22: 2015-02-27 (金) 17:42:06 admin ソース 23: 2015-04-04 (土) 21:32:15 admin ソース
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-山名家傳記巻之一 
-  山名家先祖譜傳 
-一、抑山名家は清和源姓にして新田一流の豪家なり本国上野国緑埜郡山名の庄なり 
-一、人皇五十六代の帝を''清和天皇''と申す御諱(いみな)は惟仁と言う五十五代の帝文徳天皇 +山名家伝記 巻の一 
-(御諱道康)第四の皇子なり御母は皇太后藤明子と言う太政大臣藤原の良房公の女なり染殿后と称す天安二年戊寅十一月七日に即位あり時に九歳なり貞観十八丙申年十一月廿九日に位を皇太子貞明に譲り給う元慶三年己亥五月八日に落飾あり法諱(ほうき)素貞と言う戒師は宗縁僧正なり同四年庚子十二月四日円覚+ 
 +    山名家先祖譜傳 
 + 
 +一、抑も山名家の本姓は清和源氏にして、新田氏流の豪(高)家也。本国は上野国緑埜郡山名庄(群馬県高崎市山名町)也。 
 + 
 +一、人皇五十六代・清和天皇の諱(在世中の名、水尾天皇)を惟仁と言う。先帝(五十六代)文徳天皇(諱は道康)の第四皇子也。母は藤の明子と言い、太政大臣藤原良房公の娘で、染殿后と称す。 
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 +天安二年(858)戊寅十一月七日、九歳で即位し、貞観十八年(876)丙申十一月二十九日に皇太子・貞明(陽成天皇)に譲位。 
 +元慶三年(879)己亥五月八日に宗縁僧正に就き出家し、法名を素貞と言う。 
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 +(水尾を隠棲の地とし寺を建立中、発病し、粟田)円覚寺にて元慶四年(880)庚子十二月四日に円覚寺にて崩御。
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-寺において崩御あり粟田山白河陵に葬り御骨を水尾山の陵に斂(おさ)めて水尾天皇と謚す後に改めて清和天皇  と謚(おくりな)す天下を治め給う事十八年なり此帝皇子皇女凡(すぺ)て十八人あり 
-一、''貞純親王'' 四品 中務卿 + 
-親王貞純は清和天皇第六の皇子にして御母は神祇伯中務太輔棟貞王の女なり貞観十六年甲午三月十三日に降誕あり元慶六年壬寅十一月五日に元服あり四品に叙し兵部卿に任ず一条大宮の桃園宮に住し給うによりて桃園親王と称す後に中務卿に任じ常陸上総等の太守となり給う右大臣源能有公の女を娶り室家とし給う能有公は文徳天皇の+栗田山陵にて荼毘に付し、遺骨を水尾陵におさめて、水尾天皇と謚す。後に清和天皇と改めて謚される。 
 +在位は十八年、皇子皇女は十八人あり。 
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 +一、貞純親王 四品 中務卿 
 +貞純親王は清和天皇の第六皇子。母は神祇伯・中務大輔・棟貞王(第五十三代・桓武天皇の孫)の娘。 
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 +貞観十六年(882)甲午三月十三日に誕生。 
 +元慶六年(882)壬寅十一月五日に元服し四品(親王の位階第四番目)に叙し兵部卿に任命。 
 + 
 +一条大宮の桃園宮に住し桃園親王と称される。 
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 +後に中務卿に任命され、常陸・上総等の太守を務める。(上総・常陸・上野は親王の任国。それらの国の守を大守と言う) 
 + 
 +右大臣・源能有公の娘(源柄子)を娶り室とする。能有公は(第五十五代)文徳天皇の子(清和天皇の兄)にして武芸に通じたる親王。
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-御子にて弓馬の芸に達せらる親王其業を受継て射騎の礼式に達し給う是によりて勅ありて月華門院の白幡を給る延喜十六年丙子五月七日に薨去あり 
-貞純親王に二子あり長男は経基王なり次は経生と言う越後守に任ず 
-一、''経基王'' 正四位上 左衛門権佐 +貞純親王も(同じく)その業を受け継ぎて、武道の礼式に深く通じ、天皇より月華門院の白旗を下賜される。 
