4: 2014-12-30 (火) 11:33:58 admin ソース 5: 2014-12-30 (火) 14:18:07 admin ソース
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-*壺井八幡宮再建の記 [#j2f17d2a] +* 山名氏編年史の考証 [#j2f17d2a] 
-CENTER:─ 壺井八幡宮再建にまつわる思い出 ─ + 
-RIGHT:三王紀将+CENTER:─ 清和源氏の形成から明徳の乱後まで ─ 
 +RIGHT:山名年浩 
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 +* 書籍名の略称表示について(事務局) [#dbe46236]
 +|AROUND TRIGHT:||c
 +|CENTER:略 称|CENTER:書 籍 名|h
 +|①大日|『大日本史料』|
 +|②家譜|『山名家譜』|
 +|③守護辞典|『室町幕府守護職家辞典』|
 +|④氏清年譜|『山名陸奥守氏清公略年譜』|
 +|⑤南北朝史|『南北朝編年史』|
 +|⑥常熈年譜|「山名常熈関係略年譜」(『山名常熈と禅刹』収集)|
 +-省頁の為、頻繁に登場する書籍名につきましては略称を使用しています。
 +-見づらいかと思いますがご理解下さい。(事務局)
 +#clear
 +* [#t6c11f6e]
 +|850|嘉祥3年3月25日|惟仁親王(清和天皇)誕生。文徳天皇の第4子。母藤原良房の女、明子。|『尊卑分脈』|
 +|858|天安2年11月7日|清和天皇が即位(9歳)[[*1>#nen001]]|『尊卑分脈』、[[②家譜P1>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p001]]|
 +|874|貞観16年3月13日|貞純親王が誕生。[[*2>#nen002]]清和天皇の第6皇子。母神祇伯中務大輔 棟貞王の女。|[[②家譜P2>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p002]]|
 +|895|寛平7年2月15日|経基王が誕生。[[*3>#nen003]][[*4>#nen004]]貞純親王の長男、母・右大臣源能有の女|[[②家譜P3>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p003]]|
 +|909|延喜9年10月5日|経基王が元服、正六位上、左馬介に任ぜられ源朝臣姓を賜る。[[*5>#nen005]]|[[②家譜P3>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p003]]|
 +|912|延喜12年4月10日|源満仲が誕生。源経基王の嫡子。母は武蔵守藤原敦有の女。|[[②家譜P6>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p006]]|
 +|916|延喜16年5月7日|貞純親王が死去。|『尊卑分脈』|
 +|940|天慶3年2月8日|平将門追討軍が編成され、経基王は副将軍となる。|「扶桑略記」(①大日1-7)|
 +| |2月14日|藤原秀郷、平貞盛が平将門を滅ぼす。|「将門純友東西軍記」(①大日1-7 )|
 +| | |経基王は駿河国清見ヶ関に至った日に、これを聞き帰路。|[[②家譜P4>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p004]]|
 +
 +-*1、&aname(nen001);『山名家譜』には生年の記載はないが、天安2年に9歳であるから逆算すると嘉祥3年となり、『尊卑分脈』と一致している。
 +
 +-*2、&aname(nen002);『山名家譜』では、貞観16年誕生と成っているが、生没年について諸説がある。『尊卑分脈』では生年の記載はないが延喜16年(916)5月7日に64歳で薨じたとあるから逆算すると、仁寿2年(852)の生まれとなる。すると父の清和天皇が2歳の時の誕生となる。
 +『系図簒要』では貞観15年(873)3月23日誕生となっており、延喜16年(916)5月7日44歳で薨じたとある。奥富敬之『清和源氏の全家系 天皇家と多田源氏』参照。
 +
 +-*3、&aname(nen003);『尊卑分脈』では天徳5年(961)11月4日45歳で卒となっており逆算すると、延喜16年(916)誕生となる。これは父貞純親王の死去の年でもある。『系図簒要』では寛平9年(897)2月12日生まれとなる。
 +
 +-*4、&aname(nen004);経基王は、清和天皇の第6皇子である貞純親王の子であり、清和天皇の孫にあたるから、『六孫王』と称したと伝えられている。『六孫王』の経基王は、のちに源姓を与えられて臣籍に降下し、いわゆる清和源氏の初代となったと、一般的に強く信じられている。しかし、経基王(六孫王)は、清和源氏ではなく陽成源氏だとする説がある。
 +『史学雑誌』第11編第2号『六孫王ハ清和源氏ニ非ザルノ考』と題した論文で星野恒氏は『源頼信告文』を論拠として展開している。
 +『源頼信告文』(『石清水文書』)の関係する箇所を抜粋すると、
 +敬しんで先祖の本系を煖め奉れば大菩薩の聖体は忝けなくも其が二十二世の氏祖也。
 +先人は新発(満仲)、その先きは経基、その先は元平親王、その先は陽成天皇、その先は清和天皇、その先は(中略)いわゆる曽祖陽成天皇は権現の18代の孫なり。頼信は、かの天皇の4世の孫なり。
 +となっている。
 +すなわち、清和天皇―陽成天皇―元平天皇―経基王―満仲―頼信という系図になり、頼信は陽成天皇の4世の孫ということになる。しかし、経基王が清和源氏の始祖であることに変わりはない。
 +清和源氏についての研究者の奥富敬之氏は『清和源氏の全家系 天皇家と多田源氏』の中で、星野論文を紹介し、なぜ陽成天皇が貞純親王へ変えられたのかを、陽成天皇が暴逆な悪君として有名であるので、いわゆる清和源氏の人々が姓氏を偽証したと述べている。
 +
 +-*5、&aname(nen005);生年不明、貞純親王の子、六孫王と呼ばれる。『尊卑分脈』では天徳5年(961)に64歳で死去となっている。
 +
 +* [#t85c67b0]
