11: 2015-01-01 (木) 16:50:37 admin ソース 12: 2015-01-01 (木) 19:55:44 admin ソース
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* 書籍名の略称表示について(事務局) [#dbe46236] * 書籍名の略称表示について(事務局) [#dbe46236]
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-省頁の為、頻繁に登場する書籍名につきましては略称を使用しています。 -省頁の為、頻繁に登場する書籍名につきましては略称を使用しています。
-見づらいかと思いますがご理解下さい。(事務局) -見づらいかと思いますがご理解下さい。(事務局)
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*興国2年(1341)~正平5年(1350) [#k6103bdb] *興国2年(1341)~正平5年(1350) [#k6103bdb]
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-|1341|興国2年3月末頃|山名時氏、出雲国の守護職となる。(守護職は南北朝によって異なる。つまり、幕府の承認の有無。)|『二尊院文書』[[*30>#nen030]]+|1341|興国2年3月末頃&br;暦応4年|山名時氏、出雲国の守護職となる。(守護職は南北朝によって異なる。つまり、幕府の承認の有無。)|『二尊院文書』[[*30>#nen030]]|
-| |暦応4年| | |+
| |10月以前|山名時氏、丹後国の守護職となる。|『西大寺文書』[[*31>#nen031]]| | |10月以前|山名時氏、丹後国の守護職となる。|『西大寺文書』[[*31>#nen031]]|
-|1343|興国4年12月2日|山名時氏、丹波国の守護職となる。|『祇園執行日記』[[*32>#nen032]]+|1343|興国4年12月2日&br;康永2年|山名時氏、丹波国の守護職となる。|『祇園執行日記』[[*32>#nen032]]|
-| |康永2年| | |+
| | |山名時氏に三千余騎にて丹波高山寺を攻め、萩野彦六朝忠を降す。|『太平記』巻24[[*33>#nen033]]| | | |山名時氏に三千余騎にて丹波高山寺を攻め、萩野彦六朝忠を降す。|『太平記』巻24[[*33>#nen033]]|
-|1344|興国5年2月|山名時氏、但州見開山城を攻め取る。|『後鑑』、『妙楽寺文書』+|1344|興国5年2月&br;康永3年|山名時氏、但州見開山城を攻め取る。|『後鑑』、『妙楽寺文書』| 
-| |康永3年| | +|1345|興国6年8月29日&br;貞和元年|天龍寺供養によりて尊氏参詣。山名時氏、侍所別当たるによりて甲冑の士58騎を率いて警衛たり。[[*34>#nen034]]|②家譜P53、『太平記』巻24| 
-|1345|興国6年8月29日|天龍寺供養によりて尊氏参詣。山名時氏、侍所別当たるによりて甲冑の士58騎を率いて警衛たり。[[*34>#nen034]]|②家譜P53、『太平記』巻24+|1347|正平2年8月以前&br;貞和3年|山名時氏が隠岐国守護職となる。|『北島文書』[[*35>#nen035]]|
-| |貞和元年| | +
-|1347|正平2年8月以前|山名時氏が隠岐国守護職となる。|『北島文書』[[*35>#nen035]]+
-| |貞和3年| | |+
| |8月9日|尊氏細川顕氏を大将として楠木正行の追討を命ず。|『太平記』巻25、『杤木文書』[[*36>#nen036]]| | |8月9日|尊氏細川顕氏を大将として楠木正行の追討を命ず。|『太平記』巻25、『杤木文書』[[*36>#nen036]]|
| |9月17日|細川顕氏の軍勢3000騎、藤井寺に着き、楠木正行と戦い、顕氏敗れて、天王寺に楯籠る。|『太平記』巻25| | |9月17日|細川顕氏の軍勢3000騎、藤井寺に着き、楠木正行と戦い、顕氏敗れて、天王寺に楯籠る。|『太平記』巻25|
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| |11月25日|山名時氏、細川顕氏を両大将として、6000全騎を住吉、天王寺へ差下さる。時氏は住吉に、顕氏は天王寺に陣す。|『太平記』巻25| | |11月25日|山名時氏、細川顕氏を両大将として、6000全騎を住吉、天王寺へ差下さる。時氏は住吉に、顕氏は天王寺に陣す。|『太平記』巻25|
| |11月26日|楠木正行、山名勢を破り、時氏の弟兼義討死す。(時氏公は戦上手として知られたが、ここでは敗れている。)|『太平記』巻25| | |11月26日|楠木正行、山名勢を破り、時氏の弟兼義討死す。(時氏公は戦上手として知られたが、ここでは敗れている。)|『太平記』巻25|
-|1348|正平3年正月5日|四條畷の戦いで楠木正行、正時が戦死。|『太平記』巻26+|1348|正平3年正月5日&br;貞和4年|四條畷の戦いで楠木正行、正時が戦死。|『太平記』巻26|
-| |貞和4年| | |+
| |6月17日|山名時氏、若狭国の守護職となる。|『若狭国守護職次第』| | |6月17日|山名時氏、若狭国の守護職となる。|『若狭国守護職次第』|
-|1349|正平4年6月|直義と高師直の対立に伴う緊張激化のため、尊氏、師直を執事からはずす。|『太平記』巻27、「足利尊氏年表」P28+|1349|正平4年6月&br;貞和5年|直義と高師直の対立に伴う緊張激化のため、尊氏、師直を執事からはずす。|『太平記』巻27、「足利尊氏年表」P28|
-| |貞和5年| | |+
| |8月12日|数万騎の兵、直義、師直の許に馳せ集まる。山名時氏は師直の屋形へ。|『太平記』巻27| | |8月12日|数万騎の兵、直義、師直の許に馳せ集まる。山名時氏は師直の屋形へ。|『太平記』巻27|
| |8月13日|直義は尊氏の御所へ入り、師直の師泰は大軍を率いて、尊氏の御所を囲む。|『太平記』巻27| | |8月13日|直義は尊氏の御所へ入り、師直の師泰は大軍を率いて、尊氏の御所を囲む。|『太平記』巻27|
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| |10月22日|義詮が鎌倉から上洛。|『太平記』巻27| | |10月22日|義詮が鎌倉から上洛。|『太平記』巻27|
