20: 2015-01-18 (日) 14:48:57 admin ソース 現: 2022-12-11 (日) 16:12:36 admin ソース
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*記載人物(P1~P24) [#reaedbc3] *記載人物(P1~P24) [#reaedbc3]
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-|[[清和天皇>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000001]]、[[貞純親王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000002]]、[[経基王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000003]]、[[源満仲>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000006]]、[[源頼信>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000008]]、[[源頼義>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#o010]]、[[源義家>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000013]]、[[源義國>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]、[[源義重>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000019]]|+|[[清和天皇>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000001]]、[[貞純親王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000002]]、[[経基王>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000003]]、[[源満仲>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000006]]、[[源頼信>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000008]]、[[源頼義>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000010]]、[[源義家>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000013]]、[[源義國>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]、[[源義重>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000019]]| 
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 +**PDFデータ [#bf12fb31] 
 +-[[山名家譜第一巻PDFデータ>http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/1117.pdf]]
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-    山名家傳記巻之一 
-      山名家先祖譜傳 
-一、抑山名家は清和源姓にして新田一流の +山名家伝記 巻の一 
-  豪家なり本国上野国緑埜郡山名の + 
-  庄なり+    山名家先祖譜傳 
 + 
 +一、抑も山名家の本姓は清和源氏にして、新田氏流の豪(高)家也。本国は上野国緑埜郡山名庄(群馬県高崎市山名町)也。 
 + 
 +一、人皇五十六代・''清和天皇''の諱(在世中の名、水尾天皇)を惟仁と言う。先帝(五十六代)文徳天皇(諱は道康)の第四皇子也。母は藤の明子と言い、太政大臣藤原良房公の娘で、染殿后と称す。
-一、人皇五十六代の帝を''清和天皇''と申す +天安二年(858)戊寅十一月七日、九歳で即位し、貞観十八年(876)丙申十一月二十九日に皇太子・貞明(陽成天皇)に譲位。 
-  御諱(いみな)は惟仁と言う五十五代の帝文徳天皇 +元慶三年(879)己亥五月八日に宗縁僧正に就き出家し、法名を素貞と言う。
-  (御諱道康)第四の皇子なり御母は皇太后 +
-  藤明子と言う太政大臣藤原の良房公 +
-  の女なり染殿后と称す天安二年戊 +
-  寅十一月七日に即位あり時に九歳なり +
-  貞観十八丙申年十一月廿九日に位を皇太 +
-  子貞明に譲り給う元慶三年己亥五月 +
-  八日に落飾あり法諱(ほうき)素貞と言う戒師は +
-  宗縁僧正なり同四年庚子十二月四日円覚 +
----- +
-一、抑も山名家は清和源姓にして新田氏の流を汲む由緒正しき豪家なり。 +
- 本国は上野国緑埜郡山名の庄なり。(現・群馬県高崎市山名町)+
-一、人皇五十六代の帝を清和天皇と申す。御諱は惟仁と言う。五十五代の帝・文徳天皇の第四の皇子なり。 +(水尾を隠棲の地とし寺を建立中、発病し、粟田)円覚寺にて元慶四年(880)庚子十二月四日に円覚寺にて崩御。
- 御母は皇太后・藤原明子と言う。太政大臣藤原良房公の娘なり。染殿后と称す。 +
- 天安二年(858)戊寅十一月七日に即位あり時に九歳なり。 +
- 貞観十八年(876)丙申十一月廿九日に位を皇太子・貞明に譲り給う。 +
