21: 2015-02-26 (木) 20:27:33 admin ソース 22: 2015-02-27 (金) 17:42:06 admin ソース
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一、''頼信'' 正四位上 河内守 一、''頼信'' 正四位上 河内守
- 頼信は鎮守府将軍満仲の三男にし +頼信は鎮守府将軍満仲の三男にして天延二年甲戍九月五日誕生あり母は大納言藤原の元方の女なり永延二年戊子九月十八日に元服あり正六位に叙し左馬助に任ず正暦五年甲午三月に勅命を蒙り若狭越前の両国に赴き群盗を誅伐す寛仁四年庚申九月十日に河内国壷井に館を構えて居住す長元三年庚午九月に上総介平忠常追討の宣旨を賜り同十月廿一日に軍勢を引卒(率)して武蔵国河越に至りて忠常が弟陸奥守忠頼中村五郎忠将と攻戦う忠頼兄弟ともに利なくして引退く同四年辛未四月頼信大軍を卒(率)て下総
- て天延二年甲戍九月五日誕生あり母は +
- 大納言藤原の元方の女なり永延二年 +
- 戊子九月十八日に元服あり正六位に叙し +
- 左馬助に任ず正暦五年甲午三月に勅 +
- 命を蒙り若狭越前の両国に赴き +
- 群盗を誅伐す寛仁四年庚申九月十日に +
- 河内国壷井に館を構えて居住す長元 +
- 三年庚午九月に上総介平忠常追討 +
- の宣旨を賜り同十月廿一日に軍勢を引 +
- 卒(率)して武蔵国河越に至りて忠常が弟 +
- 陸奥守忠頼中村五郎忠将と攻戦う +
- 忠頼兄弟ともに利なくして引退く +
- 同四年辛未四月頼信大軍を卒(率)て下総+
*P9 [#p0000009] *P9 [#p0000009]
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- 国に至り上総介が籠る所の千葉 +国に至り上総介が籠る所の千葉城をせむ忠常終に利なくして降参せり頼信則忠常を供ない帰洛ありしに美濃国において忠常病死せり頼信忠常を労わり恤(あわれ)むによりて彼が一族門葉の者ども其仁心に感伏して永く源家の家僕となる頼信此度の軍功によりて従四位上に叙せらる此余頼信一世の勇功甚だ多し永承三年戊子九月朔日に卒去あり法名蓮心と号す河内国通法寺に葬る
- 城をせむ忠常終に利なくして降参 +
- せり頼信則忠常を供ない帰洛あり +
- しに美濃国において忠常病死せ +
- り頼信忠常を労わり恤(あわれ)むによりて +
- 彼が一族門葉の者ども其仁心に感伏 +
- して永く源家の家僕となる頼信 +
- 此度の軍功によりて従四位上に叙せら +
- る此余頼信一世の勇功甚だ多し永 +
- 承三年戊子九月朔日に卒去あり法名 +
- 蓮心と号す河内国通法寺に葬る+
-  頼信に五男一女あり長男は伊豫守 +頼信に五男一女あり長男は伊豫守頼義嫡流相続なり次は肥後守頼清次は掃部助頼季次は河内冠者頼任次は常磐五郎義政というともに信濃国に居住して子孫繁栄す是を
-  頼義嫡流相続なり次は肥後守頼清 +
-  次は掃部助頼季次は河内冠者頼任 +
-  次は常磐五郎義政というともに信濃 +
-  国に居住して子孫繁栄す是を+
*P10 [#p0000010] *P10 [#p0000010]
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-  信濃源氏という女子は甲斐守源為 +信濃源氏という女子は甲斐守源為満の妻なり
-  満の妻なり+
一、''頼義'' 従四位上 伊豫守 一、''頼義'' 従四位上 伊豫守
- 頼義は鎮守府将軍頼信の嫡男にして +頼義は鎮守府将軍頼信の嫡男にして母は一条院の官女修理命婦なり長保五年癸卯四月九日に誕生あり長和二年癸丑に元服あり正六位に叙し兵庫允に任ず永承六年辛卯に陸奥国の押 