| |12月8日|直義、細川顕氏の第に移り、剃髪隠遁す。|『太平記』巻27| | |12月8日|直義、細川顕氏の第に移り、剃髪隠遁す。|『太平記』巻27|
-|1350|正平5年10月13日|尊氏、直冬討伐のため九州に向う。|『太平記』巻28[[*37>#nen037]]+|1350|正平5年10月13日&br;観応元年|尊氏、直冬討伐のため九州に向う。|『太平記』巻28[[*37>#nen037]]|
-| |観応元年| | |+
| |10月25日|直義、大和国に逃れ、光厳上皇の院宣を賜わり、鎮守府将軍に補せられる。|『太平記』巻28| | |10月25日|直義、大和国に逃れ、光厳上皇の院宣を賜わり、鎮守府将軍に補せられる。|『太平記』巻28|
| |12月9日|直義、使者を吉野に遣わし、降参を乞う。|『太平記』巻28| | |12月9日|直義、使者を吉野に遣わし、降参を乞う。|『太平記』巻28|
 +** [#s6c38c87]
-*30、&aname(nen030);『室町幕府守護制度の研究』(佐藤進一)では、暦応4年9月7日付時氏の請文では、出雲国淀新庄につき、去後四月八日御奉書を受けて、遵行を実施した旨が記されており、佐々木(塩冶)高貞の死後、いくばくもなく時氏が出雲国守護に補任されたと考えられる。 -*30、&aname(nen030);『室町幕府守護制度の研究』(佐藤進一)では、暦応4年9月7日付時氏の請文では、出雲国淀新庄につき、去後四月八日御奉書を受けて、遵行を実施した旨が記されており、佐々木(塩冶)高貞の死後、いくばくもなく時氏が出雲国守護に補任されたと考えられる。
-*31、&aname(nen031);佐藤、前掲書によれば、暦応4年10月4日、西大寺領丹波国志楽庄地頭職の遵行を令した将軍家執事施行状案が山名時志に充てられている。 -*31、&aname(nen031);佐藤、前掲書によれば、暦応4年10月4日、西大寺領丹波国志楽庄地頭職の遵行を令した将軍家執事施行状案が山名時志に充てられている。
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*正平6年(1351)~正平8年(1353) [#kb7a4834] *正平6年(1351)~正平8年(1353) [#kb7a4834]
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-|1351|正平6年正月7日|直義7万騎にて、八幡山に陣し、義詮を攻めんとする。|『太平記』巻29、『兵庫県史』巻2P686| +|1351|正平6年正月7日&br;観応2年|直義7万騎にて、八幡山に陣し、義詮を攻めんとする。|『太平記』巻29、『兵庫県史』巻2P686| 
-| |観応2年|尊氏は山名時氏を先鋒として上洛をはかり西宮を経て瀬川(箕面市)に駐留。| |+| | |尊氏は山名時氏を先鋒として上洛をはかり西宮を経て瀬川(箕面市)に駐留。| |
| |正月10日|尊氏と直義軍とが接触し、赤松範資が尊氏軍の主力となり大渡で戦う。|『兵庫県史』巻2P686| | |正月10日|尊氏と直義軍とが接触し、赤松範資が尊氏軍の主力となり大渡で戦う。|『兵庫県史』巻2P686|
| |正月15日|尊氏は桃井軍と四條河原で戦う。山名時氏が直義軍に投じた為、戦況は一変し、尊氏、師直、佐々木道誉は敗れて丹波に逃れる。|『兵庫県史』巻2P686| | |正月15日|尊氏は桃井軍と四條河原で戦う。山名時氏が直義軍に投じた為、戦況は一変し、尊氏、師直、佐々木道誉は敗れて丹波に逃れる。|『兵庫県史』巻2P686|
| |2月20日|尊氏は使者を男山の直義に送り、講和をはかる。|『兵庫県史』巻2P688| | |2月20日|尊氏は使者を男山の直義に送り、講和をはかる。|『兵庫県史』巻2P688|
| |2月26日|師直、師泰兄弟を上杉能憲が武庫川辺で斬殺。|『兵庫県史』巻2P688| | |2月26日|師直、師泰兄弟を上杉能憲が武庫川辺で斬殺。|『兵庫県史』巻2P688|
-| |3月25日以前|山名時氏が出雲守護職となる。|『二尊院文書』*38|+| |3月25日以前|山名時氏が出雲守護職となる。|『二尊院文書』[[*38>#nen038]]|
| |6月|尊氏が義詮とともに直義討伐の計画に着手する。| | | |6月|尊氏が義詮とともに直義討伐の計画に着手する。| |
| |8月1日|直義が斯波高経、上杉朝定、山名時氏等を従えて北国に逃走。|『兵庫県史』巻2P690| | |8月1日|直義が斯波高経、上杉朝定、山名時氏等を従えて北国に逃走。|『兵庫県史』巻2P690|
-| |8月5日以前|幕府は佐々木氏を出雲守護職として認めている。|『二尊院文書』*39+| |8月5日以前|幕府は佐々木氏を出雲守護職として認めている。|『二尊院文書』[[*39>#nen039]]
-| |8月13日以前|幕府は山名時氏の丹波守護職をとりあげる。|『武家時代』P98、『神護寺文書』*40|+| |8月13日以前|幕府は山名時氏の丹波守護職をとりあげる。|『武家時代』P98、『神護寺文書』[[*40>#nen040]]|
| |8月18日|尊氏、直義追討の宣旨を受ける。|『太平記』巻30| | |8月18日|尊氏、直義追討の宣旨を受ける。|『太平記』巻30|
| |10月8日|直義、鎌倉に下る。|『太平記』巻30| | |10月8日|直義、鎌倉に下る。|『太平記』巻30|
| |10月|幕府は山名時氏の若狭守護職をとりあげる。|『武家時代』P98| | |10月|幕府は山名時氏の若狭守護職をとりあげる。|『武家時代』P98|
-|1352|正平7年正月6日|直義、薩多山の合戦に敗れる。|『太平記』巻30+|1352|正平7年正月6日&br;観応3年|直義、薩多山の合戦に敗れる。|『太平記』巻30|
-| |観応3年| | |+
| |2月26日|直義の急死。(毒殺されたとの風聞があった。)|『太平記』巻30| | |2月26日|直義の急死。(毒殺されたとの風聞があった。)|『太平記』巻30|
-| |閏2月20日|北畠顕能等、不意に義詮を討ち、これを破る。義詮、近江四十九院へ逃る。|『太平記』巻30*41|+| |閏2月20日|北畠顕能等、不意に義詮を討ち、これを破る。義詮、近江四十九院へ逃る。|『太平記』巻30[[*41>#nen041]]|
