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二、花吹雪-室町山名氏-
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山名氏史料館『山名蔵』のページ
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:山名会/刊行物等/山名氏八百年/室町山名氏 をテンプレートにして作成
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*二、花吹雪-室町山名氏-
**梅津長福寺
文明五年(一四七三)三月 。 洛西梅津(現、京都市右京区梅津中...
客殿奥の一室に臥せった西軍の総帥山名宗全が今しも七十年の...
洛中洛外からの伝騎はいつもの通りあとを絶ちませんが、いず...
山内の正法・大慈・瑞光ら子院に分宿している西軍方の大小名...
応仁・文明の乱が勃発以来七年、山名軍は花の御所(将軍の御所...
『汝や知る、都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)、あがるを見て...
そのころになると宗全は西軍の本陣をこの長福寺に移していま...
居室の正面押板(床の間)には宋元舶載の古筆と思しい禅画の三...
この頃から流行しはじめた東山文化の典型的な様式です。普通...
宗全は『わしは鞍馬山の毘沙門天じゃそうな。一休坊主がそう...
しかし、かっては赤入道と渾名されるほど活力にみちた宗全の...
枕頭には禅の師であり善き友でもある南禅寺真乗院主の香林宗...
「・・・・ムムウッ・・・・何処じゃな、ここは。ゆゆしげな...
「・・・・ああ、父上(時熈)もおいでじゃ。祖父上(時義)も曽...
「侍て教豊、じきにまいる。まいるが、その前にひとつしてお...
宗全は次第に深い水底にでも引きこまれるような眠たさと脱力...
「政豊ッ、政豊はおるか」 と、声だけは普段とかわりなく呼び...
「ハイッ。政豊はこれに」
「うん、そうじやったな、政豊。祖父はな、今から教豊のとこ...
「ハイッ、三十才になりまする」
「そうそう、そうであったわ。応仁元年の軍で教豊が矢傷を負...
政豊の顔を見つめる宗全の瞼が次第に細まっていきます。
「じやがな、政豊よ。武者は強いばかりでは駄目なのじゃ。若...
**山名氏の台頭
「わが家のナァ、昔のことはさて措くとして、天が下に山名あ...
**建武の中興
「その頃、天下はニつに分かれていたそうな。帝や公家衆もニ...
時代とともに力を蓄えはじめた新興武豪集団。これらも幕府の...
時あたかも皇位を嗣がれた後醍醐の帝は御名の通り醍醐・村上...
なかでも、新田・足利という源家の名門には大きな期待がかけ...
元弘三年(一三三三)、足利氏は都の六波羅(幕府軍の京都駐屯本...
「わが祖時氏公は新田氏の流れながら、足利方に与された。こ...
「こうして出来上がった蓮武の中興も、平安王朝の栄華到来と...
「こんな戯れ歌が流行したと言うぞ。
このごろ都にはやるもの 夜討・強盗・謀綸旨(にせれんじ)……
着つけぬ冠上の衣(きぬ) 持ちもならわぬ笏(しゃく)持ちて...
義貞公は新政権に加わって、一時は威勢を振ったかに見えたが...
片や尊氏公は武家・農民層の保護者として、推されて室町幕府...
**観応の擾乱(じょうらん)
「ところがじや。公平で私欲のうすいが評判の尊氏公にも敵が...
腹心の執事高師直(こうのもろなお)をまず失い、それが片付...
帝もまた京と吉野の両方で、それぞれ己こそ正統と張り合うて...
天下はまたしてもニつに割れてしもうたわい。
時氏公は思われるところあって、一時(いつとき)吉野の南朝...
「……こう言えば軍好きの猪武者とも思えようが、違うのじゃ。...
われらが本貫とする但馬の国がそれじや。
この国には飛鳥・奈良の昔から勢力を張ってきた豪族がおって...
曽祖父は彼等と戦うて但馬の国を攻め取るよりも、笑顔のうち...
**六分一殿
時氏(一三〇三~一三七一)は世に「六分一殿」と呼ばれていま...
一族で日本六十余か国の六分のー(伯耆・因幡・美作・但馬・丹...