- 母は一条院の官女修理命婦なり長保 +領使安部頼良を追討の為に陸奥守に任じ鎮守府将軍に補して節刀を賜り東国に下向あり同六月廿五日に相模国に至り鎌倉郡由比郷に石清水の八幡宮を勧請あり幡(はた)を亀谷の山上に納めらる後世に至りて此山をよびて源氏山とも又は御幡山とも
- 五年癸卯四月九日に誕生あり長和二年 +
- 癸丑に元服あり正六位に叙し兵庫允 +
- に任ず永承六年辛卯に陸奥国の押 +
- 領使安部頼良を追討の為に陸奥守 +
- に任じ鎮守府将軍に補して節刀 +
- を賜り東国に下向あり同六月廿五日 +
- に相模国に至り鎌倉郡由比郷に石清 +
- 水の八幡宮を勧請あり幡(はた)を亀谷の +
- 山上に納めらる後世に至りて此山 +
- をよびて源氏山とも又は御幡山とも+
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- いうなり同七月に奥州に至る安部 +いうなり同七月に奥州に至る安部頼良降参を乞て名を頼時と改む是によりて奥州しばらく平均せり天喜二年甲午八月に阿部頼時が子厨川治郎貞任叛逆を企て衣川の柵に楯籠る同九月に頼義大軍を卒(率)て貞任を攻うつ然るに頼義の国任終るによりて再任の宣旨を蒙り 
- 頼良降参を乞て名を頼時と改む +て奥州にあり康平五年壬寅十一月廿九日に終に阿部貞任が一族を亡し同六年癸卯二月に帰洛あり相州に至りて八幡宮の社を由比郷に建らる同八月廿五日勧賞の除目行われて頼義を伊豫守に任じ正四位下に叙せらる治暦元年乙巳九月朔日に薙髪あり法名を信海と号す世の人
- 是によりて奥州しばらく平均せり +
- 天喜二年甲午八月に阿部頼時が子厨 +
- 川治郎貞任叛逆を企て衣川の柵に楯 +
- 籠る同九月に頼義大軍を卒(率)て +
- 貞任を攻うつ然るに頼義の国任 +
- 終るによりて再任の宣旨を蒙り +
- て奥州にあり康平五年壬寅十一月 +
- 廿九日に終に阿部貞任が一族を亡し同 +
- 六年癸卯二月に帰洛あり相州に +
- 至りて八幡宮の社を由比郷に建ら +
- る同八月廿五日勧賞の除目行われて +
- 頼義を伊豫守に任じ正四位下に叙 +
- せらる治暦元年乙巳九月朔日に薙 +
- 髪あり法名を信海と号す世の人+
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- 入道将軍と称す永保二年壬戍十一月 +入道将軍と称す永保二年壬戍十一月三日に卒去あり時に八十八歳なり河内国通法寺に葬る
- 三日に卒去あり時に八十八歳なり +
- 河内国通法寺に葬る+
-  頼義に五男三女ある長男は陸奥 +頼義に五男三女ある長男は陸奥守義家嫡流相続なり次は左衛門尉義総次は常陸介義光という甲斐源氏の大祖なり次は女子にして尾張守藤原の時房の妻なり次は西蓮坊快誉という三井寺に住す次は女子にして出羽守平正済が妻なり次は女子にして海道小太郎成衡が妻なり次は三嶋四郎親清という是は頼義伊予国任国の時に彼国の押領使越智の冠者親経が女の腹に出生あり後に親経が家を相続あり則河野
-  守義家嫡流相続なり次は左衛門尉 +
-  義総次は常陸介義光という甲斐 +
-  源氏の大祖なり次は女子にして +
-  尾張守藤原の時房の妻なり +
-  次は西蓮坊快誉という三井寺に +
-  住す次は女子にして出羽守平正済 +
-  が妻なり次は女子にして海道 +
-  小太郎成衡が妻なり次は三嶋四郎 +
-  親清という是は頼義伊予国任国 +
-  の時に彼国の押領使越智の冠 +
-  者親経が女の腹に出生あり後 +
- に親経が家を相続あり則河野+