| |閏2月28日|新田義興、義宗、義治の大軍、尊氏の軍勢と武蔵野の小手差原で対陣す。新田軍が敗れて、敗走す。|『太平記』巻31| | |閏2月28日|新田義興、義宗、義治の大軍、尊氏の軍勢と武蔵野の小手差原で対陣す。新田軍が敗れて、敗走す。|『太平記』巻31|
-| |3月9日|義詮、近江の四十九院を発し、京都に向う。|『太平記』巻31*42|+| |3月9日|義詮、近江の四十九院を発し、京都に向う。|『太平記』巻31[[*42>#nen042]]|
| |3月15日|北畠顕能等、石清水八幡宮へ退く。|『大阪府史』巻3P744| | |3月15日|北畠顕能等、石清水八幡宮へ退く。|『大阪府史』巻3P744|
| |3月27日|義詮の軍勢、南朝方と荒坂山にて戦う。4、5日後山名師氏(師義とも言う)が出雲、因幡、伯耆の勢を率いて上洛。財園院に陣をとる。|『太平記』巻31| | |3月27日|義詮の軍勢、南朝方と荒坂山にて戦う。4、5日後山名師氏(師義とも言う)が出雲、因幡、伯耆の勢を率いて上洛。財園院に陣をとる。|『太平記』巻31|
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| |5月11日|八幡の軍勢、力尽き、後村上天皇、囲みを衝いて東條に逃れる。|『太平記』巻31| | |5月11日|八幡の軍勢、力尽き、後村上天皇、囲みを衝いて東條に逃れる。|『太平記』巻31|
| |8月26日|山名師氏(師義)、八幡の軍功として、若狭国税所今富庄の知行を佐々木道誉に属して申達せんとすが、道誉の無礼を怒り、伯耆をさして下る。|『太平記』巻32| | |8月26日|山名師氏(師義)、八幡の軍功として、若狭国税所今富庄の知行を佐々木道誉に属して申達せんとすが、道誉の無礼を怒り、伯耆をさして下る。|『太平記』巻32|
-| | |山名師氏(師義)、父時氏(当時53歳)は足利直義と共に南朝方となり、出雲、伯耆、隠岐因幡、四カ国を征服し、|『太平記』巻32、②『家譜』P56*43|+| | |山名師氏(師義)、父時氏(当時53歳)は足利直義と共に南朝方となり、出雲、伯耆、隠岐因幡、四カ国を征服し、|『太平記』巻32、②『家譜』P56[[*43>#nen043]]|
| | |南朝の諸軍と相応じて京都に進撃せんとす。| | | | |南朝の諸軍と相応じて京都に進撃せんとす。| |
| | |つまり、時氏は血気盛んな息子たちに引っ張られ幕府と袂を分かった。このことで丹波守・若狭守を取り上げられる事となった。| | | | |つまり、時氏は血気盛んな息子たちに引っ張られ幕府と袂を分かった。このことで丹波守・若狭守を取り上げられる事となった。| |
| |9月27日|文和と改元。| | | |9月27日|文和と改元。| |
-|1353|正平8年5月7日|山名時氏、師氏(師義)、伯耆を立ちて、但馬、丹後の兵を集めて上洛。|『太平記』巻32、②『家譜』P59| +|1353|正平8年5月7日&br;文和2年|山名時氏、師氏(師義)、伯耆を立ちて、但馬、丹後の兵を集めて上洛。|『太平記』巻32、②『家譜』P59| 
-| |文和2年| | | +| | |南方より、四條大納言隆俊を惣大将として3000余騎上洛。[[*44>#nen044]]| | 
-| | |南方より、四條大納言隆俊を惣大将として3000余騎上洛。*44| | +|1353|正平8年6月9日&br;文和2|南朝の官軍3000余騎、八條、九條の在家に火をかけ、山陰道の寄手、山名師氏(師義)等5000騎は梅津、桂、嵯峨、仁和寺、西七條に火をかけて、京中に追寄せる。山名が執事小林右京亮、佐々木が勢に打勝ち、山名師氏(師義)は土岐が勢に打勝つ。吉良、石堂、原、蜂屋、宇都宮民部少輔、海東、和田、楠は細川清氏に打勝つ。| |
-|1353|正平8年6月9日|南朝の官軍3000余騎、八條、九條の在家に火をかけ、山陰道の寄手、山名師氏(師義)等5000騎は梅津、桂、嵯峨、仁和寺、西七條に火をかけて、京中に追寄せる。山名が執事小林右京亮、佐々木が勢に打勝ち、山名師氏(師義)は土岐が勢に打勝つ。吉良、石堂、原、蜂屋、宇都宮民部少輔、海東、和田、楠は細川清氏に打勝つ。| | +
-| |文和2| | |+
| | |義詮の軍勢大敗し、義詮、東坂本に逃れる。|『太平記』巻32、②家譜P60| | | |義詮の軍勢大敗し、義詮、東坂本に逃れる。|『太平記』巻32、②家譜P60|
-| |6月12日|高師詮(師直の子)、西山の善峰に陣し、山名の兵これを攻め、師詮は破れ、自害す。|『太平記』巻32、②『家譜』P60*45|+| |6月12日|高師詮(師直の子)、西山の善峰に陣し、山名の兵これを攻め、師詮は破れ、自害す。|『太平記』巻32、②『家譜』P60[[*45>#nen045]]|
| |6月13日|義詮、後光厳天皇を奉じて、東近江を経て、美濃の垂井に宿る。|『太平記』巻32、②『家譜』P61| | |6月13日|義詮、後光厳天皇を奉じて、東近江を経て、美濃の垂井に宿る。|『太平記』巻32、②『家譜』P61|
-| |7月23日|山名時氏、師氏(師義)、京都に留まるを得ず。伯耆国に下る。|太平記』巻32、②家譜P61*46|+| |7月23日|山名時氏、師氏(師義)、京都に留まるを得ず。伯耆国に下る。|太平記』巻32、②家譜P61[[*46>#nen046]]|
| |7月29日|尊氏、鎌倉を発し、9月21日光厳天皇とともに上洛。|『太平記』巻32頭注(鶴岡社務記録)| | |7月29日|尊氏、鎌倉を発し、9月21日光厳天皇とともに上洛。|『太平記』巻32頭注(鶴岡社務記録)|
-| |9月|直冬、南朝から綸旨を賜わり、総追捕使に任ぜらる。|『太平記』巻32頭注(園太暦)*47|+| |9月|直冬、南朝から綸旨を賜わり、総追捕使に任ぜらる。|『太平記』巻32頭注(園太暦)[[*47>#nen047]]|
--*38、『二尊院文書』観応2年3月25日付で禅林寺衆来迎院領出雲国淀新荘地頭職に対する土屋佐衛門太郎、多胡孫四郎等の濫妨停止を令した直義の御教書が山名時氏に施行され、同4月3日時氏がこれを遵行している。『武家時代』P112 +** [#b96f1d98] 
--*39、『二尊院文書』観応2年8月5日足利義詮御判御教書によれば出雲国淀新荘地頭職に対する濫妨停止のことが佐々木高氏に令せられている。『武家時代』P112 +-*38、&aname(nen038);『二尊院文書』観応2年3月25日付で禅林寺衆来迎院領出雲国淀新荘地頭職に対する土屋佐衛門太郎、多胡孫四郎等の濫妨停止を令した直義の御教書が山名時氏に施行され、同4月3日時氏がこれを遵行している。『武家時代』P112 
