19: 2015-01-05 (月) 21:35:14 admin ソース 20: 2015-01-06 (火) 13:50:48 admin ソース
Line 20: Line 20:
#clear #clear
-*嘉祥3(850)〜 天慶3(940)[#t6c11f6e]+*嘉祥3(850)~天慶3(940)[#t6c11f6e]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|850|嘉祥3年3月25日|惟仁親王(清和天皇)誕生。文徳天皇の第4子。母藤原良房の女、明子。|『尊卑分脈』| |850|嘉祥3年3月25日|惟仁親王(清和天皇)誕生。文徳天皇の第4子。母藤原良房の女、明子。|『尊卑分脈』|
-|858|天安2年11月7日|清和天皇が即位(9歳)[[*1>#nen001]]|『尊卑分脈』、[[②家譜P1>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p001]]| +|858|天安2年11月7日|清和天皇が即位(9歳)[[*1>#nen001]]|『尊卑分脈』、[[②家譜P1>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000001]]| 
-|874|貞観16年3月13日|貞純親王が誕生。[[*2>#nen002]]清和天皇の第6皇子。母神祇伯中務大輔 棟貞王の女。|[[②家譜P2>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p002]]| +|874|貞観16年3月13日|貞純親王が誕生。[[*2>#nen002]]清和天皇の第6皇子。母神祇伯中務大輔 棟貞王の女。|[[②家譜P2>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000002]]| 
-|895|寛平7年2月15日|経基王が誕生。[[*3>#nen003]][[*4>#nen004]]貞純親王の長男、母・右大臣源能有の女|[[②家譜P3>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p003]]| +|895|寛平7年2月15日|経基王が誕生。[[*3>#nen003]][[*4>#nen004]]貞純親王の長男、母・右大臣源能有の女|[[②家譜P3>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000003]]| 
-|909|延喜9年10月5日|経基王が元服、正六位上、左馬介に任ぜられ源朝臣姓を賜る。[[*5>#nen005]]|[[②家譜P3>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p003]]| +|909|延喜9年10月5日|経基王が元服、正六位上、左馬介に任ぜられ源朝臣姓を賜る。[[*5>#nen005]]|[[②家譜P3>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000003]]| 
-|912|延喜12年4月10日|源満仲が誕生。源経基王の嫡子。母は武蔵守藤原敦有の女。|[[②家譜P6>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p006]]|+|912|延喜12年4月10日|源満仲が誕生。源経基王の嫡子。母は武蔵守藤原敦有の女。|[[②家譜P6>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000006]]|
|916|延喜16年5月7日|貞純親王が死去。|『尊卑分脈』| |916|延喜16年5月7日|貞純親王が死去。|『尊卑分脈』|
|940|天慶3年2月8日|平将門追討軍が編成され、経基王は副将軍となる。|「扶桑略記」(①大日1-7)| |940|天慶3年2月8日|平将門追討軍が編成され、経基王は副将軍となる。|「扶桑略記」(①大日1-7)|
|~|2月14日|藤原秀郷、平貞盛が平将門を滅ぼす。|「将門純友東西軍記」(①大日1-7 )| |~|2月14日|藤原秀郷、平貞盛が平将門を滅ぼす。|「将門純友東西軍記」(①大日1-7 )|
-|~|~|経基王は駿河国清見ヶ関に至った日に、これを聞き帰路。|[[②家譜P4>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p004]]|+|~|~|経基王は駿河国清見ヶ関に至った日に、これを聞き帰路。|[[②家譜P4>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000004]]| 
 + 
 +** [#g039175d]
-*1、&aname(nen001);『山名家譜』には生年の記載はないが、天安2年に9歳であるから逆算すると嘉祥3年となり、『尊卑分脈』と一致している。 -*1、&aname(nen001);『山名家譜』には生年の記載はないが、天安2年に9歳であるから逆算すると嘉祥3年となり、『尊卑分脈』と一致している。
Line 50: Line 52:
-*5、&aname(nen005);生年不明、貞純親王の子、六孫王と呼ばれる。『尊卑分脈』では天徳5年(961)に64歳で死去となっている。 -*5、&aname(nen005);生年不明、貞純親王の子、六孫王と呼ばれる。『尊卑分脈』では天徳5年(961)に64歳で死去となっている。
-* 天慶3(940)〜康平6(1063)[#t85c67b0]+* 天慶3(940)~康平6(1063)[#t85c67b0]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|940|天慶3年8月27日|藤原純友の追捕使として、小野好古を長官、経基王を次官とする。[[*6>#nen006]]|「扶桑略記」(①大日1-7)| |940|天慶3年8月27日|藤原純友の追捕使として、小野好古を長官、経基王を次官とする。[[*6>#nen006]]|「扶桑略記」(①大日1-7)|
Line 59: Line 61:
|968|安和元年|源頼信が誕生。満仲の三男。母は大納言藤原元方の女。[[*8>#nen008]]|『国史大辞典』| |968|安和元年|源頼信が誕生。満仲の三男。母は大納言藤原元方の女。[[*8>#nen008]]|『国史大辞典』|
|969|安和2年3月25日|源満仲、橘敏延等謀反の由を密告し、同27日正五位下に叙せられる。[[*9>#nen009]]|『日本紀略』| |969|安和2年3月25日|源満仲、橘敏延等謀反の由を密告し、同27日正五位下に叙せられる。[[*9>#nen009]]|『日本紀略』|
-|970|安和3年3月|源満仲が摂津守となる。|[[②家譜P6>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p006]][[*10>#nen010]]|+|970|安和3年3月|源満仲が摂津守となる。|[[②家譜P6>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000006]][[*10>#nen010]]|
|~|3月15日|源満仲多田庄に住する。|②家譜P7| |~|3月15日|源満仲多田庄に住する。|②家譜P7|
|~|(天禄元年)||| |~|(天禄元年)|||
-|971|天禄2年|多田庄に一寺を建て鷹尾山法華三昧院(現在の多田院)と名付く。|[[②家譜P7>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p007]][[*11>#nen011]]| +|971|天禄2年|多田庄に一寺を建て鷹尾山法華三昧院(現在の多田院)と名付く。|[[②家譜P7>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000007]][[*11>#nen011]]| 
-|986|寛和2年8月15日|源満仲が出家する。法名満慶。|[[②家譜P7>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p007]]、『尊卑分脈』|+|986|寛和2年8月15日|源満仲が出家する。法名満慶。|[[②家譜P7>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000007]]、『尊卑分脈』|
|988|永延2年|源頼義が誕生。頼信の嫡男。母は修理命婦。|『国史大辞典』| |988|永延2年|源頼義が誕生。頼信の嫡男。母は修理命婦。|『国史大辞典』|
|997|長徳3年8月27日|源満仲が死去(86歳)。|「系図纂要」(①大日2-3)[[*12>#nen012]]| |997|長徳3年8月27日|源満仲が死去(86歳)。|「系図纂要」(①大日2-3)[[*12>#nen012]]|
|1030|長元3年|源頼信に平忠常の追討を命じる。(これ以後、関東が清和源氏の本貫地となる。)|「小右記」(『大日本古記録』)| |1030|長元3年|源頼信に平忠常の追討を命じる。(これ以後、関東が清和源氏の本貫地となる。)|「小右記」(『大日本古記録』)|
-|~|9月  |源頼信上総介。平忠常追討の宣旨を賜わる。|[[②家譜P8>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p008]]| +|~|9月  |源頼信上総介。平忠常追討の宣旨を賜わる。|[[②家譜P8>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000008]]| 
-|~|10月21日|源頼信、軍勢を引率いて武蔵国河越で、忠常の弟陸奥守忠頼・中村五郎忠将と戦う。忠頼兄弟、利なくして退く。|[[②家譜P8>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p008]]|+|~|10月21日|源頼信、軍勢を引率いて武蔵国河越で、忠常の弟陸奥守忠頼・中村五郎忠将と戦う。忠頼兄弟、利なくして退く。|[[②家譜P8>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000008]]|