- 元慶三年(879)己亥五月、八日に剃髪し仏門に入る。法名は素貞と言う。戒師は宗縁僧正なり。 +
- 同四年庚子十二月四日、円覚寺(藤原基経(藤原良房の養子)の栗田山荘)において崩御あり。+
*P2 [#p0000002] *P2 [#p0000002]
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-  寺において崩御あり粟田山白河陵 + 
-  に葬り御骨を水尾山の陵に斂(おさ)めて + 
-  水尾天皇と謚す後に改めて清和天皇 +栗田山陵にて荼毘に付し、遺骨を水尾陵におさめて、水尾天皇と謚す。後に清和天皇と改めて謚される。 
-  と謚(おくりな)す天下を治め給う事十八年なり +在位は十八年、皇子皇女は十八人あり。
-  此帝皇子皇女凡(すぺ)て十八人あり+
一、''貞純親王'' 四品 中務卿 一、''貞純親王'' 四品 中務卿
-  親王貞純は清和天皇第六の皇子にして +貞純親王は清和天皇の第六皇子。母は神祇伯・中務大輔・棟貞王(第五十三代・桓武天皇の孫)の娘。
-  御母は神祇伯中務太輔棟貞王の女なり貞 +
-  観十六年甲午三月十三日に降誕あり元慶 +
-  六年壬寅十一月五日に元服あり四品に叙し +
-  兵部卿に任ず一条大宮の桃園宮に +
-  住し給うによりて桃園親王と称す +
-  後に中務卿に任じ常陸上総等の太守 +
-  となり給う右大臣源能有公の女を娶 +
-  り室家とし給う能有公は文徳天皇の +
----- +
- 粟田山白河陵てに荼毘に付し、御骨を水尾山の陵に斂(おさ)める。 +
- 水尾天皇と謚し、後に改めて清和天皇と謚す。 +
- 天下を治め給う事十八年なり。 +
- 此帝皇子皇女凡(すぺ)て十八人あり。+
-一、貞純親王 四品 中務卿 +貞観十六年(882)甲午三月十三日に誕生。 
- 親王貞純は清和天皇第六の皇子にして、御母は神祇伯中務太輔棟貞王の女なり。 +元慶六年(882)壬寅十一月五日に元服し四品(親王の位階第四番目)に叙し兵部卿に任命。 
- 貞観十六年(874)甲午三月十三日に降誕あり。 + 
- 元慶六年壬寅(882)十一月五日に元服あり四品に叙し、兵部卿に任ず。 +一条大宮の桃園宮に住し桃園親王と称される。 
- 一条大宮の桃園宮に住し給うによりて桃園親王と称す。 + 
- 後に中務卿に任じ常陸、上総等の太守となり給う。 +後に中務卿に任命され、常陸・上総等の太守を務める。(上総・常陸・上野は親王の任国。それらの国の守を大守と言う) 
- 右大臣源能有公の女を娶り、室家とし給う。 + 
- 能有公は文徳天皇の+右大臣・源能有公の娘(源柄子)を娶り室とする。能有公は(第五十五代)文徳天皇の子(清和天皇の兄)にして武芸に通じたる親王。
*P3 [#p0000003] *P3 [#p0000003]
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- 御子にて弓馬の芸に達せらる親王 
- 其業を受継て射騎の礼式に達し 
- 給う是によりて勅ありて月華門院の 
- 白幡を給る延喜十六年丙子五月七日に薨 
- 去あり 
-    貞純親王に二子あり長男は経基王 
-    なり次は経生と言う越後守に任ず 
-一、''経基王'' 正四位上 左衛門権佐 + 
- 経基王は貞純親王の長男にして寛平 +貞純親王も(同じく)その業を受け継ぎて、武道の礼式に深く通じ、天皇より月華門院の白旗を下賜される。 
- 七年乙卯二月十五日に桃園宮において誕生 +喜十六年(916)丙子五月七日に逝去。 
- あり母は右大臣源能有公の女なり貞 + 
- 純親王清和帝第六の皇子たるを以て +貞純親王に二子有り、長男は経基王、次は経生と言い越後の守を務める。 
- 世の人経基王を称して六孫王という + 
- 延喜九年己巳十月五日に常寧殿に+一、''経基王'' 正四位 左衞門佐 
 +経基王は貞純親王の長男にして、寛平七年(895)乙卯二月十五日に桃園宮にて誕生。母は右大臣源能有公の娘なり。 
 +貞純親王は清和天皇の第六皇子の故に、世の人は経基王を六孫王と言う。 
 + 
 +延喜九年(909)己巳十月五日に常寧殿にて元服し、正六位に叙し、左馬助を拝命、源の朝臣姓を賜る。(臣籍降下)
*P4 [#p0000004] *P4 [#p0000004]
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- おいて元服あり正六位上に叙し左馬 + 
- 助に任じ始めて源朝臣姓を賜わる天慶 +天慶三年(940)庚子の春に平将門追討の為に、右衛門の督・藤原忠文を征東将軍とし、経基王は副将軍として天皇より節刀(節(しるし)の刀)を賜る。 
- 三年庚子の春に平将門追討として + 
- 右衛門督藤原の忠文を征東将軍とし +関東へ向かう途中、駿河国清見ヶ関に至り武蔵守・藤原秀鄕、陸奥守・平貞盛等が平将門討伐の知らせを受けて帰京する。 
- 経基王を副将軍として節刀を賜る + 
- よりて関東に下向あり駿河国清見ヶ +これに先立ち、経基王が武蔵国司として赴任の折(承平八年・938)、平将門謀反の予兆を覚り、将門追討を上奏するも、未だ確証乏しく勅許は降りず。 
- 関に至るの日に関東において武蔵守 + 
- 藤原秀郷陸奥守平貞盛等将門を +承平年中より、関東で振るう平将門の逆心を察した経基王の才知を賞して従四位下に叙せられる。
- 誅罰するのよしを告来るにより +
- て帰洛あり是より先に経基王武蔵 +
- の国司たる時に国府に在留の時に +
- 将門が叛逆の相ある事を察して彼 +
- を誅伐せん事を奏聞有といえどもいま +
- だ事のあらわれざるを以て勅許な +
- し承平年中より将門逆意を関 +
- 東に振うによりて経基王の才智を+
*P5 [#p0000005] *P5 [#p0000005]