-経基王は貞純親王の長男にして寛平七年乙卯二月十五日に桃園宮において誕生あり母は右大臣源能有公の女なり貞純親王清和帝第六の皇子たるを以て世の人経基王を称して六孫王という延喜九年己巳十月五日に常寧殿に+喜十六年(916)丙子五月七日に逝去。 
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 +貞純親王に二子有り、長男は経基王、次は経生と言い越後の守を務める。 
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 +一、経基王 正四位 左衞門佐 
 +経基王は貞純親王の長男にして、寛平七年(895)乙卯二月十五日に桃園宮にて誕生。母は右大臣源能有公の娘なり。 
 +貞純親王は清和天皇の第六皇子の故に、世の人は経基王を六孫王と言う。 
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 +延喜九年(909)己巳十月五日に常寧殿にて元服し、正六位に叙し、左馬助を拝命、源の朝臣姓を賜る。(臣籍降下)
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-おいて元服あり正六位上に叙し左馬助に任じ始めて源朝臣姓を賜わる天慶三年庚子の春に平将門追討として右衛門督藤原の忠文を征東将軍とし経基王を副将軍として節刀を賜るよりて関東に下向あり駿河国清見ヶ関に至るの日に関東において武蔵守藤原秀郷陸奥守平貞盛等将門を誅罰するのよしを告来るによりて帰洛あり是より先に経基王武蔵の国司たる時に国府に在留の時に将門が叛逆の相ある事を察して彼を誅伐せん事を奏聞有といえどもいまだ事のあらわれざるを以て勅許なし承平年中より将門逆意を関東に振うによりて経基王の才智を+ 
 +天慶三年(940)庚子の春に平将門追討の為に、右衛門の督・藤原忠文を征東将軍とし、経基王は副将軍として天皇より節刀(節(しるし)の刀)を賜る。 
 + 
 +関東へ向かう途中、駿河国清見ヶ関に至り武蔵守・藤原秀鄕、陸奥守・平貞盛等が平将門討伐の知らせを受けて帰京する。 
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 +これに先立ち、経基王が武蔵国司として赴任の折(承平八年・938)、平将門謀反の予兆を覚り、将門追討を上奏するも、未だ確証乏しく勅許は降りず。 
 + 
 +承平年中より、関東で振るう平将門の逆心を察した経基王の才知を賞して従四位下に叙せられる。
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-賞美あり従四位下に叙せらる同年六月に伊予大掾藤原純友を誅伐の為に参議小野好古を大将軍とし経基王を副将軍として筑紫に差下さる不日に純友を誅伐ありて同八月に帰京あり軍功の賞として正四位下に叙し大宰大弐に任ぜらる経基王は和歌を能し天性武略に達し父の業を継て弓馬の道に長ぜらる是によりて村上天皇(御諱成明)の勅蒙り陸奥守に任じ鎮守府将軍に補せらる天徳二年戊午十一月廿四日に西八条の館において逝去あり即ち館の辺に池あり此所に廟所を建て大通寺遍照心院号す+同年(天慶三年・940)六月、伊予大掾・藤原純友誅伐の為、参議・小野好古を大将軍に、経基王を副将軍に筑紫に派遣される。
-経基王に八男一女あり長男は左馬頭+程なく、純友の成敗なって、八月に帰京。この軍功によって正四位下に叙し、太宰大弐(太宰府の次官)に任命される。 
 + 
 +経基王は和歌を能くし、天性の武略に通じ、父・貞純親王譲りの武道に長じるが故に村上天皇(諱・成明)の勅を受け陸奥守に任命され、鎮守府将軍に補任される。 
 + 
 +天徳二年(961・応和元年)戊午十一月二十四日西八条の館にて逝去。館の側に池(龍神池)が有り、そこに廟所を建て、大通寺遍照心院(現・六孫王神社)と言う。
*P6 [#p0000006] *P6 [#p0000006]
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-満仲なり次は左衛門尉満政次は武蔵守満季次は右衛門尉満快次は下野掾満実次は出羽介満正次は上総介満生次は山城守満重というともに子孫繁栄なり女子は従五位下源元高の妻なり+①長男は左午頭・満仲。 