時氏には十七男五女という沢山な子がありました。なかでも師...
**明徳の乱
坂東の一荘に興った山名氏がここまで急成長した事実は、山名...
時氏・時義というニ大実力者が世を去ったころ、三代将軍義満...
山名氏の総領時熈(ときひろ・時義の嫡子)とその伯父氏清・義...
将軍は初めに氏清を使嗾(しそう)して時熈を除こうとし、翌...
これを”明徳の乱”といいます。
この戦には将軍みずからも幕府軍を率いて出陣しましたから、...
悲憤に燃えた氏清軍は自滅を覚悟で奮戦、武門の意地を示して...
時に明徳二年十二月三十日、氏清四十八才、時熈二十五才でし...
戦後五日目の明徳三年一月四日には早くも山名一族の所領が没...
総領家時熈には但馬・因幡・伯耆の三国が辛うじて認められた...
**北野経王堂
余談ですが、将軍義満はこの氏情討伐が余程気になったとみえ...
これが北野の経王堂です(現、右京区千本釈迦堂あたり)。
経王とは法華経のことで、追善供養にはこの経を読むことが最...
記録によると、毎年十月五日から十四日までの十日間、毎日千...
これだけの大法要を恒例としたのですから、義満将軍の心底が...
**再中興宗全
長広舌がこたえたのでしよつか、宗全は目を閉じて呼吸を調え...
先ほどより声の調子が低くなっております。
「政豊よ。今ひとつ申しておかねばならぬ。聞こえるか」
「ハイツ、よく聞こえまする」
「そうか、では言おう。ほかではない、播州(現、兵庫県域の南...
「ハイ、だいたいは聞いておりまする」
**嘉吉の変
「あれは嘉吉(かきつ)一九年(一四四一)。そなたの生まれる...
追討の鰯手を仰せつかったからには是が非でも我が手で赤松を...
満祐(みつすけ・赤松総領家)は覚悟を決めていたとみえ、城の...
「さて、この播磨が難物じゃ。知っての通り公方(八代将軍義政...
またぞろ 〃山名つぶし〃 が始まったわけよ。政豊、播州は今...
「ハイツ、この政豊しかと肝に銘じまして」
「じやがな、政豊。腹立ちまぎれに無理押しはするなよ。立腹...
そなたはまだ三十、血の気が多いのは止むを得んが、幅広く世...
播州のことでも赤松を見るだけではなく、公方や管領の思惑を...
それから、浦上(うらがみ・赤松幕下の実力者)ら国人衆の動き...
その上に忘れてならぬことは自分の足元に注意することぞ。
祖父の代までは何とか纏めてきたが、但馬の国人衆じゃとて油...
思え。それが 〃時を知る〃というものじゃ」
「ハハアーツ」
**例と時
「そうそう、時を知るといえばこんなことがあったわ。
文正二年(応仁元年)だったか、関白殿(一条兼良)がわれら武士...
『堂上方(どうじょうがた)は何かというと有職故実(ゆいそ...
下下(げげ)の者と軽うみられた百姓や町人どもが一揆徒党を...
この時の勢いを見落して先例にばかりこだわっていては結極時...
今後は例ということばを時と仰せられませい』とな」
**応仁の乱
「ところがじや。えらそうにそう広言吐いたわしが時を見そこ...
それが此度(こたび)の戦よ。
事の起りは管領家の畠山が二派に分かれての跡とり争い、どこ...
それが、片や細川に応援を頼み、片やこの祖父に泣きついてき...
勝元(細川氏の総領)は娘婿ではあるし、わが子豊久(宗全の七...
宗全一世一代の大失敗よ。 勝元めはおのが領国から次々と大軍...
我等も自然但馬や山陰のものどもを呼ばねばならん。火の手は...
「そうなると、武者どもは武者どもの立場を主張しよって、こ...
「公方も公方じゃ。今の公方(八代義政)には跡をとる男の子が...
それも御台所富子の方からよ。御台としてはこの子(義尚)に九...
わしも仲にはいって随分骨を折ってみたが、動けば動くほど騒...
肝心の公方ときたら、そんな喧嘩は御免とばかり、わびじゃ・...