|1031|長元4年4月|源頼信、大軍を率いて下総国に至り、千葉城を攻む。忠常降参せり。頼信、忠常を伴い帰路する途中、美濃にて忠常は病死。|| |1031|長元4年4月|源頼信、大軍を率いて下総国に至り、千葉城を攻む。忠常降参せり。頼信、忠常を伴い帰路する途中、美濃にて忠常は病死。||
-|1038|長暦2年7月14日|源義家が誕生。母は上野介平直方の嫡女。[[*13>#nen013]]|[[②家譜P8>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p008]]| +|1038|長暦2年7月14日|源義家が誕生。母は上野介平直方の嫡女。[[*13>#nen013]]|[[②家譜P8>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000008]]| 
-|1048|永承3年9月1日|源頼信が死去。河内国通法寺に葬る。[[*14>#nen014]]|[[②家譜P8>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p008]]|+|1048|永承3年9月1日|源頼信が死去。河内国通法寺に葬る。[[*14>#nen014]]|[[②家譜P8>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000008]]|
|~|(日不詳)|源義家が元服。石清水八幡宮にて。|| |~|(日不詳)|源義家が元服。石清水八幡宮にて。||
|1051|永承6年|源頼義、陸奥国の押領使安部頼良を追討のため、陸奥守に任じられ、鎮守におもむく。安部頼時は、源頼義にしたがう。[[*15>#nen015]]|| |1051|永承6年|源頼義、陸奥国の押領使安部頼良を追討のため、陸奥守に任じられ、鎮守におもむく。安部頼時は、源頼義にしたがう。[[*15>#nen015]]||
|~|6月25日|源頼義、相模国鎌倉郡由比郷に石清水八幡宮を勧請。幡を亀谷の山上に納める。|| |~|6月25日|源頼義、相模国鎌倉郡由比郷に石清水八幡宮を勧請。幡を亀谷の山上に納める。||
-|~|7月|源頼義、奥州に至り、安部頼良降参を乞いて、名を頼時と改む。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p011]]| +|~|7月|源頼義、奥州に至り、安部頼良降参を乞いて、名を頼時と改む。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000011]]| 
-|1054|天喜2年8月|安部頼時の子、厨川(くりやがわ)治郎貞任が叛逆を企て衣河の柵にたて籠る。源頼義を襲う。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p011]]|+|1054|天喜2年8月|安部頼時の子、厨川(くりやがわ)治郎貞任が叛逆を企て衣河の柵にたて籠る。源頼義を襲う。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000011]]|
|~|9月|源頼義、大軍を率いて貞任を攻うつ。然るに頼義の国任終わり、再任の宣旨を蒙りて奥州にあり。|| |~|9月|源頼義、大軍を率いて貞任を攻うつ。然るに頼義の国任終わり、再任の宣旨を蒙りて奥州にあり。||
-|1062|康平5年11月29日|源頼義、義家が安部貞任一族を滅ぼす。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p011]]| +|1062|康平5年11月29日|源頼義、義家が安部貞任一族を滅ぼす。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000011]]| 
-|1063|康平6年2月|源頼義、帰路の途中相州で八幡宮の社を由比郷に建てる。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p011]]|+|1063|康平6年2月|源頼義、帰路の途中相州で八幡宮の社を由比郷に建てる。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000011]]|
|~|8月25日|源頼義、伊予守に任ぜられ、正四位下に叙せられる。|| |~|8月25日|源頼義、伊予守に任ぜられ、正四位下に叙せられる。||
-|~|(日不詳)|源義家、出羽守に任ぜられ、従五位下に叙せられる。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p011]]|+|~|(日不詳)|源義家、出羽守に任ぜられ、従五位下に叙せられる。|[[②家譜P11>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000011]]|
** [#n5e85ecb] ** [#n5e85ecb]
Line 97: Line 99:
*治暦元年(1065)~保元2年(1157) [#bda7f536] *治暦元年(1065)~保元2年(1157) [#bda7f536]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
-|1065|治暦元年9月1日|源頼義が出家し、法名を信海と号す。世の人、入道将軍と称す。[[*16>#nen016]]|[[②家譜P12>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p012]]| +|1065|治暦元年9月1日|源頼義が出家し、法名を信海と号す。世の人、入道将軍と称す。[[*16>#nen016]]|[[②家譜P12>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000012]]| 
-|1079|承暦3年8月8日|源義家が勅を蒙り美濃国、八島佐渡守源重宗、多田伊豆守源国房と青野が原で合戦。重宗国房を滅ぼす。|[[②家譜P13>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p013]]| +|1079|承暦3年8月8日|源義家が勅を蒙り美濃国、八島佐渡守源重宗、多田伊豆守源国房と青野が原で合戦。重宗国房を滅ぼす。|[[②家譜P13>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000013]]| 
-|1081|永保元年6月|源義家が陸奥守に任ぜられ、鎮守府将軍に補せられて、奥州に下向する。途中、鎌倉で八幡宮を修復。|[[②家譜P13>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p013]]|+|1081|永保元年6月|源義家が陸奥守に任ぜられ、鎮守府将軍に補せられて、奥州に下向する。途中、鎌倉で八幡宮を修復。|[[②家譜P13>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000013]]|
|~|8月|源義家が奥州に居住。|| |~|8月|源義家が奥州に居住。||
-|~|~|清原武衡、家衡、清衡兄弟が確執し、義家が是を和睦させるが、家衡は従わず、出羽国沼の柵に楯籠る。|[[②家譜P14>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p014]]| +|~|~|清原武衡、家衡、清衡兄弟が確執し、義家が是を和睦させるが、家衡は従わず、出羽国沼の柵に楯籠る。|[[②家譜P14>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000014]]| 
-|1082|永保2年11月3日|源頼義が死去。[[*17>#nen017]]|[[②家譜P12>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p012]]| +|1082|永保2年11月3日|源頼義が死去。[[*17>#nen017]]|[[②家譜P12>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000012]]| 
-|1083|永保3年7月|源義国誕生。[[*18>#nen018]]|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p017]]| +|1083|永保3年7月|源義国誕生。[[*18>#nen018]]|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]| 
-|1086|応徳3年 春|源義家、国任終わるが、再任の宣旨を受けて奥州に在留。|[[②家譜P15>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p015]]|+|1086|応徳3年 春|源義家、国任終わるが、再任の宣旨を受けて奥州に在留。|[[②家譜P15>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000015]]|
|~|~|家衡、武衡と合戦。|| |~|~|家衡、武衡と合戦。||
-|1091|寛治5年11月|源義家、武衡、家衡一族を滅ぼす。|[[②家譜P15>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p015]]| +|1091|寛治5年11月|源義家、武衡、家衡一族を滅ぼす。|[[②家譜P15>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000015]]| 