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- 賞美あり従四位下に叙せらる同年 +同年(天慶三年・940)六月、伊予大掾・藤原純友誅伐の為、参議・小野好古を大将軍に、経基王を副将軍に筑紫に派遣される。 
- 六月に伊予大掾藤原純友を誅伐の + 
- 為に参議小野好古を大将軍とし経基 +程なく、純友の成敗なって、八月に帰京。この軍功によって正四位下に叙し、太宰大弐(太宰府の次官)に任命される。 
- 王を副将軍として筑紫に差下さる + 
- 不日に純友を誅伐ありて同八月に帰 +経基王は和歌を能くし、天性の武略に通じ、父・貞純親王譲りの武道に長じるが故に村上天皇(諱・成明)の勅を受け陸奥守に任命され、鎮守府将軍に補任される。 
- 京あり軍功の賞として正四位下に叙し + 
- 大宰大弐に任ぜらる経基王は和歌を +天徳二年(961・応和元年)戊午十一月二十四日西八条の館にて逝去。館の側に池(龍神池)が有り、そこに廟所を建て、大通寺遍照心院(現・六孫王神社)と言う。 
- 能し天性武略に達し父の業を継て + 
- 弓馬の道に長ぜらる是によりて + 
- 村上天皇(御諱成明)の勅蒙り陸奥守に +経基王に八男一女あり
- 任じ鎮守府将軍に補せらる天徳二 +
- 年戊午十一月廿四日に西八条の館において +
- 逝去あり即ち館の辺に池あり此 +
- 所に廟所を建て大通寺遍照心院号 +
- す +
-  経基王に八男一女あり長男は左馬頭+
*P6 [#p0000006] *P6 [#p0000006]
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-  満仲なり次は左衛門尉満政次は +①長男は左午頭・満仲。 
-  武蔵守満季次は右衛門尉満快 +②次は左衞門尉・満政。 
-  次は下野掾満実次は出羽介満正次は +③次は武蔵守・満季。 
-  上総介満生次は山城守満重という +④次は右衞門尉・満快 
-  ともに子孫繁栄なり女子は従五 +⑤次は下野掾・満実。 
-  位下源元高の妻なり+⑥次は出羽介・満正。 
 +⑦次は上総介・満生 
 +⑧次は山城守・満重。 
 +共に子孫繁栄。女子は従五位下・源元高の妻なり。 
一、''満仲'' 正四位下 左馬権頭 一、''満仲'' 正四位下 左馬権頭
- 満仲は鎮守府将軍経基王の嫡子に +満仲は鎮守府将軍・経基王の嫡子にして、延喜十二年(912)壬申四月十日に西八条の館にて誕生。母は武蔵守・藤原敦有の娘。 
- して延喜十二年壬申四月十日に西八条の + 
- 館において誕生あり母は武蔵守藤原 +延長四年(926)丙戌に元服。正六位に叙し、左馬介に任命される。 
- 敦有の女なり延長四年丙戌に元服 + 
- あり正六位に叙し左馬助に任ず安和三 +安和三年(970)庚午三月、摂津守に任命され宮中清涼殿への参内が許される。(五位補任) 
- 年庚午三月に摂津守に任ぜられ内 + 
- 昇殿を聴(ユル)さる満仲父祖の業を継て +満仲公も父祖譲りで武芸に通じ、武略に秀でていた為、大内(内裏・御所)守護を任され、摂津川辺郡多田庄(兵庫県川西市多田)に領地を賜る。
- 弓馬に達し武略に長ずるを以て大内(オオウチ)+
*P7 [#p0000007] *P7 [#p0000007]
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- の守護たるべきの勅命を蒙り摂州河 +天禄元年(970)庚午三月十五日に多田庄に居を移し、天禄二年(971)に多田庄に一寺を建立、鷲尾山・法華三昧院と名付ける。今の多田院(神社)なり。 
- 辺の郡多田庄を賜る天禄元年庚午 +寛和二年(986)丙戌八月十五日に出家、法名を慶満と名乗る。 
- 三月十五日に多田圧に来り住せらる同 +長徳三年(997)丁酉八月二十七日に逝去、法華三昧院に葬る。
- 二年辛未に多田庄に一寺を建て鷹 +
- 尾山法華三昧院と名く(今の多田院是なり)寛和二 +
- 年丙戍八月十五日に落飾ありて法名を +
- 満慶と号す長徳三年丁酉八月廿七日に +
- 逝去あり三昧院に葬むる+
-  満仲に十男一女あり長男は摂津守 +満仲に十男一女あり。 
-  頼光と云う美濃源氏の大祖なり +①長男は摂津守・頼光、美濃源氏の太祖なり。 
-  次は大和守頼親という大和源氏の +②次は大和守・頼親、大和源氏の太祖なり。 
-  大祖なり次は河内守頼信嫡流相 +③次は河内守・頼信、嫡流相続(宗家)なり。 
-  続なり次は武蔵守頼平次は左衛門尉 +④次は武蔵守・頼平。 
-  頼範次は山城守頼明次は帯刀長頼 +⑤次は左衛門尉・頼範。 
-  貞次は法眼円覚次は阿闍梨頼尋と +⑥次は山城守・頼明。 
-  いう女子は中将藤原の頼親妻なり+⑦次は帯刀長・頼貞。 
 +⑧次は法眼円覚。 
 +⑨次は阿闍梨・頼尋という。 
 +⑩女子は中将・藤原賴親の妻。
*P8 [#p0000008] *P8 [#p0000008]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/524.jpg,mw:640,山名家譜 P008);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/524.jpg,mw:640,山名家譜 P008);|
一、''頼信'' 正四位上 河内守 一、''頼信'' 正四位上 河内守
- 頼信は鎮守府将軍満仲の三男にし + 
- て天延二年甲戍九月五日誕生あり母は +頼信は鎮守府将軍・満仲の三男にして、天延三年(974)甲戌九月五日に誕生。 
- 大納言藤原の元方の女なり永延二年 +母は大納言・藤原元方の娘なり。 
- 戊子九月十八日に元服あり正六位に叙し +永延二年(988)戊子九月一八日に元服、正六位に叙し、左馬助に任命される。 
