず。
- 太義平に嫁すべきの約諾ありしに義平 +
- は永暦元年庚辰正月十八日に擒にせら +
- れ同廿一日害せらる是によりて此女を +
- 他に嫁せざる事今年に至りて二十 +
- 二年なり然るに頼朝蜜かに伏見冠者 +
- 廣綱を使として艶書を以て此女に通 +
- ぜらるといえども此女義を守て一たび義 +
- 平の妻たるべきの約あれば頼朝其弟と +
- して兄の妻を犯さんとはかるのよし +
- を怒て返事に及ず然るに義重此度 +
- 鎌倉に来らるゝによりて頼朝直に+
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- 彼女を乞請らるゝといえども義重此事 
- を承引なく終に彼女を以て師の六郎 
- に再嫁せらる頼朝此事を憤て不和な 
- り(一に日治承四年庚子十二月廿二日義重頼朝公の気色を蒙ると云う)文治二年丙午三月 
- に義重を以て上野越後両国の守護 
- とす此に至り後世に子孫両国の間を 
- 領地して其所の名を以て其家号とす 
- る者多し建久四年癸丑四月に頼朝公 
- 下野国那須野において狩りし其帰路に 
- 上野国に至り新田の城に滞留あり 
- 同廿八日新田を発して鎌倉に帰らる 
- 時に義重の男山名冠者義範新田 
- 冠者義兼供奉たり建仁二年壬戍 
- 正月十四日義重上野国新田郡において 
- 卒去あり時に六十八歳(八十六歳) 
-  義重に七男一女あり長男は山名冠者+そんな折、鎌倉を訪れていた義重に頼朝は直に姫の事を頼み込み譲り受けようとするが、義重は承知する事無く、遂には師六郎と再婚させ、頼朝はこの事に憤り、義重との間が不仲となる。 
 + 
 +文治(一説には治承四年(1180)庚子十二月二十二日、義重は頼朝から気色(内意?信任?)を受けると言う)二年(1186)丙午二月に義重は上野・越後両国の守護となる。後世、子孫は両国の間に領地を有して、それぞれに土地の名を冠して家号とする者多し。 
 + 
 +健久四年(1193)癸丑四月に頼朝公、下野国那須野で狩りを行い、その帰路、上野国に立ち寄り新田の城に逗留す。同月二十八日に新田を出て鎌倉に戻る。この時、山名冠者義範・新田冠者義兼がお供を務める。 
 + 
 +建仁二年(1202))壬戌正月十四日に義重は上野国新田郡にて六十八(八十六)歳で逝去。 
 + 
 +義重に七男一女有り。
*P23 [#p0000023] *P23 [#p0000023]
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-  義範という即ち当家の大祖也 +①長男は山名冠者義範、即ち当家の太祖。 
-  次は大新田太郎義俊という後に +②次は大新田太郎義俊、後に群馬郡里見に居し里見太郎と名乗り、子孫繁栄なり。 
-  群馬郡里見に居住して里見太郎 +③次は新田太郎義兼、義重の家督を継ぎ新田氏流の祖となる。義兼は左中将(新田)義貞の七代前の先祖なり。 
-  と号す子孫繁栄なり次は新田 +④次は徳(得)川四郎義季(世羅田義季)、子孫繁多。 
-  太郎義兼という義重の家督を +⑤次は額田(戸)五郎義経。 
-  継て新田一流の祖なり此人左中将 +⑥次は新田冠者義光。 
-  義貞七代の祖なり次は徳川四郎 +⑦次は新田子四郎義佐。 
-  義季という子孫繁多なり次は額田 +⑧次は女子、初めは悪源太(源)義平の妻となり、その後、師六郎に嫁ぐ。 
-  五郎義経という子孫あり次は新田 +②次は新田判官代義孝、生まれは平賀冠者盛義の三男で、新羅三郎義光(義重の祖父・義家の弟)の孫。義重の養子とする。
-  冠者義光という次は新田小四郎義 +
-  佐という次は女子始め悪源太義平の +
-  妻となり後に師六郎に嫁す次は +
-  新田判官代義隆という実は平賀 +
-  冠者盛義が三男にして新羅三郎 +
-  義光の孫なり義重養て子と +
-  す+
*P24 [#p0000024] *P24 [#p0000024]
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-新田大炊助義重(義國長男)の子孫は上野下野越後に繁栄せり山名里見新田徳川額田大嶋田中大井田高林平澤鳥山脇屋大館堀口一井世良田江田豊岡金屋等の諸氏皆其子孫也世に是を新田源氏と称す足利陸奥守義康(義國二男)の子孫は上野下野の間に繁栄せり矢田仁木廣沢荒川細川戸賀崎足利岩松畠山桃井吉良今川斯波石橋渋川石堂一色上野小俣加古等の諸氏みな其子孫なり世に是を足利源氏というよりて式部太夫義國を以て新田足利両流の大祖とする者也+ 
 +新田大炊助義重(義国長男)の子孫は上野国・下野国・越後国に繁栄する。 
 +山名・里見・新田・徳川(得川?)・額田(額戸(ごうど)?)・大嶋・田中・大井田・高林・平沢・鳥山・脇屋・大館・堀口・一井・世良田・江田・豊岡・金屋等の諸氏は皆その子孫なり。世にこれを新田源氏と言う。 
 + 
 +足利陸奥守義兼(義国二男)の子孫は上野国・下野国の間に繁栄する。 
 +矢田・仁木・広沢・荒川・細川・戸賀崎・足利・岩松・畠山・桃井・吉良・今川・斯波・石橋・渋川・石堂・上野・小俣・加古等の諸氏は皆その子孫なり。世にこれを足利源氏と言う。 
 + 
 +従って式部大夫義国をもって、新田・足利両流の太祖とする。
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