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-  四郎通信が祖父なり+四郎通信が祖父なり
一、''義家'' 正四位上 陸奥守 一、''義家'' 正四位上 陸奥守
- 義家は鎮守府将軍頼義の嫡男に +義家は鎮守府将軍頼義の嫡男にして長暦二年戊寅七月十四日に誕生あり少名を源太という母は上野介平直方の嫡女なり永承三年戊午に石清水八幡宮の神殿において元服あり康平六年癸卯に去年十一月廿九日に奥州において父頼義とともに戦功あるによりて従五位下に叙し出羽守に任ぜらる承暦三年己未八月八日に勅を蒙り美濃国に発向しで八島佐渡守源重宗多田伊豆守源國房と青野が原において合戦あり重宗國房を誅戮あり永保元年辛酉六月
- して長暦二年戊寅七月十四日に誕生あ +
- り少名を源太という母は上野介平直方 +
- の嫡女なり永承三年戊午に石清 +
- 水八幡宮の神殿において元服あり +
- 康平六年癸卯に去年十一月廿九日に +
- 奥州において父頼義とともに戦功 +
- あるによりて従五位下に叙し出羽守 +
- に任ぜらる承暦三年己未八月八日に +
- 勅を蒙り美濃国に発向しで八島佐 +
- 渡守源重宗多田伊豆守源國房と青 +
- 野が原において合戦あり重宗國 +
- 房を誅戮あり永保元年辛酉六月+
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- に陸奥守に任じ鎮守府将軍に補 +に陸奥守に任じ鎮守府将軍に補し奥州に下向あり時に相州鎌倉に至り八幡宮を修復ありて同八月に奥州に至り国府に居住せらる此時奥州の住人清原真人武則が子武衡家衡清衡兄弟確執の事あり義家是を和睦せしめらるといえども家衡曽(かつ)て義家の下知に随わず出羽国沼の柵に楯籠る応徳三年丙寅の春に国任すでに終る国中の人民みな義家の仁和の徳になつきて再任を望む事しきりなるによりて再任の宣旨を蒙りて奥州に在留ありて国中を巡視あり出羽の地におもむかんとせらる時に家衡軍勢を引具して出羽陸奥の境に
- し奥州に下向あり時に相州鎌倉 +
- に至り八幡宮を修復ありて同八月に +
- 奥州に至り国府に居住せらる此時 +
- 奥州の住人清原真人武則が子武衡 +
- 家衡清衡兄弟確執の事あり義家 +
- 是を和睦せしめらるといえども家衡 +
- 曽(かつ)て義家の下知に随わず出羽国 +
- 沼の柵に楯籠る応徳三年丙寅の +
- 春に国任すでに終る国中の人民 +
- みな義家の仁和の徳になつきて +
- 再任を望む事しきりなるによりて +
- 再任の宣旨を蒙りて奥州に +
- 在留ありて国中を巡視あり出羽の +
- 地におもむかんとせらる時に家衡 +
- 軍勢を引具して出羽陸奥の境に+
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- 出て戦いを決せんとす義家此事 +出て戦いを決せんとす義家此事にあらざるのゆえに境を越ずして国府に帰らる武衡此事を聞て出羽に赴き家衡とともに謀をなして仙北金沢の城に楯籠る是によりて義家やむ事を得ずして軍兵を卒(率)て合戦あり寛治五年辛未十一月に終に武衡家衡が一族を討亡して奥羽の両国を平均に治らる此時に源家の武威を恐れ関東の名家勇士多く其旗下に属して永く源家の家人となる嘉保二年乙亥の秋月華門に候して鳴絃の法を行わる則ち内昇殿を聴され正四位上に叙せらる長治二年乙酉七月四日に病によりて薙髪あり法名信了という同八月十八日
- にあらざるのゆえに境を越ずして +
- 国府に帰らる武衡此事を聞て出 +
- 羽に赴き家衡とともに謀をなして +
- 仙北金沢の城に楯籠る是によりて +
- 義家やむ事を得ずして軍兵を卒(率) +
