16: 2014-07-15 (火) 19:54:27 admin ソース 現: 2022-12-11 (日) 16:12:39 admin ソース
Line 2: Line 2:
#navi() #navi()
#contents() #contents()
-*巻之八 [#y498f594] + 
-|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/361.jpg,mh:240,山名家譜 巻之八);|+|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/735.jpg,mh:240,山名家譜 巻之八);|
|=P155~P185| |=P155~P185|
-*155 [#rd802f6d+#clear 
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/362.jpg,mw:640,P155);|+ 
 +*P155 [#p0000155
 +|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/670.jpg,mw:640,P155);|
一 豊國 中務大輔 従五位下  一 豊國 中務大輔 従五位下 
  豊國は弾正大弼豊定の男にして天文   豊國は弾正大弼豊定の男にして天文
Line 24: Line 26:
  人を目前に斬伏られければ残る   人を目前に斬伏られければ残る
-*156 [#zb1cf044+*P156 [#p0000156
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/363.jpg,mw:640,P156);|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/671.jpg,mw:640,P156);|
  寄手の兵ども此勢いに恐れて   寄手の兵ども此勢いに恐れて
  城中に入る事ならず其間に家   城中に入る事ならず其間に家
Line 44: Line 46:
  して八上郡大玄寺という禅寺に   して八上郡大玄寺という禅寺に
-*P157 [#tf137561+*P157 [#p0000157
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/364.jpg,mw:640,P157);|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/672.jpg,mw:640,P157);|
  おいて両人を斬て舎兄の仇を報   おいて両人を斬て舎兄の仇を報
  じて後に邑美郡の鳥取城に移り   じて後に邑美郡の鳥取城に移り
Line 64: Line 66:
    年に布施落城いたし候其後     年に布施落城いたし候其後
-*P158 [#v088df63+*P158 [#p0000158
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/365.jpg,mw:640,P158);|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/673.jpg,mw:640,P158);|
    武田臣下として国を奪取り     武田臣下として国を奪取り
    候儀もなりがたきゆえ但馬山名     候儀もなりがたきゆえ但馬山名
Line 83: Line 85:
    の記に誤り伝うる成べし     の記に誤り伝うる成べし
-*159 [#ef3409e7+*P159 [#p0000159
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/366.jpg,mw:640,P159);|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/674.jpg,mw:640,P159);|
    其後禅高公又武田と中悪し     其後禅高公又武田と中悪し
    く御なり禅高公を武田追     く御なり禅高公を武田追
Line 102: Line 104:
    の舎兄源十郎豊数の居城     の舎兄源十郎豊数の居城
-*160 [#pa4d74fb+*P160 [#p0000160
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/367.jpg,mw:640,P160);|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/675.jpg,mw:640,P160);|
    なり同国岩井城は武田豊前     なり同国岩井城は武田豊前
    守にあづけ置る処に武田逆臣     守にあづけ置る処に武田逆臣