- 左馬助に任ず正暦五年甲午三月に勅 +正歴五年(994)甲午三月に勅命を受け若狭越前に赴き群盗を成敗する。寛仁四年(1020)庚申九月十日に河内国壺井に館を構え居住する。 
- 命を蒙り若狭越前の両国に赴き + 
- 群盗を誅伐す寛仁四年庚申九月十日に +長元三年(1030)庚午九月に上総介・平忠常追討の宣旨を受け、同年十月二十一日に軍勢を率い武蔵国川越に至り、平忠常の弟(父?)、陸奥守・平忠頼と中村五郎忠将(平忠頼の子)と戦う。忠頼兄弟(親子?)共に勝ち目なく退く。 
- 河内国壷井に館を構えて居住す長元 +長元四年(1031)辛未四月、頼信は大軍を率いて下総国に至り、上総介・平忠常が籠もる千葉城を攻め、忠常は勝ち目なく降伏する。
- 三年庚午九月に上総介平忠常追討 +
- の宣旨を賜り同十月廿一日に軍勢を引 +
- 卒(率)して武蔵国河越に至りて忠常が弟 +
- 陸奥守忠頼中村五郎忠将と攻戦う +
- 忠頼兄弟ともに利なくして引退く +
- 同四年辛未四月頼信大軍を卒(率)て下総+
*P9 [#p0000009] *P9 [#p0000009]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/525.jpg,mw:640,山名家譜 P009);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/525.jpg,mw:640,山名家譜 P009);|
- 国に至り上総介が籠る所の千葉 +頼信が忠常を伴い帰京の途中、美濃国にて忠常が病死する。頼信は忠常を哀れみ、忠常の同門は頼信の情け深い心に感服し、永く源氏の家臣として仕える。 
- 城をせむ忠常終に利なくして降参 +頼信はこの軍功により従四位上に叙せられる。この他、頼信の武功は数多し。 
- せり頼信則忠常を供ない帰洛あり +永承三年(1048)戊子九月一日に逝去。河内国通法寺に葬る。
- しに美濃国において忠常病死せ +
- り頼信忠常を労わり恤(あわれ)むによりて +
- 彼が一族門葉の者ども其仁心に感伏 +
- して永く源家の家僕となる頼信 +
- 此度の軍功によりて従四位上に叙せら +
- る此余頼信一世の勇功甚だ多し永 +
- 承三年戊子九月朔日に卒去あり法名 +
- 蓮心と号す河内国通法寺に葬る+
-  頼信に五男一女あり長男は伊豫守 +頼信に五男一女有り。 
-  頼義嫡流相続なり次は肥後守頼清 +①長男は伊予守・頼義、嫡流相続。 
-  次は掃部助頼季次は河内冠者頼任 +②次は肥後守・頼清(信濃源氏村上氏の祖)。 
-  次は常磐五郎義政というともに信濃 +③次は掃部助(かもんのすけ、掃部寮(宮中行事の設営・清掃を行う部署)の次官)・頼季(信濃源氏井上氏の祖)。④次は河内(六位で無官の者)・頼任。 
-  国に居住して子孫繁栄す是を+⑤次は常磐五郎・義政。(頼信が平忠常の乱平定により、東国に勢力を張り、頼季も信濃に領地を得ていた)兄弟は信濃国に居住し子孫繁栄し、これを信濃源氏という。
*P10 [#p0000010] *P10 [#p0000010]
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-  信濃源氏という女子は甲斐守源為 
-  満の妻なり 
-一、''頼義'' 従四位上 伊豫守 +女子は甲斐守・源為満の妻なり。 
- 頼義は鎮守府将軍頼信の嫡男にして + 
- 母は一条院の官女修理命婦なり長保 +一、''頼義'' 従四位上 伊野守 
- 五年癸卯四月九日に誕生あり長和二年 + 
- 癸丑に元服あり正六位に叙し兵庫允 +頼義は鎮守府将軍・頼信の嫡男。母は一条天皇の皇后(中宮)の女官・修理命婦(しゅしゅりみょうぶ)。 
- に任ず永承六年辛卯に陸奥国の押 +長保五年(1003)癸卯四月九日に誕生。長和二年(1013)癸丑に元服し正六位に叙せられ、兵庫允に任命される。 
- 領使安部頼良を追討の為に陸奥守 + 
- に任じ鎮守府将軍に補して節刀 +永承六年(1051)辛卯、陸奥国の押領使・安部(倍)頼良追討(前九年の役)の為に陸奥守に任じられ、併せて鎮守府将軍にも任命され、天皇より節刀を賜り(石清水八幡宮にて戦勝祈願を行い)東国に向かう。 
- を賜り東国に下向あり同六月廿五日 + 
- に相模国に至り鎌倉郡由比郷に石清 +同六月二十五日に相模国鎌倉郡由比卿に石清水八幡を勧請し、源氏の白旗を亀山山上に納める。この山を後生、源氏山又は、御幡山とも言う。
- 水の八幡宮を勧請あり幡(はた)を亀谷の +
- 山上に納めらる後世に至りて此山 +
- をよびて源氏山とも又は御幡山とも+
*P11 [#p0000011] *P11 [#p0000011]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/527.jpg,mw:640,山名家譜 P011);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/527.jpg,mw:640,山名家譜 P011);|
- いうなり同七月に奥州に至る安部 + 
- 頼良降参を乞て名を頼時と改む +同七月に奥州に至り、安部(倍)頼良は帰順を願い、(源頼義との同名を憚り)名を頼時と改める。(一条天皇の皇后・藤原彰子の病気平癒祈願の為、安部氏にも大赦が出されていた。) 
- 是によりて奥州しばらく平均せり +これにより奥州はしばらくの間、平穏となる。 
- 天喜二年甲午八月に阿部頼時が子厨 + 
- 川治郎貞任叛逆を企て衣川の柵に楯 +天喜二年(1054)甲午八月に阿部(安倍)頼時の子、厨川治(次)郎貞任が謀叛を企て、衣川の柵(砦)に立て籠もる。 
- 籠る同九月に頼義大軍を卒(率)て +同九月に頼良は大軍を率いて貞任を攻めるが、陸奥守の任期を迎えるが、再任され奥州にとどまる。 
- 貞任を攻うつ然るに頼義の国任 +康平五年(1062)壬寅十一月二十九日に阿部(安倍)貞任の一族を破り、康平六年(1063)癸卯二月に帰京。途中、相州に立ち寄り由比郷に八幡宮を建立。同八月二十五日に頼義の武功を賞して伊予守に任じられ、正四位下に叙せられる。 