- て合戦あり寛治五年辛未十一月に +
- 終に武衡家衡が一族を討亡して奥羽 +
- の両国を平均に治らる此時に源家 +
- の武威を恐れ関東の名家勇士 +
- 多く其旗下に属して永く源家の +
- 家人となる嘉保二年乙亥の秋月華 +
- 門に候して鳴絃の法を行わる則ち +
- 内昇殿を聴され正四位上に叙せらる +
- 長治二年乙酉七月四日に病によりて +
- 薙髪あり法名信了という同八月十八日+
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|&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/532.jpg,mw:640,山名家譜 P016);| |&ref(http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/532.jpg,mw:640,山名家譜 P016);|
-に卒去あり河内国通法寺に葬 +に卒去あり河内国通法寺に葬る
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-  義家に七男あり長男は左兵衛尉 +義家に七男あり長男は左兵衛尉義宗という早世なり次は対馬守義親という康和二年庚辰に勅命を叛き同三月廿一日に擒となり同月廿九日に出雲国に配流せらる永久二年正月廿日に出雲国において誅せらる然れども子孫繁多なり義親の五男治部尉為義は義家の養子として家業を継ぐ即ち右大将頼朝の祖父なり義家の三男を河内守義忠という天仁元年戊子二月七日に叔父義光の為に害せらる次は加賀介義國次は左兵衛尉義
-  義宗という早世なり次は対馬守義 +
-  親という康和二年庚辰に勅命 +
-  を叛き同三月廿一日に擒となり同 +
-  月廿九日に出雲国に配流せらる +
-  永久二年正月廿日に出雲国に +
-  おいて誅せらる然れども子孫 +
-  繁多なり義親の五男治部尉 +
-  為義は義家の養子として家 +
-  業を継ぐ即ち右大将頼朝の +
-  祖父なり義家の三男を河内守 +
-  義忠という天仁元年戊子二月 +
-  七日に叔父義光の為に害せらる +
-  次は加賀介義國次は左兵衛尉義+
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-  新田大炊助義重(義國長男)の子孫は上野 +新田大炊助義重(義國長男)の子孫は上野下野越後に繁栄せり山名里見新田徳川額田大嶋田中大井田高林平澤鳥山脇屋大館堀口一井世良田江田豊岡金屋等の諸氏皆其子孫也世に是を新田源氏と称す足利陸奥守義康(義國二男)の子孫は上野下野の間に繁栄せり矢田仁木廣沢荒川細川戸賀崎足利岩松畠山桃井吉良今川斯波石橋渋川石堂一色上野小俣加古等の諸氏みな其子孫なり世に是を足利源氏というよりて式部太夫義國を以て新田足利両流の大祖とする者也
-  下野越後に繁栄せり山名里見 +
-  新田徳川額田大嶋田中大井田高林 +
-  平澤鳥山脇屋大館堀口一井世良 +
-  田江田豊岡金屋等の諸氏皆其 +
-  子孫也世に是を新田源氏と称す +
-  足利陸奥守義康(義國二男)の子孫は +
-  上野下野の間に繁栄せり矢田 +
-  仁木廣沢荒川細川戸賀崎足 +
-  利岩松畠山桃井吉良今川斯波 +
-  石橋渋川石堂一色上野小俣加古 +
-  等の諸氏みな其子孫なり世に +
-  是を足利源氏というよりて式部太夫 +
-  義國を以て新田足利両流の大祖 +
-  とする者也+
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