Line 121: Line 123:
    城たえ申候儀も説々に申候弥次     城たえ申候儀も説々に申候弥次
-*161 [#e8a1e5b5+*P161 [#p0000161
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/368.jpg,mw:640,P161);|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/676.jpg,mw:640,P161);|
    郎殿と申御屋形の代にくづれ     郎殿と申御屋形の代にくづれ
    申よし彼の弥次郎殿打死なさ     申よし彼の弥次郎殿打死なさ
Line 140: Line 142:
    氏冬始て因州布施庄に居     氏冬始て因州布施庄に居
-*162 [#yfe5439c+*P162 [#p0000162
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/369.jpg,mw:640,P162);|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/677.jpg,mw:640,P162);|
    住ありしより子孫此所を     住ありしより子孫此所を
    領す是を布施の屋形という     領す是を布施の屋形という
Line 159: Line 161:
    たるもの御座なく候当国矢部     たるもの御座なく候当国矢部
-*163 [#e9e67ce2]+*P163 [#p0000163]
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/370.jpg,mw:640,P163);|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/678.jpg,mw:640,P163);|
    の城に御座なさるゝと申ものも     の城に御座なさるゝと申ものも
    御座候へど当国にて矢部の城今     御座候へど当国にて矢部の城今
Line 178: Line 180:
    の方にて討留め申などと申候     の方にて討留め申などと申候
    其弟又三郎は当国の国侍打     其弟又三郎は当国の国侍打
-*164 [#u368680c+*P164 [#p0000164
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/371.jpg,mw:640,P164);|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/679.jpg,mw:640,P164);|
    寄たばかり和談いたし当国     寄たばかり和談いたし当国
    八上郡大玄寺と申禅寺にて     八上郡大玄寺と申禅寺にて
Line 197: Line 199:
    彼の武田の子孫のよし申候     彼の武田の子孫のよし申候
-*165 [#s06fd6c7+*P165 [#p0000165
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/372.jpg,mw:640,P165);|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/680.jpg,mw:640,P165);|
    或記に曰く当国八東郡きさいち     或記に曰く当国八東郡きさいち
    と申所に覚王寺と申山伏寺御     と申所に覚王寺と申山伏寺御
Line 215: Line 217:
    祈祷いたし候一山伏は子孫もたえ     祈祷いたし候一山伏は子孫もたえ
    候て柴の庵に餘流の山伏籠     候て柴の庵に餘流の山伏籠
-*P166 [#z6af70d5+*P166 [#p0000166
-|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/373.jpg,mw:640,P166);|+|=&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/681.jpg,mw:640,P166);|
    或説に曰く因州岩井郡に豊國     或説に曰く因州岩井郡に豊國
    在住あり居城を岩つねの城     在住あり居城を岩つねの城
Line 236: Line 238:
  播州姫路の城を発し大軍を引   播州姫路の城を発し大軍を引
-*167 [#ded6066c+*P167 [#p0000167
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/374.jpg,mw:640,P167);|+|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/682.jpg,mw:640,P167);|