--*40、『神護寺文書』観応2年8月13日付同寺領丹波国吉富本、新両荘に対する内藤定光の濫妨を停止する旨の足利義詮の御判御教書が仁木頼章に宛てて出されているから、この時既に丹波守護職は山名時氏にかわって再び仁木頼章に付与されていたと考えられる。『武家時代』P112 +-*39、&aname(nen039);『二尊院文書』観応2年8月5日足利義詮御判御教書によれば出雲国淀新荘地頭職に対する濫妨停止のことが佐々木高氏に令せられている。『武家時代』P112 
--*41、本文中では2月27日となっているが、同書註に2月20日が正しいとある。 +-*40、&aname(nen040);『神護寺文書』観応2年8月13日付同寺領丹波国吉富本、新両荘に対する内藤定光の濫妨を停止する旨の足利義詮の御判御教書が仁木頼章に宛てて出されているから、この時既に丹波守護職は山名時氏にかわって再び仁木頼章に付与されていたと考えられる。『武家時代』P112 
--*42、本文中では3月11日。註では3月9日。 +-*41、&aname(nen041);本文中では2月27日となっているが、同書註に2月20日が正しいとある。 
--*43、『太平記』では8月26日であるが、『家譜』では8月28日となっている。 +-*42、&aname(nen042);本文中では3月11日。註では3月9日。 
--*44、『家譜』では、但馬、出雲、丹後の兵となっている。 +-*43、&aname(nen043);『太平記』では8月26日であるが、『家譜』では8月28日となっている。 
--*45、太平記の本文では6月11日となっているが、註では『園太暦』の6月12日をとっている。 +-*44、&aname(nen044);『家譜』では、但馬、出雲、丹後の兵となっている。 
--*46、山名の兵士が在京に疲れ、都を落ちて行き、また、義詮が東山、東海、北陸道の勢を率いて攻め上り、赤松則祐が中国より上洛してくるという風聞があった。『山名家譜』では7月25日、京を発し、28日に伯耆に帰陣したとある。 +-*45、&aname(nen045);太平記の本文では6月11日となっているが、註では『園太暦』の6月12日をとっている。 
--*47、『太平記』の本文では、尊氏が山名を攻んと、義詮を播磨へ下し、これを聞いた山名時氏が、直冬を惣大将として招請し、直冬は、南朝に尊氏、義詮追討の綸旨をもとめた。となっている。 +-*46、&aname(nen046);山名の兵士が在京に疲れ、都を落ちて行き、また、義詮が東山、東海、北陸道の勢を率いて攻め上り、赤松則祐が中国より上洛してくるという風聞があった。『山名家譜』では7月25日、京を発し、28日に伯耆に帰陣したとある。 
-|しかし、注では、直冬への綸旨が文和2年9月、義詮が播磨国へ下ったのが文和3年10月18日となっており、本年表では注の日付をとった。+-*47、&aname(nen047);『太平記』の本文では、尊氏が山名を攻んと、義詮を播磨へ下し、これを聞いた山名時氏が、直冬を惣大将として招請し、直冬は、南朝に尊氏、義詮追討の綸旨をもとめた。となっている。 
 +しかし、注では、直冬への綸旨が文和2年9月、義詮が播磨国へ下ったのが文和3年10月18日となっており、本年表では注の日付をとった。
『山名家譜』では、文和2年冬に、尊氏、義詮が時氏を討んとして兵を集め、時氏がこれを聞いて、直冬を迎えて、南朝へ奏して、尊氏、義詮追討の綸旨を賜わった。となっている。これは太平記の本文と一致している。 『山名家譜』では、文和2年冬に、尊氏、義詮が時氏を討んとして兵を集め、時氏がこれを聞いて、直冬を迎えて、南朝へ奏して、尊氏、義詮追討の綸旨を賜わった。となっている。これは太平記の本文と一致している。
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|1354|正平9年10月18日|尊氏、山名を攻めるため、義詮を播磨国へ下さる。佐々木道誉、赤松則祐したがう。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記10-16)| |1354|正平9年10月18日|尊氏、山名を攻めるため、義詮を播磨国へ下さる。佐々木道誉、赤松則祐したがう。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記10-16)|
| |文和3年| | | | |文和3年| | |
-| |12月13日|山名時氏、師氏(師義)直冬を大将として伯耆を発す。|『太平記』巻32*48|+| |12月13日|山名時氏、師氏(師義)直冬を大将として伯耆を発す。|『太平記』巻32[[*48>#nen048]]|
| | |丹波国の守護仁木頼章は一戦も交えず山名勢を通過させる。|『太平記』巻32| | | |丹波国の守護仁木頼章は一戦も交えず山名勢を通過させる。|『太平記』巻32|
-| |12月24日|兵力の大半を播磨の義詮に送った尊氏は、江州武作寺へ落ちる。|『太平記』巻32、②『家譜』P62*49+| |12月24日|兵力の大半を播磨の義詮に送った尊氏は、江州武作寺へ落ちる。|『太平記』巻32、②『家譜』P62[[*49>#nen049]]
-|1355|正平10年正月16日|桃井直常、直信、斯波氏頼入洛。|『太平記』巻32*50|+|1355|正平10年正月16日|桃井直常、直信、斯波氏頼入洛。|『太平記』巻32[[*50>#nen050]]|
| |文和4年| | | | |文和4年| | |
-| |正月22日|直冬、山名、石堂入洛。|『太平記』巻32*51+| |正月22日|直冬、山名、石堂入洛。|『太平記』巻32[[*51>#nen051]]
-| | |尊氏、東坂本に入る。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)*52|+| | |尊氏、東坂本に入る。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)[[*52>#nen052]]|
| | |桃井直常、斯波氏頼、如意山に登る。| | | | |桃井直常、斯波氏頼、如意山に登る。| |