- 終るによりて再任の宣旨を蒙り + 
- て奥州にあり康平五年壬寅十一月 +治暦元年(1065)乙巳九月一日に出家し法名を信海と称する。世の人々は頼義を入道将軍と呼ぶ。
- 廿九日に終に阿部貞任が一族を亡し同 +
- 六年癸卯二月に帰洛あり相州に +
- 至りて八幡宮の社を由比郷に建ら +
- る同八月廿五日勧賞の除目行われて +
- 頼義を伊豫守に任じ正四位下に叙 +
- せらる治暦元年乙巳九月朔日に薙 +
- 髪あり法名を信海と号す世の人+
*P12 [#p0000012] *P12 [#p0000012]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/528.jpg,mw:640,山名家譜 P012);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/528.jpg,mw:640,山名家譜 P012);|
- 入道将軍と称す永保二年壬戍十一月 
- 三日に卒去あり時に八十八歳なり 
- 河内国通法寺に葬る 
-  頼義に五男三女ある長男は陸奥 +永保二年(1082)壬戌十一月三日に八十八歳で逝去。河内国通法寺に葬る。 
-  守義家嫡流相続なり次は左衛門尉 + 
-  義総次は常陸介義光という甲斐 +頼義に五男三女あり。 
-  源氏の大祖なり次は女子にして +①長男は陸奥守・義家(八幡太郎)。 
-  尾張守藤原の時房の妻なり +②次は左(右)衛門尉・義総(綱)(加茂次郎)。 
-  次は西蓮坊快誉という三井寺に +③次は常陸介・義光(新羅三郎)と言い、甲斐源氏の太祖。 
-  住す次は女子にして出羽守平正済 +④次は女子にして尾張守・藤原時房の妻。 
-  が妻なり次は女子にして海道 +⑤次は三井寺の西蓮坊快誉(伊予阿闍梨)。 
-  小太郎成衡が妻なり次は三嶋四郎 +⑥次は女子、出羽守・平正済の妻。 
-  親清という是は頼義伊予国任国 +⑦次は女子、海道小太郎成衡の妻。 
-  の時に彼国の押領使越智の冠 +⑧次は三嶋四郎親清と言い、頼義が伊予守の時に伊予国押領使・越智冠者(河野)親経の娘を母に出生。後に(河野)親経の家を相続し河野四郎通信(伊予水軍に将)の祖父。
-  者親経が女の腹に出生あり後 +
- に親経が家を相続あり則河野+
*P13 [#p0000013] *P13 [#p0000013]
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-  四郎通信が祖父なり 
- 
一、''義家'' 正四位上 陸奥守 一、''義家'' 正四位上 陸奥守
- 義家は鎮守府将軍頼義の嫡男に + 
- して長暦二年戊寅七月十四日に誕生あ +義家は鎮守府将軍・頼義の嫡男、長暦二年(1039)戊牛に誕生。幼名を源太と言い、母は上野介・平直方の嫡女(正妻が産んだ長女)。 
- り少名を源太という母は上野介平直方 +永承三年(1048)戊牛石清水八幡宮にて元服。 
- の嫡女なり永承三年戊午に石清 +康平五年(1057)十一月二十九日に奥州にて安倍貞任討伐で、父・頼義と共に戦功を挙げた事により、康平六年(1063)癸卯に従五位に除せられ出羽守に任命される。 
- 水八幡宮の神殿において元服あり +承暦三年(1079)己未八月八日に勅命を受け美濃国に向かい八島佐渡守・源重宗(満政の孫)と、多田伊豆守・源国房(満仲の曽孫・頼光の孫)が(美濃国多芸郡の青野ヶ原で大規模な合戦(私闘)を行い、重宗・国房を成敗する。 
- 康平六年癸卯に去年十一月廿九日に +(重宗・国房は大規模な私闘を行った事を朝廷から咎められ、償還を命じられるも、重宗は従わず、義家が差し向かわされた)
- 奥州において父頼義とともに戦功 +
- あるによりて従五位下に叙し出羽守 +
- に任ぜらる承暦三年己未八月八日に +
- 勅を蒙り美濃国に発向しで八島佐 +
- 渡守源重宗多田伊豆守源國房と青 +
- 野が原において合戦あり重宗國 +
- 房を誅戮あり永保元年辛酉六月+
*P14 [#p0000014] *P14 [#p0000014]
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- に陸奥守に任じ鎮守府将軍に補 + 
- し奥州に下向あり時に相州鎌倉 +永保元年(1081)辛酉六月陸奥守に任じられ、鎮守府将軍(陸奥・出羽両国の兵を指揮し、領国の防衛を統括した)に補任される。奥州に向かう途中に、相州鎌倉にて八幡宮を修復する。同八月奥州に着任。 
- に至り八幡宮を修復ありて同八月に +清原真人武則(真人は姓、清原氏は出羽の有力豪族)の子、武衡・家衡・清衡三兄弟の間に争いごとが有り、義家はこれを和解させようと試みたが、家衡は義家の裁定全くに従わず、出羽国沼の柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に立て籠もる。 
- 奥州に至り国府に居住せらる此時 + 
- 奥州の住人清原真人武則が子武衡 +応徳三年(1086)丙寅の春に陸奥守の任が終わるが、国中の人々が義家の人徳を慕い強く再任を願う。再任の宣旨が下りて奥州に在留し、国内の巡視を行う。 
- 家衡清衡兄弟確執の事あり義家 +出羽の視察へと赴いた折に、家衡が軍勢を率いて出羽・陸奥の国境まで出て、義家を待ち構えるが、
- 是を和睦せしめらるといえども家衡 +
- 曽(かつ)て義家の下知に随わず出羽国 +
- 沼の柵に楯籠る応徳三年丙寅の +
- 春に国任すでに終る国中の人民 +
- みな義家の仁和の徳になつきて +
- 再任を望む事しきりなるによりて +
- 再任の宣旨を蒙りて奥州に +
- 在留ありて国中を巡視あり出羽の +
- 地におもむかんとせらる時に家衡 +