-|1092|寛治6年正月|源義国が元服。陸奥四郎と号す。|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p017]]| +|1092|寛治6年正月|源義国が元服。陸奥四郎と号す。|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]| 
-|1095|嘉保2年 秋|源義家、月華門に候して鳴絃の法を行わる。則ち内昇殿を聴され正四位上に叙せられる。|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p017]]| +|1095|嘉保2年 秋|源義家、月華門に候して鳴絃の法を行わる。則ち内昇殿を聴され正四位上に叙せられる。|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]| 
-|1099|庚和元年|源義国、院の北面に候して従六位に叙せられ、兵庫允に任ぜられる。|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p017]]| +|1099|庚和元年|源義国、院の北面に候して従六位に叙せられ、兵庫允に任ぜられる。|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]| 
-|1103|庚和5年8月|源義国が帯刀長に補せられる。|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p017]]| +|1103|庚和5年8月|源義国が帯刀長に補せられる。|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]| 
-|1105|長治2年7月4日|源義家、病によりて出家。法名信了。|[[②家譜P14>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p014]]| +|1105|長治2年7月4日|源義家、病によりて出家。法名信了。|[[②家譜P14>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000014]]| 
-|~|8月18日|源義家死去。河内国通法寺に葬られる。[[*19>#nen019]]|[[②家譜P14>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p014]]| +|~|8月18日|源義家死去。河内国通法寺に葬られる。[[*19>#nen019]]|[[②家譜P14>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000014]]| 
-|1124|天治元年9月|源義国、加賀介に任ぜられ、従五位下に叙せられる。|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p017]]|+|1124|天治元年9月|源義国、加賀介に任ぜられ、従五位下に叙せられる。|[[②家譜P17>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000017]]|
|1135|保延元年|新田義重誕生。母は上野介敦基女。|『国史大辞典』| |1135|保延元年|新田義重誕生。母は上野介敦基女。|『国史大辞典』|
-|1150|久安6年8月|源義国、勅勘をこうむり、下野国足利荘に。|[[②家譜P18>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p018]]、[[*20>#nen020]]『国史大辞典』|+|1150|久安6年8月|源義国、勅勘をこうむり、下野国足利荘に。|[[②家譜P18>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000018]]、[[*20>#nen020]]『国史大辞典』|
|1154|久寿元年|源義国、仏門に入り、荒加賀入道と称す。|『国史大辞典』| |1154|久寿元年|源義国、仏門に入り、荒加賀入道と称す。|『国史大辞典』|
-|1155|久寿2年6月26日|源(足利)義国卒去。|[[②家譜P18>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p018]]、[[*21>#nen021]]『国史大辞典』|+|1155|久寿2年6月26日|源(足利)義国卒去。|[[②家譜P18>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000018]]、[[*21>#nen021]]『国史大辞典』|
|1157|保元2年3月8日|新田義重(義国の嫡男)、上野国新田郡を開発し、左衛門督藤原忠雅に寄進し、新田荘を立荘、同荘の下司となる。[[*22>#nen022]]|『山名氏の系譜と事暦』、③守護辞典下巻| |1157|保元2年3月8日|新田義重(義国の嫡男)、上野国新田郡を開発し、左衛門督藤原忠雅に寄進し、新田荘を立荘、同荘の下司となる。[[*22>#nen022]]|『山名氏の系譜と事暦』、③守護辞典下巻|
|~|~|新田義重の長男太郎三郎義範、上野国多胡郡山名郷を伝領する。新田山名氏。[[*23>#nen023]]|③守護辞典下巻| |~|~|新田義重の長男太郎三郎義範、上野国多胡郡山名郷を伝領する。新田山名氏。[[*23>#nen023]]|③守護辞典下巻|
Line 138: Line 140:
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1180|治承4年4月9日|以仁王、平氏追討の令旨を下す。|『吾妻鏡』巻1| |1180|治承4年4月9日|以仁王、平氏追討の令旨を下す。|『吾妻鏡』巻1|
-|~|(月日不詳)|以仁王の綸旨。義重の許に到来し自ら平家を亡して功を立てんと計立て寺尾の城に楯籠る。|[[②家譜P20>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p020]][[*24>#nen024]]|+|~|(月日不詳)|以仁王の綸旨。義重の許に到来し自ら平家を亡して功を立てんと計立て寺尾の城に楯籠る。|[[②家譜P20>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000020]][[*24>#nen024]]|
|~|9月30日|頼朝、新田義重に書を遣はすといえども返報するあたわず。新田義重、上野国寺尾城に引き籠り、軍勢を集める。|『吾妻鏡』巻1| |~|9月30日|頼朝、新田義重に書を遣はすといえども返報するあたわず。新田義重、上野国寺尾城に引き籠り、軍勢を集める。|『吾妻鏡』巻1|
|~|12月12日|頼朝、新造亭に移徒す。山名冠者義範等供奉す。|『吾妻鏡』巻1、[[②『家譜』P21| |~|12月12日|頼朝、新造亭に移徒す。山名冠者義範等供奉す。|『吾妻鏡』巻1、[[②『家譜』P21|
|~|12月22日|新田義重、頼朝の召に依りて参上す。|『吾妻鏡』巻1| |~|12月22日|新田義重、頼朝の召に依りて参上す。|『吾妻鏡』巻1|
|~|~|里見義成、京都より頼朝の陣に参上す。|『吾妻鏡』巻1| |~|~|里見義成、京都より頼朝の陣に参上す。|『吾妻鏡』巻1|
-|~|~|(一説に)新田義重、頼朝の気色をこうむる。|[[②家譜P22>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p022]]| +|~|~|(一説に)新田義重、頼朝の気色をこうむる。|[[②家譜P22>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000022]]| 
-|1181|養和元年7月14日|新田義重の息女の件(一度、他家へ嫁いでいた件)で、義重と頼朝が不和となる。|[[②家譜P21>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p021]]|+|1181|養和元年7月14日|新田義重の息女の件(一度、他家へ嫁いでいた件)で、義重と頼朝が不和となる。|[[②家譜P21>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000021]]|
|1182|養和2年4月5日|頼朝、腰越辺江島に出でしめ給ふ。足利冠者、北條殿、新田冠者ら御共に候。|『吾妻鏡』巻2| |1182|養和2年4月5日|頼朝、腰越辺江島に出でしめ給ふ。足利冠者、北條殿、新田冠者ら御共に候。|『吾妻鏡』巻2|
|~|7月14日|新田冠者義重、息女の件で頼朝の勘気をこうむる。|『吾妻鏡』巻2| |~|7月14日|新田冠者義重、息女の件で頼朝の勘気をこうむる。|『吾妻鏡』巻2|
Line 150: Line 152:
|~|2月5日|山名義範、一谷合戦に義経勢として参加し、摂津国に到る。|『吾妻鏡』巻3、[[②『家譜』P26| |~|2月5日|山名義範、一谷合戦に義経勢として参加し、摂津国に到る。|『吾妻鏡』巻3、[[②『家譜』P26|
|~|2月7日|一ノ谷の合戦。|| |~|2月7日|一ノ谷の合戦。||
-|1185|文治元年3月24日|壇ノ浦の合戦。山名義範所々の戦場において軍功あり。|[[②家譜P26>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p026]]| +|1185|文治元年3月24日|壇ノ浦の合戦。山名義範所々の戦場において軍功あり。|[[②家譜P26>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000026]]| 
-|~|8月16日|渡辺神崎において勢揃いありて讃岐国八島に押寄て合戦。|[[②家譜P26>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p026]]|+|~|8月16日|渡辺神崎において勢揃いありて讃岐国八島に押寄て合戦。|[[②家譜P26>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000026]]|
