3: 2012-11-02 (金) 17:08:20 admin ソース 現: 2022-12-11 (日) 16:12:32 admin ソース
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&font(140%){清和源氏の中で最も連綿として続く、&br;       燦然たる山名氏の系譜}; &font(140%){清和源氏の中で最も連綿として続く、&br;       燦然たる山名氏の系譜};
RIGHT:&font(150%){宮田靖國先生};(当会副会長・「山名家譜」編者) RIGHT:&font(150%){宮田靖國先生};(当会副会長・「山名家譜」編者)
 +**歴史講演のビデオ [#ded4ddd6]
 +-[[「燦然たる山名氏の系譜」ビデオ・・・テスト版>山名氏一族会/再興に向けて/20121020_歴史講演/ビデオ]]
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*清和源氏流山名氏 [#lebdef76] *清和源氏流山名氏 [#lebdef76]
清和天皇第六の皇子・貞純親王の長子・経基王は臣籍降下して清和源氏の始祖と成り給うた。 清和天皇第六の皇子・貞純親王の長子・経基王は臣籍降下して清和源氏の始祖と成り給うた。
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一方、八幡太郎義家の三男・義国は故あって下野国の足利の庄に住し、二児をもうけた。兄を新田義重、弟を足利義康という。新田義重は上野国へ出でて新田の庄を領有し、地名を以て氏とした。 一方、八幡太郎義家の三男・義国は故あって下野国の足利の庄に住し、二児をもうけた。兄を新田義重、弟を足利義康という。新田義重は上野国へ出でて新田の庄を領有し、地名を以て氏とした。
晩年に至り、頼朝の挙兵に際し、三男の義範を名代として参陣させ、頼朝に近侍せしめた。その由縁は、頼朝の長兄・悪源太義平の妻は新田義重の娘であったからである。 晩年に至り、頼朝の挙兵に際し、三男の義範を名代として参陣させ、頼朝に近侍せしめた。その由縁は、頼朝の長兄・悪源太義平の妻は新田義重の娘であったからである。
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**関連略系図 [#mbc65f04] **関連略系図 [#mbc65f04]
 清和天皇―貞純親王―経基王―源満仲―源頼信―源頼義→(下段へ)  清和天皇―貞純親王―経基王―源満仲―源頼信―源頼義→(下段へ)
                     六孫王                      六孫王
                   (源氏祖)                    (源氏祖)
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 (上段から)→源義家―┬源義親―源為義―源義朝┬1.源頼朝―┬2.源頼家  (上段から)→源義家―┬源義親―源為義―源義朝┬1.源頼朝―┬2.源頼家
          八幡太郎 │           └源義平   └3.源実朝           八幡太郎 │           └源義平   └3.源実朝
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 かくして、義範は源平の争乱に大功をたて、平家追討の褒賞に伊豆守に任ぜられた。  かくして、義範は源平の争乱に大功をたて、平家追討の褒賞に伊豆守に任ぜられた。
これは、源氏受領6人の筆頭として書かれているのである。 これは、源氏受領6人の筆頭として書かれているのである。
-「吾妻鏡」に日く、(文治元年八月)「二十九日、去十六日有小除目、其聞書今日到来、源氏多以承朝恩、所謂、伊豆守義範、相模守惟義、上総介義兼、信濃守遠光、越後守義資、伊予守義経等也、云々。」+「吾妻鏡」に日く、(文治元年八月)「二十九日、去十六日有小除目、其聞書今日到来、源氏多以承朝恩、所謂、''伊豆守(山名)義範''、相模守(大内)惟義、上総介(足利)義兼、信濃守(加賀美)遠光、越後守(安田)義資、伊予守(源)義経等也、云々。」
頼朝生存中は、山名氏は重用されたが、北条氏が陰謀によって他氏を排斥し、あまつさえ源氏宗家を滅亡させるに至っては、山名家とて例外ではなかった。 頼朝生存中は、山名氏は重用されたが、北条氏が陰謀によって他氏を排斥し、あまつさえ源氏宗家を滅亡させるに至っては、山名家とて例外ではなかった。


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