| |正月23日|尊氏、比叡山に移る。|『太平記』巻32頭注(園太暦)| | |正月23日|尊氏、比叡山に移る。|『太平記』巻32頭注(園太暦)|
| |正月25日|直冬、東寺実相院に陣をとる。楠木正儀は男山に陣をとる。山名時氏は西山に陣をとる。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)| | |正月25日|直冬、東寺実相院に陣をとる。楠木正儀は男山に陣をとる。山名時氏は西山に陣をとる。|『太平記』巻32頭注(建武三年以来記)|
-|1355|正平10年2月4日|尊氏、東坂本に着く。義詮、山崎の西、神南の北なる峯に陣をとる。直冬は東寺を攻の城に構える。山名時氏、師氏|『太平記』巻32*53|+|1355|正平10年2月4日|尊氏、東坂本に着く。義詮、山崎の西、神南の北なる峯に陣をとる。直冬は東寺を攻の城に構える。山名時氏、師氏|『太平記』巻32[[*53>#nen053]]|
| |文和4年| | | | |文和4年| | |
| | |(師義)、淀、鳥羽、赤井、大渡に分けて陣をとる。楠木正儀等は八幡の山下に陣をとる。| | | | |(師義)、淀、鳥羽、赤井、大渡に分けて陣をとる。楠木正儀等は八幡の山下に陣をとる。| |
-| |2月6日|山名師氏(師義)、八幡に控えたる南方の勢と一つに成って、神内宿に打寄せる。|『太平記』巻32*54|+| |2月6日|山名師氏(師義)、八幡に控えたる南方の勢と一つに成って、神内宿に打寄せる。|『太平記』巻32[[*54>#nen054]]|
| | |山名師氏(師義)、赤松則祐の一族・佐々木道誉の若党が守る一陣を破る。| | | | |山名師氏(師義)、赤松則祐の一族・佐々木道誉の若党が守る一陣を破る。| |
| | |山名時氏、細河頼之・繁氏等が守る二陣を破る。| | | | |山名時氏、細河頼之・繁氏等が守る二陣を破る。| |
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| | |山名師義は勝れたる兵八百騎を卒して、遊軍としてひかえる。阿保信禅が山名方に変わり、但馬国へ馳せ越え、長九郎左衛門と一緒に播磨へ打て入らんと企てるので、赤松は法花山に城郭を構え、大山越の道を塞いで、五箇所へ勢を差向けた。| | | | |山名師義は勝れたる兵八百騎を卒して、遊軍としてひかえる。阿保信禅が山名方に変わり、但馬国へ馳せ越え、長九郎左衛門と一緒に播磨へ打て入らんと企てるので、赤松は法花山に城郭を構え、大山越の道を塞いで、五箇所へ勢を差向けた。| |
| | |赤松は山名と戦うにも勢少なく、中国の大将細川頼之に備前、備中、備後の兵を集めるよう応援を頼んだが、兵共は己が国々の私戦を捨てかねて、大将に従わなかった。| | | | |赤松は山名と戦うにも勢少なく、中国の大将細川頼之に備前、備中、備後の兵を集めるよう応援を頼んだが、兵共は己が国々の私戦を捨てかねて、大将に従わなかった。| |
-| |11月4日|倉懸の城は兵粮がつき、後攻めの頼みもなく、ついに落ちた。山名は山陰道四箇所をあわせ持つこととなった。|『太平記』巻36、②『家譜』P65 ̄68*55|+| |11月4日|倉懸の城は兵粮がつき、後攻めの頼みもなく、ついに落ちた。山名は山陰道四箇所をあわせ持つこととなった。|『太平記』巻36、②『家譜』P65〜68[[*55>#nen055]]|
--*48、時氏は播磨に入り義詮を討ち、その後丹波へでて仁木頼章の佐野城を打落とす計画であったが、越中の桃井直常、越前の斯波高経より飛脚が到来して、時氏に急ぎ京都へ攻上ってほしい、同時に北陸からも攻上る由の知らせを受け、時氏は急據、上洛することになった。 +** [#yad6383f] 
--*49、太平記の本文では正月12日だが、頭注では12月24日を正しいとしている。 +-*48、&aname(nen048);時氏は播磨に入り義詮を討ち、その後丹波へでて仁木頼章の佐野城を打落とす計画であったが、越中の桃井直常、越前の斯波高経より飛脚が到来して、時氏に急ぎ京都へ攻上ってほしい、同時に北陸からも攻上る由の知らせを受け、時氏は急據、上洛することになった。 
--*50、太平記の本文では正月13日だが、頭注では正月16日となっている。(園太暦) +-*49、&aname(nen049):太平記の本文では正月12日だが、頭注では12月24日を正しいとしている。 
--*51、太平記の文では正月13日だが、頭注では正月22日となっている。(園太暦) +-*50、&aname(nen050);太平記の本文では正月13日だが、頭注では正月16日となっている。(園太暦) 
-『山名家譜』P63では、正月12日時氏父子入洛、同14日桃井直常も入洛す。|+-*51、&aname(nen051);太平記の文では正月13日だが、頭注では正月22日となっている。(園太暦)『山名家譜』P63では、正月12日時氏父子入洛、同14日桃井直常も入洛す。
同16日足利高経は直冬を供奉して入洛し、此日時氏淀の辺に陣し、諸将と相議して、北朝の年号を止めて、南朝の正平10年を用いる。 同16日足利高経は直冬を供奉して入洛し、此日時氏淀の辺に陣し、諸将と相議して、北朝の年号を止めて、南朝の正平10年を用いる。
--*52、『家譜』P63.2月4日尊氏は大軍を率いて東坂本に陣せらるとある。太平記本文でも2月4日となっている。 +-*52、&aname(nen052);『家譜』P63.2月4日尊氏は大軍を率いて東坂本に陣せらるとある。太平記本文でも2月4日となっている。 
--*53、『家譜』でもP63~65に2月4日と同様の内容を記述している。 +-*53、&aname(nen053);『家譜』でもP63~65に2月4日と同様の内容を記述している。 
--*54、『山名家譜』では、山名勢は尊氏の勢に勝利するが、兵粮に乏しく、3月13日に、諸将と相議して各本国に帰るとしている。『家譜』P65 +-*54、&aname(nen054);『山名家譜』では、山名勢は尊氏の勢に勝利するが、兵粮に乏しく、3月13日に、諸将と相議して各本国に帰るとしている。『家譜』P65 
--*55、『家譜』P77に五男時義16歳にして初陣なりとある。+-*55、&aname(nen055);『家譜』P77に五男時義16歳にして初陣なりとある。
*正平17年(1362)〜正平23年(1368) [#g6238961] *正平17年(1362)〜正平23年(1368) [#g6238961]