|~|~|小除目において、山名義範、伊豆守に任ぜられる。源義経(伊予守)、大内惟義(相模守)、足利義兼(上総守)、加賀美遠光(信濃守)、安田義資(越後守)に任ぜられる。|③守護辞典下巻| |~|~|小除目において、山名義範、伊豆守に任ぜられる。源義経(伊予守)、大内惟義(相模守)、足利義兼(上総守)、加賀美遠光(信濃守)、安田義資(越後守)に任ぜられる。|③守護辞典下巻|
-|~|10月24日|勝長寿院供養。新田義兼、山名義範・重国ら頼朝の供奉人。|『吾妻鏡』巻5、[[②家譜P27>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p027]]| +|~|10月24日|勝長寿院供養。新田義兼、山名義範・重国ら頼朝の供奉人。|『吾妻鏡』巻5、[[②家譜P27>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000027]]| 
-|1186|文治2年3月|新田義重、上野、越後両国の守護となる。|[[②家譜P22>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p022]]|+|1186|文治2年3月|新田義重、上野、越後両国の守護となる。|[[②家譜P22>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之一#p0000022]]|
|1188|文治4年1月20日|頼朝、伊豆箱根三島社等参詣。新田義兼、里見義成、世良田義季ら供奉人。|『吾妻鏡』巻8| |1188|文治4年1月20日|頼朝、伊豆箱根三島社等参詣。新田義兼、里見義成、世良田義季ら供奉人。|『吾妻鏡』巻8|
|~|3月15日|頼朝、鶴岡宮大般若経供養に臨席。里見義成、伊豆守(山名義範)、新田蔵人(新田義兼)ら供奉人。|『吾妻鏡』巻8| |~|3月15日|頼朝、鶴岡宮大般若経供養に臨席。里見義成、伊豆守(山名義範)、新田蔵人(新田義兼)ら供奉人。|『吾妻鏡』巻8|
Line 161: Line 163:
|~|6月6日|鶴岡宮塔供養に御白河院は馬等を賜ふ。使者、錦・扇を新田義兼、里見義成らに授く。|『吾妻鏡』巻9| |~|6月6日|鶴岡宮塔供養に御白河院は馬等を賜ふ。使者、錦・扇を新田義兼、里見義成らに授く。|『吾妻鏡』巻9|
|~|6月9日|鶴岡宮塔供養に頼朝臨席。供奉人に世良田義季(徳河三郎義秀)、新田義兼、里見義成等。|『吾妻鏡』巻9| |~|6月9日|鶴岡宮塔供養に頼朝臨席。供奉人に世良田義季(徳河三郎義秀)、新田義兼、里見義成等。|『吾妻鏡』巻9|
-|~|7月19日|頼朝、奥州藤原氏討伐に進発。御共の軍勢に山名義範、新田義兼等|『吾妻鏡』巻9、[[②家譜P27>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p027]]|+|~|7月19日|頼朝、奥州藤原氏討伐に進発。御共の軍勢に山名義範、新田義兼等|『吾妻鏡』巻9、[[②家譜P27>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000027]]|
|1190|文治6年1月3日|頼朝御行始、比企能員宅に入御。御共に新田義兼等。|『吾妻鏡』巻9| |1190|文治6年1月3日|頼朝御行始、比企能員宅に入御。御共に新田義兼等。|『吾妻鏡』巻9|
|~|建久元年11月7日|頼朝入洛。供奉人に山名重国、新田義兼、世良田義季、山名義範、里見義成等。|『吾妻鏡』巻10| |~|建久元年11月7日|頼朝入洛。供奉人に山名重国、新田義兼、世良田義季、山名義範、里見義成等。|『吾妻鏡』巻10|
-|~|11月11日|頼朝、石清水に参詣。供奉人に山名義範等。|『吾妻鏡』巻10、[[②家譜P27>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p027]]|+|~|11月11日|頼朝、石清水に参詣。供奉人に山名義範等。|『吾妻鏡』巻10、[[②家譜P27>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000027]]|
|1191|建久2年1月11日|頼朝、鶴岡若宮に参詣。供奉人に山名義範等。|『吾妻鏡』巻11| |1191|建久2年1月11日|頼朝、鶴岡若宮に参詣。供奉人に山名義範等。|『吾妻鏡』巻11|
|~|2月4日|頼朝、二所参詣。供奉人に新田義兼、山名義範・重国等|『吾妻鏡』巻11| |~|2月4日|頼朝、二所参詣。供奉人に新田義兼、山名義範・重国等|『吾妻鏡』巻11|
|~|3月3日|鶴岡宮臨時祭。頼朝参詣。供奉人に山名義範等。|『吾妻鏡』巻11| |~|3月3日|鶴岡宮臨時祭。頼朝参詣。供奉人に山名義範等。|『吾妻鏡』巻11|
-|~|4月4日|頼朝、二所参詣の時、山名義範供奉たり。|[[②家譜P28>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p028]]|+|~|4月4日|頼朝、二所参詣の時、山名義範供奉たり。|[[②家譜P28>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000028]]|
|~|4月30日|山名義範、山門所司とともに山門衆徒の訴状を頼朝に伝える。|『吾妻鏡』巻11| |~|4月30日|山名義範、山門所司とともに山門衆徒の訴状を頼朝に伝える。|『吾妻鏡』巻11|
|~|7月28日|寝殿対屋など完成、移徒。供奉人に山名義範、里見義成等|『吾妻鏡』巻11| |~|7月28日|寝殿対屋など完成、移徒。供奉人に山名義範、里見義成等|『吾妻鏡』巻11|
Line 180: Line 182:
|~|8月|頼朝、征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開く。|| |~|8月|頼朝、征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開く。||
|~|建久3年10月19日|北条政子、新誕若宮(実朝)とともに幕府に入る。供奉人に里見義成、新田義兼等。|『吾妻鏡』巻12| |~|建久3年10月19日|北条政子、新誕若宮(実朝)とともに幕府に入る。供奉人に里見義成、新田義兼等。|『吾妻鏡』巻12|
-|~|11月25日|頼朝、永福寺供養に参ず。供奉人に山名義範、新田義兼等。|『吾妻鏡』巻12、[[②家譜P28>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p028]]| +|~|11月25日|頼朝、永福寺供養に参ず。供奉人に山名義範、新田義兼等。|『吾妻鏡』巻12、[[②家譜P28>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000028]]| 
-|~|12月5日|頼朝、浜の御所に諸将を集め新誕の若宮(実朝)を守護するよう命ず。その中に山名義範。|『吾妻鏡』巻12、[[②家譜P28>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p028]]|+|~|12月5日|頼朝、浜の御所に諸将を集め新誕の若宮(実朝)を守護するよう命ず。その中に山名義範。|『吾妻鏡』巻12、[[②家譜P28>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000028]]|
|1193|建久4年3月21日|頼朝、下野国那須野、信濃国三原等の狩倉へ進発。弓馬に達せしめまた、隔心無きの者22人を撰ばる。その中に里見義成。|『吾妻鏡』巻13| |1193|建久4年3月21日|頼朝、下野国那須野、信濃国三原等の狩倉へ進発。弓馬に達せしめまた、隔心無きの者22人を撰ばる。その中に里見義成。|『吾妻鏡』巻13|
|~|4月28日|頼朝、義重の新田館に遊覧する。|『吾妻鏡』巻13| |~|4月28日|頼朝、義重の新田館に遊覧する。|『吾妻鏡』巻13|
Line 204: Line 206:
|~|8月16日|頼朝、鶴岡参詣。里見義成等流鏑馬をつとむ。|『吾妻鏡』巻15| |~|8月16日|頼朝、鶴岡参詣。里見義成等流鏑馬をつとむ。|『吾妻鏡』巻15|
|~|10月7日|鶴岡臨時祭に頼朝参詣。供奉人に、山名義範等。|『吾妻鏡』巻15| |~|10月7日|鶴岡臨時祭に頼朝参詣。供奉人に、山名義範等。|『吾妻鏡』巻15|
-|1198|建久9年|重村(重国の3男)誕生。小名を小次郎。|[[②家譜P32>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p032]]|+|1198|建久9年|重村(重国の3男)誕生。小名を小次郎。|[[②家譜P32>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000032]]|
|1199|建久10年1月13日|源頼朝が死去。|『明日記』| |1199|建久10年1月13日|源頼朝が死去。|『明日記』|
|1202|建久2年正月14日|新田義重が死去(68歳)。|『国史大辞典』、『尊卑分脈』| |1202|建久2年正月14日|新田義重が死去(68歳)。|『国史大辞典』、『尊卑分脈』|
-|1213|建保元年|和田左衛門尉、平義盛父子一族等叛逆を企るの時に、山名重村御所方にありて、鎌倉中に於いて戦功を顕わさる。|[[②家譜P32>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p032]]| +|1213|建保元年|和田左衛門尉、平義盛父子一族等叛逆を企るの時に、山名重村御所方にありて、鎌倉中に於いて戦功を顕わさる。|[[②家譜P32>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000032]]| 
-|1219|承久元年2月|山名義範卒去。|[[②家譜P29>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p029]]|+|1219|承久元年2月|山名義範卒去。|[[②家譜P29>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000029]]|