  具して因幡に至り鳥取城を囲   具して因幡に至り鳥取城を囲
Line 255: Line 257:
  囲み又城中に変を生ず我何   囲み又城中に変を生ず我何
  を以て秀吉を防がんや我志に叶わず   を以て秀吉を防がんや我志に叶わず
-*168 [#i645b68c+*P168 [#p0000168
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/375.jpg,mw:640,P168);|+|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/683.jpg,mw:640,P168);|
  といえども今秀吉に志を通じて彼が   といえども今秀吉に志を通じて彼が
  力をかりて吉川并に逆臣等を   力をかりて吉川并に逆臣等を
Line 275: Line 277:
     可被仰付事      可被仰付事
-*P169 [#s87605c7+*P169 [#p0000169
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/376.jpg,mw:640,P169);|+|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/684.jpg,mw:640,P169);|
   右旨八幡大菩薩愛宕山相違有    右旨八幡大菩薩愛宕山相違有
Line 295: Line 297:
  よりて吉川中村森下等相議し   よりて吉川中村森下等相議し
  て福光小三郎を使として浅野弾正   て福光小三郎を使として浅野弾正
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/377.jpg,mw:640,P170);|+*P170 [#p0000170] 
 +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/685.jpg,mw:640,P170);|
  少弼長政が陣に遣して城中雑兵   少弼長政が陣に遣して城中雑兵
  の一命を助け給わゞ三人ともに自殺し   の一命を助け給わゞ三人ともに自殺し
Line 313: Line 316:
  食うものは恙がなし秀吉より   食うものは恙がなし秀吉より
-*171 [#jaebbd4a+*P171 [#p0000171
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/378.jpg,mw:640,P171);|+|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/686.jpg,mw:640,P171);|
  宮部善祥房をして五万石の領地   宮部善祥房をして五万石の領地
  をあたえて鳥取の城を守らせらる   をあたえて鳥取の城を守らせらる
Line 331: Line 334:
  ときく今偏る所の太刀ならん其   ときく今偏る所の太刀ならん其
  太刀を我に見せらるべしとあり   太刀を我に見せらるべしとあり
-*172 [#o454503e+*P172 [#p0000172
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/379.jpg,mw:640,P172);|+|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/687.jpg,mw:640,P172);|
  ければ豊國答えて笹作りの太刀は   ければ豊國答えて笹作りの太刀は
  鹿園院殿より先祖宮内大輔時   鹿園院殿より先祖宮内大輔時
Line 350: Line 353:
  豊國三十四歳なり   豊國三十四歳なり
-***173 [#b0a62d02] +*P173 [#p0000173
-|TLEFT:||c +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/688.jpg,mw:640,P173);|
-|CENTER:174|CENTER:173| +
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/381.jpg,mw:640,P174);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/380.jpg,mw:640,P173);| +
-*徳川家康 [#w2ac1cbd] +
-一天正十四(1586)年丙戍に徳川家康公豊  臣秀吉公の招によりて上洛あり  此時に豊國は多田庄より家康公 +
- の旅館に至り本多中務大輔忠  勝榊原式部太輔康政永井右近大夫  直勝西尾隠岐守吉次等に逢て +