- 軍勢を引具して出羽陸奥の境に+
*P15 [#p0000015] *P15 [#p0000015]
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- 出て戦いを決せんとす義家此事 + 
- にあらざるのゆえに境を越ずして +義家は事を構えず国境を越えずに国府に戻る。 
- 国府に帰らる武衡此事を聞て出 +武衡はこの事を聞き、出羽に赴いては家衡と共に謀をして出羽金沢(秋田県横手市)の城に立て籠もる。義家はやむを得ず兵を率いて、合戦に臨む。 
- 羽に赴き家衡とともに謀をなして + 
- 仙北金沢の城に楯籠る是によりて +寛治五年(1091)辛未十一月に武衡・家衡の一党を打ち破り、陸奥出羽両国に平穏をもたらす。 
- 義家やむ事を得ずして軍兵を卒(率) +この時の源氏の武威に畏れ入り関東の多くの名家勇士は源氏の麾下(指揮下)に入り、永く源氏の家臣となる。 
- て合戦あり寛治五年辛未十一月に + 
- 終に武衡家衡が一族を討亡して奥羽 +嘉保二年(1095)乙亥の秋、宮中月華門に参上し「鳴弦の儀」(弓を使用する宮中退魔儀礼)を勤める。即ち正四位に叙せられ内昇殿(宮中清涼殿への昇殿)を聴(ゆる)される。 
- の両国を平均に治らる此時に源家 + 
- の武威を恐れ関東の名家勇士 +長治二年(1105)乙酉七月四日に病により出家し、法名を信了と名乗り、同八月十八日に逝去、河内国通法寺に葬る。
- 多く其旗下に属して永く源家の +
- 家人となる嘉保二年乙亥の秋月華 +
- 門に候して鳴絃の法を行わる則ち +
- 内昇殿を聴され正四位上に叙せらる +
- 長治二年乙酉七月四日に病によりて +
- 薙髪あり法名信了という同八月十八日+
*P16 [#p0000016] *P16 [#p0000016]
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-に卒去あり河内国通法寺に葬 
- 
-  義家に七男あり長男は左兵衛尉 + 
-  義宗という早世なり次は対馬守義 +義家に七男あり。 
-  親という康和二年庚辰に勅命 +①長男は左衛門尉・義宗。若くして死する。 
-  を叛き同三月廿一日に擒となり同 +②次は対馬守・義親と言う。康和二年(1100)庚辰に勅命に背き、同三月二十九日に出雲国に流罪となる。永久二年(1114)正月二十日に出雲国にて死罪となる。然れども子孫は多く、義親の五男為義は義家の養子となり家を継ぐ。為義は右大将(源)頼朝の祖父なり。 
-  月廿九日に出雲国に配流せらる +③三男は河内守・義忠。天仁元(二)年(1108)戊子二月三日に叔父義光(義家の弟)に暗殺される。 
-  永久二年正月廿日に出雲国に +④次は加賀介・義国。 
-  おいて誅せらる然れども子孫 +⑤次は左兵衛尉・義時。 
-  繁多なり義親の五男治部尉 +⑥次は陸奥六郎・義隆。 
-  為義は義家の養子として家 +⑦次は出家し、増珍と言う。
-  業を継ぐ即ち右大将頼朝の +
-  祖父なり義家の三男を河内守 +
-  義忠という天仁元年戊子二月 +
-  七日に叔父義光の為に害せらる +
-  次は加賀介義國次は左兵衛尉義+
*P17 [#p0000017] *P17 [#p0000017]
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-  時次は陸奥六郎義隆次は出家 
-  増珍と号す 
-一、''義國'' 加賀介 従五位下 式部太夫 +一、''義国'' 加賀介  式部大夫 
- 義國は鎮守府将軍義家の四男にして +     従五位下 
- 永保三年癸亥七月に誕生あり母は +義国は鎮守府将軍・義家の四男。永保三年(1083)癸亥七月に誕生。母は中宮亮(すけ)・藤原有綱の娘。 
- 中宮亮藤原有綱の女なり寛治六年 +寛治六年(1092)壬申正月に元服し、陸奥四郎と名乗る。 
- 壬申正月に元服あり陸奥四郎と号す +康和元年(1099)己卯に上皇の御所を警備する北面の武士として仕え、従六位に叙し、兵庫允に任命される。 
- 康和元年己卯に院の北面に候して +同五年(1103)癸未八月帯刀長(たちはきのおさ、皇太子の警護官の長)に任命。 
- 従六位に叙し兵庫允に任ず同五年癸 +天治元年(1124)甲辰九月に加賀介に任命され従五位に叙す。(一説には、この時に式部大夫、又曰く、下野守に任命されたとも言う) 
- 未八月に帯刀長に補せらる天治元年 +久安六年(1150)庚午八月参陣の途中、右大将(藤原)実能(従一位)一行の行列に遭遇し、義国は不注意から下馬の礼を失し、実能公はその無礼を咎めら、
- 甲辰九月に加賀介に任じ従五位下に叙 +
- す(或日此時に式部太夫に任ず 又日下野守に任ずという)久安六年庚午八月 +
- 参陣の路次において右大将実能公に参り +
- 逢て義國あやまりて下馬におよばず +
- 実能公其狼籍をとがめる随身の侍等+
*P18 [#p0000018] *P18 [#p0000018]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/534.jpg,mw:640,山名家譜 P018);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/534.jpg,mw:640,山名家譜 P018);|
- はせよりて義國を馬より控落すに 
- よりて義國の良等家人大に此事 
- を憤りて実能公の本所に馳向て火を 
- 放て焼払うこれによりて義國勅勘 
- をこうむりて下野国に下向ありて足 
- 利の庄に蟄居ありて仁平四年甲戍 
- 三月十六日に薙髪あり世の人称して 
- 荒加賀入道という久寿二年乙亥六月 
- 廿六日に卒去あり時に七十三歳なり 