|1221|承久3年5月15日|後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣を発する。|「承久記」(①大日1-7)| |1221|承久3年5月15日|後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣を発する。|「承久記」(①大日1-7)|
-|~|6月13日|宇治、勢多両所において合戦。山名重村は北条武蔵守泰時の陣にありて、勢多において、敵2人を討ちて、其首を得らる。|[[②家譜P33>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p033]]| +|~|6月13日|宇治、勢多両所において合戦。山名重村は北条武蔵守泰時の陣にありて、勢多において、敵2人を討ちて、其首を得らる。|[[②家譜P33>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000033]]| 
-|1250|建長2年3月|閑院殿修造、将軍頼嗣公より諸国の地頭、御家人に造営を仰付らる。山名重村、築地18本の内1本を修造。|[[②家譜P33>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p033]]|+|1250|建長2年3月|閑院殿修造、将軍頼嗣公より諸国の地頭、御家人に造営を仰付らる。山名重村、築地18本の内1本を修造。|[[②家譜P33>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000033]]|
|1274|文永11年11月|文永の役|| |1274|文永11年11月|文永の役||
|1281|弘安4年7月|弘安の役|| |1281|弘安4年7月|弘安の役||
-|1285|弘安8年11月17日|城入道一族叛逆。合戦。山名義長(重村の長男)御所方にて戦功あり。|[[②家譜P34>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p034]]|+|1285|弘安8年11月17日|城入道一族叛逆。合戦。山名義長(重村の長男)御所方にて戦功あり。|[[②家譜P34>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000034]]|
|1300|正安2年3月3日|信濃国御家人市河盛房の所領同中野西条の田地について幕府が御書を発した時、山名盛康(この人物は不明)、その使者となる。|③守護辞典下巻P388| |1300|正安2年3月3日|信濃国御家人市河盛房の所領同中野西条の田地について幕府が御書を発した時、山名盛康(この人物は不明)、その使者となる。|③守護辞典下巻P388|
Line 223: Line 225:
*正安3年(1301)~暦応4年(1340) [#u9de0726] *正安3年(1301)~暦応4年(1340) [#u9de0726]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
-|1301|正安3年8月25日|山名新治郎行直、同中務丞俊行、同三郎五郎為俊等、将軍家の仰に背き叛逆を起すによりて誅戮せらる。是によりて其一跡を以て山名義俊に宛行わる。(この項は『山名家譜』にはあって『吾妻鏡』には記載がない。)|[[②家譜P35>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p035]]| +|1301|正安3年8月25日|山名新治郎行直、同中務丞俊行、同三郎五郎為俊等、将軍家の仰に背き叛逆を起すによりて誅戮せらる。是によりて其一跡を以て山名義俊に宛行わる。(この項は『山名家譜』にはあって『吾妻鏡』には記載がない。)|[[②家譜P35>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000035]]| 
-|~|(月日不詳)|山名政氏(義俊の長男)、上杉三郎藤原重房の女を娶る。|[[②家譜P36>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p036]]| +|~|(月日不詳)|山名政氏(義俊の長男)、上杉三郎藤原重房の女を娶る。|[[②家譜P36>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000036]]| 
-|1302|乾元元年9月|北條相模守貞時、最勝園寺供養するによりて将軍久明親王出御あり。此時山名義俊帯刀の列にありて供奉たり。|[[②家譜P35>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p035]]| +|1302|乾元元年9月|北條相模守貞時、最勝園寺供養するによりて将軍久明親王出御あり。此時山名義俊帯刀の列にありて供奉たり。|[[②家譜P35>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000035]]| 
-|1303|嘉元元年月日不詳|山名時氏(政氏の嫡男)誕生。少名を小太郎と言う。母は上杉重房の女なり。|[[②家譜P39>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p032]]|+|1303|嘉元元年月日不詳|山名時氏(政氏の嫡男)誕生。少名を小太郎と言う。母は上杉重房の女なり。|[[②家譜P39>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000032]]|
|1324|正中元年|正中の変(後醍醐天皇の討幕計画発覚)|| |1324|正中元年|正中の変(後醍醐天皇の討幕計画発覚)||
-|1326|嘉暦2年|山名政氏、剃髪。法名を道高。|[[②家譜P36>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p036]]| +|1326|嘉暦2年|山名政氏、剃髪。法名を道高。|[[②家譜P36>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000036]]| 
-|1331|元弘元年3月|後醍醐天皇、北條相模守高時を征伐の企て。山名時氏は鎌倉にありて、将軍守邦親王を守護する。|[[②家譜P40>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p040]]|+|1331|元弘元年3月|後醍醐天皇、北條相模守高時を征伐の企て。山名時氏は鎌倉にありて、将軍守邦親王を守護する。|[[②家譜P40>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000040]]|
|~|9月|幕府は光厳天皇を擁立。|| |~|9月|幕府は光厳天皇を擁立。||
|~|=(室町時代初期の基本文献である『太平記』には読み物としての面白さもある。)||| |~|=(室町時代初期の基本文献である『太平記』には読み物としての面白さもある。)|||
|1333|正慶2年3月27日|北條高時が下知として、足利治郎大輔高氏、名越尾張守高家を大将として京都に赴かしむ。|| |1333|正慶2年3月27日|北條高時が下知として、足利治郎大輔高氏、名越尾張守高家を大将として京都に赴かしむ。||
|~|~|山名時氏(当時34歳)、高氏とともに京都に赴く(しかし、足利に敵対する山名一族もいた)。山名氏の拠点が関東から西国に移るきっかけ。|| |~|~|山名時氏(当時34歳)、高氏とともに京都に赴く(しかし、足利に敵対する山名一族もいた)。山名氏の拠点が関東から西国に移るきっかけ。||
-|~|4月16日|山名時氏、京都に着陣。|[[②家譜P40>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p040]]|+|~|4月16日|山名時氏、京都に着陣。|[[②家譜P40>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000040]]|
|~|4月17日|海老名六郎季行を密に伯耆国船の上に遣はし、北條一族を追討の綸旨を乞受けらる。|| |~|4月17日|海老名六郎季行を密に伯耆国船の上に遣はし、北條一族を追討の綸旨を乞受けらる。||
|1334|5月|鎌倉幕府滅亡.建武中興政治はじまる。|| |1334|5月|鎌倉幕府滅亡.建武中興政治はじまる。||
|1335|建武2年7月|北條相模治郎時行(高時2男)、其叙父北條刑部少輔時興と共に旗をあぐ。天皇足利尊氏に勅ありて、是を征伐。|| |1335|建武2年7月|北條相模治郎時行(高時2男)、其叙父北條刑部少輔時興と共に旗をあぐ。天皇足利尊氏に勅ありて、是を征伐。||
-|~|8月2日|足利尊氏、京都を進発して三河国で北條時行と戦う。|[[②家譜P42>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p042]]|+|~|8月2日|足利尊氏、京都を進発して三河国で北條時行と戦う。|[[②家譜P42>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000042]]|
|~|~|時行敗れて引退く(中先代の乱)。尊氏鎌倉に入り、山名時氏も尊氏に属して戦功あり。|| |~|~|時行敗れて引退く(中先代の乱)。尊氏鎌倉に入り、山名時氏も尊氏に属して戦功あり。||
|~|~|これ以後、約35年間時氏公の活躍の時代である。|| |~|~|これ以後、約35年間時氏公の活躍の時代である。||
|~|~|鎌倉に入る日、山名時氏小荷駄を纏たり。|| |~|~|鎌倉に入る日、山名時氏小荷駄を纏たり。||