- 家康公に拝謁せん事をこわる各  相儀して家康公に執し申則ち  旅館に於て家康公に拝謁せらる +
- 是よりして恩恵日々に厚く直々  に供奉して関東に下向せらる +
-  此時に豊國多田圧より関東  に趣(赴)かるゝによりて多田氏が多  年の懇情を謝せん為に重代 +
-  の脇指を多田氏に授け離別  の情をつくさる今に至て多田兵部 +
- +
-  元朝が子孫此脇指を所持すと  いう +
-  或説に此時に山名慶五郎  堯熈も豊國とおなじく家康公に  拝謁すというはあやまりなり +
-  堯熈父子兄弟皆豊臣秀吉  公に仕えて慶長年中に至り  摂州大坂城に籠り秀頼公に +
-  仕う然るに大坂落城におよび  て豊國潜に諭し堯熈父子  をして城中を出奔せしめ +
-  将軍家に拝謁せしめん事を  願わるゝに将軍家の命有  りて堯熈父子京都六条の辺 +
-  蟄居あり詳かに祐豊の譜  伝に見えたり +
- +
-***175 [#p3b434f0] +
-|TLEFT:||c +
-|CENTER:176|CENTER:175| +
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/383.jpg,mw:640,P176);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/382.jpg,mw:640,P175);| +
- +
-一同十六年(1588)戊子四月十四日に秀吉公  の聚楽の亭へ行幸あるにより家  康公も上洛あり前管領家斯波 +
- 入道三松が宅に渡御あり豊國も  供奉して彼宅に至り三松入道に  対面あり其礼甚だいんぎんなり +
- 家康公還御の後に豊國を召て  仰に曰く三松に対するの礼甚だ  過たり斯波氏は是足利氏の支流 +
- なり汝が家は新田正嫡の一流にして  名家たり近き頃に至るまでも大  国を領して威名ありし事は世の +
- 知る所なり今古えのごとくにあらず  といえ共彼に対して強がちに謙ゆず  らんや我に忠をつくし絶たるを +
- 継ぎ廃たるを興し功名を子孫 +
- +
- 残すべしと仰有り豊國忝なき  旨を申て退く +
-一文禄(1592頃)年中筑紫陣の時に家康公  豊國を召て仰に曰く汝の先祖山名  伊豆守義範と家康が先祖徳川 +
- 四郎義季は兄弟にしてともに新田  大炊助義重の子なり今に至ると  いえども我家と汝の家とは同血同胞 +
- の家なり然ば我何ぞ汝が家を  疎かにするの理あらんや今より後  は我に眤近あるべし我もまた疎かに +
- すべからずと仰あり豊國鈞命  の慇懃なる事を蒙り忝なき  旨を申て退かる聞人皆是を羨む +
-一慶長五(1600)年庚子五月朔日に家康  公諸将を召て上杉中納言景勝を +
-***177 [#ib765caa] +
-|TLEFT:||c +
-|CENTER:176|CENTER:175| +
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/385.jpg,mw:640,P178);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/384.jpg,mw:640,P177);| +
- +
- 御退治あるべき評定有同月九日に  御陣触あり同じく六月十六日に  摂州大坂を御進発あり同く七月 +
- 二日に武州江戸城に入らせらる此時  に豊國も供奉して関東に下る同  月廿四日の夜に京都伏見の騒動を +
- 告げ来るよりて家康公諸将と  相議して上方に登り給う同じく九月  十五日に美濃国関原表において +
- 石田治部少輔三成を始め西国方の諸  将皆敗北して家康公御勝利な  り豊國も亀井武蔵守上杉紹常 +
- 入道八木圧左衛門太田垣監物等と  一備えにて軍忠を抽(ぬきんで)らる八木庄左衛門 +
- 太田垣監物は豊國の旧臣たりといえども  当時将軍家に仕う此度豊國と +
- +
- 一列に命ぜらる同じく十月十六日に  家康公摂州大坂城に入給う同月廿七日  に豊國を召て仰に但馬国におもむ +
- き気多郡高田庄の領主斎村佐兵衛  佐秀則が竹田の城を請取るべき旨  を命ぜらる豊國則ち但馬に至り +
- 高田庄におもむかる此時に旧臣等  来り集りて城地を請取国中の  仕置をなし竹田の城を給る +
-一同六年(1601)辛丑に同国七味郡に郡替  を仰付られて七味郡一郡を一円に  給る +
-一同十九年(1614)甲寅の冬大坂御陣の  節に家康公上意待て本多上野  介正純は朝夕に昵近して我左右に +
- あり上野介が人数と三浦監物と+
-***179 [#ca7ea44d] +一、天正十四(1586)年丙戍に徳川家康公豊 
-|TLEFT:||c +  臣秀吉公の招によりて上洛あり 
-|CENTER:180|CENTER:179| +  此時に豊國は多田庄より家康公 