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| |8月29日|衆徒神輿を奉じ西坂本に降る。諸将の警固。山名時氏、子息等其勢千余騎、多々須河原に陣す。|『後愚昧記』| | |8月29日|衆徒神輿を奉じ西坂本に降る。諸将の警固。山名時氏、子息等其勢千余騎、多々須河原に陣す。|『後愚昧記』|
| |(月日不詳)|将軍義満、評定衆を定めらる。山名時氏、仁木義長、今川貞世、佐々木氏頼、赤松義則の五人なり。|②家譜P72| | |(月日不詳)|将軍義満、評定衆を定めらる。山名時氏、仁木義長、今川貞世、佐々木氏頼、赤松義則の五人なり。|②家譜P72|
 +** [#if7f36f9]
-*56、『家譜』P68時氏父子五千四百騎を率いて伯耆国羽衣石を発し・・ -*56、『家譜』P68時氏父子五千四百騎を率いて伯耆国羽衣石を発し・・
-*57、『家譜』P68では、師義、義理、備前・備中の両国へ向わせらる。二萬堀に陣せらる。福林寺、桶上の一族等小勢にして降参す。となっている。 -*57、『家譜』P68では、師義、義理、備前・備中の両国へ向わせらる。二萬堀に陣せらる。福林寺、桶上の一族等小勢にして降参す。となっている。
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-*66、後鑑では『花営三代記』より引用し、中務少輔を氏冬としている。 -*66、後鑑では『花営三代記』より引用し、中務少輔を氏冬としている。
-* [#m13cb357]+*正平24年(1369)〜天授2年(1376) [#m13cb357]
|40|140| | |c |40|140| | |c
|1369|正平24年正月22日|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』| |1369|正平24年正月22日|六條八幡宮御社参。役人。御幣。山名右馬助。(幸松か)御剣。同修理亮。(義理か)|『花営三代記』|
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| |閏7月5日|山名右衛門佐入道後家他界。|『花営三代記』| | |閏7月5日|山名右衛門佐入道後家他界。|『花営三代記』|
| |12月27日|貢馬。二番鴾毛。山名時義。| | | |12月27日|貢馬。二番鴾毛。山名時義。| |
 +** [#q3a2fbad]
-*67、『豊岡市史』上巻P228『山名時氏は応安元年(1368)に家督を惣領の師義に譲った』とある。『山名氏の系譜と事歴』(奥富敬之) -*67、『豊岡市史』上巻P228『山名時氏は応安元年(1368)に家督を惣領の師義に譲った』とある。『山名氏の系譜と事歴』(奥富敬之)
『室町幕府守護職家事典』下巻に所収によれば、現存資料で、この前後の時期に山名一族で保持ししていたと推定し得る諸国守護職は丹後(長男師義)、美作(二男義理)、因幡(三男氏冬―八男氏重)、丹波(時氏―四男氏清)、伯耆(五男時義)の五ヶ国である。 『室町幕府守護職家事典』下巻に所収によれば、現存資料で、この前後の時期に山名一族で保持ししていたと推定し得る諸国守護職は丹後(長男師義)、美作(二男義理)、因幡(三男氏冬―八男氏重)、丹波(時氏―四男氏清)、伯耆(五男時義)の五ヶ国である。
-*68、『後愚昧記』に、山名左京大夫入道逝去了。子息右衛門佐入道上洛。逢終焉云々、閉眼之後下向丹州、子息・所従等不貽一人下向、葬送氷所辺云々、彼入道生年七十三歳云々、無道之勇士、以命終、結句又非短命、大幸之者也。 -*68、『後愚昧記』に、山名左京大夫入道逝去了。子息右衛門佐入道上洛。逢終焉云々、閉眼之後下向丹州、子息・所従等不貽一人下向、葬送氷所辺云々、彼入道生年七十三歳云々、無道之勇士、以命終、結句又非短命、大幸之者也。
 +
*天授3年(1377)〜天授6年(1380) [#k1b50565] *天授3年(1377)〜天授6年(1380) [#k1b50565]
|40|140| | |c |40|140| | |c
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| |9月7日|紀州生地城没落。|『花営三代記』| | |9月7日|紀州生地城没落。|『花営三代記』|
| |12月22日|幕府管領斯波義将、義満の命により、丹波国東寺領、大山荘領家職田畠参拾町の内、五町を押領する中澤を止め、東寺に還付すべく、山名陸奥守(氏清)に命ず。|「室町幕府御教書案」(④『氏清年譜)| | |12月22日|幕府管領斯波義将、義満の命により、丹波国東寺領、大山荘領家職田畠参拾町の内、五町を押領する中澤を止め、東寺に還付すべく、山名陸奥守(氏清)に命ず。|「室町幕府御教書案」(④『氏清年譜)|
 +** [#b9e6676c]
-*69、舎弟駿河守、同陸奥前司、舎弟修理亮がそれぞれ誰をさすか注なし。『系図纂要』によると、()で示したようになる。 -*69、舎弟駿河守、同陸奥前司、舎弟修理亮がそれぞれ誰をさすか注なし。『系図纂要』によると、()で示したようになる。
-*70、『後愚昧記』12月23日伝聞、紀州守護に山名義理を補し、美作国相並知行す。又、山名氏清を和泉守護に補する。南方退治の為なり云々。 -*70、『後愚昧記』12月23日伝聞、紀州守護に山名義理を補し、美作国相並知行す。又、山名氏清を和泉守護に補する。南方退治の為なり云々。
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| |5月頃|山名伊豆守(義熈)、備後国の守護となる。*79| | | |5月頃|山名伊豆守(義熈)、備後国の守護となる。*79| |
| |8月某日|義満、山名時熈、氏之に上洛すべき旨を命ず。兄弟共に病の由にて上洛せず。|②家譜P80| | |8月某日|義満、山名時熈、氏之に上洛すべき旨を命ず。兄弟共に病の由にて上洛せず。|②家譜P80|
 +** [#h85db167]
-*76、『後鑑』所収『和漢合運』には、楠木一族6人、若党140人、山名氏清のために討たれる。須賀部新左衛門申状には、去閏正月17日京都を罷立、同21日吹田渡に進み、同22日渡辺河を打渡、即日奥州の陣に馳参。同24日御敵楠木陣河内国平尾御合戦。 -*76、『後鑑』所収『和漢合運』には、楠木一族6人、若党140人、山名氏清のために討たれる。須賀部新左衛門申状には、去閏正月17日京都を罷立、同21日吹田渡に進み、同22日渡辺河を打渡、即日奥州の陣に馳参。同24日御敵楠木陣河内国平尾御合戦。