 +②次は左衞門尉・満政。 
 +③次は武蔵守・満季。 
 +④次は右衞門尉・満快 
 +⑤次は下野掾・満実。 
 +⑥次は出羽介・満正。 
 +⑦次は上総介・満生 
 +⑧次は山城守・満重。 
 +共に子孫繁栄。女子は従五位下・源元高の妻なり。
-一、''満仲'' 正四位下 左馬権頭 + 
-満仲は鎮守府将軍経基王の嫡子にして延喜十二年壬申四月十日に西八条の館において誕生あり母は武蔵守藤原敦有の女なり延長四年丙戌に元服あり正六位に叙し左馬助に任ず安和三年庚午三月に摂津守に任ぜられ内昇殿を聴(ユル)さる満仲父祖の業を継て弓馬に達し武略に長ずるを以て大内(オオウチ)+一、満仲 正四位下 左馬権頭 
 +満仲は鎮守府将軍・経基王の嫡子にして、延喜十二年(912)壬申四月十日に西八条の館にて誕生。母は武蔵守・藤原敦有の娘。 
 + 
 +延長四年(926)丙戌に元服。正六位に叙し、左馬介に任命される。 
 + 
 +安和三年(970)庚午三月、摂津守に任命され宮中清涼殿への参内が許される。(五位補任) 
 + 
 +満仲公も父祖譲りで武芸に通じ、武略に秀でていた為、大内(内裏・御所)守護を任され、摂津川辺郡多田庄(兵庫県川西市多田)に領地を賜る。
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-の守護たるべきの勅命を蒙り摂州河辺の郡多田庄を賜る天禄元年庚午三月十五日に多田圧に来り住せらる同二年辛未に多田庄に一寺を建て鷹尾山法華三昧院と名く(今の多田院是なり)寛和二年丙戍八月十五日に落飾ありて法名を満慶と号す長徳三年丁酉八月廿七日に逝去あり三昧院に葬むる+天禄元年(970)庚午三月十五日に多田庄に居を移し、天禄二年(971)に多田庄に一寺を建立、鷲尾山・法華三昧院と名付ける。今の多田院(神社)なり。 
 +寛和二年(986)丙戌八月十五日に出家、法名を慶満と名乗る。 
 +長徳三年(997)丁酉八月二十七日に逝去、法華三昧院に葬る。
-満仲に十男一女あり長男は摂津守頼光と云う美濃源氏の大祖なり次は大和守頼親という大和源氏の大祖なり次は河内守頼信嫡流相続なり次は武蔵守頼平次は左衛門尉頼範次は山城守頼明次は帯刀長頼貞次は法眼円覚次は阿闍梨頼尋という女子は中将藤原の頼親妻なり+満仲に十男一女あり。 
 +①長男は摂津守・頼光、美濃源氏の太祖なり。 
 +②次は大和守・頼親、大和源氏の太祖なり。 
 +③次は河内守・頼信、嫡流相続(宗家)なり。 
 +④次は武蔵守・頼平。 
 +⑤次は左衛門尉・頼範。 
 +⑥次は山城守・頼明。 
 +⑦次は帯刀長・頼貞。 
 +⑧次は法眼円覚。 
 +⑨次は阿闍梨・頼尋という。 
 +⑩女子は中将・藤原賴親の妻。
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-一、''頼信'' 正四位上 河内守 +一、頼信 正四位上 河内守 
-頼信は鎮守府将軍満仲の三男にして天延二年甲戍九月五日誕生あり母は大納言藤原の元方の女なり永延二年戊子九月十八日に元服あり正六位に叙し左馬助に任ず正暦五年甲午三月に勅命を蒙り若狭越前の両国に赴き群盗を誅伐す寛仁四年庚申九月十日に河内国壷井に館を構えて居住す長元三年庚午九月に上総介平忠常追討の宣旨を賜り同十月廿一日に軍勢を引卒(率)して武蔵国河越に至りて忠常が弟陸奥守忠頼中村五郎忠将と攻戦う忠頼兄弟ともに利なくして引退く同四年辛未四月頼信大軍を卒(率)て下総+ 
 +頼信は鎮守府将軍・満仲の三男にして、天延三年(974)甲戌九月五日に誕生。 
 +母は大納言・藤原元方の娘なり。 
 +永延二年(988)戊子九月一八日に元服、正六位に叙し、左馬助に任命される。 
 +正歴五年(994)甲午三月に勅命を受け若狭越前に赴き群盗を成敗する。寛仁四年(1020)庚申九月十日に河内国壺井に館を構え居住する。 
 + 
 +長元三年(1030)庚午九月に上総介・平忠常追討の宣旨を受け、同年十月二十一日に軍勢を率い武蔵国川越に至り、平忠常の弟(父?)、陸奥守・平忠頼と中村五郎忠将(平忠頼の子)と戦う。忠頼兄弟(親子?)共に勝ち目なく退く。 
 +長元四年(1031)辛未四月、頼信は大軍を率いて下総国に至り、上総介・平忠常が籠もる千葉城を攻め、忠常は勝ち目なく降伏する。
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