そうなると、東軍じゃ西軍じゃという戦いももはや山名・細川...
まっこと時の為す業とは恐ろしいものよのう――」
「…思えばこれも、わしと勝元の不心得が引きおこしたこと―去...
「あとは言うまでもないことながら、和議失敗の責(せめ)を...
わしは切ろうにも髪がないでのう。せめてものことに雛腹(しわ...
そしたら皆が寄ってたかって刀をとりあげたもんじゃから、フ...
政豊、潮時をみて、この騒動を収めてくれい。 わしが死んだと...
**宗全の臨終
「・・・ようしゃべった。これで七十年たまった胸のつかえが...
孫よ、障子を開けてくれい。―ーさくらが見たい―」
政豊がにじり寄って開けた障子の外には午後の春陽がやわらか...
庭の手前の心字池には幾ひらかの花びらが浮かんでいます。
青味を増してきた築山の叡山苔にも螺鈿(らでん)を散りばめ...
錆色(さびいろ)の練塀越しに姿をのぞかせる数株の老桜は、...
「政豊、起こしてくれい。最後の頼みじゃ」
肩の肉が薄くなった宗全の背を、がっしりとした若い胸に抱き...
それを待ちかねていたかのように、枝という枝は一斉にそよい...
「…はなが・・」 「・・・ちるわい・・」 これが不世出の巨人...
文明五年三月十九日(新暦では四月中旬)没。世寿七十才。
遠碧院殿徒三位八州大守最高宗峰大居士。
遺骸は香林老師によって、長福寺境内の楠の根方で茶毘(火葬)...
同年五月、細川勝元も病没。申し合わせたような両雄の死は、...
翌六年(一四七四)四月三日、東西の若い総帥(そうすい)細川...
文明九年畠山義就の帰国を最後に、十一か年に亘る大乱は終結...
**山名氏中絶
政豊は帰国後、祖父宗全の遺命に従って播州の確保と領国但馬...
しかし、赤松氏側の反撃や但馬国人衆の造反などでやむなく播...
そのあと、致豊・誠豊と続き、祐豊と氏政の時、織田信長の天...
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*二、花吹雪-室町山名氏-
**梅津長福寺
文明五年(一四七三)三月 。 洛西梅津(現、京都市右京区梅津中...
客殿奥の一室に臥せった西軍の総帥山名宗全が今しも七十年の...
洛中洛外からの伝騎はいつもの通りあとを絶ちませんが、いず...
山内の正法・大慈・瑞光ら子院に分宿している西軍方の大小名...
応仁・文明の乱が勃発以来七年、山名軍は花の御所(将軍の御所...
『汝や知る、都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)、あがるを見て...
そのころになると宗全は西軍の本陣をこの長福寺に移していま...
居室の正面押板(床の間)には宋元舶載の古筆と思しい禅画の三...
この頃から流行しはじめた東山文化の典型的な様式です。普通...
宗全は『わしは鞍馬山の毘沙門天じゃそうな。一休坊主がそう...
しかし、かっては赤入道と渾名されるほど活力にみちた宗全の...
枕頭には禅の師であり善き友でもある南禅寺真乗院主の香林宗...
「・・・・ムムウッ・・・・何処じゃな、ここは。ゆゆしげな...
「・・・・ああ、父上(時熈)もおいでじゃ。祖父上(時義)も曽...
「侍て教豊、じきにまいる。まいるが、その前にひとつしてお...
宗全は次第に深い水底にでも引きこまれるような眠たさと脱力...
「政豊ッ、政豊はおるか」 と、声だけは普段とかわりなく呼び...
「ハイッ。政豊はこれに」
「うん、そうじやったな、政豊。祖父はな、今から教豊のとこ...
「ハイッ、三十才になりまする」
「そうそう、そうであったわ。応仁元年の軍で教豊が矢傷を負...
政豊の顔を見つめる宗全の瞼が次第に細まっていきます。
「じやがな、政豊よ。武者は強いばかりでは駄目なのじゃ。若...
**山名氏の台頭
「わが家のナァ、昔のことはさて措くとして、天が下に山名あ...
