1: 2013-07-13 (土) 11:40:36 admin ソース
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 +  義(よし)理(まさ)流ー田渕氏の系譜
 +事務局
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 +  6月のある日の事、山名蔵に先祖の発祥たずねて隣町の方がお見えになった。
 +  その方曰く、「山名の側室の子が先祖だと伝え聞いている」と、お名前を聞くと「田渕」と言われる。
 +  田渕姓はこの辺りでは良く聞く名字で、法雲寺の檀家の中にも2~3件田渕姓があるし、高校の同級生には少なくとも10人以上の「田渕君・田渕さん」が居たように思える。それ程この辺りでは普通以上の良く聞く名字である。(電話帳で調べると近辺に140件程度の田渕さんがある。)
 +  その田渕の祖が「山名某の側室の子」と言うのは初耳で、俄には合点がいかない。その方は、「今日は下見で、後日改めて同族4~5人で出直す」と言われ、その日は短時間で帰られた。
 +  今まで山名に関連した姓に田渕姓も含まれるという話は聞いたことが無く、老僧に聞いて見ても同じく。そもそも、側室の子と言えども、第2・第3の正式な妻の子で有り、せっかく出来た跡継ぎの姓を山名から他の姓に変える理由が分からない。それにいったい「山名某」とは誰なのか、時代は江戸時代のことか、それ以前のことか、疑問が残る。
 +  ひょっとして何か他氏(この辺りゆかりの日下部系氏族)と勘違いされているのでは?と思いつつも、次回その方がお越しになった際に参考になることは無いかと『七美郡誌』開いてみた。
 +  訪ねてこられた方は、当地村岡から10キロほど離れた養(や)父(ぶ)市(し)関(せきの)宮(みや)町(ちょう)(旧・七(しつ)美(み)郡(ぐん)熊(くま)次(つぎ)郷(ごう))丹(たん)戸(ど)の田渕さんであったので、丹戸村の頁を開き田渕姓に関連する事項が無いか見てみると、下記のようなことが記してあった。
 +     羽柴軍の但馬因幡侵攻の頃の話、但馬山名の家臣で、当地方を治めていた田(た)公(ぎみ)氏(し)が因幡に頓出した後に、田公残党が藤堂高虎を相手にし「小(お)代(じろ)一揆」を起こす。その一揆の首謀者を太田垣信(のぶ)喬(たか)と田渕清(きよ)理(まさ)という。この一党はしばしば丹戸周辺まで出陣しては結構暴れ回り、特に田渕清理は鉢伏高原で弓矢を引いて矢の落ちたところまでを自分の領地としたが、羽柴軍の但馬平定以降は本拠地である新(にい)屋(や)へと大人しく帰って行った。
 +  という記述がある。
 +  この中に登場する「太田垣信喬」とは、竹田城主の太田垣土佐守輝信(延)の次男で、竹田城落城前後、小代郷城山城主の田公を頼って小代郷に移っている。(今に続く小代郷の太田垣はこの系統か?)
 +  その太田垣と共に一揆の首謀者に名を連ねる田渕清理も太田垣に並ぶ求心力を備えた人物と見えるが、田渕氏についての詳しい記述は見えない。
 +  では、田渕が本拠地としていた香美町小代区(旧・七美郡小代郷)新屋村の頁を開いてみると、「田渕清理」で一項が設けてある。
 +  そこを読んでみると、今まで気づきもしなかった事柄が記してあった。
 +     田渕庄五郎清理という者あり、祖先は山名右京大(たい)夫(ぶ)時氏公四男、紀州海(あ)士(もう)郡(ぐん)大野城主山名修(しゅ)理(り)大(たい)夫(ぶ)義(よし)理(まさ)の四代美(みま)作(さか)大(おお)庭(ば)郡(ぐん)高田城主兵(ひょう)部(ぶ)少(しょう)輔(ゆう)政清。
 +  と記してある。
 +  小坂博之著『山名豊国』の巻末系図を見ると確かに、義理公の末裔に「政清」の名が見える。
 +  その後を読み進めると、
 +     …(略)…その子、与五郎豊清…(略)…その子、庄五郎清理…
 +  とその後の系譜が記してある。