-|~|11月11日|竹下において山名時氏大いに戦功あり。|[[②家譜P43>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p043]]| +|~|11月11日|竹下において山名時氏大いに戦功あり。|[[②家譜P43>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000043]]| 
-|~|12月|足利尊氏、同舎弟左馬頭直義と新田左兵衛督義貞と相模国箱根竹の下で合戦。山名政氏、義貞の弟脇屋治部大輔義助を打ち破り、軍功をあらわす。|[[②家譜P37>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p037]]| +|~|12月|足利尊氏、同舎弟左馬頭直義と新田左兵衛督義貞と相模国箱根竹の下で合戦。山名政氏、義貞の弟脇屋治部大輔義助を打ち破り、軍功をあらわす。|[[②家譜P37>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000037]]| 
-|~|~|政氏、旗幕を新田家と頒たん為に中黒と引両を合て三引両を家紋とする。(『太平記』に記載なし。)|[[②家譜P37>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p037]]| +|~|~|政氏、旗幕を新田家と頒たん為に中黒と引両を合て三引両を家紋とする。(『太平記』に記載なし。)|[[②家譜P37>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000037]]| 
-|1336|延元元年正月|足利尊氏、大軍を率いて京都へ向う(西上軍)。新田左兵衛義貞と大渡にして合戦。細川律師禅定、赤松筑前守範資、山名時氏等、脇屋右衛門義助の軍を破り、山崎に攻入る。新田義貞都を引退き、天皇を供奉し比叡山に登る。(『太平記』に記載なし。)|[[②家譜P43>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p043]]| +|1336|延元元年正月|足利尊氏、大軍を率いて京都へ向う(西上軍)。新田左兵衛義貞と大渡にして合戦。細川律師禅定、赤松筑前守範資、山名時氏等、脇屋右衛門義助の軍を破り、山崎に攻入る。新田義貞都を引退き、天皇を供奉し比叡山に登る。(『太平記』に記載なし。)|[[②家譜P43>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000043]]| 
-|~|1月11日|山名時氏ら諸将、足利尊氏を守護して入洛。|[[②家譜P43>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p043]]| +|~|1月11日|山名時氏ら諸将、足利尊氏を守護して入洛。|[[②家譜P43>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000043]]| 
-|~|1月16日|足利尊氏と新田義貞、洛中にて戦う。|[[②家譜P43>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p043]]| +|~|1月16日|足利尊氏と新田義貞、洛中にて戦う。|[[②家譜P43>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000043]]| 
-|~|~|尊氏破れ、丹波路を差して退き、山名時氏と梅津の里で逢う。尊氏自害せんと言うを、時氏これをとどめる。細川禅定、義貞の軍を破り、この由を聞いて尊氏京都へ帰る。|[[②家譜P44~45>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p044]]| +|~|~|尊氏破れ、丹波路を差して退き、山名時氏と梅津の里で逢う。尊氏自害せんと言うを、時氏これをとどめる。細川禅定、義貞の軍を破り、この由を聞いて尊氏京都へ帰る。|[[②家譜P44~45>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000044]]| 
-|~|1月27日|新田義貞、北畠顕家、楠木正成、名和長年等、数万の軍勢で京都を攻む。尊氏京都を落ちて、29日に丹波国篠村に至り、内藤入道道勝の館に入る。|[[②家譜P45>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p045]]| +|~|1月27日|新田義貞、北畠顕家、楠木正成、名和長年等、数万の軍勢で京都を攻む。尊氏京都を落ちて、29日に丹波国篠村に至り、内藤入道道勝の館に入る。|[[②家譜P45>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000045]]| 
-|~|~|山名時氏は3500余騎の将として28日に仁和寺嵯峨野の辺に向わる、のゆえに京中の合戦にあわず、尊氏の敗軍を聞き、跡を慕い追いつかる。|[[②家譜P45>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p045]]| +|~|~|山名時氏は3500余騎の将として28日に仁和寺嵯峨野の辺に向わる、のゆえに京中の合戦にあわず、尊氏の敗軍を聞き、跡を慕い追いつかる。|[[②家譜P45>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000045]]| 
-|~|2月2日|尊氏、内藤が館を発し、摂州に赴く。直義、山名時氏と相議して薬師丸を京都に遣わして、持明院殿の院宣を乞わしめる。|[[②家譜P45>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p045]]| +|~|2月2日|尊氏、内藤が館を発し、摂州に赴く。直義、山名時氏と相議して薬師丸を京都に遣わして、持明院殿の院宣を乞わしめる。|[[②家譜P45>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000045]]| 
-|~|2月6日|尊氏、芥川に至り、新田義貞、北畠顕家、楠木正成の3万騎が追い討つ。高師直を左将軍、山名時氏を右将軍として、豊嶋河原に於て戦う。尊氏敗軍、九州をさして落ち行かる。|[[②家譜P46>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p046]]| +|~|2月6日|尊氏、芥川に至り、新田義貞、北畠顕家、楠木正成の3万騎が追い討つ。高師直を左将軍、山名時氏を右将軍として、豊嶋河原に於て戦う。尊氏敗軍、九州をさして落ち行かる。|[[②家譜P46>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000046]]| 
-|~|2月8日|尊氏、兵庫を発し、宗像が館に入り、太宰少弐貞経入道妙恵に味方に参るべき由を仰せらる。妙恵嫡子筑後守頼尚に軍勢を差添て宗像が館に来らしむ。|[[②家譜P46>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p046]]| +|~|2月8日|尊氏、兵庫を発し、宗像が館に入り、太宰少弐貞経入道妙恵に味方に参るべき由を仰せらる。妙恵嫡子筑後守頼尚に軍勢を差添て宗像が館に来らしむ。|[[②家譜P46>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000046]]| 
-|1336|延元元年3月2日|尊氏、宗像が館を発し、菊池と戦う。直義を大将とし、山名時氏等500騎にて、筑前国多々良兵で菊池を破る。|[[②家譜P47>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p047]]| +|1336|延元元年3月2日|尊氏、宗像が館を発し、菊池と戦う。直義を大将とし、山名時氏等500騎にて、筑前国多々良兵で菊池を破る。|[[②家譜P47>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000047]]| 
-|~|~|尊氏、山名時氏并に畠山国清に八代城を攻め落さしむ。|[[②家譜P48>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p048]]| +|~|~|尊氏、山名時氏并に畠山国清に八代城を攻め落さしむ。|[[②家譜P48>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000048]]| 
-|~|4月3日|尊氏、上洛の評議あり。|[[②家譜P48>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p048]]| +|~|4月3日|尊氏、上洛の評議あり。|[[②家譜P48>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000048]]| 
-|~|4月26日|尊氏、太宰府を進発。山名時氏、同師氏(師義のはじめの名)等したがう。|[[②家譜P48>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p048]]| +|~|4月26日|尊氏、太宰府を進発。山名時氏、同師氏(師義のはじめの名)等したがう。|[[②家譜P48>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000048]]| 
-|~|4月28日|尊氏の兵船7300余艘、纜を解て中国地方に押し渡る。|[[②家譜P49>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p049]]| +|~|4月28日|尊氏の兵船7300余艘、纜を解て中国地方に押し渡る。|[[②家譜P49>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000049]]| 