**建武の中興
「その頃、天下はニつに分かれていたそうな。帝や公家衆もニ...
時代とともに力を蓄えはじめた新興武豪集団。これらも幕府の...
時あたかも皇位を嗣がれた後醍醐の帝は御名の通り醍醐・村上...
なかでも、新田・足利という源家の名門には大きな期待がかけ...
元弘三年(一三三三)、足利氏は都の六波羅(幕府軍の京都駐屯本...
「わが祖時氏公は新田氏の流れながら、足利方に与された。こ...
「こうして出来上がった蓮武の中興も、平安王朝の栄華到来と...
「こんな戯れ歌が流行したと言うぞ。
このごろ都にはやるもの 夜討・強盗・謀綸旨(にせれんじ)……
着つけぬ冠上の衣(きぬ) 持ちもならわぬ笏(しゃく)持ちて...
義貞公は新政権に加わって、一時は威勢を振ったかに見えたが...
片や尊氏公は武家・農民層の保護者として、推されて室町幕府...
**観応の擾乱(じょうらん)
「ところがじや。公平で私欲のうすいが評判の尊氏公にも敵が...
腹心の執事高師直(こうのもろなお)をまず失い、それが片付...
帝もまた京と吉野の両方で、それぞれ己こそ正統と張り合うて...
天下はまたしてもニつに割れてしもうたわい。
時氏公は思われるところあって、一時(いつとき)吉野の南朝...
「……こう言えば軍好きの猪武者とも思えようが、違うのじゃ。...
われらが本貫とする但馬の国がそれじや。
この国には飛鳥・奈良の昔から勢力を張ってきた豪族がおって...
曽祖父は彼等と戦うて但馬の国を攻め取るよりも、笑顔のうち...
**六分一殿
時氏(一三〇三~一三七一)は世に「六分一殿」と呼ばれていま...
一族で日本六十余か国の六分のー(伯耆・因幡・美作・但馬・丹...
時氏には十七男五女という沢山な子がありました。なかでも師...
**明徳の乱
坂東の一荘に興った山名氏がここまで急成長した事実は、山名...
時氏・時義というニ大実力者が世を去ったころ、三代将軍義満...
山名氏の総領時熈(ときひろ・時義の嫡子)とその伯父氏清・義...
将軍は初めに氏清を使嗾(しそう)して時熈を除こうとし、翌...
これを”明徳の乱”といいます。
この戦には将軍みずからも幕府軍を率いて出陣しましたから、...
悲憤に燃えた氏清軍は自滅を覚悟で奮戦、武門の意地を示して...
時に明徳二年十二月三十日、氏清四十八才、時熈二十五才でし...
戦後五日目の明徳三年一月四日には早くも山名一族の所領が没...
総領家時熈には但馬・因幡・伯耆の三国が辛うじて認められた...
**北野経王堂
余談ですが、将軍義満はこの氏情討伐が余程気になったとみえ...
これが北野の経王堂です(現、右京区千本釈迦堂あたり)。
経王とは法華経のことで、追善供養にはこの経を読むことが最...
記録によると、毎年十月五日から十四日までの十日間、毎日千...
これだけの大法要を恒例としたのですから、義満将軍の心底が...
**再中興宗全
長広舌がこたえたのでしよつか、宗全は目を閉じて呼吸を調え...
先ほどより声の調子が低くなっております。
「政豊よ。今ひとつ申しておかねばならぬ。聞こえるか」
「ハイツ、よく聞こえまする」
「そうか、では言おう。ほかではない、播州(現、兵庫県域の南...
「ハイ、だいたいは聞いておりまする」
**嘉吉の変
「あれは嘉吉(かきつ)一九年(一四四一)。そなたの生まれる...
追討の鰯手を仰せつかったからには是が非でも我が手で赤松を...
満祐(みつすけ・赤松総領家)は覚悟を決めていたとみえ、城の...
「さて、この播磨が難物じゃ。知っての通り公方(八代将軍義政...
またぞろ 〃山名つぶし〃 が始まったわけよ。政豊、播州は今...