 +  政清は美作30万石の領主なのだが、勢力を拡げてきた大内義隆に抗しきれず、豊清の代に美作市(旧・作東町)田渕に移り、土地の名を取って田渕氏と姓を改めた。子の清理は、美作田渕から但馬山名配下で竹田城近くの朝来郡佐中へ移り、更に田(た)公(ぎみ)能(の)登(との)守(かみ)綱(つな)典(のり)を頼って七美郡小代郷へと移ったと書いてある。(系図に表すと図3の如く)
 +  これが事実であるなら(事実なのだが)、当地周辺に散在する田渕姓は間違いなく、山名時氏公―義(よし)理(まさ)公―政清公の流れを受け継ぐ山名一族の一員と言える。
 +この田渕姓の本拠地を小代郷新屋と言ったが、前述の熊次郷丹戸とはスキー場のある鉢伏山を挟んで北(新屋)と南(丹戸)に位置する。私自身の感覚としても田渕姓は、この鉢伏山を中心とした地域に広がっている。(確かにスキーに行くと数多くの田渕さんにお目にかかる)
 +  日頃、『七美郡誌』を頼りにしながらも、どちらかと言えば調べごとに関連する部分のみをつまみ食いをするだけで、こんなに身近にしかも沢山の山名由来の「田渕氏」に囲まれた過ごしていたとは・・・全く気が付かなかった。『七美郡誌』を一度でも通して読んでいればもっと早くに気が付いていたかも知れないと悔やまれる。
 +  少なくとも、この本が刊行された明治後半には著者やその頃の田渕姓の方々は「元々は山名」と認識されていただろうが、果たして今の時代にどれほどの田渕さんが、このことを意識されているのだろうか?
 +  どの姓に関わらず途中で一度途切れてしまった一族の記憶を取り戻すのは、困難な事かと思う。
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 +  とは言え、こんな大切なことに気付かせてくれた丹戸の田渕さんには唯々感謝である。
 +  さて、この近辺に居られる約140件の田渕さんに「元々は山名」と思い起こして頂いた上で、「是非、山名会に入会を…」と勧めるには、どのようなアプローチが良いか?私にとっての重要課題である。
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 +(会員諸氏の身近でも「元は山名」という家系があるかと思いますが、ご存じの際は是非事務局へご一報お願い致します。)
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 +参考・八木玄蕃著「七美郡誌稿」(明治39年刊)
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 +P150・丹戸村
 +○丹戸村 按スルニ七味叢誌山名家ノ記録及ヒ古老ノ口碑ニョレハ奈良尾村ノ支村ト雖トモ舊村ナリ
 +  中古天正五年丑十月八木落城後小代一揆ノ黨太田垣田淵等折々當村ニ出張シ田淵庄五郎清理弓ヲ引矢ノ止ル所迄ハ自分ノ支配地ナリト強言ヲ吐キ押領シケレドモ乱レタル時ナレハ抗スル者ナカリケリ仝八年辰六月羽柴殿御入國後田淵モ新屋村ニ閑居シ一揆モ止ヌ今ニ子孫アリ
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 +P192・新屋村
 +一村ニ田淵庄五郎清貞ト云者在リ先ハ山名京兆時氏四男紀州海士郡大野城主山名修理大夫義理四代作州大庭郡高田城主兵部少輔政清卅萬石余ヲ領スト雖モ大内義隆ニ攻ラレ永正年中ニ至リ不振其子與四郎豊清永正年中作州葦多郡田淵ニ移リ故ニ以テ氏トス其子庄五郎清理享祿年中但州朝来郡佐中ニ來リ又天文年中七味郡小代庄ニ來リ田公能登守綱典ニ従ヒ天正五年丑十月綱典入道秋庭城山ヲ退城セラレ其後太田垣権兵衛信喬ト共ニ小代一揆ノ張本トナリ清理後ニハ熊次庄丹戸村ニ出張シ弓矢ヲ以テ谷中向フ者ハ討取シカハ抗スル者ナシ天正八年羽柴氏入國後ハ清理モ新屋ニ流寓シ其子庄五郎清貞寛永十九年壬午六月十五日山名豆州公ニ謁シ代々苗字御免目見列トナリ其後連綿トシテ當主庄五郎ニ至ルト云仝氏與右衛門ト云者寛永年中ヨリ領主及家中十三戸ニ年玉ニ栃餅黒豆一升宛ヲ献上シ來リシ例アリ
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