-|~|5月1日|尊氏、芸州厳嶋に参籠あり。|[[②家譜P49>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p049]]| +|~|5月1日|尊氏、芸州厳嶋に参籠あり。|[[②家譜P49>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000049]]| 
-|~|5月5日|尊氏、備後国鞆の浦を出船。|[[②家譜P49>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p049]]| +|~|5月5日|尊氏、備後国鞆の浦を出船。|[[②家譜P49>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000049]]| 
-|~|5月25日|尊氏、摂州兵庫に着陣。|[[②家譜P49>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p049]]| +|~|5月25日|尊氏、摂州兵庫に着陣。|[[②家譜P49>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之二#p0000049]]| 
-|~|(日不詳)|足利直義、楠木正成と戦い敗れる。尊氏、山名等に直義を救わせらる。仁木頼章、山名時氏、衆を励まし、楠木正成を破る。正成自害す。|[[②家譜P49>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p049]]| +|~|(日不詳)|足利直義、楠木正成と戦い敗れる。尊氏、山名等に直義を救わせらる。仁木頼章、山名時氏、衆を励まし、楠木正成を破る。正成自害す。|[[②家譜P49>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000049]]| 
-|~|~|新田義貞、湊川に来り、尊氏兄弟と戦う。義貞敗軍し、京都に帰り天皇を供奉し比叡山に登る。|[[②家譜P50>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p050]]| +|~|~|新田義貞、湊川に来り、尊氏兄弟と戦う。義貞敗軍し、京都に帰り天皇を供奉し比叡山に登る。|[[②家譜P50>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000050]]| 
-|~|~|尊氏兄弟上洛。東寺に陣し、持明院殿の御幸をなし、拝趨の礼をおこなわる。|[[②家譜P50>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p050]]| +|~|~|尊氏兄弟上洛。東寺に陣し、持明院殿の御幸をなし、拝趨の礼をおこなわる。|[[②家譜P50>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000050]]| 
-|~|延元元年6月2日|山名時氏、尊氏の下知として比叡山に赴き、西坂に陣す。|[[②家譜P50>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p050]]| +|~|延元元年6月2日|山名時氏、尊氏の下知として比叡山に赴き、西坂に陣す。|[[②家譜P50>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000050]]| 
-|~|6月20日|新田義貞、山門の寄手を討破り、山名時氏京都へ引き退る。|[[②家譜P50>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p050]]|+|~|6月20日|新田義貞、山門の寄手を討破り、山名時氏京都へ引き退る。|[[②家譜P50>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000050]]|
|1337|建武4年|山名時氏、伯耆国の守護職となる。|| |1337|建武4年|山名時氏、伯耆国の守護職となる。||
|~|延元2年7月以前|三宝院文書第2回採訪一|| |~|延元2年7月以前|三宝院文書第2回採訪一||
-|1340|暦応4年3月|高師直、塩冶判官出雲国守護佐々木高貞が叛逆ある旨を尊氏に訴う。(塩冶征伐については諸文献に多くの不突合がある。)|[[②家譜P50>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p050]]|+|1340|暦応4年3月|高師直、塩冶判官出雲国守護佐々木高貞が叛逆ある旨を尊氏に訴う。(塩冶征伐については諸文献に多くの不突合がある。)|[[②家譜P50>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000050]]|
|~|~|尊氏、山名時氏、桃井直常等に塩冶を追討せしむ。|| |~|~|尊氏、山名時氏、桃井直常等に塩冶を追討せしむ。||
-|~|3月24日|塩冶高貞、密かに京都を逃れ、出雲国に赴く。[[*27>#nen027]]|[[②家譜P51>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p051]]、『太平記』巻21| +|~|3月24日|塩冶高貞、密かに京都を逃れ、出雲国に赴く。[[*27>#nen027]]|[[②家譜P51>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000051]]、『太平記』巻21| 
-|1340|暦応4年|山名時氏の嫡男右衛門佐師義、賀古川にて、塩冶六郎貞泰を討ちとる。|[[②家譜P51>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p051]]、『太平記』巻21| +|1340|暦応4年|山名時氏の嫡男右衛門佐師義、賀古川にて、塩冶六郎貞泰を討ちとる。|[[②家譜P51>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000051]]、『太平記』巻21| 
-|~|~|小塩山にて塩冶五郎高泰討ち死にす。|[[②家譜P52>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p052]]| +|~|~|小塩山にて塩冶五郎高泰討ち死にす。|[[②家譜P52>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000052]]| 
-|~|~|塩冶高貞の妻子、播州蔭山の宿で桃井直常に攻められて亡ぶ。[[*28>#nen028]]|[[②家譜P52>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p052]]| +|~|~|塩冶高貞の妻子、播州蔭山の宿で桃井直常に攻められて亡ぶ。[[*28>#nen028]]|[[②家譜P52>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000052]]| 
-|~|3月末日|塩冶高貞、出雲国に下着。山名時氏父子、宍道山にて高貞を討つ。高貞自害す。[[*29>#nen029]]|[[②家譜P52>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p052]]|+|~|3月末日|塩冶高貞、出雲国に下着。山名時氏父子、宍道山にて高貞を討つ。高貞自害す。[[*29>#nen029]]|[[②家譜P52>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000052]]|
|~|~|時氏、国中の仕置を成して京都に帰陣あり。|| |~|~|時氏、国中の仕置を成して京都に帰陣あり。||
Line 294: Line 296:
|~|~|山名時氏に三千余騎にて丹波高山寺を攻め、萩野彦六朝忠を降す。|『太平記』巻24[[*33>#nen033]]| |~|~|山名時氏に三千余騎にて丹波高山寺を攻め、萩野彦六朝忠を降す。|『太平記』巻24[[*33>#nen033]]|
|1344|興国5年2月&br;康永3年|山名時氏、但州見開山城を攻め取る。|『後鑑』、『妙楽寺文書』| |1344|興国5年2月&br;康永3年|山名時氏、但州見開山城を攻め取る。|『後鑑』、『妙楽寺文書』|
-|1345|興国6年8月29日&br;貞和元年|天龍寺供養によりて尊氏参詣。山名時氏、侍所別当たるによりて甲冑の士58騎を率いて警衛たり。[[*34>#nen034]]|[[②家譜P53>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p053]]、『太平記』巻24|+|1345|興国6年8月29日&br;貞和元年|天龍寺供養によりて尊氏参詣。山名時氏、侍所別当たるによりて甲冑の士58騎を率いて警衛たり。[[*34>#nen034]]|[[②家譜P53>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之三#p0000053]]、『太平記』巻24|
|1347|正平2年8月以前&br;貞和3年|山名時氏が隠岐国守護職となる。|『北島文書』[[*35>#nen035]]| |1347|正平2年8月以前&br;貞和3年|山名時氏が隠岐国守護職となる。|『北島文書』[[*35>#nen035]]|
|~|8月9日|尊氏細川顕氏を大将として楠木正行の追討を命ず。|『太平記』巻25、『杤木文書』[[*36>#nen036]]| |~|8月9日|尊氏細川顕氏を大将として楠木正行の追討を命ず。|『太平記』巻25、『杤木文書』[[*36>#nen036]]|
Line 408: Line 410:
|~|~|山名師義は勝れたる兵八百騎を卒して、遊軍としてひかえる。阿保信禅が山名方に変わり、但馬国へ馳せ越え、長九郎左衛門と一緒に播磨へ打て入らんと企てるので、赤松は法花山に城郭を構え、大山越の道を塞いで、五箇所へ勢を差向けた。|| |~|~|山名師義は勝れたる兵八百騎を卒して、遊軍としてひかえる。阿保信禅が山名方に変わり、但馬国へ馳せ越え、長九郎左衛門と一緒に播磨へ打て入らんと企てるので、赤松は法花山に城郭を構え、大山越の道を塞いで、五箇所へ勢を差向けた。||