-  義國に四男あり長男大炊助義 +随身の侍等が義国を馬から引き降ろす。義国の家来はこの振る舞いに大いに憤慨し、実能公の本所(詰め所)押しかけては火を放ち焼き払う騒動があり、勅勘(天皇から受ける咎め)を受け下野国に下向させられ、足利庄(栃木県足利市)にて蟄居。 
-  重次は陸奥守義康という足利氏 + 
-  諸流の大祖なりこれ征夷大 +仁平四年(1154)甲戌三月十六日に出家、世の人は荒賀入道と呼ぶ。 
-  将軍尊氏公八代の祖なり次は左 + 
-  衛門尉國康という次を蔵人判官 +久寿二年(1155)乙亥六月二十六日に七十三歳で逝去。 
-  季邦という+ 
 +義国に四男あり。 
 +①長男は大炊介・義重。 
 +②次は陸奥守・義康。足利氏諸流の太祖にして、征夷大将軍(足利)尊氏公の八代前の先祖。 
 +③次は左衛門尉・国康。 
 +④次は蔵人判官・季邦と言う。
*P19 [#p0000019] *P19 [#p0000019]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/535.jpg,mw:640,山名家譜 P019);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/535.jpg,mw:640,山名家譜 P019);|
-一、''義重'' 左衛門尉 従五位下 大炊助 + 
- 義重は式部太夫義國の長男にして +一、''義重'' 左衛門尉 大炊助 
- 母は上野介敦基の女なり永久五年 +     従五位下 
- 丁酉誕生あり禁廷につかえて九条院 + 
- 判官代となる保元元年丙子七月十一日に +義重は式部大夫・義国の長男にして、母は上野介(藤原)敦基の娘。永久五年(1117)丁酉に誕生。 
- 新院御謀叛ありて当今と御合戦に +(長じて)禁裏に仕え、九条院(近衛天皇の中宮・藤原呈子)の判官代を務める。 
- およぶのとき義重兄弟ともに当今の +保元元年(1156)丙子七月十一日に新院(崇徳上皇)が御謀叛(保元の乱)を起こして今上天皇(後白河天皇)との合戦に及ぶ。義重・義康兄弟は今上天皇側に付き、同十二日に大いに戦功を上げ、同十三日に除目(任命の儀式)が行われ、義重は新田庄(上野国新田郡・群馬県太田市周辺)の下司職(げししき、荘園の実務を行う荘官)に補任され、義康は左衛門尉に補任される。 
- 御味方となりて同十二日に大に戦功あり +平治元年(1159)乙卯十二月二十七日に下野守(源)義朝(右大将源頼朝の父)父子が右衛門督・藤原信頼と謀って反乱(平治の乱)を起こす。この時、義朝は同族の故に行動を共にする事を説得するが、
- 同十三日に除目行われて義重を新田 +
- 庄の下司職に補せられ義康を左衛 +
- 門尉に任ぜられ内昇殿を聴さる平 +
- 治元年己卯十二月廿七日に下野守義朝 +
- (右大将源頼朝父也)父子右衛門督藤原信頼と謀て +
- 叛逆を起すの時に義朝の一族たるを +
- 以て義重を語らうといえども義重彼+
*P20 [#p0000020] *P20 [#p0000020]
|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/536.jpg,mw:640,山名家譜 P020);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/536.jpg,mw:640,山名家譜 P020);|
- に与せず禁廷を守護せらる其後 + 
- 上野国にかえり群馬郡寺尾の郷に城 +義重は義朝側に付かず禁裏を守護する。 
- を築いて此所に居住せらる老年に +乱後は上野国に戻り、群馬郡寺尾(高崎市寺尾町)の郷に城を築き居住。晩年に至って出家し、法名を上西と名乗る。 
- 及び薙髪して法名を上西と号す治 +治承三年(1179)乙亥右兵衛佐(源)頼朝(を始め諸国の源氏)に向け(以仁王から)平家追討の令旨が発せられる。 
- 承三年己亥右兵衛佐頼朝に院宣を賜 +   (原本には「院宣」、「勅令」とあるが、皇子からの令であるので、ここは「令旨」とする。) 
- て平家追討の勅命あり頼朝伊豆国 +頼朝は(配流先の)伊豆国で兵を募り挙兵する。 
- において義兵を揚らる是より先きに +これに先立ち高倉の宮(以仁王)からの綸言が義重の手許にも届き、義重は我こそが八幡太郎・義家の嫡孫であるとの思いから、 
- 高倉の宮の綸旨義重の許に到来す +  (頼朝は曽孫で義重より一代下がる。《義家―義親―為義―義朝―頼朝の順で言えば玄孫。》 
- 義重は正しく義家朝臣の嫡孫たるを +   又、頼朝の兄の義平は娘婿。時に義重62才、頼朝32才) 
- 以て頼朝の下知に随わずして自ら平家 +頼朝の麾下(きか・旗下、指揮下)に付こうとせず、自ら平家追討の功を挙げることを計り寺尾の城に立て籠もる。 
- を亡して功を立ん事を計て寺尾の +同年九月に頼朝は(義重に)麾下に加わるように書を送り促すも、義重は返答せず。 
- 城に楯籠る同九月に頼朝書を以て +同十二月に頼朝は安達九郎盛長を使いとして寄越し義重の「自立の志」(独力での決起?)を諫められる。
- 義重を催捉せらるといえども義重返 +
- 答に及ぱず同十二月に頼朝より安達 +
- 藤九郎盛長を使として上野国に遣 +
- し義重自立の志有事を責らる+
*P21 [#p0000021] *P21 [#p0000021]
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- 義重は頼朝仁君の器量有事を感心 +義重は頼朝に仁君(仁愛深き君主)の器量を大きさを覚って鎌倉に参陣し、同月二十二日に初めて頼朝に謁見する。 
- ありて鎌倉に赴き同月廿二日始めて頼朝 + 
- に謁見せらる養和元年辛丑七月十四日 +養和元年(1181)辛丑七月十四日に義重と頼朝の間に不和が生じる。義重の娘(祥寿姫)は最初、頼朝の兄・義平(悪源太)に嫁ぐいでいたが、義平が(平治の乱で)永暦元年(1160)庚辰正月十八日に捕らえられ、同月二十一日に処刑される。是によって(未亡人となった)姫を他家に嫁がせず既に二十二年が経っていた。 
