去る10月12~13日の行いました「H25山名会総会」及び「両氏慰霊法要」ですが、良い天候にも恵まれ無事に開催できましたことをご報告申し上げます。
10月12日の「H25山名会総会」では一般聴講をご案内した歴史講演も有り総勢60名のご参加を頂き、会場が手狭となるほどの賑わいとなりました。
また、10月13日の「両氏慰霊行事」では、朝来市長様のご来臨を仰ぎ「慰霊法要」「慰霊登城」あわせて47名の方々のご参加を頂きました。
山名会総会及び両氏慰霊行事の詳しいご報告は、参加者のご感想も織り交ぜ後日改めてさせて頂きたいと思います。
「H25全國山名氏一族会総会」に合わせて作成した
清和天皇の流れを受け継ぐ清和源氏から新田氏そして山名に至る道筋。鎌倉・室町・戦国・江戸へと続く山名家各当主の生涯を村岡山名の視点から記述。
山名家伝来の書の一部を掲載。
山名氏の本姓は源氏。その起源は平安時代末(1175年頃、山名義範が山名八幡宮[27]を建立)。
清和源氏の流れを受け継ぐ新田義範が群馬・山名庄を本貫とし、山名姓を名乗ったことから始まる。
山名義範は源頼朝の挙兵にいち早く呼応し鎌倉に参陣。源平合戦では源義経に従い多大な軍功を上げ、「平氏追討源氏受領六人」の筆頭に名を記し、伊豆守に任ぜられる。また頼朝と同族である「御門葉」を称する栄に預かる。
室町時代、同族・新田氏の流れを汲む足利幕府に於いて幕府の重責「四職家」の一つに名を連ね、山名時氏が山陰地方に勢力を拡大、山名氏清の頃、全国六十余州の内西国十一国を治める「六分の一殿」と言われた。
将軍後継問題に端を発する応仁の乱では、山名宗全が西陣の指揮を取ったが十年続いた乱により、幕府・各守護大名の勢力衰退が進み、山名領内においても毛利・尼子・大内らの力が増し、西国の分国も徐々にその数を減らす。戦国時代後期には山名佑豊の但馬、山名豊国(禅高)の因幡の二ヶ国となっていた。
豊臣秀吉の但馬征伐で宗家・但馬山名は破れ(江戸時代に旗本として回復)、豊国(因幡)は秀吉の軍門に下って山名の名を守り、秀吉、徳川家康・秀忠の御伽衆として側に仕えた。
江戸時代は村岡山名藩として歴代十二代が交代寄合衆としての務めを果たし、明治維新で村岡藩は村岡県へ、村岡山名十二代義路が県知事就任。その後、豊岡県・兵庫県へと吸収。義路は上京し陸軍軍人・貴族院議員等を歴任。従四位・男爵。以降、数代続いて現在に至る。
武家社会の発祥から明治に至るまでの間、営々と各時代に於いて一時も途絶えること無く歴史に名を留めた源氏の武家は他に無く、山名家は正に「源氏中の源氏」と言われる由縁である。
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