-*77、大阪府史巻3によれば、山名氏清の守護職期間について、摂津国のうち東成郡を永徳2年3月以前~明徳2年12月迄。住吉郡を永和4年12月…嘉慶2年3月~明徳2年12月。和泉国は永和4年12月~明徳2年12月。河内について記載なし。 -*77、大阪府史巻3によれば、山名氏清の守護職期間について、摂津国のうち東成郡を永徳2年3月以前~明徳2年12月迄。住吉郡を永和4年12月…嘉慶2年3月~明徳2年12月。和泉国は永和4年12月~明徳2年12月。河内について記載なし。
Line 625: Line 620:
| |11月10日|山名氏清、南朝に帰順し、幕府の討伐を請う。南帝之を聴し、春日刑部少輔顕連をして氏清に錦旗を賜う。|「南方紀伝」(④氏清年譜)| | |11月10日|山名氏清、南朝に帰順し、幕府の討伐を請う。南帝之を聴し、春日刑部少輔顕連をして氏清に錦旗を賜う。|「南方紀伝」(④氏清年譜)|
| |11月某日|義満、山名時熈兄弟を赦免す。|『明徳記』| | |11月某日|義満、山名時熈兄弟を赦免す。|『明徳記』|
 +** [#p28f29ab]
-*80、『山名家譜』では年号は明徳となっており、改元の時期3月26日より早く、年号をかえている。時期的には後になる3月14日の記事については、康応のままの年号が使われている。さらに、この二つの記事の記述が『山名家譜』では時期の前後が逆になっている。 -*80、『山名家譜』では年号は明徳となっており、改元の時期3月26日より早く、年号をかえている。時期的には後になる3月14日の記事については、康応のままの年号が使われている。さらに、この二つの記事の記述が『山名家譜』では時期の前後が逆になっている。
-*81、家譜の年号は康応となっている。(3月26日明徳に改元) -*81、家譜の年号は康応となっている。(3月26日明徳に改元)
Line 680: Line 675:
| | |・山名氏清・一色詮範と懸け合う。山名氏家勢・勘解由小路義重、赤松義則勢と揉合う。氏家の勢の中、家喜九郎等三十八人討死。氏家、猪熊を南へ落ち行く。| | | | |・山名氏清・一色詮範と懸け合う。山名氏家勢・勘解由小路義重、赤松義則勢と揉合う。氏家の勢の中、家喜九郎等三十八人討死。氏家、猪熊を南へ落ち行く。| |
| | |・義満、大宮の合戦に出陣。氏清には、山名の小次郎、山名禅正以下十八騎踏み止まり付添う。山名氏清、一色詮範父子に打ちとられる。山名小次郎討死。*99| | | | |・義満、大宮の合戦に出陣。氏清には、山名の小次郎、山名禅正以下十八騎踏み止まり付添う。山名氏清、一色詮範父子に打ちとられる。山名小次郎討死。*99| |
 +** [#mf066701]
-*85、『後鑑』では『明徳記』を引用しているが、去17日を11月17日としている。 -*85、『後鑑』では『明徳記』を引用しているが、去17日を11月17日としている。
満幸が挙兵の準備をしていたころ、氏清の行動について『明徳記』には、紀伊国へ赴き、舎兄義理合戦への同意を説く。義理は氏清に思い止まるよう諫めるが、聞きいれず、義理も同意し、一門悉く同心して攻め上がらんと沙汰しける。と書かれている。 満幸が挙兵の準備をしていたころ、氏清の行動について『明徳記』には、紀伊国へ赴き、舎兄義理合戦への同意を説く。義理は氏清に思い止まるよう諫めるが、聞きいれず、義理も同意し、一門悉く同心して攻め上がらんと沙汰しける。と書かれている。
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| | |元中九年の号を停めて、明徳三年となる。|「南朝編年記略附録」(⑤『南北朝史』下)| | | |元中九年の号を停めて、明徳三年となる。|「南朝編年記略附録」(⑤『南北朝史』下)|
| |12月|幕府、京都内野に明徳の乱の追善の為法華万部経会を修する。|『山名常熈と禅刹』| | |12月|幕府、京都内野に明徳の乱の追善の為法華万部経会を修する。|『山名常熈と禅刹』|
 +** [#b07d3ba5]
-*96、氏家は因幡勢を率いて猪熊を上に攻め入り、二條の大路で氏清の勢と一手になる計画であった。赤松勢は一旦引き下がったが、二條猪熊は破られず、又、本陣に馳集まって、終に氏清軍に勝ったと天下に流布した。 -*96、氏家は因幡勢を率いて猪熊を上に攻め入り、二條の大路で氏清の勢と一手になる計画であった。赤松勢は一旦引き下がったが、二條猪熊は破られず、又、本陣に馳集まって、終に氏清軍に勝ったと天下に流布した。
-*97、時熈、既に討たると見えける時、垣屋弾正、滑良の二人が助けに入り、弾正、滑良は討死。時熈は大内勢の陣に馳入る。 -*97、時熈、既に討たると見えける時、垣屋弾正、滑良の二人が助けに入り、弾正、滑良は討死。時熈は大内勢の陣に馳入る。
Line 777: Line 772:
| | |山名の入澤、山名の草山、北の陣で杉豊後守と戦い討死し、豊後も討取られる。*121| | | | |山名の入澤、山名の草山、北の陣で杉豊後守と戦い討死し、豊後も討取られる。*121| |
| | |堺城落城。堺の町は灰塵に帰す。| | | | |堺城落城。堺の町は灰塵に帰す。| |
 +** [#t198d8ad]
-*108、『後鑑』では『東寺王代記』を引用し、2月10日としている。 -*108、『後鑑』では『東寺王代記』を引用し、2月10日としている。
-*109、明徳3年正月の論功行賞で出雲、隠岐の守護職を佐々木(京極)高詮に与えた。高詮は早速、出雲に出兵し、山名満幸の代官塩冶駿河守の守る富田城を攻略させ、また明徳4年2月、山名満幸・塩冶遠江守入道父子の軍と戦った同国の武士須和部菊松丸の軍忠状に高詮自ら証判を与えており、また、国内武士に対する地頭職安堵や社寺領安堵を行い、守護の職務活動をおこなっていた。しかし、幕府より高詮を正式に守護と遇する文書は見当らない。山名満幸を誅伐し、はじめて、正式に補任された。『室町幕府守護制度の研究』下(佐藤進一) -*109、明徳3年正月の論功行賞で出雲、隠岐の守護職を佐々木(京極)高詮に与えた。高詮は早速、出雲に出兵し、山名満幸の代官塩冶駿河守の守る富田城を攻略させ、また明徳4年2月、山名満幸・塩冶遠江守入道父子の軍と戦った同国の武士須和部菊松丸の軍忠状に高詮自ら証判を与えており、また、国内武士に対する地頭職安堵や社寺領安堵を行い、守護の職務活動をおこなっていた。しかし、幕府より高詮を正式に守護と遇する文書は見当らない。山名満幸を誅伐し、はじめて、正式に補任された。『室町幕府守護制度の研究』下(佐藤進一)