- に義重と頼朝不和に及ぶの事あり + 
- 始め義重の女を以て頼朝の兄悪源 +頼朝は伏見冠者広綱を使いとして姫に艶書を送り密かに繋がりを持とうとしていたが、姫はひとたび義平の妻として誓った身なれば、義を重んじ義弟が兄の妻との密通を謀る不義に怒り返事をせず。
- 太義平に嫁すべきの約諾ありしに義平 +
- は永暦元年庚辰正月十八日に擒にせら +
- れ同廿一日害せらる是によりて此女を +
- 他に嫁せざる事今年に至りて二十 +
- 二年なり然るに頼朝蜜かに伏見冠者 +
- 廣綱を使として艶書を以て此女に通 +
- ぜらるといえども此女義を守て一たび義 +
- 平の妻たるべきの約あれば頼朝其弟と +
- して兄の妻を犯さんとはかるのよし +
- を怒て返事に及ず然るに義重此度 +
- 鎌倉に来らるゝによりて頼朝直に+
*P22 [#p0000022] *P22 [#p0000022]
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- 彼女を乞請らるゝといえども義重此事 
- を承引なく終に彼女を以て師の六郎 
- に再嫁せらる頼朝此事を憤て不和な 
- り(一に日治承四年庚子十二月廿二日義重頼朝公の気色を蒙ると云う)文治二年丙午三月 
- に義重を以て上野越後両国の守護 
- とす此に至り後世に子孫両国の間を 
- 領地して其所の名を以て其家号とす 
- る者多し建久四年癸丑四月に頼朝公 
- 下野国那須野において狩りし其帰路に 
- 上野国に至り新田の城に滞留あり 
- 同廿八日新田を発して鎌倉に帰らる 
- 時に義重の男山名冠者義範新田 
- 冠者義兼供奉たり建仁二年壬戍 
- 正月十四日義重上野国新田郡において 
- 卒去あり時に六十八歳(八十六歳) 
-  義重に七男一女あり長男は山名冠者+そんな折、鎌倉を訪れていた義重に頼朝は直に姫の事を頼み込み譲り受けようとするが、義重は承知する事無く、遂には師六郎と再婚させ、頼朝はこの事に憤り、義重との間が不仲となる。 
 + 
 +文治(一説には治承四年(1180)庚子十二月二十二日、義重は頼朝から気色(内意?信任?)を受けると言う)二年(1186)丙午二月に義重は上野・越後両国の守護となる。後世、子孫は両国の間に領地を有して、それぞれに土地の名を冠して家号とする者多し。 
 + 
 +健久四年(1193)癸丑四月に頼朝公、下野国那須野で狩りを行い、その帰路、上野国に立ち寄り新田の城に逗留す。同月二十八日に新田を出て鎌倉に戻る。この時、山名冠者義範・新田冠者義兼がお供を務める。 
 + 
 +建仁二年(1202))壬戌正月十四日に義重は上野国新田郡にて六十八(八十六)歳で逝去。 
 + 
 +義重に七男一女有り。
*P23 [#p0000023] *P23 [#p0000023]
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-  義範という即ち当家の大祖也 +①長男は山名冠者義範、即ち当家の太祖。 
-  次は大新田太郎義俊という後に +②次は大新田太郎義俊、後に群馬郡里見に居し里見太郎と名乗り、子孫繁栄なり。 
-  群馬郡里見に居住して里見太郎 +③次は新田太郎義兼、義重の家督を継ぎ新田氏流の祖となる。義兼は左中将(新田)義貞の七代前の先祖なり。 
-  と号す子孫繁栄なり次は新田 +④次は徳(得)川四郎義季(世羅田義季)、子孫繁多。 
-  太郎義兼という義重の家督を +⑤次は額田(戸)五郎義経。 
-  継て新田一流の祖なり此人左中将 +⑥次は新田冠者義光。 
-  義貞七代の祖なり次は徳川四郎 +⑦次は新田子四郎義佐。 
-  義季という子孫繁多なり次は額田 +⑧次は女子、初めは悪源太(源)義平の妻となり、その後、師六郎に嫁ぐ。 
-  五郎義経という子孫あり次は新田 +②次は新田判官代義孝、生まれは平賀冠者盛義の三男で、新羅三郎義光(義重の祖父・義家の弟)の孫。義重の養子とする。
-  冠者義光という次は新田小四郎義 +
-  佐という次は女子始め悪源太義平の +
-  妻となり後に師六郎に嫁す次は +
-  新田判官代義隆という実は平賀 +
-  冠者盛義が三男にして新羅三郎 +
-  義光の孫なり義重養て子と +
-  す+
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-  新田大炊助義重(義國長男)の子孫は上野 + 
-  下野越後に繁栄せり山名里見 +新田大炊助義重(義国長男)の子孫は上野国・下野国・越後国に繁栄する。 
-  新田徳川額田大嶋田中大井田高林 +山名・里見・新田・徳川(得川?)・額田(額戸(ごうど)?)・大嶋・田中・大井田・高林・平沢・鳥山・脇屋・大館・堀口・一井・世良田・江田・豊岡・金屋等の諸氏は皆その子孫なり。世にこれを新田源氏と言う。 
-  平澤鳥山脇屋大館堀口一井世良 + 
-  田江田豊岡金屋等の諸氏皆其 +足利陸奥守義兼(義国二男)の子孫は上野国・下野国の間に繁栄する。 
-  子孫也世に是を新田源氏と称す +矢田・仁木・広沢・荒川・細川・戸賀崎・足利・岩松・畠山・桃井・吉良・今川・斯波・石橋・渋川・石堂・上野・小俣・加古等の諸氏は皆その子孫なり。世にこれを足利源氏と言う。 
-  足利陸奥守義康(義國二男)の子孫は + 
-  上野下野の間に繁栄せり矢田 +従って式部大夫義国をもって、新田・足利両流の太祖とする。
-  仁木廣沢荒川細川戸賀崎足 +
-  利岩松畠山桃井吉良今川斯波 +
-  石橋渋川石堂一色上野小俣加古 +
-  等の諸氏みな其子孫なり世に +
-  是を足利源氏というよりて式部太夫 +
-  義國を以て新田足利両流の大祖 +
-  とする者也+
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