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/387.jpg,mw:640,P180);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/386.jpg,mw:640,P179);|+  の旅館に至り本多中務大輔忠 
 +  勝榊原式部太輔康政永井右近大夫 
 +  直勝西尾隠岐守吉次等に逢て 
 +  家康公に拝謁せん事をこわる各 
 +  相儀して家康公に執し申則ち 
 +  旅館に於て家康公に拝謁せらる 
 +  是よりして恩恵日々に厚く直々 
 +  に供奉して関東に下向せらる 
 +  此時に豊國多田圧より関東 
 +  に趣(赴)かるゝによりて多田氏が多 
 +  年の懇情を謝せん為に重代 
 +  の脇指を多田氏に授け離別 
 +  の情をつくさる今に至て多田兵部 
 +*P174 [#p0000174
 +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/689.jpg,mw:640,P174);| 
 +  元朝が子孫此脇指を所持すと 
 +  いう 
 +  或説に此時に山名慶五郎 
 +  堯熈も豊國とおなじく家康公に 
 +  拝謁すというはあやまりなり 
 +  堯熈父子兄弟皆豊臣秀吉 
 +  公に仕えて慶長年中に至り 
 +  摂州大坂城に籠り秀頼公に 
 +  仕う然るに大坂落城におよび 
 +  て豊國潜に諭し堯熈父子 
 +  をして城中を出奔せしめ 
 +  将軍家に拝謁せしめん事を 
 +  願わるゝに将軍家の命有 
 +  りて堯熈父子京都六条の辺 
 +  蟄居あり詳かに祐豊の譜 
 +  伝に見えたり
- 豊國相備えにて軍兵を下知して  戦功を抽(ぬきん)ずべしと仰あり豊國領  掌申さる此時に豊國の旗の紋三ツ +*P175 [#p0000175] 
- 引なり三浦氏も又旗の紋三ツ引な り豊國その混乱せん事を察して  山の字を以て下に添らる家康公 +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/690.jpg,mw:640,P175);| 
- 上意有けるは汝の旗を見るに三ツ  引の下に山の字あり呼て見れば  さんざんのとなえなり旗の紋を改 +一、同十六年(1588)戊子四月十四日に秀吉公 
- むべきのよし仰有るによりて二ツ引  両に山の字を付らるこれよりし  て後当家三布白二ツ引両を以て +  の聚楽の亭へ行幸あるにより家 
- 家の紋とす +  康公も上洛あり前管領家斯波 
-一家康公駿府に御在城の時に年  始御礼の節国持大名御礼相済て  直に日野入道唯心水無瀬入道一斎+  入道三松が宅に渡御あり豊國も 
 +  供奉して彼宅に至り三松入道に 
 +  対面あり其礼甚だいんぎんなり 
 +  家康公還御の後に豊國を召て 
 +  仰に曰く三松に対するの礼甚だ 
 +  過たり斯波氏は是足利氏の支流 
 +  なり汝が家は新田正嫡の一流にして 
 +  名家たり近き頃に至るまでも大 
 +  国を領して威名ありし事は世の 
 +  知る所なり今古えのごとくにあらず 
 +  といえ共彼に対して強がちに謙ゆず 
 +  らんや我に忠をつくし絶たるを 
 +  継ぎ廃たるを興し功名を子孫 
 +*P176 [#p0000176] 
 +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/691.jpg,mw:640,P176);| 
 +  残すべしと仰有り豊國忝なき 
 +  旨を申て退く 
 +一、文禄(1592頃)年中筑紫陣の時に家康公 
 +  豊國を召て仰に曰く汝の先祖山名 
 +  伊豆守義範と家康が先祖徳川 
 +  四郎義季は兄弟にしてともに新田 
 +  大炊助義重の子なり今に至ると 
 +  いえども我家と汝の家とは同血同胞 
 +  の家なり然ば我何ぞ汝が家を 
 +  疎かにするの理あらんや今より後 
 +  は我に眤近あるべし我もまた疎かに 
 +  すべからずと仰あり豊國鈞命 
 +  の慇懃なる事を蒙り忝なき 
 +  旨を申て退かる聞人皆是を羨む 
 +一、慶長五(1600)年庚子五月朔日に家康 
 +  公諸将を召て上杉中納言景勝を
- 豊國次に上杉畠山土岐と次第し  て御礼ありまた六月十六日嘉定の御  祝儀の節も公家の面々同前に豊 +*P177 [#p0000177] 
- 國を御留ての上に召させられて日野  飛鳥井は三方なり冷泉土御門  舟橋水無瀬豊國は足付なり其餘 +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/692.jpg,mw:640,P177);| 
- は列座御縁にて片木にて是を  下されしなり +  御退治あるべき評定有同月九日に 