Line 818: Line 813:
-*121、「堺記」では山名の入澤、同草山が杉豊後と戦い、討死したことが記されているが、「応永記」では、山名の入道と記されており、草山についての記述はない。 -*121、「堺記」では山名の入澤、同草山が杉豊後と戦い、討死したことが記されているが、「応永記」では、山名の入道と記されており、草山についての記述はない。
-*応永7年(1400)[#ia42fe43]+*応永7年(1400)〜応永12年(1405) [#ia42fe43]
|40|140| | |c |40|140| | |c
|1400|応永7年正月24日|因幡守護山名氏家、幕府の旨を奉じ、土屋次郎をして同国吉岡保湯河小日置上郷内の地を山城鞍馬寺雑掌に渡付せしむ。*122|「華頂要略」(①大日7-4)| |1400|応永7年正月24日|因幡守護山名氏家、幕府の旨を奉じ、土屋次郎をして同国吉岡保湯河小日置上郷内の地を山城鞍馬寺雑掌に渡付せしむ。*122|「華頂要略」(①大日7-4)|
Line 850: Line 845:
| |10月4日|但馬守護山名時熈、同国興布土荘内の地を興布土徳石に宛行う。|「山崎文書」(①大日7-7)| | |10月4日|但馬守護山名時熈、同国興布土荘内の地を興布土徳石に宛行う。|「山崎文書」(①大日7-7)|
| |12月11日|安芸守護代山名満氏、吉川経見をして、同国平田内宮荘福光名を安堵せしむ。|「吉川家文書」(①大日7-7)| | |12月11日|安芸守護代山名満氏、吉川経見をして、同国平田内宮荘福光名を安堵せしむ。|「吉川家文書」(①大日7-7)|
 +
 +** [#f0f59f04]
 +-*122、因幡守護は、『大日本史料』の注では氏冬となってるが氏家が正しい。
 +-*123、「山名常熈関係略年譜」『山名常熈と禅刹』では、医王山大同寺とある。
 +-*124、高屋での合戦について、「平賀系図」『大日本史料7―4』に、応永10年、山名満氏芸州守護として下向したが、国人は同心して従わず、高屋に軍勢を向けて合戦した。
 +応永10年12月11日、平賀宗良が討死、要害を攻め、三年間、終に山名殿は帰洛した。平賀共益、同惟益、同惟元も、討死したことを記している。「平賀系図」では山名満氏を芸州守護としているが、これは守護代の誤りである。
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 +*応永13年(1406)〜応永23年(1416) [#h356d99a]
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|1406|応永13年3月15日|安芸守護代山名満氏、吉川弾正少弼の死去により、其一族をして同経見を総領として之に同心せしめ、又弾正少弼の遺領同国大朝庄及び志地原を経見に宛行う。|「吉川家文書」(①大日7-7)| |1406|応永13年3月15日|安芸守護代山名満氏、吉川弾正少弼の死去により、其一族をして同経見を総領として之に同心せしめ、又弾正少弼の遺領同国大朝庄及び志地原を経見に宛行う。|「吉川家文書」(①大日7-7)|
| |3月23日|山名時熈、但馬円通寺内大智庵に敷地を安堵する。26日、時熈、円通大智庵に大有和尚塔頭要脚として、但馬国竹野郷地頭領家両職内田地弐町四段余、阿古谷山崎村山林等を寄進する。|「円通寺文書」(⑥常熈年譜」| | |3月23日|山名時熈、但馬円通寺内大智庵に敷地を安堵する。26日、時熈、円通大智庵に大有和尚塔頭要脚として、但馬国竹野郷地頭領家両職内田地弐町四段余、阿古谷山崎村山林等を寄進する。|「円通寺文書」(⑥常熈年譜」|
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| |7月20日|幕府、山名熈重を安芸守護代に任ずる。|「毛利家文書」(①大日7-8)| | |7月20日|幕府、山名熈重を安芸守護代に任ずる。|「毛利家文書」(①大日7-8)|
| |7月31日|山名熈重、安芸守護代として安芸国に赴く。|「毛利家文書」(①大日7-8)| | |7月31日|山名熈重、安芸守護代として安芸国に赴く。|「毛利家文書」(①大日7-8)|
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--*122、因幡守護は、『大日本史料』の注では氏冬となってるが氏家が正しい。 
--*123、「山名常熈関係略年譜」『山名常熈と禅刹』では、医王山大同寺とある。 
--*124、高屋での合戦について、「平賀系図」『大日本史料7―4』に、応永10年、山名満氏芸州守護として下向したが、国人は同心して従わず、高屋に軍勢を向けて合戦した。 
-応永10年12月11日、平賀宗良が討死、要害を攻め、三年間、終に山名殿は帰洛した。平賀共益、同惟益、同惟元も、討死したことを記している。「平賀系図」では山名満氏を芸州守護としているが、これは守護代の誤りである。 
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|1406|応永13年8月|是月、但馬大同寺茂林興樹、月菴行実・・・月菴録・・・を著す。是れより先、時熈、紙を出して興樹に月菴の法語を需める。|「大同寺月菴録」⑥常熈年譜| |1406|応永13年8月|是月、但馬大同寺茂林興樹、月菴行実・・・月菴録・・・を著す。是れより先、時熈、紙を出して興樹に月菴の法語を需める。|「大同寺月菴録」⑥常熈年譜|
| |10月4日|但馬守護山名時熈、同国興長寺に園部道場の萬雑公事を免除す。17日、山名時熈、興長寺領の段銭を寄進し、同寺に但馬国竹野郷弥吉名内土貢六十貫文下地及び嶋屋敷之替一所を安堵する。|「興長寺文書」(①大日7-8)| | |10月4日|但馬守護山名時熈、同国興長寺に園部道場の萬雑公事を免除す。17日、山名時熈、興長寺領の段銭を寄進し、同寺に但馬国竹野郷弥吉名内土貢六十貫文下地及び嶋屋敷之替一所を安堵する。|「興長寺文書」(①大日7-8)|


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