 +|940|天慶3年8月27日|藤原純友の追捕使として、小野好古を長官、経基王を次官とする。[[*6>#nen006]]|「扶桑略記」(①大日1-7)|
 +| |8月   |経基王が帰郷する。正四位下に叙せられ、太宰大弐に任ぜられる。| |
 +|941|天慶4年6月20日|藤原純友、警固使橘遠保に討たれる。|「本朝世紀」(①大日1-7)|
 +| |9月6日|追捕使源経基、豊後国で海賊を破り、桑原生行を捕える。|「本朝世紀」(①大日1-7)|
 +|961|天徳5年11月4日|経基王が逝去。[[*7>#nen007]]| |
 +| |(応和元年)| | |
 +|968|安和元年    |源頼信が誕生。満仲の三男。母は大納言藤原元方の女。[[*8>#nen008]]|『国史大辞典』|
 +|969|安和2年3月25日|源満仲、橘敏延等謀反の由を密告し、同27日正五位下に叙せられる。[[*9>#nen009]]|『日本紀略』|
 +|970|安和3年3月  |源満仲が摂津守となる。|②家譜P6[[*10>#nen010]]|
 +| |3月15日|源満仲多田庄に住する。|②家譜P7|
 +| |(天禄元年)| | |
 +|971|天禄2年      |多田庄に一寺を建て鷹尾山法華三昧院(現在の多田院)と名付く。|②家譜P7[[*11>#nen011]]|
 +|986|寛和2年8月15日|源満仲が出家する。法名満慶。|②家譜P7、『尊卑分脈』|
 +|988|永延2年    |源頼義が誕生。頼信の嫡男。母は修理命婦。|『国史大辞典』|
 +|997|長徳3年8月27日|源満仲が死去(86歳)。|「系図纂要」(①大日2-3)[[*12>#nen012]]|
 +|1030|長元3年    |源頼信に平忠常の追討を命じる。(これ以後、関東が清和源氏の本貫地となる。)|「小右記」(『大日本古記録』)|
 +| |9月  |源頼信上総介。平忠常追討の宣旨を賜わる。|②家譜P8|
 +| |10月21日|源頼信、軍勢を引率いて武蔵国河越で、忠常の弟陸奥守忠頼・中村五郎忠将と戦う。忠頼兄弟、利なくして退く。|②家譜P8|
 +|1031|長元4年4月  |源頼信、大軍を率いて下総国に至り、千葉城を攻む。忠常降参せり。頼信、忠常を伴い帰路する途中、美濃にて忠常は病死。||
 +|1038|長暦2年7月14日|源義家が誕生。母は上野介平直方の嫡女。[[*13>#nen013]]|②家譜P8|
 +|1048|永承3年9月1日|源頼信が死去。河内国通法寺に葬る。[[*14>#nen014]]|②家譜P8|
 +| |(日不詳)|源義家が元服。石清水八幡宮にて。||
 +|1051|永承6年    |源頼義、陸奥国の押領使安部頼良を追討のため、陸奥守に任じられ、鎮守におもむく。安部頼時は、源頼義にしたがう。[[*15>#nen015]]||
 +| |6月25日|源頼義、相模国鎌倉郡由比郷に石清水八幡宮を勧請。幡を亀谷の山上に納める。||
 +| |7月  |源頼義、奥州に至り、安部頼良降参を乞いて、名を頼時と改む。|②家譜P11|
 +|1054|天喜2年8月  |安部頼時の子、厨川(くりやがわ)治郎貞任が叛逆を企て衣河の柵にたて籠る。源頼義を襲う。|②家譜P11|
 +| |9月   |源頼義、大軍を率いて貞任を攻うつ。然るに頼義の国任終わり、再任の宣旨を蒙りて奥州にあり。||
 +|1062|康平5年11月29日|源頼義、義家が安部貞任一族を滅ぼす。|②家譜P11|
 +|1063|康平6年2月  |源頼義、帰路の途中相州で八幡宮の社を由比郷に建てる。|②家譜P11|
 +| |8月25日|源頼義、伊予守に任ぜられ、正四位下に叙せられる。||
 +| |(日不詳)|源義家、出羽守に任ぜられ、従五位下に叙せられる。|②家譜P11|
 +*6、&aname(nen006);『山名家譜』P4では天慶3年6月に藤原純友の追討軍が編成され、源経基が副将軍として筑紫へ下され、不日に純友を謀伐して同8月に帰京、正四位に叙し、大宰大弐に任ぜらる。と記されている。
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 +*7、&aname(nen007);『尊卑分脈』では天徳5年11月4日卒45歳となっている。『山名家譜』P5では天徳2年(958)11月24日となっている。
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 +*8、&aname(nen008);『山名家譜』P8では天延2年(974)9月5日誕生となっている。
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 +*9、&aname(nen009);『山名家譜』P7に元禄元年(970)3月源満仲が摂津守になる。また同年3月15日、多田庄に住し、翌年2年多田庄に一寺を楯、鷹尾山法華三昧院(現在の多田院)と名く。と記されている。
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 +*10、&aname(nen010);改元は3月25日だから、3月15日はまだ安和。
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 +*11、&aname(nen011);『山名家譜』では天禄元年となっているが、改元は3月25日。
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 +*12、&aname(nen012);8月27日卒とあり。「系図纂要」
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 +*13、&aname(nen013);1039(長暦3)生まれ。『国史大辞典』
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 +*14、&aname(nen014);『国史大辞典』に永承3年81歳没となっている。
 +*15、&aname(nen015);1053年鎮守府将軍に。『国史大辞典』
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