-一家康公の御前に豊國出仕有る  の時は毎度列座の上座たり家  康公上意にも新田の氏族は山名の +  御陣触あり同じく六月十六日に 
- 外高家の内にこれなきのよし  度々上意あり山名は新田の嫡家  なるによりて類なき家たるの +  摂州大坂を御進発あり同く七月 
- 間馳走もまた類なきの旨を仰  らるある時豊國家康公の御前に+  二日に武州江戸城に入らせらる此時 
 +  に豊國も供奉して関東に下る同 
 +  月廿四日の夜に京都伏見の騒動を 
 +  告げ来るよりて家康公諸将と 
 +  相議して上方に登り給う同じく九月 
 +  十五日に美濃国関原表において 
 +  石田治部少輔三成を始め西国方の諸 
 +  将皆敗北して家康公御勝利な 
 +  り豊國も亀井武蔵守上杉紹常 
 +  入道八木圧左衛門太田垣監物等と 
 +  一備えにて軍忠を抽(ぬきんで)らる八木庄左衛門 
 +  太田垣監物は豊國の旧臣たりといえども 
 +  当時将軍家に仕う此度豊國と 
 +*178 [#p0000178] 
 +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/693.jpg,mw:640,P178);| 
 +  一列に命ぜらる同じく十月十六日に 
 +  家康公摂州大坂城に入給う同月廿七日 
 +  に豊國を召て仰に但馬国におもむ 
 +  き気多郡高田庄の領主斎村佐兵衛 
 +  佐秀則が竹田の城を請取るべき旨 
 +  を命ぜらる豊國則ち但馬に至り 
 +  高田庄におもむかる此時に旧臣等 
 +  来り集りて城地を請取国中の 
 +  仕置をなし竹田の城を給る 
 +一、同六年(1601)辛丑に同国七味郡に郡替 
 +  を仰付られて七味郡一郡を一円に 
 +  給る 
 +一、同十九年(1614)甲寅の冬大坂御陣の 
 +  節に家康公上意待て本多上野 
 +  介正純は朝夕に昵近して我左右に 
 +  あり上野介が人数と三浦監物と
-***181 [#ac6941af] +*P179 [#p0000179
-|TLEFT:||c +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/694.jpg,mw:640,P179);
-|CENTER:182|CENTER:181| +  豊國相備えにて軍兵を下知して 
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/389.jpg,mw:640,P182);|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/388.jpg,mw:640,P181);|+  戦功を抽(ぬきん)ずべしと仰あり豊國領 
 +  掌申さる此時に豊國の旗の紋三ツ 
 +  引なり三浦氏も又旗の紋三ツ引な 
 +  り豊國その混乱せん事を察して 
 +  山の字を以て下に添らる家康公 
 +  上意有けるは汝の旗を見るに三ツ 
 +  引の下に山の字あり呼て見れば 
 +  さんざんのとなえなり旗の紋を改 
 +  むべきのよし仰有るによりて二ツ引 
 +  両に山の字を付らるこれよりし 
 +  て後当家三布白二ツ引両を以て 
 +  家の紋とす 
 +一、家康公駿府に御在城の時に年 
 +  始御礼の節国持大名御礼相済て 
 +  直に日野入道唯心水無瀬入道一斎 
 +*180 [#p0000180] 
 +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/695.jpg,mw:640,P180);| 
 +  豊國次に上杉畠山土岐と次第し 
 +  て御礼ありまた六月十六日嘉定の御 
 +  祝儀の節も公家の面々同前に豊 
 +  國を御留ての上に召させられて日野 
 +  飛鳥井は三方なり冷泉土御門 
 +  舟橋水無瀬豊國は足付なり其餘 
 +  は列座御縁にて片木にて是を 
 +  下されしなり 
 +一、家康公の御前に豊國出仕有る 
 +  の時は毎度列座の上座たり家 
 +  康公上意にも新田の氏族は山名の 
 +  外高家の内にこれなきのよし 
 +  度々上意あり山名は新田の嫡家 
 +  なるによりて類なき家たるの 
 +  間馳走もまた類なきの旨を仰 
 +  らるある時豊國家康公の御前に
- 出て象戯(将棋)の御相手たり時冬に  してことに寒する夜なりしに  豊國古き羽織を着せらる側に +*P181 [#p0000181] 
- 伺公の人々古き羽織を着せられ  候よしをいうに豊國答えて此羽  織は我等因幡に有し頃上洛せし +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/696.jpg,mw:640,P181);| 
- 時に公方光源院義輝公の召して  御入候を賜わりたるによりて古く候  と答らる家康公聞し召して +  出て象戯(将棋)の御相手たり時冬に 