「ハイツ、この政豊しかと肝に銘じまして」
「じやがな、政豊。腹立ちまぎれに無理押しはするなよ。立腹...
そなたはまだ三十、血の気が多いのは止むを得んが、幅広く世...
播州のことでも赤松を見るだけではなく、公方や管領の思惑を...
それから、浦上(うらがみ・赤松幕下の実力者)ら国人衆の動き...
その上に忘れてならぬことは自分の足元に注意することぞ。
祖父の代までは何とか纏めてきたが、但馬の国人衆じゃとて油...
思え。それが 〃時を知る〃というものじゃ」
「ハハアーツ」
**例と時
「そうそう、時を知るといえばこんなことがあったわ。
文正二年(応仁元年)だったか、関白殿(一条兼良)がわれら武士...
『堂上方(どうじょうがた)は何かというと有職故実(ゆいそ...
下下(げげ)の者と軽うみられた百姓や町人どもが一揆徒党を...
この時の勢いを見落して先例にばかりこだわっていては結極時...
今後は例ということばを時と仰せられませい』とな」
**応仁の乱
「ところがじや。えらそうにそう広言吐いたわしが時を見そこ...
それが此度(こたび)の戦よ。
事の起りは管領家の畠山が二派に分かれての跡とり争い、どこ...
それが、片や細川に応援を頼み、片やこの祖父に泣きついてき...
勝元(細川氏の総領)は娘婿ではあるし、わが子豊久(宗全の七...
宗全一世一代の大失敗よ。 勝元めはおのが領国から次々と大軍...
我等も自然但馬や山陰のものどもを呼ばねばならん。火の手は...
「そうなると、武者どもは武者どもの立場を主張しよって、こ...
「公方も公方じゃ。今の公方(八代義政)には跡をとる男の子が...
それも御台所富子の方からよ。御台としてはこの子(義尚)に九...
わしも仲にはいって随分骨を折ってみたが、動けば動くほど騒...
肝心の公方ときたら、そんな喧嘩は御免とばかり、わびじゃ・...
そうなると、東軍じゃ西軍じゃという戦いももはや山名・細川...
まっこと時の為す業とは恐ろしいものよのう――」
「…思えばこれも、わしと勝元の不心得が引きおこしたこと―去...
「あとは言うまでもないことながら、和議失敗の責(せめ)を...
わしは切ろうにも髪がないでのう。せめてものことに雛腹(しわ...
そしたら皆が寄ってたかって刀をとりあげたもんじゃから、フ...
政豊、潮時をみて、この騒動を収めてくれい。 わしが死んだと...
**宗全の臨終
「・・・ようしゃべった。これで七十年たまった胸のつかえが...
孫よ、障子を開けてくれい。―ーさくらが見たい―」
政豊がにじり寄って開けた障子の外には午後の春陽がやわらか...
庭の手前の心字池には幾ひらかの花びらが浮かんでいます。
青味を増してきた築山の叡山苔にも螺鈿(らでん)を散りばめ...
錆色(さびいろ)の練塀越しに姿をのぞかせる数株の老桜は、...
「政豊、起こしてくれい。最後の頼みじゃ」
肩の肉が薄くなった宗全の背を、がっしりとした若い胸に抱き...
それを待ちかねていたかのように、枝という枝は一斉にそよい...
「…はなが・・」 「・・・ちるわい・・」 これが不世出の巨人...
文明五年三月十九日(新暦では四月中旬)没。世寿七十才。
遠碧院殿徒三位八州大守最高宗峰大居士。
遺骸は香林老師によって、長福寺境内の楠の根方で茶毘(火葬)...
同年五月、細川勝元も病没。申し合わせたような両雄の死は、...
翌六年(一四七四)四月三日、東西の若い総帥(そうすい)細川...
文明九年畠山義就の帰国を最後に、十一か年に亘る大乱は終結...
**山名氏中絶
政豊は帰国後、祖父宗全の遺命に従って播州の確保と領国但馬...
しかし、赤松氏側の反撃や但馬国人衆の造反などでやむなく播...
そのあと、致豊・誠豊と続き、祐豊と氏政の時、織田信長の天...
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