|~|~|赤松は山名と戦うにも勢少なく、中国の大将細川頼之に備前、備中、備後の兵を集めるよう応援を頼んだが、兵共は己が国々の私戦を捨てかねて、大将に従わなかった。|| |~|~|赤松は山名と戦うにも勢少なく、中国の大将細川頼之に備前、備中、備後の兵を集めるよう応援を頼んだが、兵共は己が国々の私戦を捨てかねて、大将に従わなかった。||
-|~|11月4日|倉懸の城は兵粮がつき、後攻めの頼みもなく、ついに落ちた。山名は山陰道四箇所をあわせ持つこととなった。|『太平記』巻36、②『家譜』P65〜68[[*55>#nen055]]|+|~|11月4日|倉懸の城は兵粮がつき、後攻めの頼みもなく、ついに落ちた。山名は山陰道四箇所をあわせ持つこととなった。|『太平記』巻36、②『家譜』P65?68[[*55>#nen055]]|
** [#yad6383f] ** [#yad6383f]
Line 423: Line 425:
-*55、&aname(nen055);『家譜』P77に五男時義16歳にして初陣なりとある。 -*55、&aname(nen055);『家譜』P77に五男時義16歳にして初陣なりとある。
-*正平17年(1362)〜正平23年(1368) [#g6238961]+*正平17年(1362)?正平23年(1368) [#g6238961]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1362|正平17年6月3日&br;康安2年|山名時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々に勢を分つ。|『太平記』巻38[[*56>#nen056]]| |1362|正平17年6月3日&br;康安2年|山名時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々に勢を分つ。|『太平記』巻38[[*56>#nen056]]|
Line 436: Line 438:
|~|~|但馬国へは山名師義・氏冬・小林重長を侍大将にて二|『太平記』巻38| |~|~|但馬国へは山名師義・氏冬・小林重長を侍大将にて二|『太平記』巻38|
|~|~|千余騎、大山を経て播磨へ出ようとしたが、但馬国守護仁木頼勝等将軍方が楯籠る城が未だ落ちず、但馬の宮方の住人は我国をさしおいて、他国へ越えられないので、しかたなく小林の勢だけで、播磨へ出ようとしたが、赤松直頼が大山に城を構えて通路を塞いだので、小林は丹波へ出て、和久郷に陣を取った。|| |~|~|千余騎、大山を経て播磨へ出ようとしたが、但馬国守護仁木頼勝等将軍方が楯籠る城が未だ落ちず、但馬の宮方の住人は我国をさしおいて、他国へ越えられないので、しかたなく小林の勢だけで、播磨へ出ようとしたが、赤松直頼が大山に城を構えて通路を塞いだので、小林は丹波へ出て、和久郷に陣を取った。||
-|~|~|丹波の守護仁木義尹が待ちかまえていて、また将軍の|②家譜P69〜70|+|~|~|丹波の守護仁木義尹が待ちかまえていて、また将軍の|②家譜P69?70|
|~|~|命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。|| |~|~|命令で若狭守護、遠江守護、三河守護に三千騎をそえて送りこみ、篠村に陣を取った。丹波の兵共は、今は将軍方が強いだろうと考えたので、篠村の勢は五千余騎となった。||
|~|~|山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。|| |~|~|山名の勢は、わずか七百余騎、兵粮乏しく、人馬ともに疲れて、伯耆へ退却した。||
Line 464: Line 466:
-*66、&aname(nen066);後鑑では『花営三代記』より引用し、中務少輔を氏冬としている。 -*66、&aname(nen066);後鑑では『花営三代記』より引用し、中務少輔を氏冬としている。
-*正平24年(1369)〜天授2年(1376) [#m13cb357]+*正平24年(1369)?天授2年(1376) [#m13cb357]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1369|正平24年正月22日&br;応安2年|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』| |1369|正平24年正月22日&br;応安2年|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』|
Line 505: Line 507:
-*68、&aname(nen068);『後愚昧記』に、山名左京大夫入道逝去了。子息右衛門佐入道上洛。逢終焉云々、閉眼之後下向丹州、子息・所従等不貽一人下向、葬送氷所辺云々、彼入道生年七十三歳云々、無道之勇士、以命終、結句又非短命、大幸之者也。 -*68、&aname(nen068);『後愚昧記』に、山名左京大夫入道逝去了。子息右衛門佐入道上洛。逢終焉云々、閉眼之後下向丹州、子息・所従等不貽一人下向、葬送氷所辺云々、彼入道生年七十三歳云々、無道之勇士、以命終、結句又非短命、大幸之者也。
-*天授3年(1377)〜天授6年(1380) [#k1b50565]+*天授3年(1377)?天授6年(1380) [#k1b50565]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1377|天授3年2月28日|山名氏清、父時氏の七回忌法要を三条大宮長福寺に修す。|「迎陽記」(④氏清年譜)| |1377|天授3年2月28日|山名氏清、父時氏の七回忌法要を三条大宮長福寺に修す。|「迎陽記」(④氏清年譜)|
Line 693: Line 695:
-*107、&aname(nen107);『明徳記』臨終の刻、舎弟頼元を以て御所に申されけるは、近年山名の一族の者共、動もすれば上意をないがしろにし、何にもして常久が命の内に彼等が緩怠を御誡め有様に申沙汰仕べき所存にて待つるに、『此者共天罸を蒙りて候つるを見はてて、常久死去仕候事』本意至極也。 -*107、&aname(nen107);『明徳記』臨終の刻、舎弟頼元を以て御所に申されけるは、近年山名の一族の者共、動もすれば上意をないがしろにし、何にもして常久が命の内に彼等が緩怠を御誡め有様に申沙汰仕べき所存にて待つるに、『此者共天罸を蒙りて候つるを見はてて、常久死去仕候事』本意至極也。
-*明徳4年(1393)〜応永5年(1398) [#z24c897f]+*明徳4年(1393)?応永5年(1398) [#z24c897f]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1393|明徳4年2月5日|山名満幸・塩冶遠江入道、出雲国三刀屋代に押寄せ合戦。城主須和部菊松丸、満幸等を追い払う。|「諸家文書纂」(『後鑑』)| |1393|明徳4年2月5日|山名満幸・塩冶遠江入道、出雲国三刀屋代に押寄せ合戦。城主須和部菊松丸、満幸等を追い払う。|「諸家文書纂」(『後鑑』)|
Line 765: Line 767:
-*121、&aname(nen121);「堺記」では山名の入澤、同草山が杉豊後と戦い、討死したことが記されているが、「応永記」では、山名の入道と記されており、草山についての記述はない。 -*121、&aname(nen121);「堺記」では山名の入澤、同草山が杉豊後と戦い、討死したことが記されているが、「応永記」では、山名の入道と記されており、草山についての記述はない。
-*応永7年(1400)〜応永12年(1405) [#ia42fe43]+*応永7年(1400)?応永12年(1405) [#ia42fe43]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1400|応永7年正月24日|因幡守護山名氏家、幕府の旨を奉じ、土屋次郎をして同国吉岡保湯河小日置上郷内の地を山城鞍馬寺雑掌に渡付せしむ。[[*122>#nen122]]|「華頂要略」(①大日7-4)| |1400|応永7年正月24日|因幡守護山名氏家、幕府の旨を奉じ、土屋次郎をして同国吉岡保湯河小日置上郷内の地を山城鞍馬寺雑掌に渡付せしむ。[[*122>#nen122]]|「華頂要略」(①大日7-4)|
Line 804: Line 806:
応永10年12月11日、平賀宗良が討死、要害を攻め、三年間、終に山名殿は帰洛した。平賀共益、同惟益、同惟元も、討死したことを記している。「平賀系図」では山名満氏を芸州守護としているが、これは守護代の誤りである。 応永10年12月11日、平賀宗良が討死、要害を攻め、三年間、終に山名殿は帰洛した。平賀共益、同惟益、同惟元も、討死したことを記している。「平賀系図」では山名満氏を芸州守護としているが、これは守護代の誤りである。
-*応永13年(1406)〜応永23年(1416) [#h356d99a]+*応永13年(1406)?応永23年(1416) [#h356d99a]
|40|140| |CC:#ccff99 140|c |40|140| |CC:#ccff99 140|c
|1406|応永13年3月15日|安芸守護代山名満氏、吉川弾正少弼の死去により、其一族をして同経見を総領として之に同心せしめ、又弾正少弼の遺領同国大朝庄及び志地原を経見に宛行う。|「吉川家文書」(①大日7-7)| |1406|応永13年3月15日|安芸守護代山名満氏、吉川弾正少弼の死去により、其一族をして同経見を総領として之に同心せしめ、又弾正少弼の遺領同国大朝庄及び志地原を経見に宛行う。|「吉川家文書」(①大日7-7)|


トップ   差分 バックアップ リロード印刷に適した表示   全ページ一覧 単語検索 最新ページの一覧   ヘルプ   最新ページのRSS 1.0 最新ページのRSS 2.0 最新ページのRSS Atom Powered by xpWiki
Counter: 5451, today: 1, yesterday: 1