- 笑わせ給い側の人々に宣うは禅高  入道が家には左様なる由緒ある古  き物は多くあるのよしを仰ければ +  してことに寒する夜なりしに 
- 聞人皆赤面せしとなり其羽織  は金襴なりとぞ +  豊國古き羽織を着せらる側に 
-一慶長年中に豊國家康公の御  前に伺公あるの時池田備後守脇指を+  伺公の人々古き羽織を着せられ 
 +  候よしをいうに豊國答えて此羽 
 +  織は我等因幡に有し頃上洛せし 
 +  時に公方光源院義輝公の召して 
 +  御入候を賜わりたるによりて古く候 
 +  と答らる家康公聞し召して 
 +  笑わせ給い側の人々に宣うは禅高 
 +  入道が家には左様なる由緒ある古 
 +  き物は多くあるのよしを仰ければ 
 +  聞人皆赤面せしとなり其羽織 
 +  は金襴なりとぞ 
 +一、慶長年中に豊國家康公の御 
 +  前に伺公あるの時池田備後守脇指を 
 +*182 [#p0000182] 
 +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/697.jpg,mw:640,P182);| 
 +  帯し御前近く出て直訴申上る 
 +  其躰不審しく見えければ豊國座 
 +  を立て備後守が左右の手をとり 
 +  引立て御次に退かしむ時に本多 
 +  上野介正純を上使として御諚有 
 +  けるは豊國若年より所々において 
 +  勇傑の働き上聞に達したるによりて 
 +  武備の為に兼々昵懇せしめらるゝ 
 +  の所に今日の振舞神妙の至り御 
 +  感におぼし召さるゝ所なり他の若 
 +  輩にあらば御感状をも下さるべきに 
 +  禅高入道のごときは感状を下さるゝ 
 +  にもあまりありと大きに御感の 
 +  上意あり
- 帯し御前近く出て直訴申上る  其躰不審しく見えければ豊國座  を立て備後守が左右の手をとり +一、豊國駿府より江戸に来り秀忠公 
- 引立て御次に退かしむ時に本多  上野介正純を上使として御諚有  けるは豊國若年より所々において +  に拝謁あり滞留の聞しばしば御前
- 勇傑の働き上聞に達したるによりて  武備の為に兼々昵懇せしめらるゝ  の所に今日の振舞神妙の至り御 +
- 感におぼし召さるゝ所なり他の若  輩にあらば御感状をも下さるべきに  禅高入道のごときは感状を下さるゝ +
- にもあまりありと大きに御感の  上意あり +
-*徳川秀忠 [#d609dac5] +
-一豊國駿府より江戸に来り秀忠公  に拝謁あり滞留の聞しばしば御前+
-***183 [#rb07fddc+*P183 [#p0000183
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/390.jpg,mw:640,P183);|+|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/698.jpg,mw:640,P183);|
  に出らるまた秀忠公駿府におもむ   に出らるまた秀忠公駿府におもむ
  かせられ家康公に謁せらるゝのと   かせられ家康公に謁せらるゝのと
Line 463: Line 558:
  部少輔豊國にむかって曰く唯今   部少輔豊國にむかって曰く唯今
  貴辺の御返盃有し事は国主といえ   貴辺の御返盃有し事は国主といえ
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/391.jpg,mw:640,P184);|+*P184 [#p0000184] 
 +|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/699.jpg,mw:640,P184);|
  どもかくのごとくの上意有る事を   どもかくのごとくの上意有る事を
  聞ずと大に感心す聞人も此事を   聞ずと大に感心す聞人も此事を
Line 485: Line 581:
一、寛永三年(1626)丙寅十月七日に豊國卒 一、寛永三年(1626)丙寅十月七日に豊國卒
-***P185 [#s2b90f0c]+*P185 [#p0000185]
-|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/392.jpg,mw:640,P185);|+|CENTER:&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/700.jpg,mw:640,P185);|
  去有り時に七十九歳なり京都   去有り時に七十九歳なり京都


トップ   差分 バックアップ リロード印刷に適した表示   全ページ一覧 単語検索 最新ページの一覧   ヘルプ   最新ページのRSS 1.0 最新ページのRSS 2.0 最新ページのRSS Atom Powered by xpWiki
Counter: 5640, today: 1, yesterday: 0